もっとも、今ひれ伏している男は、その匂いなど感じていないかも知れない。
普段から多用しているのだ。
無論、こういった薬のご多分に漏れず、この薬にも強い習慣性がある。
慣れてくると、少量では効果が無くなる。
そしてもう一つ、そんな薬に酔いしれていられるようなのんきな事態ではない。
体中が冷たい汗で濡れていた。
「失敗の報告にでも来たのか」
不意に声がかかり、男はびくっと震える。
彼がひれ伏している方向・・・二本の蝋燭に挟まれて御簾がかかっている。
その中の主がかけてきた声に他ならない。
怒っているのか、哀れんでいるのか、呆れているのか。
その声から伺い知ることは出来なかった。
「は、はい・・・。御存知でしたか・・・」
事実だ。
言い逃れは出来ない。
十日ほど前に、大見得を切って大神一郎を暗殺してみせると言って、名うての戦闘集団を雇い、差し向けてみたものの、結果は惨敗。
恐ろしくてこの三日間、報告する気にもなれなかった。
しかし、いつまでも隠しておくわけにも行かない。
決死の覚悟で飛び込んでみれば、主からのこの言葉であった。
「ふん・・・ここから見ていたわ」
きらり、と御簾の奥で光ったものがある。
大方、配下の使い魔を通じて鏡に映像を映し出していたのだろう。
「報告に来るまでずいぶんと時間がかかったな」
その言葉はからかっているようにも聞こえる。
これだ。
この見下すような態度が気にくわない。
しかし、彼が黒之巣会総帥後継者などと言っていられるのも、この主あってのことだ。
直接反抗しては、権力と快楽に満ちあふれた現状をドブに捨てるようなものである。
今は耐えねばならない。
だがいつかは、何とかしてこの女のその口を閉じさせてやりたい。
改めて、彼は・・・黒之巣会総帥後継者、大川晴明は思った。
「心配するな、貴様をとがめる気など無い」
予想外の言葉が飛んできた。
「最初から期待などしていなかったわ」
中型降魔を二体同時、さらにその直後に自分の送り込んだ分身体を倒されて、既に正攻法で倒すのは不可能に近いとの結論を主は出していた。
あの大神一郎を相手に、暗殺者五人が十人、二十人になったところでまず倒せるものではない。
そして、霊的防御の強い帝劇内には鼠大の魔物を入れるだけでも苦労させられるのだ。
害意を持つ人間がほとんど入れないのもそのためである。
そのあたりは、かつて襲撃をかけた帝撃地下より、帝劇地上部の方が高いぐらいなので、どうも人力の結界という気もするのだが。
かくて、内部に暗殺者を送り込むのも不可能に近い。
よほど隠密能力に長けた諜報員でもいれば話は別なのだろうが。
「そんなことをいちいち報告されるまでもない。 それに、貴様がここにノコノコと出入りしては、大河原あたりに嗅ぎつけられる可能性もあると言うことをわかっているか?」
言外に、どうせわかってはおるまい、という雰囲気がある。
大川は歯ぎしりをしながらも、頭を伏せたままこらえた。
いつか絶対に、この女にあらん限り言うことを聞かせてやるぞと心に誓いながら。
「どうせついでだ。新たなる同志を集めるように言い渡しておいた件、どうなっておるか報告しろ」
誓っている最中に言われてビクッとなったが、慌てて笑顔を取り繕い、わずかに顔を上げて口を開いた。
「これに関してはお喜び下さい。天海様が生前に残されていらっしゃった、理想都市江戸の復興をめざすお言葉を録った録音盤をラジオで流させてからは共感者が急激に増加し、
現状に不満のある華族などからの資金協力も申し出も片手では余るほどと、実に良好であります」
「ふん・・・まあ、なかなかやるではないか」
少し意外そうな声が返ってきたので、心の底で舌を出しておく。
「ならば貴様は新たなる黒之巣会の地盤固めに集中しろ。協賛する者を集め、再び兵をそろえるための資金もな」
「しかしそれでは華撃団は・・・」
「それについては貴様が案ずるまでもない」
冷ややかに言い放たれ、いい気分がたちまちそがれる。
「次が最後だ。いかに大神でも今度の敵は倒せん。絶対に・・・だ!」
この間中型降魔を差し向けたときにも同じようなことを言っていたな、とは口にしないでおく。
「は・・・それでは私はこれにて・・・」
そそくさ、とでも表現するような動きで、大川は退出した。
「・・・・・・やれやれ」
あいつを、表の総帥代行にしたのは失敗だったかも知れない。
しかし、自分は既に大河原に姿を見られている。
表だって動いて、自分の生存を知られるのは危険だった。
そのために、元の黒之巣会の末端員の中で多少なりとも霊力のあった大川を看板に立てるしかなかったのだが。
「まったく・・・叉丹も生きておるか死んでおるか解らぬし・・・」
膝の上に座らせておいた美少年に鏡を再び取り出させ、帝都上空からの映像を映す。
自分がつぶやいていることに、気づいていたのかどうか・・・。
「死んでおるならそれならそれで、連絡の一つくらいよこせばよいものを・・・」
このところ、ため息をつかなかった日が無いような気がする。
教会で祈っても、気分は全く晴れない。
花組のみんなの前でこそ、出来るだけそういう姿を見せないようにしているつもりなのだが、
すみれあたりには、どうも見抜かれているらしかった。
帝国歌劇団花組のリーダー、失格かしらね・・・。
周囲を見つめるでもなく、何か当てがあるでもなく、ふらふらと歩く。
・・・女の君には、関係ない・・・。
