「どん!どどん!」
「だからぁ、それをやめてくれえええええっっ!」
「本日の標語!人の振り見て我が振り直せ!どどんっ!
よし、お前たちも一緒にだ!」
ここは黒之巣会残存勢力の根拠地となっている日本橋地下である。
九月の天海対帝国華撃団の戦いで大部分は崩壊したのだが、居住区に相当する部分は多くが無事に残っているので、黒之巣会支持者たちがビラを刷ったり会議をしたりするのに使っている。
大河原は今、ここで黒之巣会を支持する若者達に囲まれていた。
この状況を説明しようとするといささか不可思議と言わざるを得ない。
現在帝都市民の中にいる黒之巣会支持者たちは、天海の後継者を自称する大川晴明の指示で動いている。
帝撃の出張機関である帝撃通信局に対して街宣車による抗議などの様々な活動をしている彼らだが、これまでは実力行使といえることはしなかった。
反政府活動とはいっても、一応法律許可範囲内の活動でとどめていたのである。
そのために警察もその場その場で解散命令を出すという程度にとどめていた。
だが、先日大川晴明からの文が届き、通信局関係者を拉致して吊し上げろという命令が届いたのだ。
文には、通信局関係者が通信局外で取材活動をする日まで記載されていた。
いささか不可解ではあったが、活動が行き詰まっていたこともあって会員たちはこれに乗ったのである。
そして見事に大河原を拉致監禁して、元陸軍情報部将校である彼に対して自己批判を迫り、帝撃側の非を認めさせる……つもりだったのであるが、どうも話がおかしい。
『人の振り見て我が振り直せ!』
「……なんでこうなるんだああああ!」
大川の代行として黒之巣会会員の筆頭を務める東条は、思わず乗ってしまった自分に自己嫌悪を覚えて頭を抱える。
拉致してから一日。
こちらが自己批判を迫るどころではない。
完全に大河原のペースに巻き込まれ、一緒に標語まで叫ばされる有様である。
そう、囲んでいるといっても実際は大河原の話を延々と聞かされているだけであった。
「よいか貴様ら、今自分たちのやっていることをよく見てみるのだ。
江戸の復興などといいつつ、お前たちは西洋文明の恩恵を多く受けているではないか。
印刷機といい、拡声器と言い、それにそこの御前が着ているものは洋服ではないか。
この黒之巣会アジトにしても、建造に関しては西洋の鉱山開発等の技術が多く使われておる。
貴様らの総帥天海が仕掛けた六破星降魔陣においても、西洋の最新の技術を以て作られた建物はそれまでの一般家屋に比べてよく保ち、帝都復興の際に人々の助けとなったのだ。
もうこの日本にとってかけがえのないものになっておる。
文化ではなくて体制を批判するにしても同じことである。
維新以来五十年、もはや幕藩体制になど戻っても仕方がないのだ。
そも幕藩体制の時代とは士農工商の時代であったのだぞ。
貴様らは私を自由な活動を規制する検閲官として糾弾するが、士農工商の身分に縛られた江戸時代がどれほど不自由な時代であったか考えたことはないのか。
武士に水を撥ねただけで切り捨て御免となり、喧嘩両成敗のお題目のものに審議もされずに切腹させられる。
権力は一部の特権階級による世襲制が確立されて、民にはそれらを決定する権利など何一つ無かった。
比べて今を見るがよい。
お前たちのような無茶なことをしても、今ある法律が守ってくれるから打ち首獄門にならずに済むのだぞ。
薩長藩閥という批判はあるにしても、今まで政治に参加することもできなかった一般市民でも政治活動が出来る。
これは今ある太正政府があるからなのだぞ。
既にお前たちは守られているのだ。
太正というこの素晴らしい時代にな。
一度言いたいことを公の場で言ってみるが良い。
批判するだけならば誰にでもできるが、真実はそれだけで得られる物ではない。
帝劇を愛する人々が、今ある帝都を愛している人々が、どのような気持ちで今ある太正時代を見ているのかをお前たちは知らねばならぬのだ。
私の言うことが信じられぬというのならば、一度肩の力を抜いて銀座の街を歩いてみると良い。
そこには人々の笑顔がある。
お前たちのしようとしていることは、その人々から笑顔を奪うと言うことなのだ。
わかったか。
ではお前たち、私はここで待っているから今すぐ銀座の街に繰り出すのだ。
銀座の街に行って来た証拠として、そうだな、何かその辺の店で買い物をして領収書を貰ってくるのだ。
ずるをしてはいかんぞ。
どん!どどん!
