もみじ小戦・第六話
「紅い声」第肆編




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 こんな深夜になっても、珍しくあやめは制服のままだった。
 帝劇内ではまず帯刀して見せたことのない神剣白羽鳥……さくらの霊剣荒鷹と共に、二剣二刀の一つとして称される名刀だ……を手元に置いている。
 大神がミロクの本拠に迫っているであろう今、敵が二面作戦を以てこちらを強襲してくる可能性もあったからだ。
 一方で戦力分散の危険性もあることなので、向こうがどういう手段を取るかはどうとも読み切れない。
 だからあやめも米田も今夜は最警戒している。
 彼女にとっては妹に近い少女たちを守ってやらねばならない。
 自分がさくらやすみれくらいの歳頃だったときは、確かに守られていた。
 守られていた……。

 気になっているのはミロクのことだけではない。
 そのころとともに、思い出さずにいられないこと。

 すうっと引き出しを開けて、白い布に包まれた細長い物を取り出す。
 恐々した手つきで、ゆっくりと布を開いていく。
 中に収められていたのは、大神がミロク存命の証拠として見せた長い狐の尾だった。
 それは、明らかに普通の狐のものではない。
 長さもそうだが、この状態ですらまだ妖力と霊力が感じられる。

 大神はこれがミロクの背にあったものだと証言した。
 確かに大神は深川において、生身でミロクと対峙したことがあるのでその言葉は当て推量ではない。
 さらに、大河原もその証言を支持した。
 大河原はかつて黒之巣会の本体が生きていた頃に、放送局を占拠されたことがあって、そのときに人質としてミロクや天海に拘束されていた経験がある。
 そのときにかなり長時間に渡って彼らと相対していたのだから、おそらく間違いあるまい。

 間違いないだろう……。

 確かに、自分がこの目で確認したわけではない。
 でも……生きているはずはない。
 そう、生きているはずはないのだ。
 だから、今にも自分で飛び込んでいきたくなる気持ちを必死で押さえた。
 今の自分はもう、対降魔部隊の末席ではない。
 大帝国劇場の副支配人兼会計であり、帝国華撃団の副司令官なのだ。
 階級が一つ上がっただけとはいえ、軽々しく前線に出てはならない身分になってしまった。
 それがいささかならずくやしい。

 もしかしたら、と言う想いを否定しきれないのだ。
 大河原と大神がこれに見覚えがある以上に、あやめにも見覚えがあるのだ。
 あまりにも、はっきりと。

「違うよね……あずさ……」

 その声は二十三の帝撃副司令官のそれではない。
 六年前の、囚われの中にいた少女のものだった。


*     *     *     *     *     *


「狼虎滅却、快刀乱麻!!」

 いきなりの必殺技がミロクに迫る。
 大神はちまちまとやり合う気はなかった。
 この吉原の地下本拠まで来るだけで、こちらは少なくない傷を負わされており、疲労も隠しきれないところがある。
 長引けば、ここまで連戦をこなしているこちらが不利になるに決まっているのだ。

 だが、その一撃はミロクに届く前に阻まれた。
 ミロクが、瞬時に抜きはなった細剣を中心に全身から炎を発したからだ。
 突っ切るつもりだったのだが、これは想像以上の高熱だった。

「フン、どうした大神一郎。まるで火に逃げまどうけだもののようだな」

 けもの、ではなくてけだもの、と言ったあたりにどこか屈折したような想いを感じた。

「おまえなど、わらわの傍に近寄ることも出来ん。
 さあ、この剣に串刺しにされるがいいか、それとも逃げまどいながら焼け死ぬのがいいか!」

 ミロクが尾を一振りすると、その場に巨大な青い火球が出現した。
 どうやっているのか解らないが、ミロク自身は全然暑くも熱くもないらしい。
 ただ高熱なだけで青いのではなく、狐火の持つ本来の色がこうなのだと大神は昔話か何かで聞いたような気がした。
 逆に言えば、単なる炎などではないと言うことでもあるが。

「ハッ!!」

 素早い剣の振りと共に、火球が繰り出された。
 だが、そのわりにはあまり速くない。
 火球が大きいのがやっかいだが、それでも避けるのに苦労はしなかった。

「この程度の力では俺は倒せないぞ!ミロク!」

 暗に降伏を進めているつもりなのだが、説得力に欠けている。
 どちらかというと挑発に近い言い方になってしまって、大神は言ってから少々後悔した。
 しかし、ミロクは特にその言葉でいきり立った様子はない。
 むしろ、剣を構えたままで残酷な笑みを更に増してさえいた。

