東条は疲れ果てていた。
自分はここで一体何をしているのだろう。
今周りにある物は、朱子学の解説書、江戸の文化書、帝大近代都史研の論文集、その他江戸時代に関する書物が色々。
帝都日報社から払い下げてもらった中古の印刷機。
黒之巣会の紋章が入った拡声器、たすき、ハチマキ、旗。
懐には、抜いたこともない護身用の短刀と、彼にとっては命にも等しい、天海直印の押された黒之巣会同志の証。
そう、彼は今、天海の理想を引き継いで戦っている革命の闘士であった。
それも、今三つくらい頼りない仲間達を引っ張る前線指揮官であった。
指導者ではない。
天海の後継者は、大川晴明。
東条自身は中間管理職みたいなものである。
大川晴明の指示は最初の内は実に的確であり、またどこからか資金源も調達してきて黒之巣会の啓蒙活動費に充てるなど実務上においても極めて優秀な指導者であった。
だからこそ、この人を師と仰いで天海の後継者と認めることにしたのである。
だが、このところ様子が変だった。
活動費は送られてこなくなり、街頭で寄付を募って活動しろなどという無茶な命令が送られてきた。
平和的にデモを続けていたら手ぬるいと、実力行使を命令してきた。
……たががはずれた。
とでも表現したらよいだろうか。
いわれのない叱責を受けることが増え、彼にとっては胃の痛い日々が続く。
「若いうちは理想を求めるのもよいだろう。不平不満をつのらせねばならんこともこの世の中にはたくさんある。
しかしだからといって、自分が悪に染まって何とするか。
自分の信じている物が本当に正しいのか、それが本当に自分の目指している物なのか、ようく振り返って見よ」
……また始まった。
このところ彼の胃痛を倍加させている最大の原因が聞こえてきて、東条は耳を塞ぎたくなったがそれすらもおっくうだった。
実力を見せろという抽象的な指示の後に送られてきた命令文は、ないがしろにされ忘れられつつある黒之巣会を世間に認知させろ、というこれまた抽象的な命令であった。
それでも何かしないと行けない。
悩んでいたところに、久々に具体的な「大河原をさらえ」という命令が送られてきたのでそれを実行した。
黒之巣会の力を見せつけるのと同時に、陸軍情報部士官として放送の検閲に携わった彼を体制の走狗として自己批判させ、自分たちの正しさを認めさせたら……
と考えていたのだが、相手が悪かった。
えんえんとうとうと、大川晴明に従うことの愚を諭され、そもそも天海の理想とは何であったかを逆に教えられる始末である。
そして非常に厄介なことに、大河原の言うことは大川晴明の言うことよりもどう聞いても正しそうに思えてしまうのである。
そんなはずはない。
帝国華撃団が、太正政府が正しくてたまるものか。
懐から会員証をそっと取り出す。
その会員証ではなく、それを包んでいた風呂敷をじっと眺めた。
それは、母の数少ない形見の一つだった。
六年前まで銀座に住んでいた彼の一家は、そのとき帝都を襲った大災害にも関わらず不思議と家も壊れることも無かったので、そのまま暮らしていけると思っていた。
だが周囲の建物の多くが倒壊したため、その復興にあたって都市計画の都合などという理由で立ち退かねばならなくなった。
用意された転居先は父の勤め先でもあった神崎重工の工場にも近かったが、大気が悪かった。
並大抵の薬は効かない帝都病と呼ばれる病にかかり、結局母は昨年死んでしまった。
かつて彼の家のあった場所は、大帝国劇場の中庭になっている。
一度に見に行ったが、緑もある比較的穏やかな場所だった。
それが、許せなかった。
だからこそ、帝都殲滅江戸幕府復興を掲げる黒之巣会は彼にとっての正義となったのだ。
天海の放った魔術も帝都全てを滅ぼせるなら素晴らしいものだと思っていた。
しかし……今自分がやっていることは、本当に自分のやりたかったことなのだろうか。
天海存命のころは、この日本を倒してしまえる自信と確信があったが、今やっていることは小規模政治団体のそれに過ぎない。
大河原をさらったところで、知名度はある人間だから活動宣伝にはなるが、せいぜいそこまでが限界であり、政府をひっくり返せるほどの要人ではない。
万策尽きかけている。