大神の言葉が、頭の中で何度も反響する。
強くあってきたつもりだった。
十になる前に革命の闘士となり、戦場を駆け抜けた。
女だから、など関係がなかった。
ただ敵を倒し、生きていった。
自分の女を自覚したのはいつだったろう。
隊長が死んだときだろうか、
ボードウィルの部屋で眠ったときだろうか、
十字架にかけられ、来るはずがないと思っていた大神を待っていたときだろうか。
そう・・・それならば・・・。
あのとき、助けに来てくれたのに、何故今になって突き放すのですか・・・。
帝国歌劇団花組のリーダーとして、
帝国華撃団花組の、事実上の副隊長として、
大神のそばにいて、大神の助けになれること、
大神に助けてもらえることが、喜びだったのに。
「どうして・・・、ですか・・・」
大神は今、密かに何かをやっている。
大神を信じたいと思いつつも、どうしても疑ってしまう自分がたまらなく嫌だった。
自分が女なら、大神は男・・・。
何か良からぬことをしているのではないかと邪推してしまう。
大神には前科もあるのだし。
でも、それならさくらが、大神にあれほど信頼に満ちた目を寄せるだろうか。
信頼・・・。
それだけでないことくらい、誰にでも解る。
それは同時に、自分たちも同じだということなのだし。
でも、ならば・・・。
「どうして、ですか・・・・」
さくらは、大神が何をやっているのか知っているのではないか。
ならばどうして、
どうして、さくらだけなのですか・・・。
どうして、さくらなのですか・・・。
どうして、私ではないのですか・・・。
醜い嫉妬と解っていても、自己嫌悪の海でもがきながらも、
思わずにはいられない・・・。
「大神・・・・隊長・・・・」
「まよいごとですか」
不意に、横から声がかけられた。
年齢のよくわからない女の声。
はっと見ると、道ばたに小さな机をおいてそこに座っているフードの人影が一人。
机の上に星図と、いくつかの石が並んでいるところを見ると占い師だろうか。
「い、いや・・・そういうわけでない」
「占い師は人の悩みを聞くのも仕事。話されてはいかがですか」
どこかで聞いたような声だと思った。
クリスチャンのマリアとしては、日本の占いを信じる気にはならない。
だが今は、誰かに話ぐらい聞いて欲しい気分だった。
「そう・・・ね・・・」
「どうぞ、お嬢さん」
そういって椅子を勧められる。
お嬢さん・・・そう呼ばれた記憶はない。
物心ついたときには既にシベリアだった。
あそこでは、他人にかまおうとする余裕のある人間などほとんどいなかった。
考え込んでいるうちに、占い師は星図上の石を並べ替えている。
「失礼ですが、お名前は」
「あ・・・マリア・タチバナです」
普段のマリアなら、ここであっさりと答えてしまうようなことはなかったろう。
そして、周囲に全く人影がいなくなったことに気づかないことはなかったろう。
「それで、何をお悩みですか」
「はい・・・」
なんと言って切り出せばよいのだろう。
それよりも、大神のことをなんと呼んでおけばいいのだろう。
とりあえず・・・。
「私は・・・、信頼したい人がいます」
何とも無理矢理な言い方ね・・・。
何だか言うこと成すこと全て自嘲につながってしまう自分に呆れながらも続けた。
「でも、その人が信頼できるのか、解らなくなって、その人からも拒絶されたんです・・・」
振られたんです、と言いかけた言葉を寸前ですり替えた。
「あまり、これまでひいき目で見てきたということはありませんか」
占い師の目は頭巾に覆われていて見えないが、その目に見つめられた、という感覚があった。
「何か一時のことでその人の評価を上げてみたものの、実際は・・・そんな組み合わせはこの世にいくらでもあるのよ」
やけに、真実めいて聞こえた。
それだけは、やけにはっきりと・・・。
「く、組み合わせ・・・・なんて・・・そんな・・・」
さすがにマリアの頬が赤くなる。
普段なら絶対に余人に見せることのない、無防備な、あまりに無防備な感情。
「その男が、本当にあなたにふさわしいのか、真実を知るべきではありませんか?」
「真実・・・?」
ゆっくりと、星図の上を輝石が動いていく。
その奥に、どこか本当の星が見えたような・・・。
「あなたに倒されるようなら、所詮それぐらいの男だった・・・あなたが気にかけるまでもなかった・・・」
「わたしが・・・・たお・・す・・・、たいちょう・・・を・・・?」
ゆらり・・・。
不意に視界が歪んだ気がしたとき、マリアの、幾多の戦場を駆け抜けてきた身体がとっさに動いた。
「!!」
考えるより先に、懐からエンフィールド改を抜き、占い師に向かって撃った。
ほとんど、殺す気で撃っていた。
「使い古された手を・・・!!」
「さすがだねえ、マリア・タチバナ・・・」
間一髪で避けたのだろう、並の占い師の動きではない。
そして、それ以上に雄弁な、吹き飛ばされた頭巾の下は・・・!
「い・・・生きて・・・!?」
「有効だからこそ、使い古された方法なのさ!もう遅いよっ!」
机の上に広げられていた星図が広がり、マリアの足下から暗闇に引きずり込んでいく。
意識が、閉ざされていく・・・!
「一騎打ちで大神を倒せるのは、帝都におまえ一人だろうさ!その実力、存分に見せてもらうよ!クワッサリー!」
言葉とともに、占い師の背後から青白い炎が飛んできた。
これは・・・。
「た・・い・・ちょ・・う・・・」