「しまった!」

 意図に気づいて振り返る、ということはしない。
 そうすれば必然的にミロクに背を向けることになるからだ。
 とっさに、大神は上へ跳んだ。

「チッ!」

 ミロクの舌打ちとほぼ同時に、大神がかわしたはずの火球が大爆発を起こした。
 飛び去ったはずの物が、すぐ間近まで戻ってきていたのだ。
 ミロクとしては、大神が振り返ろうとも、気づいて左右に跳ぼうとも即それに対応する気でいた。
 だが、それを構えで見抜かれたのだ。
 しかしだからといって、よりにもよって自身も一度は引いた彼女の炎が吹き上がる上空に飛び込んでくるとは。
 炎を展開するに際して、上が最も強固であるという感覚。
 ミロクがそれを踏まえていることを知った上で、逆に動きの対応は遅れると大神は判断したのだ。

「狼虎滅却、群狼蒼牙!!」

 高熱の中に飛び込みつつ、無数の連撃を打ちこんだ。
 かなりつらいが、遠距離戦でこれ以上やり合っていては倒れている少年少女たちや大河原まで丸焼きにされかねない。

「こしゃくなあっっ!!」

 そして、剣術では大神の方が上だ。
 ミロクは細剣だけではなく、二本の尾を振りかざして防御に回す。
 かなり巧妙な防御で、有効打が与えられない。
 それでも押していることは確かなのだが、このままでは高熱に焼かれ続ける自分の方が不利だと言うことの方がもっと確かだ。
 大神自身が攻撃と共に放つ闘気が防御膜の役割をしているものの、そろそろ着ている服がチリチリと焦げ始めている。
 のんびり打ち合っている時間は無い。
 大神は一気に踏み込んだ。

「狼虎滅却、快刀……」
「甘いわああっっ!!」

 連撃が途絶え快刀乱麻の動きへと移る寸前、絶妙の一瞬にミロクは叫んだ。
 同時に剣から雷撃が、左右の尾から炎が同時に大神に襲いかかった。
 必殺技を打ち込もうとした勢いを反動にされ、三撃全て直撃を食らってしまった。

「ガアッッ!」

 吹き飛ばされ、床に転がりつつも何とか服に付いた火を消す。
 しかし転がるたびに電撃の直撃した胸部がズキズキと痛み、両脇もかなりの火傷を負っていた。

 帰ったら医療ポッドに直行だな。

 あまり嬉しくもない実感を苦笑混じりに考えて、弱気になりそうな自分を叱咤する。
 何しろあれは全裸になって入らないといけないものなので、あんまりお世話になりたくないのである。
 六月にお世話になったときには、少なくともあやめさんには……下手をすると花組の全員に見られている可能性すらもないわけではない。
 そして、名誉にかけて露出趣味など無いのである。
 妙な形で闘争心を奮い起こして、何とか膝立ちになって向き直る。

 しかし、今のミロクの動きは……。

「フン、快刀乱麻とか言ったな。
 霊子甲冑を駆っているときに既に幾度もその動きは見ているわ。
 わらわを見くびるなよ、大神一郎。
 そんなものとうに見切っている」
「……!」

 道理かも知れない。
 ミロクとは霊子甲冑を使って二度も見えている。
 うち一度は直接剣を交えて、確かに快刀乱麻を使っている。
 そして、霊子甲冑は生身に比べるとどうしても動きが大きくならざるを得ない。
 当てることはおろか、その予備動作を読み切られたのも無理はないかも知れない。
 もはや快刀乱麻は使えない。

「快刀乱麻ではないぞ。
 わらわの放った降魔と炎をうち倒してくれたときに、それ以外の必殺技もずいぶんと見切らせてもらったわ。
 それに、マリア・タチバナとの面白い戦いでもな」
「く……」

 ということは、やはりあの炎をしかけてきてマリアを操ったのはミロクだということだ。
 それ以外の敵が当面は活動していないと言う点では、いささかほっとする。
 だが、目前に突きつけられた状況はずいぶんと深刻だ。
 大神はほとんどの決め手を封じられてしまった格好になる。