大河原の言うことは正しいかも知れなかった。
だが、自分がどうにかしなければ黒之巣会はただの破壊集団の汚名のままに歴史に残ってしまうだろう。
西洋化ばかり尊び日本古来の文化を軽視するこの時代への警鐘として、
穢され、汚されていく帝都の自然を守ることをわからせるためにも、
例え政府を覆せなくても、何か動くことに意味があるはずだ……。
そう、信じるしかないのだ。
何かを振り払うように東条は通信機を手に取った。
ラジオ放送が流れてくる周波数に合わせて……いつの間にかこういう西洋的なことに習熟してしまっている……マイクに向かって叫んだ。
「帝都の諸君!我々は黒之巣会総帥天海様の意志を継ぐ者である!」
* * * * *
「そろそろだな」
地下司令室で電波ジャックの模様を聞きながら、米田はほっと一息ついた。
どうやら大河原の説得工作はなかなかうまく行っているようである。
危険な賭けではあったが、彼らは元々ただの帝都市民である。
少々現状に不満があるというだけであり、実はそれほどあくどい連中では無さそうだと米田は判断したのだ。
彼らは黒之巣会が残した組織の中で一番知られている。
表に出ている黒之巣会支持層と、大川晴明が手中に入れているらしい闇の犯罪組織を分類させ、世論に黒之巣会打倒の雰囲気を作っておかなくてはならない。
ミロクという指導者を失った今、所詮は二流占い師である大川晴明の化けの皮がそろそろはがれてくる頃だと思っていたのだ。
「あとはもっと彼らを表に引っぱり出して……。大川晴明から人心を離させてやれば、第二第三の会が結成される原因を作らないで済む」
講義室となったこの部屋には生徒が一人だけいた。
花組隊長の大神である。
「はあ……」
何と答えていいのか困ってしまった。
帝劇に着任して八ヶ月。
米田の飲んべえ支配人としての顔を自然と受け入れられるようになったところで、久々に日露戦争で名を馳せた戦略家の顔を見せられては意外である、という印象を受けてしまう。
初めて帝劇に来た日にはこの姿の米田をのみ想像していたというのに、不思議なものであるというか毒されたというか……
「そこで大川晴明を逮捕するわけですね」
「表向きはな」
そういって米田は、ひょいと資料の束を取り出して大神に放り投げた。
「……!」
本物か写しかではわからないが、いくつもの活動団体が大川晴明に対して書いた従属の誓約書であった。
「大河原君が入手してくれた資料の一部だ。
実際にはこれを証拠としていくつかの犯罪組織もまとめて御用にする」
基本的には帝撃の裏側でうごめく陰謀めいた活動には花組の面々を触れさせないようにしている米田ではあるが、こういった策についてはそろそろ大神に教えていこうと思っている。
此度の件で大神の海軍復帰はしばらく棚上げになったとは言っても、ゆくゆくは軍の最高幹部候補と目されているのは変わらない。
ただの軍人にはなってもらいたくないが、ならばこそ知っておかねばならないこともある。
この程度のことから、徐々に学んでいってもらおう。
……あいつの分まで。
「……長官」
「なんだ、大神」
「同時に、吉原の女の人たちを救い出すことは出来ませんか」
米田は、即答できなかった。
大神の目は冗談を言っているものではない。
「ミロクのことか」
「はい」
ミロクが自分で語った生い立ちについては報告を受けている。
聞くところ、虚言とも思えなかった。
帝撃とは裏と表、光と陰の関係とも言える嘆きの殿堂吉原。
この世の辛酸を舐め尽くさせられたであろうミロクと、花組の少女達との間にどれほどの差があったというのだろう。
少女達にしても決して幸せな人生を送ってきたわけではなかったが、少なくとも自身の尊厳を汚されることはなく、そして今は光り輝くことが出来ている。
対して。
自分と同じ男が作り上げた無限の深淵、永遠の牢獄。
戦場で少女達の命を預かり束ねる者として、その存在を容認することが大神には出来なかった。
「……無理だ」
苦虫をかみつぶしたような表情で米田は口を開いた。
「あれは既に機構として確立されている。
誘拐、あるいは拉致された者については保護を適用することも可能ではあるが、人身売買とはいえ契約による商取引であそこに連れてこられている者が多い。