本日の標語、その二、嘘つきは泥棒の始まり!
はい、お前たちも一緒に言うのだ!」
大河原の演説はいつ尽きるともなく日本橋の地下に響いた。
* * * * *
「あー。心配すんな、さくら」
血相を変えたさくらの報告を聞き終えて、米田は実にのんびりと言った。
大河原が拉致されて大変だったというのに、米田ときたら昨夜はどこかに行ったまま帰ってこなかったのである。
「心配するなって……、黒之巣会を支持する連中にさらわれたんですよ!」
昨日の放送中、司会の長曽我部崇といっしょにお台場でインタビューをしていたところ、目の前で自分たちをかばって大河原がさらわれたのだ。
さくらとしては心中穏やかではいられない。
「さくら。不思議に思わねえか。
なんで黒之巣会を支持する連中はあそこに都合良く現れたと思う?」
「え?」
ニヤリとした米田が何を言ったのか、さくらは意味を理解するまでたっぷり十回は呼吸することになった。
「大河原君は安全だ。
まあそのうち連中が音を上げて行動に出てくるだろうから、そうしたら大河原君を迎えにいってくれや。
それまでは静観していてくれんか」
普段は米田の小父様と呼んでいるこの老人が、かつて日露戦争において陸軍随一と讃えられた戦略家であることを、さくらは久々に思い知らされていた。
「わかりました。
でも、大河原さんから助けを求める連絡が入ったらすぐに教えて下さいね」
「おう。まあそう心配することはねえよ」
黒之巣会は滅ぶ。
滅ぼすのではなく、内部から滅ぼす。
さくらが退出した支配人室で、米田は酒瓶を横に放りだして次なる手のために警察に電話をかけた。
「あー、陸軍の米田だが。ああ、うん。
そうだ。帝都タワーかどこかの近くに連中が作っている通信基地があると思うが……、ああ、それは残しておいてくれ」
* * * * *
さて、黒之巣会残存勢力のことはさておいて、帝劇の方ではまだ問題があった。
すみれが相変わらず元気がない。
気丈な彼女故に、一目でそれと分かる落ち込み方はしていないが、普段よく相対している人間にまで隠せるほど軽微ではなかった。
例えばカンナである。
「なんか調子狂うんだよなあ」
いつものように食堂でメシを食いながら、正面に座っているアイリスにぼやく。
「そういえばこのごろ全然すみれとケンカしていないね」
ケンカは嫌いと常々言っているアイリスだから、二人がケンカしないことはむしろ歓迎なのだが、すみれだけではなくカンナまでこうもぼやくようになっていると、ちょっとつまんない。
結局この二人って、凄く仲がいいんだなあと、ちょっと大人ぶって考えるアイリスであった。
そしてもちろん、帝撃の姉あやめもこの事態に気づいている。
「そうか、すみれのやつがなあ……」
十一月ももうすぐ終わりなので、今月期の劇場の決算見積もりを提出しに行ったついでに、米田に話を切りだした。
「ええ。何とか大神くんと元通りに話せるようになってもらいたいんですけれど」
「理由が理由だけに、単にあいつが走り回ってもなあ……」
今まで花組隊長として少女達をまとめてきた大神の功績は米田も認めるところである。
しかしその大神に疑念を抱いてしまったというすみれの自責の念に対しては、大神が誠心誠意当たるほどなおさらすみれには辛くなるだろう。
これがカンナなら、大神と派手に手合わせでもさせるのだが。
「うーむ、まあすみれらしさを取り戻してやれば良いんだがな」
「すみれのことですから、話さざるを得ない状況にさえ持っていけば、あとは自然と自分らしさを取り戻してくれると思うんですけど」
支配人と副支配人が頭二つ並べて考え込む。
一言二言で片づくようなことではなくて、嫌でも長く話さざるを得なくなるようなことが。
考えても良い案は出てこない。
何かネタはないかとすがるように、もうすぐめくる十一月の予定表に目を向けた。
そこで、月末に書かれていた予定に目が止まる。
「あやめくん、あれで行こう」
言われてあやめも考え込んでいた顔を上げた。
「あれは、事務の方でいつも通りにやることになっていたんですけど、あんなのを二人にやらせるんですか?」
「おう、楽な仕事ではないからな。
嫌でも協力せねばならんさ」
「それなら……直前まで特別なお客様がいらっしゃると言うことにしておきません?