「だがわらわは違う。
 それを嫌と言うほど思い知らせてやるぞ。
 おまえがわらわの技で知っているのは雷覇のみ。
 どこまで対抗しきれるか?」
「……」

 どうやらミロクは隙を突くことではなく、大神の技を使えなくして追いつめるという手段を選んだらしい。
 なるほど、単純に倒せばそれで気が済むと言うことでないのだろう。
 無様にいたぶって、手も足も出ないようにして嬲り殺しにしてやるぞ、とミロクは言っているのである。
 こうなるとなおさら、従ってやるものかと思う。
 士官学校でも、偉大なる先輩たちの無茶を聞かない無礼な後輩として、こちらの評価でも加山を押さえて主席になっていた大神である。

「見切れるというのならやってみろ!
 狼虎滅……」
「絶空光閃だ!」

 瞬時にしてミロクの剣から電撃が飛ぶ。
 出が早くて溜めの無い技を使っているために受ける傷は致命傷にはならないものの、技の出がかりを潰すには十分だった。

「ぐっ!!」

 ミロクの読みは確かに当たっている。
 ならば、対応する暇も与えなければいい!

「!!」
「凄牙一閃!!」

 文字通り一瞬で間を詰めてミロクに迫った。
 予備動作を一切省いて繰り出したので流石に反応しきれない。
 かろうじてミロクは細剣を立ててこれを受け止めにかかる。

ガッ!

 衝撃と共に、ミロクをはじき飛ばした。
 しかしこれは受け止めようとしたミロクの細剣に直撃を外されたことを意味する。
 直撃すれば完全に貫いている技なのだ。
 やはり予備動作無しでは威力が低下せざるを得ないのはどちらも同じらしい

 空中で体勢を整えるとミロクはさほどの影響も見せずに着地した。
 ただし、影響がなかったわけではない。

パキ……

 と言う音と共にヒビの入った細剣が刀身の半ば辺りから折れて転がった。

「かろうじて及第点というとことだな。
 まだあがく気があることだけは誉めてやろう」
「それでも、おまえに武器は破壊した。もうやめろ……」
「フン、何か勘違いをしていないか?」

 言い捨てるとミロクは柄本だけを残して刃の部分を外してしまった。
 さらに、

「式神?」

 術者に使役される方の魔物のことだ。
 小型降魔ほどの大きさの魔物が、ミロクの着物の影から四体ほど這い出てきた。
 ミロクはニヤリと笑って、人の手の形をした悪趣味なその柄を軽々と二本の指で挟んでクルクルと回した。

「面白いものを見せてやろう」

 そう言うと、柄の手がぐいっと伸びた。

「なっ!?」

 大きく広がったその手が、四体の式神を一挙に掴み挙げるとその中に溶かし込んでいってしまった。

「フン!」

ブウンッッ!

 降られたときには剣は完全な形を取り戻していた。

「これでもまだ止めろなどと戯言を言うか?」
「……どうあっても、倒さねばならないか」

 大神は何とか殺さずに倒す方法に切り替えることにした。
 少なくとも、戦力を残しているうちは説得は無駄だと言うことが解った。

「別の戯言が言えるとは口の減らぬ奴め。
……まあ、あのような小娘どもとは言え六人全員一度にたぶらかすからには、それくらいの舌がなければ務まらんか」
「なにっ!!」

 ミロクの嘲笑を、さすがに大神は無視できなかった。
 微かに頬に血が上る。

「それは怒りか?恥か?」

 有効だなと心中で冷笑しつつミロクは、口にはあからさまな侮蔑の表情を見せて畳みかけることにした。

「しかし今のは私が悪かった。前言を撤回しよう」

 大げさに手を広げて、形ばかり殊勝な言葉を述べる。
 もちろん、その意図は相手の神経を逆なですることに他ならない。

「六人ではなく、十人だったな」
「黙れえっ!」

 狼の如く大神は吼えたが、優勢に立っているミロクにとっては負け犬の遠吠え程度にしか感じなかった。

「今の言葉は許さないぞミロク!
 俺の仲間たちをけなすことは!」
「何を聞いていた、大神一郎」

 大神の冷静さが消えて、闘志がむき出しになってきたことにミロクは屈折した優越感を味わっていた。

「わらわは小娘共の行動をとやかく言ったわけではないぞ。
 あくまでおまえの行動を言ったのだ。
 無様に格好を付けるな。……見苦しい」

 終わりの一言にあらん限りのさげすみを込めた。

「違う!」
「叫んでばかりいては解らぬぞ。説明してもらおうか」

 大神はそこで言葉に詰まった。
 ちょっと考えて、

「ええっ……と、そうだ。まず、俺なんかにたぶらかされるようなみんなじゃないぞ!」
「……」
「……」

 ミロクは、大神とは別の意味でしばらく二の句が継げずにいた。
 こめかみに掌を当てて、少し呼吸を整えてから、

「あー……。貴様、自分で言ってて情けなくなかったか?」
「う…………、だが、事実は事実だぞ。
 マリアを操っていたのなら知っているだろう。俺がみんなに嫌われていることくらいは」