その場合は受け取った金銭の問題が絡んでくるが……、おそらく彼女たちにはそれを払い戻す経済的能力が無い」
米田の回答は一切の感情を省いた事務的な口調で流れた。
彼にしても納得しているわけではないのだ。
「人身を取り引きし監禁していることが既に間違っています」
そう言いきれる大神が米田にはまぶしく映る。
この青年を花組隊長に選んだのはやはり間違いではなかった。
出来ればその意志を手折ることはしたくない。
だが、こればかりは話が極めて厄介だった。
「中にはな、あそこでしか生きていく道の無くなった者も多いのだ」
米田も若い頃、その世界を垣間見たことがある。
昔のことだ。
もうずっと……だが、忘れられぬ昔のことだ。
「仕方ないと言うことはないはずです。
遊郭が出来たのは遙か昔、女性に働く場所が与えられなかった時代のことです。
食うに困れば身を売ることしか無かったのは江戸時代までのことです。
でも今は、この太正時代は違うはずです。
女性にも働く場所と機会がある、この帝劇はその象徴でもあるはずなんです。
きっと道はあるはずです。
あれを、遊郭を、江戸時代の怨霊を倒してしまわなければ、今のこの時代にあれを認めてしまったら、江戸時代が正しかったと、黒之巣会が正しかったと認めることになってしまうんです……!!」
珍しく饒舌だった大神はほとんど一息で喋りきって、はあはあと息を切らしている。
普段花組隊員達をくどくどと叱ることのない大神は一見単純そうに思われているかもしれない。
だが実際には乙女達のことを常によく見て、必要なときに判断が下せるようにいつも考えているのだ。
今の言葉にしても、吉原に乗り込みだした頃からずっと考えていたことなのだろう。
これを吉原に通い詰めている一部の政府のお偉方に聞かせてやりたいものだと米田は心中で笑った。
「大川を逮捕してしまえば帝都破壊活動の返済のためとして、傘下ともども私有財産を差し押さえることは出来る。
一部でしかないが、まあやるだけやってみよう」
入れ込んでいるであろう上の連中を叩きつぶすのが厄介だが、大神のこの演説を聞かされては動くしかないではないか。
「大神、お前は大河原君と共に黒之巣会残存勢力をまとめて叩きつぶすのに散々働いてもらうぞ、いいな」
「はい!大神一郎、粉骨砕身の覚悟で……わっ!」
また堅苦しい返答をしかけた大神へ、米田は叱責代わりに書類のつまった封筒を投げつけた。
「大河原君が出張っていねえんだ。今のうちにそこに載っている場所で御用の材料になりそうなネタを調べてこい。
あー、支配人命令だと言って、かすみから写真機も借りて行け」
「は……はい!」
慌てふためいて出かけていく大神を見送ってから、米田は蒸気電話を手にとって秘密回線を繋いだ。
『はい、こちら陸軍美貌探求特別室です』
「琴音くんか。米田だが、そこに太田くんはいるかね」
『はーい、何の御用かしら、米ちゅう』
「……、婦人運動家の方々と会う機会を持ちたいんだが、できるか?」
『らいちゃんたちのことなら、すぐにでも手配できるけど、でも突然どうしたの?』
「実は大神のヤツがな……」
* * * * *
米田があらかじめ通信を逆探知できるように手配していたので、黒之巣会支持者達の電波ジャックの直後にさくらは、言われたとおりに黒之巣会の活動拠点に向かった。
「……芸が無いのね」
さくらはちょっとため息をつきたくなった。
そこはかつて花組が天海を討ち取った場所、日本橋の地下だった。
最深部はあの戦いで崩壊しているが、上層部は比較的無事だったのをそのまま使っているらしく、蒸気拡声器などが岩肌の上に乱雑に置かれている。
「大河原さん、今助けに行きます!」
と、勇んで入っていったはいいものの、
「あ!……えーと、どうも、いらっしゃいませ」
受付らしきところで帳簿をつけていた青年が入ってきた自分の姿を見つけて丁寧に挨拶してきたので、さくらは一瞬目が点になってしまった。
が、考えてみたらこの人達は黒之巣会の理想に共鳴したとは言っても、普通の一般市民である。
現体制に不満を持っているから即悪というわけではない。