花組代表で、ということにしてしまうんです」
すがるような気持ちではあるが、こういう罪のない悪巧みだとついつい乗ってしまう。
実は帝劇就任直後の大神にあやめの存在を伏せて置いたのも、米田発案の悪巧みだったりする。
今度は二人同時に騙すので、気づいたときには二人して米田とあやめに対する恨み辛みがつのるはずだろうから、逆に二人の仲直りには丁度良い。
花組代表、というのも良い案だった。
負けん気の強いすみれは花組のリーダーをマリアに奪われていることを少なからず気にしている。
代表と聞けば、断る理由はないだろう。
「よし、そいつで行こう、あやめくん」
発案に喜んでいた米田とあやめは、この策の欠点にまだ気づいていなかった。
事務から漏れないように……特に由里には念入りに言っておいて、翌日二人を館内放送で支配人室に呼びだした。
「なんですの、支配人。私を呼び出したりして」
大神と一緒ということですみれは落ち着きの無さを覚えているらしく、やはりどこか素っ気なかった。
のほほん状態の米田にも解る位なので、これはずいぶん重症だなあと思いつつ、話を切り出す。
「うむ。実は明日、この帝劇に特別な団体客が見学に来るのだ。
そこでお前たち二人に『花組代表』としてお客様を案内してもらいたい」
「花組代表ですって?」
意識して「花組代表」に力を入れたこの一言に、さすがにすみれの眉がぴくりと動いた。
劇場支配人生活も二年目に入り、自分もこう言うところに慣れてきたと思う。
いっそ自分も端役として舞台に立ってみようかともおもわなくもないが、それはともかく。
「米田支配人も解っているじゃありませんこと?」
さすがにこう言われてはトッッッッップスタアとしておとなしくしているつもりはないらしい。
これはさすがにあやめの狙い通りだった。
ちなみにあやめは横の事務室で聞き耳を立てていたりする。
それにしても、影では「米田のクソジジイ」と言っているのにこの変貌はさすがと言うべきか。
「この私こそ、『花組代表』にふさわしい美貌と知性の持ち主ですわ!」
笑い声はすっかりいつもの調子を取り戻した様に見える……が、実のところその言葉はいささか芝居がかっていた。
一人で走られては元も子もない。
すかさず米田は隣りで混乱している大神に声をかけた。
「……とにかく、大神。すみれと二人でがんばってくれ」
どうやらその一言でこちらの意図を察してくれたらしい。
米田に向かって瞳は力強く頷きつつ、態度はいつも通りに謙虚に
「自分がどこまで役に立てるかわかりませんが……、すみれくんと頑張ります」
「少尉、心配はご無用ですわ。この私がついているのですもの」
どうやらこの一件で大神への借りを返そうという気になってくれたらしい。
確かに普段の接客はともかく、本当の特別のお客様ならば大神よりもすみれの方が長けている。
……本当ならば。
その辺は米田は心中でニヤニヤしていたのだが、それは顔には出さない。
ともかくこれでうまく行ってくれるだろう、と思っていたのだが、
「あら、大神さん。
すみれさんと一緒でずいぶん楽しそうですね」
米田と大神の背筋に冷や汗が走るような声が支配人室に突き通ったかと思うと、バッと扉が開けられて入ってきたのはもちろん、
「さ、さくらくん!?」
であったがそれだけではない。
どやどやと花組一同が乱入してきてしまった。
「あたいたちに黙って花組代表を決めるなんて納得できねえぜ、支配人!」
これは収まらないと思ったか、あやめも事務室から入ってきたが、そのころには大神はみんなに迫られて冷や汗顔である。
そう、花組代表という言葉ですみれを釣るのは良いとして、それを知った花組一同が黙っているはずはなかったのである。
「いったい……どうしたんだ!?」
「どうしたもこうしたもないで!」
「アイリスだってお兄ちゃんと一緒に案内するもん!」
などとアイリスまで言いだしたので、さすがに米田は慌てた。
「ア、アイリス。今回のお客様を案内するには、お前さんはちょっと小さすぎる……」
いくら何でもそれは無茶の限界を超えている。
「もう、つまんなーい!