 言っていて自分の胸にぐさぐさ突き刺さるものを感じ、ちょっと内心では泣きたい気分だった。

「貴様がそうとし向けてからはな」

 こちらはどうやら立ち直ったらしい。
 冷ややかにミロクが告げた。
 もちろんそれくらいの調査はしていた。
 毎日大神に気づかれないようにこっそりと、しかも短時間に式神を出入りさせるのは、元々侵入させるだけでも難しい大帝国劇場だけにかなり骨が折れたが、こうして大神を攻撃する役に立ってくれたのだから、苦労した甲斐はあったと言うことだ。

「それ以前、あの小娘共が大なり小なり貴様に熱を上げていたことは紛れもない事実。
 ……知らぬとは、言わさぬぞ」

 ミロクの声からあざけりが消えているのに大神は気づいた。
 先ほどまで上手く心理的に煽っていた巧妙さが消えて、感傷的になっているように聞こえた。
 顔に浮かべている笑いも、どこか不自然さが目立っている。
 ミロク自身は、まだ気づいていないらしい。
 どうやら挽回の余地が与えられたようだ。
 しかし、ミロクの口調はその分容赦無くなっている。

 いくら鈍感な大神といえども、ある程度みんなに好かれていたという自覚はあった。
 好かれていたと言っても、大神が自覚しているのは「いい人」という程度のところまでだが。
 とはいえそれゆえに、どうやってみんなに嫌われるかという行動の着手したのだ。
 知らないとは言えない。

「それだけではない。おまえはわらわたちとの幾度かの戦闘において、
 特に一人か二人に気を持たせ、その感情を思うままに操って戦った」
「それは断じて違うぞミロク!
 みんながそのときに不安を抱えたりしていたのを解決する助けをしたから、みんなの信頼を得られただけだ!」
「一朝一夕の信頼ごときで、霊力の融和などできるものか!」

 吐きつけるような言葉だったが、大神は何のことを言われたのか解らなかった。

「……霊力の……融和?」
「芝公園で、築地で、浅草で、深川で、そして劇場の地下で、ことごとく戦況を一変してくれたあの技だ!」
「……」

 確か、あやめは合体攻撃と呼んでいた。
 二人の霊力が溶け合って一つになるようなあの感覚。
 快かった、と言わなければ嘘になるだろう。

「羅刹と刹那の兄弟でさえ、自在に使えるまで二年を要したと聞いているわ。そんな技を、ただのお友達とあっさりやって見せてくれたというのか、おまえは」
「ただの友達じゃない!生死を共にして、舞台を共にして、共に生活してきた仲間だ!」
「生死を共にしてきた男女が一つ所にいて、恋愛感情の一つや二つ、発生せんとでも思ったか?」

 さらりと述べたつもりの言葉が、やけに舌と頭に引っかかった。

「それはおまえの穿った考え方だ、ミロク」
「フン、仲間だとほざいたな。入浴を覗いたあげく吊し上げられた出刃亀が、えらそうに吼えるな」
「ぐ……」

 これはさすがに反論の余地がない大神である。

「あの小娘たちを女と見ていたのは貴様にとっても紛れもない事実ではないか。
 ましてあの年頃の小娘共が、貴様を男と見ていないと、ただの隊長しか見ていないと、なおほざけるか」

 大神がひるんだ所に、更にミロクは一気に叩き込んだ。
 叩き込んだとき、微かに自分の胸で痛みを上げるものがあったことは、無理矢理否定することにする。
 思い出したくなど、ない!