今の帝都ではなく、昔が良かったと思う理由があったら、……そうしたら、江戸幕府の復活を夢見たくもなるのかもしれない。
考えてみたらあたしも帝都に来たばっかりの頃は……
さくらはふっと思い出してみた。
八ヶ月……もうすぐ九ヶ月前になるが……わずか九ヶ月前でしかない。
賑やかだけど、それがうるさいと感じられてしまったし、
汚れた空気になれるまでは毎夜咳を繰り返すこともあった。
何でこんな風にしてしまったんだろうと、自然のままにしておけばいいのにと、
自分も考えてしまったことがある。
街の灯と、行き交うものと、人々の笑顔と……この街の価値に気づいたのはそれから少し経ってからだった。
誰しもが、一度は思ったことがあるんじゃないだろうか。
昔はよかった、と。
黒之巣会は結果的には破壊をもたらしただけだったけれど、
もしかしたら、もしかしたら、
もしかしたら、そんな人々の思いが託された、帝都に現れたもう一つの夢だったのかも知れない。
この人達も、死天王も、天海も、さめない夢を見ようとしていたのかも知れない。
激変していく太正というこの時代にあったからこそ。
その夢が、もうすぐ、終わる。
「米田中将のご命令で大河原帝探を救出に参りました。
案内して下さいませんか」
アジトを突き止められた時点で相手有利であることはわかる。
しかしそれにも増して、この青年にもどこかに疲れたという気持ちがあった。
「……はい」
青年は僅かにためらった後、ゆっくりと頷いた。
行った先では大河原が延々と説得作業を繰り返していた。
ただ、あの口調で長々と標語やら格言やらを交えて語られるのは、説得と言うよりは拷問かも知れない。
監禁している側と拷問している側が逆のような気もする。
大河原としては彼らを日向に引っぱり出すのが目的なのだろうが、何だか延々と説教しているように見える。
さくらは、ちょっと気の毒に思えてきた。
リーダーらしき青年が悲鳴を上げそうになったところで、さくらは踏み込むことにした。
「そこまでよ!」
と、黒之巣会支持者達に言ったのか、大河原に向けて言ったのかは自分でもよく解らなかったが、ともかくさくらはその場に姿を見せた。
おそらく危険はない。
剣士としての感覚でさくらはそう判断した。
監禁部屋とは言え、ここにいる黒之巣会支持者三人のうち切れそうに見えるのは一人だけだし銃も持っていそうにない。
そもそも大河原も縛られてすらいなかった。
その、切れると思わせた青年……東条は、
さくらの姿を見つけて、当然沸き上がって来るはずの敵意が薄れていることに気づいた。
いかに帝撃と帝劇の関係が機密事項とは言え、ここで動いているくらいのメンバーは既に聞き及んでいる。
敵だ。
総帥天海を殺した者等の一人。
敵だ。
家族の揃っていた家を追い出して、そこに居座っている者。
敵だ。
今の自分たちの行動に立ちはだかる、最大の……
そこで、気力が萎えた。
東条も未だ年若い青年である。
可憐な帝国歌劇団の人気女優に対して敵意をたぎらせようとしても、それは難しい注文であった。
そして、帝国華撃団と対決し続けることに既に彼は疲れていたのだ。
大河原の説得を受け入れた方が得策と判断したのだと、無理矢理自分を納得させようとしながら、
きっと疲れた顔をしているんだろうと思う自分の口からでた言葉は、
「さくらさん、どうしてもっと早く来てくれなかったんですか……」
我ながら間抜けな言葉だと思う。
だが大河原をさらったことがそもそも間違いだった。
奴に諭され続けたことで、同志たちも自分も大川晴明師に対する疑惑が芽生えつつある。
「もう連れて帰っちゃって下さい」
ゆっくりと考えたくなった。
今の自分についてと、これからの自分たちについてと。
それなのに大河原の返事と来たら、
「いやだ、帰らない」
「って、あんたねえ!迷惑なの!」
呆れ果てて……自分にか大河原にかはともかく……思わず大声が出てしまった。
このままでは作戦会議も満足に出来ないではないか。
なおもごねる大河原の要求は、
「貴様らが公開討論会に出ると約束するまで帰らんぞ」
そもそもその話を持ちかけて非を正そうとしたのはこちらなのだが、もう反論する気も失せた。
「ああもう、わかったわかった!