またアイリスだけ仲間はずれにしてー!」
「……とにかく、今回のやり方はいささか不公平ですね。私も賛成しかねます」
と、マリアにまで言われては仕方がない。
どうやらミロクの一件などでぎくしゃくしていた人間関係が、以前通りの賑やかさを取り戻してきていると見ることも出来るので、ここはそのままやらせるしかあるまい。
日露戦争の英雄と言われる米田だが、こういうことで即決を迫られるのもどうか……。
「ええい、わかったわかった!
こうなったらお前たちが勝負して花組代表を決めてくれ!」
「のぞむところですわ。
華麗な着こなしを競いましょう」
「……わかりました。それじゃあ、花組衣装比べ大会ですね」
どうしてそうなるんだあ、と頭を抱える米田に目配せしつつ、あやめもこんなことを言いだした。
「面白いことになったわね。私も参加させてもらおうかしら」
話が暴走しないように、あやめは自分も参加するということにしたらしい。
こうなっては任せるしかない。
なるほどあれだけ落ち込んでいたすみれが、今はもういつもの調子を取り戻し始めている。
派手にお祭り騒ぎといくのもいいだろう。
ただ一つ問題があるとすれば、大神である。
「やれやれ……、こりゃ大変なことになりそうだぞ……」
早くも胃のあたりを抑えてうめいていた。
花組の衣装比べをするのはいいとして、その見比べに彼が引っぱり出されるのは目に見えている。
どちらと言っても角が多少なりとも立つだろう。
そして勝負が終わっても明日の案内は激務なのだ。
米田は心中、大神に詫びた。
* * * * *
「ふう……やっと終わりましたわ」
すみれと大神は倒れ込むようにサロンの椅子に座り込んだ。
とにかく疲れた。
特別なお客様というから誰かと思っていたら……やめよう、思い出したくもない。
「すみれくん、おつかれさま」
疲れているというのに、大神は健気にお茶を入れる。
このあたりの甲斐甲斐しさとでも言うべき性格はどこで学んだのだろう。
海軍士官学校主席卒業生が、士官学校で習ったとも思えないのですけど……。
大神の淹れてくれるお茶は、さすがに洒落た紅茶というわけにはいかず一般的な緑茶であったが、これはこれで落ち着くものである。
「まったく、米田のクソジジイと来たら、何が花組代表ですの……」
「そうだね。どうも最初からすみれくんにやらせるつもりだったみたいだけどこれはねえ」
大神も何気なく相槌を打つ。
彼としては疲れたとは言ってもそれほど嫌だったわけではない。
かえって今回のような格式張らないお客さんの方が気が楽だったとも言える。
だがすみれは、その大神の言葉にしばらく表情を止めた。
「すみれくん?」
「……」
気がつけば、今日一日子供達に振り回されている中で、大神と話すことに抵抗感を持つ余裕すらなかった。
大神に対して申し訳ないと思い続けていたことを、つい忘れてしまっていた。
そして、大神自身はまるで気にしてないらしく、あくまでも自然に声をかけてくれた。
……そういう、ことですの。
やっと合点がいった。
この神崎すみれにこんな罠を仕掛けるなんて……。
「あのクソジジイ……。覚えてらっしゃいな」
今度のつぶやきは、先ほどのそれとは少し違っていた。
少しだけ。
大神にもわからないくらい、ほんの少しだけ。
だから大神としてはちょっと困ってしまった。
当たり前だけどすみれはご機嫌斜めらしい。
「すみれくん、ごめん。俺がもうちょっとしっかりと確かめておけば……」
「……そうですわね。私、少尉とご一緒ということでこの仕事を引き受けましたのに……」
いささかずれた文句を言うすみれの口元は、かすかにほころんでいた。
本来大神が謝る必要性はない。
だが、心から自分のことを心配してくれているという気持ちはよくわかった。
でもやっぱり素直になりきれない自分がいる。
だから、いつも見せている自分でいよう。