「六人全員に気を持たせたあげく手前勝手な価値基準で選りごのんで、今はあの真宮寺さくらが本命か。
 それで、残った奴らはどうするつもりだ。
 もっと器量のよい美味そうな娘が新たに入ってくれば、あれも例外ではなくなるだろうよ。
 弄ぶだけ弄んで、壊れたところで捨てるか。
 それとも全員妾にでもするか!!」

 叫びの終わりに高い嘲笑が重なった。
 反論できなかった大神を、若いと責めることも、若いとかばうことも、……できるだろうか。
 ミロクに突きつけられていたことは、半ば配慮してこのように嫌われるような行動を起こした今となっても、これまで明確に考えていなかったような気がする。

 俺を隊長にすることをあやめさんが考えたのは、マリアが自分ではまとめられないと言ったから、と聞いた。
 年頃の少女たちをまとめるには、若い男性の隊長が最適なのだとも。
 米田も、触媒がどうとか言っていた。

 つまり、最初からそれが狙い……?
 俺は……みんなを裏切るために隊長になったのか?
 俺は……みんなを弄んだだけなのか……。
 自責の念が後から後からわいてくる。

 かろうじて意識を保っていた大河原は、大神の全身から覇気が感じられなくなっていることに気がついた。
 おそらく、本来なら外に向かい多くの敵を倒してきたその力が、今は彼の内部で彼自身をさいなんでいるのではないだろうか。
 このままでは、大神はミロクの攻撃を必要とするまでもなく彼の内から精神的に死んでしまう……!

「お……大神くん!!」
「呼んでも無駄だ、大河原」

 勝ち誇った満面の笑顔を浮かべて、左手で妖艶に扇を一振り二振りしつつ、嘲るように告げる。

「無駄……だと?」
「鼻が利いているならよく嗅いでみるがいい」

 言外に、気づかなかったのか?という笑いをたたえたその言い方に腹は立ったが、気にならぬ訳はない。
 実は鼻栓をしていたので全く気づかなかったのだ。
 思いっ切り吸い込んでは罠の可能性もあるので、嗅覚に神経を集中し、肺まで入ってこないようにして微かに吸い込んでみた。

「これは……催眠薬?」

 相手の意志を希薄にし、言うことを聞かせ易くして自白させやすくなる薬品の一つが、確かこんな匂いだった。
 役に立ったとは言い難いが、この辺は情報部の面目躍如である。
 公にされることはないだろうが、花組が黒之巣会の戦闘部隊と戦っていた裏で彼らも決して誇るべきではない手段で、しかし為したことは確かに賞賛されて然るべきであろうもう一つの戦いを繰り広げていたのだ。
 例を挙げると、日本橋に黒之巣会の本拠があると解ったときにわずか十数分で本拠に一番近い入り口を探り当てたのは大河原の部下たちのなのである。
 もちろん、方法はあまり人道的なものとは呼べないものであったが、これを少女たちに知らせないようにするのも彼の任務の内だった。

「さすがは大河原、ちゃんと知っておったか」

 裏事情をほぼ知っているらしく、ミロクの賞賛しているような言葉は実のところ、口調は皮肉が十割を占めていた。

「わらわたち吉原の者が使う香が、ただの一種とでも思うたのか。これくらいの下準備はしておったわ」

 言葉の端々に、愚か者め、と勝ち誇った音色がある。

「貴様もこやつも所詮男よ。
 いくら綺麗事を言ったところで、心のどこかでは女に囲まれて暮らしたい、思うままに遊びたい、後の責任など考えずにそうしたいと思っているはずだ」
「ミロク……!」
「フン、否定できるか?
 貴様とてこやつの置かれている環境にありたいと、一度も思ったことがないとでも言うのか」
「ぐぬ……」

 厳密に言えば大神の代わりになりたいと思ったことは一度もない大河原である。
 何故なら、大神の普段の帝劇における殺人的な仕事量と隊員間の問題発生率、そしてそれに付随して彼が苦しめられている胃痛の概数を知っているから。
 だが、羨ましいと思ったことが、さすがにないとは言えなかった。

「どちらも、自省する精神があったことだけは誉めてやろう。
 だが、だからといって全てが許されると思ったらそれも間違いだぞ」

 チャキリと、ミロクは再び細剣を抜いた。

「色欲に囚われ、女を食い物にしようとしたその事実だけは、何ら変わらない!」

 貴様もその少年少女たちを忘我させ、色欲に捕らえさせていたではないか、と反論しようとした大河原は二つの理由で舌先に乗る前にそれを飲み込んだ。
 一つは、あまり大言を吐ける立場ではないことを恥じていたから。
 もう一つは、一見論理的に見えるミロクの言動の端に、わずかに狂気めいたものを感じたからだった。
 ミロクは恨みや復讐といった負の感情にとうに囚われているような気がしたのだ。
 言動が一致しないところがあるのも、やはり狂気に近いものを思わせる。
 第一、黒之巣会崩壊後もここまで大神を……米田やあやめ、日本政府ではなくて、大神を……つけねらった執念は既に正気のものとも思えない部分がある。
 なぜなら、その行動が仮に達成されても、黒之巣会が目指そうとした江戸の再興には全く繋がらず、単に個人的な復讐心を満足させるに過ぎないものだからだ。

