「ふう・・・」
身動きするのもつらかった身体がずいぶんと軽くなる。
「大切に使わなきゃいけないんだけどね・・・」
医務室のベッドは病院のベッドを連想させる。
この薬を初めて飲ませてもらったのは、病院のベッドの上だった。
降魔戦争半ばの戦いで、しばらく入院生活となったあやめに、真之介が作ってくれたのがこの薬だった。
−−−−おまえの霊力に合うように作ったから、多分他の人間には大して効かぬだろう−−−−
真之介が行方不明となってから、世界中を回るようになって、どうしようもなく疲れたときはこの薬に頼るようになっていた。
真之介に頼っているような気分は、悪いものではなかった。
その気になれば二日くらいの徹夜はやってのけるあやめだが、今日の会合の連続はいささか疲れた。
だが、疲れただけの甲斐はあった。
帝都に暗躍する降魔の恐怖を脅しの材料にして(決して好んで取った手段ではなかったが)、
華撃団と大神一郎の処遇についての現状維持の決定を引き出したのだ。
少なくとも、帝都の騒乱が落ち着くまでは、今の状態を維持できる。
その大神のことが気にかかった。
今晩は、中型降魔を倒しに行ったはずである。
今の大神なら、何とかなるとの判断で許可したが、それでも危険きわまりないことは確かだ。
「夜食、作ってあげなきゃね」
我知らずつぶやいた言葉で、あやめは体を起こした。
と。
「あ、あやめさん?」
「帰ってきてたんですね」
さくらを背負った大神が医務室に入ってきたのはちょうどそのときだった。
無様に倒れている姿を見られなくてよかったと思う。
「大神くん、さくらまで一体どうしたの?」
大神は一人で魔物を倒しに行ったはずなのに、どうしてさくらを背負っているのか、どうにも話がつながらなかった。
そこでふと、大神の右手にある包みに目が止まる。
ははーん、なるほど。
あやめにはそれである程度状況が読めた。
「それ、お弁当かしら。さくらが作ったのね」
「あ、はい」
「それじゃあ、今夜は夜食はいらないわね」
「あ、すみません・・・」
そう答えて、ふと大神はいやーな予感がした。
降魔に挟み撃ちにされたときも、これほど冷や汗は出てこなかった。
至近距離から、ジト目が突き刺さっているのが嫌と言うほどわかった。
「お、お、が、み、さん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい」
明るく、しかし感情の全く読めない声でさくらが呼びかけてきた言葉に、判決文を待つかのように答えた大神であった。
その恐怖とは裏腹に、耳元近くでささやかれるさくらの声が心地よかったのも確かだが。
「あやめさんに、お夜食作ってもらっていたんですか」
「は、はい」
「いいな、恋人みたいで・・・・!」
「・・・・・・・・・・!!!!!!!!!」
服にしみこんだ冷や汗が、全て凍り付いたような気がした。
傷がかろうじてふさがっただけの脇腹をつねられたらどうなるだろうと、そのときの激痛を想像して大神の足はがたがた震える。
だがさくらは、大神の首に回した力を少し強めただけで、それ以上は何もしなかった。
一気に生気を失った表情の大神を哀れんで、あやめは助け船を出すことにした。
「それより、さくらは怪我でもしたの?」
「あ、そうです。ひどく捻挫しているみたいで・・・・」
あやめの助け船に、これ幸いとしがみついて大神は答える。
「そう言うことは早く言いなさい。さくらを座らせて」
冷却剤と湿布薬をテキパキと取り出すあやめである。
「服もずいぶん汚れてしまっているわね」
さっきまで暗いところにいたせいもあるが、言われてさくらは初めて気がついた。
爆発に巻き込まれたときにだろう、土埃が服のあちこちについて汚れていた。
「大神くん、さくらの部屋から着替えを取ってきてあげて」
「あ、更衣室に替えの浴衣がありますから、自分で着替えます・・・」
言いだしたさくらの額を、あやめは指でこつんとする。
「あんまり、無茶はしないのよ。大神くん、さくらのロッカーはわかるわね」
その言葉がどちらに向けられたものだったのか。
ともかく大神はその言葉に逆らえず、というよりも逆らう気など起きもせず、更衣室に向かった。
大神が出ていったのを確認してから、あやめは改めてさくらに尋ねた。
「怪我をしているのは、ここだけ?」
服を脱がないと処置できないようなところに怪我はしていないか、という意味である。
大神の前でこんな事を聞くような野暮な真似はしない。
「大丈夫です。ちゃんと大神さんがかばってくれましたから」
「そう」
少し嬉しそうに話すさくらを、あやめは微笑ましい目で見つめて、
それから捻挫した足の処置を始めた。
思った通り、大神の処置がしっかりしていたので、大したことは無さそうである。
二三日安静にしておけば大丈夫だろう。
しかし、そう言っても聞きそうにないこともある。
「さくら、大神くんの晩御飯は任せていいのね」
これ以上、自分が作っていたら大神は針のむしろだろう。
さくらとしても、いままで大神が夜食を食べていたと知ったら黙ってはいまい。
「え・・・・あ・・・・は、はい・・・」
さくらとしては、どうしてお弁当の約束をしたことをあやめが知っているのか、不思議に思わないでもなかったが、
聞かれて驚いたまま、素直に頷いてしまった。
何のことはない、あの場でさくらが大神をつねらなかったと言うことから、大体の想像を付けたのだが。
「やるなとは言わないけど、出来るだけ座ってやりなさい」
「はい」
ちょうどそこで大神が戻ってきた。
「じゃあ大神くん」
「はい?」
「しばらくあっち向いてなさい」
大神からさくらの浴衣を受け取ると、あやめは大神の身体を百八十度回転させた。
「ど、どうしてですか?」
「あら、さくらの着替えを見るつもりなの?大神くん」
最後の「大神くん」に何だか妙な説得力を感じながら、大神はそれに従った。
しかし、それでも音は聞こえる。
足に負担をかけないように、あやめが手伝っているようだったが、何度か重なる衣擦れの音に大神はどぎまぎした。
「はい、もういいわよ、大神くん」
言われて振り返った大神の手に、「はい」と手渡されたものがある。
「洗濯籠に入れてきてちょうだいね」
「あ、あやめさん・・・・」
さっきまでさくらが着ていた袴の上下である。
洗濯した後ならいざ知らず、ついさっきまで着ていて、少し汗も染み込んでいる服を大神に触れられるのは恥ずかしかった。
だが、何故だか嫌という言葉が出てこなかった。
言葉を続けられずに、さくらはちょっとうつむいてしまう。
大神は大神で、盛大に混乱していた。
自分の手の中にあるものが、ついさっきまで・・・・・・・・・。
はっ!?