「この神崎すみれにあんな仕事をさせた罪は重いですわよ、少尉」
「え゛…………」
いささか絶句したような声を上げる大神の隙を突くように、すみれは畳みかけた。
「すっかり肩がこってしまいましたの。罰として揉んでいただきませんとね」
「は……はい」
すみれの肩を揉むのは実はこれで二回目である。
慣れたとは言えそうにない。
そもそもすみれの肩を揉むといっても、すみれはいつも通りの着流しである。
揉むためには彼女の素肌に直接触れなければならない。
華族会館に集う青年貴族たちにとってならば、それは考え得る範疇を超える光栄となるのだろう。
だから、実のところこれが罰であるとはいえないのである。
大神もいささかどぎまぎしつつすみれの肩を揉んでいる。
「まあ、たまにはこういうのも悪くないですけど」
何とはなしにすみれがつぶやいた。
これは許してもらっているのだろうか、それとも……。
気になってしまう。
「すみれくん?」
「あ、少尉、そこですわ。右手の親指で……そう。ええ、実に結構ですわ」
すみれらしい質問のはぐらかしをされてしまった。
とはいえ、これでめげていてはどうしようもない。
思い切ってもう一度声をかけてみる。
「すみれくん……」
「少尉。」
不安そうに声をかけてくる大神とは対照的に、すみれはぴしゃりと言った。
「もう少し、御自身に自信を持って下さいな」
「え?」
戸惑う大神の手が止まった隙に、すみれはその手をとって丁寧に返しつつ大神に向き直った。
「少尉は、確かに私たちの隊長ですわ。
どうしようもないくらいに、私たち全員にとっていなくなっては困る方なのですわ。
もう少しそのことをわかっていただきませんと困りますわ」
普段のすみれならば「私にとって」と言う所なのだが、感じ続けている引け目がすみれに一歩引かせていた。
だが、このところの大神が何を意図して単独行動を続けてきたのか、大神に対する疑念が抜けた今になってようやくすみれにはわかったのだ。
自分たちに秘密で……、自分たちに嫌われようとして……。
危うく、自分も大神の策にはまらされる所だった。
危うく、無くなってみて初めてわからされる所だった。
そしてもう一つ、自分にもわからされたことがある。
決して認めたくはないけれど、どうやら、そういうことらしい。
自分は今まで見てきた男たちと比較して、大神は違うと思っていた。
それは正しい認識であったのだが、さくらはそれとはまた別だったのだろう。
大神は大神……。
他の誰にも代わりの出来ない、他の誰とも比較できない、私たちの隊長。
私たちの、かけがえのない人。
だからここまで信じていられたのだろう。
少し、悔しい。
だけど、自分は神崎すみれなのだ。
ああなりたいとは思わない。
だから今は、大神をここに引き留めることが出来たことにだけ感謝しよう。
「少尉、一人でこっそり出ていこうなんて、もう絶対に許しませんことよ。
私だけではなく、花組全員が」
「すみれくん……俺は」
言いかけた大神の口を留めるように、すみれの右の人差し指が大神の唇にまでのばされた。
長刀を繰り、光武を操っていることが信じられないほど細いその指は、しかし唇に触れる寸前で止められていた。
それは、今すみれが感じずにはいられない壁。
大神に対してと言うよりは、さくらに対して感じている壁。
今は、抜け駆けをしたい気分ではない。
いずれ堂々と打ち破るまでは、やめておきますわ。
「大分肩も楽になりましたわ。少尉、ありがとうございました」
指を引き、優雅を崩さない範囲で軽やかに肩を回してから緩やかに一礼する。
我ながら素直じゃないとは思ったけれど、自分の流儀は崩したくない。
向いてもらうのならば、神崎すみれのままで。
「いや……、こんなことしかできないからね」
「違いますわよ、少尉」
悪戯っぽく、謎めいた微笑みを一瞬だけ見せて、すみれは鮮やかに身を翻してサロンを出ていった。