 もしそうなら、正論を以て説くのはかえって危険だった。
 反論の余地が無くなると、最も直接的な方法……際限の無い暴力に転じる可能性が高いからだ。
 自分も大神も動けない今、油に火打ち石を叩きつけるような真似は断じてしてはならない。

 だが、どうやら大河原の配慮も無駄になりそうだった。

「フフフ……大神一郎、安心しろ。首から上はちゃんと小娘どもの所へ送り返してやる。
 わらわはこれでも慈悲深いのじゃ。貴様が帰らねば小娘どもが悲しむであろうからの」

 かんざしでそうしたように、ミロクは剣をすうっと舐めた。

「だが身体は返さぬぞ。
 貴様に抱かれたいと思っている小娘ども全員、泣いて悔しがるであろうよ。
 ハハハハハハハハハ!!!!
 報いじゃ!
 わらわから天海様と黒之巣会を奪った報いじゃ!
 思い知るがよいわ!」

 さしもの大河原の背にも冷たい物が走った。
 間違いなく理解を超えた狂気の叫びだ。

「いやまて、よいことを思いついたぞ!
 貴様の身体は選りすぐった六人の娘で弄んだ後で、ちゃんと送り返してやることにしてやろう!
 そうすれば小娘どもは思い切り悔しがってくれるであろうからな!
 楽しみだろう、大神一郎」

 瞳に壮絶な笑みをたたえながら、ミロクは間を味わうようにゆっくりと剣を振りかぶった。

「さ……させんぞ!ミロク!!」

 大河原は、しゃべりの間にかろうじて動くようになっていた指先に全神経を集中させて何とか銃に模擬弾を込めて、
 大神に向けて発射した。

「何!?」

 ミロクは驚いたが、血迷ったのではない。
 大河原の狙い通り、眉間の少し上、比較的ダメージにはなりにくい所で、かつ大神の顔にさほど深刻な傷を残さないで……換言すれば花組の少女たちに恨まれそうにないで……それでいてしっかりと衝撃が与えられる場所に命中する。
 ぼおっとなっていた大神も、さすがにこれで気がついた。

「俺……は……」
「前を向け大神くん!
 悩むのは後でも出来る!
 間違えるな!今ここでミロクに倒され、君が帰れなくなったらさくらくんも……おそらく帝劇の全ての子が泣くんだぞ!」
「大河原!貴様アッッ!!」
「ここで君がミロクに切られて、それで何が解決する!
 逃げるんじゃない!君は帰らねばならないのだ!大神くん!」
「その耳障りな口を、今すぐ聞けぬようにしてくれるわ!!」

 徐々に光の戻っていく大神の瞳に希望を実感しながらも、大河原は自身で危機を招いている格好になった。
 目標を大河原に変えたミロクが、怒りの形相で二本の尾と剣を同時に振りかぶってきたからだ。
 倒れたままの大河原には、防ぐ術は無い……!
 大神の全身に警報が走り、一瞬とおかずに闘志が蘇った。
 だらりと下げられていた両腕と小太刀が、駆ける足と共に唸る。

「狼虎滅却、快刀乱麻ァッ!」
「ぐああああっっっ!!」

 いかに見切られているとはいえ、背後からの攻撃はさすがに見切れまいと判断して、大神は一気に切り込んだ。
 卑怯かとも思ったが、ためらっていては大河原の首は吹き飛ばされている場面だった。
 沸き上がる炎にかなりを遮られたものの、確実にミロクに傷を負わせて吹っ飛ばし、大河原を救った。

「大河原さん……俺は……」

 どこかためらいを残している大神に、大河原は好感を持ちつつも、

「悩め若者。
 されど、時と場合を踏まえてな」

 言葉の背景に太鼓が鳴ったような気がするが……多分気のせいだろう。
 放送局の検閲官時代は、今日の標語で鳴らした大河原である。さすがに含蓄があった。
 大神は大きく頷いて、倒れたミロクに向き直る。

「ミロク……俺は自分のやったことを偽るつもりはない。
 でも、俺は今ここで死ぬわけには行かない。
 俺がやったことが罪でも、許されなくても……それでも、それでも、俺には帰りを待ってくれる人がいるんだ……。
 そして何と言われようとも、隊長として、みんなに手出しはさせない!
 絶対にだ!」

 


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