応じてやるから今日の所は帰ってくれ!」
* * * * *
「大河原さん、お疲れさまでした」
刑務所から出てくるときに使う言葉のような気もするが、ある意味では合っているかも知れない。
「うむ、さくらくんにわざわざ迎えに来てもらえるとはかたじけない」
実はすみれのファンである大河原なのだが、さすがにここでそんな文句を言うような子供ではなかった。
さくらはとりあえず一安心して、前から疑問に思っていたことを尋ねてみることにした。
「あの、大河原さん。
あのとき都合良く彼らが大河原さんをさらえる場所に現れたのはやっぱり……」
プップー!
「検閲、検閲である!」
澄ました顔で大河原が隠し持っていたブザーを鳴らしたので、さくらは思わず吹き出してしまった。
しょうがない。
こうなっては話してはもらえないだろう。
だがその対応だけで十分な答えだった。
「ところでさくらくん。大神くんはもう元気になったかね?」
「ええ、この間は小学校の子供達を相手に苦労してましたけどね」
「そうか、では報告も兼ねて帝劇に行くとしよう」
話していてふと大河原は思う。
真宮寺大佐、ご息女はこんなにも素敵な女性に成長されましたぞ……。
* * * * *
「では、彼らには動いてもらえそうなのだな」
「はい、聞いてみたところミロクが死んでからは大川も本性を現したらしく、やることが雑になっています。
叩けば埃はいくらでも出てくるでしょう。
リーダーの東条も根は真面目ですから、決定的な証拠を提示してやれば事実上味方になってくれるものと思われます」
「うむ、危険な任務であったがよくやってくれた」
珍しく陸軍中将らしい真面目な顔つきで米田は大河原の苦労をねぎらった。
全て米田の策である。
大河原をさらうように黒之巣会支持者達に偽の命令を出し、成功した後には大河原は内部から彼らを突き崩しにかかる。
表だって陸軍を出動させるのではなく、内紛になって滅んでしまえば彼らへの同情が集まることも第二の組織が続くことも回避できる。
彼らの純朴さを利用したとも言えるが、米田はこれくらいの策を弄することに躊躇はない。
愛娘達を再び戦わせることに比べたら、そんなことは些細な問題だ。
「ところで大神くんはどうしましたか?」
「ああ、あいつなら君の代わりの探偵助手業をやらせている。
太田くんにも裏で動いてもらう予定だし、これから忙しくなるぞ」
「そうですか……彼らもですか」
ふっと大河原は懐かしさに駆られた。
彼らと行動を共にしたのも、やはり六年前だ。
「大丈夫だ。あいつなら……大神ならな……」
* * * * * *
慌ただしい日々が過ぎる。
気がつけばもう師走であった。
その言葉通りというわけではないだろうが、米田もあやめも裏で走り回ることになった。
大河原は戸惑う黒之巣会支持者たちの人生相談に乗りつつ、何人かの就職先を探してくるなど信頼度を高めることに一週間ほどを費やした。
おかげでアジトにも完全に検問無しで入れるくらいになってしまった。
大神とあやめは、眉をひそめるような大川晴明の行動を逐一洗い出すことになった。
以前大神の丸坊主ブロマイドを撮影した因縁浅からぬ写真機も、今回は力強い武器となってくれた。
「これは……なんともねえ」
ブロマイド業者に極秘裏に現像を頼んでいたそれらの写真が出来上がって来たとき、さすがにあやめは呆れ果てた。
芸者遊びの乱痴気騒ぎがしっかりと撮影されている。
「大神くん、よく踏み込むのを堪えたわね」
他の者はともかく大川だけは、しっかりと公衆の目に触れる形で捕まえなくてはならない。
それがわかっているだけに大神は作業に徹したのだが、やはりその場で片を付けたい心境になったのは確かである。
「でも、これでもうすぐ終わりですね」
「ええ、黒之巣会ももうすぐ壊滅するわ」
黒之巣会との戦いのために着任した大神にとっては、任務が終わりつつあることを意味する。
それは嬉しいことなのだが、考えないようにしてきたことがまたふっと思い出されてしまう。
「大丈夫よ、行方不明になっている最後の死天王に備えるとでもいう名目で、もう数ヶ月くらいは引き延ばせるわ」
それが顔に出てしまったのだろう。