大神は何だかよく分からない心境のままで取り残された。
ただ、落ち込んでいたすみれが立ち直ってくれたらしいので、これでいいか、という気もする。
二人揃って米田に騙されて大変な目にあった、という連帯感がそれまでのわだかまりを忘れさせてくれたし、昨日はすみれに負けたことで不機嫌だった他の花組の面々も、こんな仕事だと解ると表情を崩して
「隊長、頑張って下さいね」
などとにこやかに言ってくる始末である。
ともかく、米田の策通りというわけだ。
振り返ってみると、結局こうなってしまった。
いつ花組から離れることになるか解らない自分だから、みんなに嫌われたまま劇場から去れるように立ち回ったつもりなのに、
気がつけば、前より離れにくくなってしまっている。
それもさくら一人ではなく、花組の六人に三人娘らも含めて。
普段は意識しないようにしていたが落ち着いて考えてみると、やっぱりみんな大なり小なりの差はあれど好意を持ってくれているのかな、と言う程度には行き着いた朴念仁である。
考え込んでしまった。
ミロクの言ったことは正しいのかも知れない。
俺は、みんなの気持ちを操っていただけなんだろうか。
衣装比べの時のように、どこかでみんなをその気にさせて。
だが、結局最後に自分が選ぶことができるのは一人だけだ。
まさかミロクの言ったように全員まとめて……なんてことを実行するわけにはいかない。
今の自分が誰を選びつつあるのか……その答えはおぼろげながら心の中にある。
ならば、それ以外のみんなは……?
平和が戻りつつある今、戦闘部隊としての花組の役目はやがて終わるときが来るだろう。
そのときに、自分は責任をとれるのか……?
悩みの迷宮のまっただ中でぐるぐると回ることになってしまった。
考えても考えても自虐的な答えしか出てこない。
「どうしたの?大神くん」
そこにいきなり声をかけられたので、大神は思わず椅子から飛び上がってしまった。
そんな大神を見て、入ってきたあやめの方も驚かされてしまう。
「あ、あやめさんですか……」
「何だかひどく悩んでいるみたいだけど、どうしたの?」
どうしたの、というところであやめはすぐ近くにまで寄ってきて、微かに見上げるような視線を向けてきた。
初めてあやめに会った日から、大神はあやめのこの視線に弱かった。
悩んでいること全てを話して、楽になりたいという気持ちになってしまう。
「……ミロクが、言っていたんです。
俺はみんなをたぶらかすために花組隊長になったんだって。
みんなをその気にさせて、戦場に引きずり出すための存在だって……」
「……」
大神は身体の前で拳を強く握りしめてから、どこか疲れたように力を抜いて自分の手の平を見つめた。
「あやめさん、答えて下さい。
支配人とあやめさんは、俺がみんなを騙すことを期待して花組の隊長にしたんですか?」
触媒としての能力……反発しやすいうら若き少女たちの気持ちを一つにまとめる能力。
それは言い換えればまさにそういうことではないのか。
真っ直ぐにあやめに問いかける大神の視線は、あやめにとって羨ましくもある目だった。
「……そうね。ミロクの指摘はそう間違っているわけではないわ。若い男性の隊長を着任させるなら、隊員の何人かが貴方を好きになってくれることはある程度予想していたし、それが目的の一つでもあったわ」
そこで、あやめはまじめな顔を少しだけ崩した。
「でもまさか程度の差はあれ六人全員だけじゃなく、さらには椿たちまでがあなたに憧れることになるとは思わなかったけどね」
あんまり苦笑しているとは言えない、どちらかと言えば微笑んでいるかのように見える笑みだったので、大神はちょっと恐縮しただけで済んだ。
「でもね、大神くん。貴方は別にあの娘たちの誰かと婚約したとか、将来を誓い合ったとか、そう言うことではないでしょう。わかってる?」
「え……、あ、はい。それは……」