見かねてあやめが慰めるような言葉をかけてくれたが、声に出してからお互いに顔を見合わせることになってしまった。
「……黒き叉丹」
黒之巣会死天王の中で最初に相対した相手であり、そして唯一死亡が確認されていない幹部であった。
しかし九月の戦い以降全く足取りは途絶えており、吉原その他にもぐり込んで調査している大神もその気配すら感じることはなく、黒之巣会本部とともに死んだという見方が大勢を占めていた。
「彼に生き残っていてもらいたい、というのは不謹慎かしらね」
冗談めかしてあやめは笑ったが、その瞳が何故か笑いきれていないことに大神は気づいた。
「そうですね……。でもあまり強すぎる敵には残っていてもらいたくないですよ」
六破星降魔陣が発動した後に霊子力レーダーで観測したときのことを大神はまだ忘れていなかった。
天海が魔術を発動させた直後とはいえ、その総帥よりも強大であったあの妖気を。
だが大神には気づかなかったこともある。
あやめが笑いきれなかったのは、単に叉丹の潜在能力を危惧しただけではなかったことを。
* * * * * *
決行の日が来た。
大川晴明の逮捕劇はラジオで中継放送して帝都中に知らせなければならないので、米田はある程度の対時計画を作っておいた。
武力組織の最高幹部達に対しては、警察の本体が動くより先に強襲をかけて身柄を拘束する。
こちらの動きを察して逃げられる可能性があるからだった。
それとほぼ同時に黒之巣会支持者達の集会の場で大河原が大川の所業を公表する。
暴動が起き、大川の邸宅に殺到するまでおよそ一時間。
盛り上がってきたところで警察の装甲車部隊を大川邸宅と吉原の傘下組織に全面投入。
理想的には放送中継中にそれらを制圧する。
軍ではなく警察を用いるのは、内乱と意識させることも意識することも避けたかったからだ。
軍内部にはこの方針に反発する声もあったが、軍で制圧して西郷卿のような偶像になられてもいいのか、という脅迫めいた説得と、それから何故か協力的だった京極慶吾陸軍大将の尽力もあり、何とかまとまった。
警察との交渉は、警視総監が米田と同類の江戸っ子だったこともあり予想よりは遙かに話が早かった。
警察の組織に対しては、制圧の手柄は帝撃ではなく警察のものという約束で納得してもらう。
ただ、この一週間で米田の体重が見たところ三キロほど落ちたことを、あやめだけが知っていた。
大神は手柄無しという約束で強襲部隊の先頭に立つことになっていたが、特に不満はない。
花組のみんながこの作戦に参加しないで済むことを考えれば、これぐらいは日々の雑用と同程度の酷使でしかないと思えたのだ。
「おーい、秘密部隊の青年。そろそろ時間だぜ」
警察突入部隊の塚本という警部補の声が、大神を現実に引き戻した。
なお、頭に鉄兜をして薬品防護用の頭巾をつけているため、仮に知っている人間に会ったとしてもモギリの大神さんだとはわからないようにしている。
一応、突入部隊の装備に合わせたつもりでもあるのだが、一方の塚本の方は頭巾だけで至って軽装である。
「いいんですか、それで」
「薬だけはかわせねえが、あとは避けるか堪えるかすればいい」
豪気なことだ。
大神はあまり霊力を大ぴらに使うわけにはいかないため、いつもより防御力に不安があるからこのまま行くことにした。
「行くぞ!」
突入部隊の入る場所は、組織の中枢幹部の邸宅六ヶ所であり、各所に四十人の警官が配備されていた。
配置でも大神は塚本と一緒だった。
「警察だ!黒之巣会に加担した帝都騒乱罪及び十八の容疑について家宅捜索を行う!」
このあたりは秘密部隊と違うところである。
それはさておき踏み込んだ大神は取り巻きに構わず一気に主の部屋を目指した。
先日吉原に乗り込んだときに、こういう所に地下通路が用意されていると言うことは見せてもらった。
逃げられる前に捕まえなければならない。
その動きについてきたのは塚本だけだった。
「おまえさん、やるなっ!」
大神を誉めつつ、かつ廊下を走りつつ、銃を抜こうとした敵の構成員の肩を外しながらぶん投げた。
「そういうあなたもですね!」
言いつつ大神も鞘ごとの剣で飛び込んできた男の首後ろを叩いて気絶させる。
ミロクの本拠に乗り込んだときのような手応えはない。
……もう、既に終わっているのかもしれない……
そんな感覚を振り切って、豪華そうな奥の部屋に突っ込むと、案の定あたふたと地下への通路を開けようとしているところだった。
護衛の者とあわせて三人。
塚本と二人で十秒で制圧した。
「鳳燐会の会頭安倍だな。
えーと、罪状あげるのがめんどくせえ。とにかく身に覚えはあるな。
とにかくブタ箱行き決定だ」
めんどくさそうに逮捕状を見せるのは縛り終わった後だったが……見なかったことにしておこう。
「じゃあこっちはお願いしますね。俺は逃げた者がいないか見てきます」
大川晴明に連絡が行かないようにしてしまえばあとは……
* * * * *
ほぼ同時刻。
帝都日本橋の地下アジトにて。
「何だとおぉっっ!!」
怒りをそのまま衝撃波に変えたような東条の叫びが、いささかもろくなっている岩盤を危うくしかねないほどに響き渡った。
今後の方針を話し合うために集まってきた黒之巣会支持者約百名は、リーダーの東条が先に激したので、かえって次のざわめきが継げなかった。
ただ、困惑したような怒りが広がる。
目の前にいる……もはやここにいるのが当然のように定着してしまった……大河原一美元検閲官への怒りではない。
……いや、厳密に言えば大河原への怒りも含まれていただろう。
大河原は、今まで自分たちの信じていたものを根本からひっくり返すようなことを言いだしたのだから。
だがそれの証拠を持ってきたのだと言われては、彼への怒りは不当なものである。
それをわかっていたからこそ、彼らには困惑した怒りが広がっていた。
それは東条にしても同じで今の叫びは、やりきれない現実と、それに信憑性を求めようとしている自分への怒りであった。
「大川晴明が愚物であるというその証拠とやら、みせてもらおう」
既に大川への敬称が抜け落ちている時点で、自分もうすうす気づいてはいたのだということを思い知らされる。
「よかろう。これらを見たまえ」
大神が撮ってきた写真の数々を、大河原は机一面に広げていく。
一枚一枚が姿を見せると共に、支持者達から絶望と怒りの混ざり合った声にならぬ声があがる。
贅を極めたような食生活や、三流のゴシップ誌にも載せられないような浅ましい所業まで。
ミロクという操り主を亡くしたというのに、自分が絶対と思いこんだ人形の、末路だった。
「これは……、なんだ……?」
大川が食べている見慣れない物を指さして、無表情な声で東条は尋ねた。
「トリュフといって、西洋で三大珍味と言われるキノコの一種だ。
で、こちらは同じく三大の一つでキャビア、これがフォアグラだ」
仮の姿とは言え、美食案内人の肩書きを持つ大河原の面目躍如である。
ここで「西洋で」と単語を挟むのが情報部士官として鍛えられた彼の真骨頂である。
それは、確実に効果を及ぼした。
これが……、自分の信じてきたものの正体だったのか。
天海の君臨した理想の黒之巣会はもう無い。
もはや……、無いのだ……。
怒りを通り越して心地よいとすら錯覚してしまうような絶望の中で、東条は笑いたくなった。
ただ、今の自分はリーダーだ。
ここに集まった者たちのリーダーなのだ。
決着をつけなければならない。
これ以上、自分の愛した、自分の夢見た黒之巣会のありし姿を汚辱に染めないために。
これで、終わりにするのだ。
「諸君」
振り切ったような自分の声は、やけに朗々とその場に響いた。
百人の同志の、二百の目が、すがるような色を持って自分に向けられる。
「こうとなっては、もはや大川を師と仰ぐことなど出来ん。
そして、諸君らも知っての通り、我々の活動は既に予算的にも、あるいは手段としても行き詰まりつつある。
残念だが……」
次の言葉を言うために、東条は心の中の勇気を全て振り絞らねばならなかった。
「残念だが、黒之巣会ももはやこれまで、だろう……」
ざわ……っ
言われたとおり、確かにそのことは実感していたしある程度予期もしていた者も多いだろう。
しかしこうして突きつけられればやはり心穏やかではいられない。
ざわめきが会議室中に幾重にも木霊して高まりつつある。
そこでもう一度東条の声が響き渡った。
「だが諸君、忘れるな!