言われてみれば、面と向かって好きですと告白したことも、告白されたこともない。
まあ、いつも「お兄ちゃんだーいすき」と言っているアイリスだけは例外になるが。
そうなっていたらそうなっていたで、確かに自分の対応は変わっていただろう。
「それなら別に、貴方が咎められることではないはずよ。大神くん。
だって、貴方にだって恋をする権利はあるんだから」
この声だ。
初めて会ったときから、大神はこの優しさいっぱいの声の前では何も逆らえなくなってしまいそうになる。
自分に、恋をする権利があるというのなら……。
心のどこかで、憧れている自分を否定することの出来ない人なのだ。
いつものように頷きそうになって、しかし今度はギリギリで大神は踏みとどまった。
「でも……あやめさん。俺が一人しか選べないって解っていて、他のみんなを振ってしまうって解っていて、そんなこと……」
「優しいのね、大神くん」
あやめの言い方は心から賞賛しているものだった。
「確かに、恋を失うのはつらいことよ。
恋をしているときは本当に幸せで、それが世界の全てになっていて……無くなってしまったら、いなくなってしまったら……、本当に、死んでしまいたいと思うかも知れない」
しれない、と言う言葉とは裏腹に、あやめの声は確信を通り越して断定の音色をしていた。
さしもの鈍い大神すらも気づいてしまうほど、はっきりと。
……あやめさんにも……好きな人がいるんだ……
そう考えると、納得できることながらもちょっと寂しい。
あやめさんが好きになった人って、どんなに素晴らしい人なんだろう……。
と、口にしないくらいには大神は大人だった。
「だけど、それらは全て大切な思い出で、経験でもあるわ。
一つの恋の終わりは人生の終わりじゃない。
きっと、失ったとしてもそれはあの子たちのためにもなる。
そして……、あなたならね、決してあの子たちを不幸にしたりはしないと確信できたのよ。
だから、あなたに隊長になってもらったの」
あやめの言った「不幸」というのが、ミロクの味わったような悲哀であることはよく解った。
そんなことはしない。
絶対にさせはしないと心に誓う。
そこで、あれ?と思った。
「あやめさん……、ここに着任する前の俺を知っているんですか?」
あやめの言い方は、隊長選考の際に既に自分を知っているものだった。
今にして思えば、舞台の修理中に初めて会ったときも、どう考えても初対面とは思えない反応だった。
「ふふふ、帝撃副司令をなめないでね大神くん。
士官学校時代から隊長候補の一人として何度か視察していたのよ。
人となりを示すエピソードもたっぷり聞かせてもらったわ。
無茶を言ってきた上級生二十人を同期の加山君と二人で全滅させて、あげく入れられた懲罰房から平然と脱走した話とか……、
巻き込まれそうになった同級生を助けるために訓練艦のスクリューを破壊してしまった話とか……」
「わー!わー!も、もういいです!参りました!」
大神が慌てふためいて叫ぶので、このへんで止めてやることにした。
武勇伝だろうとは思うのだが、こういったことを自慢しようとしない辺りは大神くんらしいと思う。
「じゃあ、ここで約束してくれる。
あの子たちを絶対に不幸にはしないって」
「約束します」
ためらい無く、よどみなく大神は答えた。
そんな物があっては自分の誓いが嘘のように思えてしまうから。
「よろしい」
ふっと額にあやめの指先が触れた、あの柔らかい感触があった。
それがどこか約束のしるしのような気がして、更に言えばあやめの顔がすぐ近くにあったので、大神は赤面せざるを得なかった。
「聞きたいことは以上かしら」
「あ、はい。ありがとうございました」
本当はもう一つあるのだが、額に残る感触が何故かその質問を遮ったように思い、大人げないとも思い直して言わなかった。
お互いよいしょっと立ち上がろうとしたところで。