天海様の理想が間違っていたわけではない。
これからも我々一人一人がその理想に少しでも近づいていくことを願って生きていくのだ。
その気持ちは決して忘れてはならない。
これから我々には黒之巣会としての最後の任務が待っている。
我々の夢であった黒之巣会の名を汚す大川晴明の悪行を、我らの手で終わらせることで、我ら一人一人の夢を守る最後の行動としようではないか!」
おおおぉぉぉぉぉ……
声にならない嘆きが響き渡る。
涙する者も一人や二人ではない。
その同志たちを見渡しながら自分も泣きたくなってきた東条は、倒れそうになる足を踏ん張って声を上げる。
それは自分を支えるための言葉でもあった。
「諸君!今は涙を拭いて立ち上がれ!我らの最後の闘いのために!」
同志たちをひとまず立ち上がらせてから、東条は崩れかける表情を支えて大河原に向き直った。
「大河原、頼みがある。
貴様のことだから混乱を収めるために軍か警察に連絡をとって介入しようとするだろうが、
どうか、今少しだけ待ってもらいたい。
大川は我らの手で警察に引き渡す。
どうか男の情けと思い、聞き届けてくれ……!」
「自分たちの手で片を付けるというのだな、よかろう。異存はない」
六十点と言ったところか。
大河原は頷きつつもこっそりそんなことを考えていた。
彼らが完全に崩壊しなかったのは、東条の強さを見誤っていたからだろう。
だが結果として彼らの手で大川を捕らえさせるという方針は達成されそうだ。
よしとしよう。
そして、百名からなる黒之巣会支持者らは東条を先頭として大川邸に向かった。
* * * * *
大神が邸宅についたときには事態は既に終結間近だった。
「あれが、本当に黒之巣会の後継者と名乗っていたのか……」
怒りの東条に問いつめられてしどろもどろになるその姿からは、黒之巣会後継者としてあって然るべきはずの迫力も威厳も、何一つ見あたらなかった。
ならばこそ、大神には大川がどこか魔物のようにも見えた。
自身には力が無いというのに、黒之巣会の威を借りることで数十の組織を束ねてしまった。
その結末が、これだ。
人の力に余る力を魔の力とするなら、それは彼にとって魔の力そのものだったのだろう。
権力も、財力も、暴力も。
ああなってはならないのだと、自分に言い聞かせる。
それにしても、いささか哀れだった。
彼ではなく、黒之巣会が。
叉丹、刹那、羅刹、ミロク、そして天海。
悪ではあっただろう。
だがそれでも、万人が認めさせるものではなかっただろうが、彼らにも理由があったはずだ。
その作り上げた組織が、今完全に滅び行く。
さくらも同じ思いに囚われたことを、大神は知らない。
ただ自分たちが一つの主義と対立して、それを倒した……あるいは、踏みつぶしたのだ。
東条は黒之巣会最後の誇りに賭けて大川への投石も私刑も行わない。
ただ、逃げまどう大川の身柄をついに捕まえた。
計ったように警察の装甲車部隊が突入してくる。
向こうでラジオ放送官と話している大河原が上手く手配してくれたのだろう。
多分今頃吉原を中心に帝都各所で警官隊は組織封鎖、あるいは組織解体をしているはずだ。
そして、うまく行けば女性達の一部も保護することになっている。
* * * *
「行きなさい」
「で、でも……御姉様……?」
姉と呼ばれていても、血のつながりはない。
この吉原に無理矢理に連れてこられた少女達を、せめて同じ地獄でも少しばかりはましなところでと思い、自分の所において育ててきた。
しかし、あの青年はそれ以上の答えを自分に返してくれた。
あの子も逝ってしまったけれど、あの青年には感謝したかった。
でも、もう会うこともないだろう。
近くに来た警官隊の隊長格らしい警視の男を捕まえて、裏切らないように微かな暗示をかけると、まだ行き方の変えられそうな若い少女たちのことを託した。
「ありがとう……」
* * * *
ふっと、誰かから御礼を言われたような気がした。
そこまで自惚れるつもりはなかったが、これが最善だったのだろうと信じたかったのだろう。
全てに対して善ではなかったにしても。
東条が涙を堪えつつ大川を塚本警部補に引き渡す光景を眺めながら、大神は自分の手の平を見つめつつ思った。
その手の平に、ふわりと白い物が落ちる。
「雪……?」
初雪だった。
まだ暖かいと思っていたが、十二月。
果てしなく長いように思えた秋が、戦いと共に終わる。
「うむ、本日の標語。終わりよければ全て良し」
いつの間にか近くに来ていた大河原が、大神をねぎらうように肩を叩きつつ、締めくくった。