「じゃ……じゃあ大神くん。こちらからも一つ聞いておきたいことがあるんだけど……」
「はい……?何でしょう」
ここで大神は壮絶と言っていいほどの違和感を憶えた。
自分よりずっと年上で、たとえ自分が後三年歳を重ねてこれほど深くこれほど優しく、これほど果てしなくはなれないだろうと常々憧れているあやめが、
今このとき大神自身よりも三つか四つ年下の、さくらやすみれと同い年くらいのはかなげな少女に見えたのだ。
この人には、こんな一面もあったんだ……、という想いが少なからず顔に出てしまったのだが、しかし今のあやめはそれにすら気づいていないようであった。
「あのね……、この前私に見せてくれた妖狐の尾は、確かにミロクのものだったの?」
「え……?」
最初の一瞬、あやめの声が震えていることに驚いて、大神は思わず聞き返してしまったが、質問の内容そのものは至極簡単なものだった。
「そのようです。
俺が戦ったときミロクは二本の尾を持っていましたが、常に帝劇を監視していたりしていたようですから、あれがミロク以外の人物によるものとはまず考えられません。
事実、日比谷公園でやり合った炎と同じ攻撃をしてきましたし」
「そ……、そう」
あやめはほんの少しだけ安心しようとした。
「あ、でも……」
「!?」
もしこのとき大神があやめの過去を知っていたら、大神はこの言葉を続けなかっただろう。
だが彼は今まで、花組のみんなに対してそうであるように、自発的にあやめの過去を探ろうとしたことはない。
由里が騒ぐので誕生日と血液型を憶えたくらいだった。
その優しさが、あやめに真実を教えさせた。
「あれは生来のものではないみたいですよ。
六年くらい前に死にかけていた時、傷ついていた妖狐の姉妹と命を共有して助けられないかとされたけれど、結局はミロクしか助からなくて二人の妖狐の妖力の源だった尾を身につけ……」
大神は、思いっ切り後悔した。
なぜだか解らないけれども、この話をあやめにしてはいけなかったのだ。
なぜなら、
こんなにも蒼白で、こんなにも哀しみに満ちたあやめの顔を、大神は今まで見たことがなかったから。
「あ……あやめさん……?」
こう言うとき、自分は何て子供でしかないのだろうと思う。
うろたえて声をかける……こんなことしか思いつかないし、出来ないのだ。
「あ……ありがとう……おおがみくん……」
その表情を隠すかのように、あやめはついと身を翻して、足早に司令室を出ていった。
「あやめさん……」
残された大神には、その背に向けて頭を下げることしかできなかった。
自室に駆け戻るまでに誰ともすれ違わなかったことを感謝すべきなのかも知れない。
帝国華撃団の副司令にして、大帝国劇場の副支配人。
六年前にはなかった肩書き、立場というものがあった。
だけれども、今のあやめにそんなことを考えている余裕はなかった。
転がるように駆け込んで、机の引き出しを開けた。
何度も眺めていたので、すぐに取り出せる場所に収めてある。
震える手が、白い布に包まれたそれを手にとって、丁寧に慌てて布を解いていく。
解け終わる前に、否定しようのない雫が布にこぼれ落ちて、想いそのもののようにじわっと広がっていく。
もう、こらえきれなかった。
「ああああああ!!!」
それ以上解く間ももどかしく、叫びと共にあやめは包みを抱き寄せて泣いた。
掻き抱くと共に布がはらりと落ちて、さらりと柔らかい毛があやめの頬をくすぐる。
「あずさ……っ、ごめん…………、ごめんね…………!」
どうして謝っているのか自分でもよく解らない。
でも、そうせずにはいられなかったのだ。
知らなかったことを。
助けられなかったことを。
やはり、見間違えるはずはなかった。
一緒にお風呂に入ったこともあるから、姉妹の尾の特徴まではっきりと憶えていたのだ。
生涯たった一人の友達の、今は形見となってしまった尾を抱いて、
あやめは声が嗄れ、涙が涸れるまで、
いつまでも泣き続けた。