いかんいかんいかんいかんいかん・・・・・・・・・・っっ!
妄想の中に落ちかけた自分の精神を叱りつけるように、頭の中で別のことを考えながら更衣室の洗濯籠まで運んでいく。
えーと、ブロマイド一枚二十銭、大型ブロマイド一枚五十銭、特大ブロマイド非売品・・・。
等々。
「あの、それじゃああたし、部屋に戻りますね・・・」
何となく、その場に居づらくなったのかさくらは立ち上がろうとしたが、やはりまだ痛むらしく、足を床に着けたところで顔をしかめた。
あやめは少し嘆息してから、
「女優は、舞台以外では身体を大切にしなさい」
「はい・・・でも・・・」
それじゃあ、今晩はここで眠るのだろうか。
「はい、あやめさん、終わりましたよ」
「大神くん」
「はい?」
帰ってきた大神の肩にぽんと手を乗せて、あやめはとんでもないことを口にした。
「さくらを部屋まで抱きかかえていって上げて」
「え・・・・」
「え・・・?」
二人の表情が一瞬止まって、
「えええええええええええええええええっっっっっっっ!!!?」
それから盛大に、驚愕のそれに変わる。
「ちょ、ちょっと、あやめさん!」
「真夜中よ、静かにね」
「そうじゃなくて・・・!出来ませんよ、そんなこと・・・」
「あら、女の子に失礼ね、大神くん。さくらはそんなに重くないわよ。ねえ」
「え、ええ」
すました顔でいきなり話を降られて、さくらは動転しながらもつい頷いてしまった。
いつの間にか、あやめに論点をすり替えられたことにも気づかずに。
「あんまり、帝劇の看板女優に無理をさせるわけには行かないわ。お願いね、大神くん。私はちょっと司令室で仕事があるから」
そう言ってあやめが出ていくと、大神とさくらは二人、取り残されてしまった。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
沈黙が重い。
ひたすら重い。
しかし、さくらを歩かせられないのも事実なのだ。
「ええっと・・・」
「あ・・・・」
なんだか、言葉がうまく出てこない。
さっき背負ったときとは、何か感じが違う。
お互い、向かい合ったまましばらくあさっての方向を見つめていた。
「その・・・つまり・・・失礼します。・・・」
「・・・お願いします。・・・」
なんだか、その場と全然合わない変な言い方になってしまった。
大神は訳もなく一礼してから、
さくらの膝の裏に左手を、背中に右手を回して、そおっと抱き上げた。
お互いちょっとびくびくしていたが、実際大神にとってはさくら一人、背負うも抱き上げるも軽いものなので結構安定している。
一安心して、さくらは大神の胸にもたれかかった。
早鐘のようになっている大神の鼓動が、肩越しに伝わってくる。
そして大神も、同じようにしてさくらの鼓動を感じていた。
重なる鼓動に後押しされるようにして、大神は歩き出した。
「副司令が、ひいきしてはいけないんだけどね・・・」
そうつぶやいて、襟元の階級章に触れる。
あのころとは違っている。
今つけているのは、当時山崎真之介がつけていたものと同じだ。
彼と、米田と、そして、
「でも・・・、あの子なら文句無いですよね・・・・。真宮寺大佐」
あれ?さくらくん・・・。
さくらの部屋の前まで来て、ようやく大神はさくらが寝ていることに気づいた。
本当に熟睡している。
これで起こすのはちょっとかわいそうな気がする。
しかし、
「困ったな・・・」
隊員の部屋にはちゃんと鍵がかかっていて、その鍵は本人が保管している。
たぶん、さくらは今浴衣の中に持っているのだろうが、
どこに入れているかもわからないそれを探るなどと言う真似が、出来るはずもなかった。
かくなる上は。
ちょっとごめんね、さくらくん。
ゆっくりとしゃがんで、左手で支えていたところを自分の膝の上に座らせる。
空いた左手で、自分のポケットから少し平たくした針金を一本。
片手で器用に先端を曲げて、鍵穴に差し込んだ。
幸い、それほど複雑な構造ではない。
海軍士官学校の懲罰房と同じくらいだ。
同期の加山に習ったのだが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
数十秒で、かちゃりと微かな音がした。
針金をしまって、そおっと扉を開ける。
なんだか悪いことをしているような気がするが、どこか楽しんでいるような自分がいることも否定できなかった。
もしかすると、本当に覗きの才能と趣味があるのかも知れない、ということは自分の名誉にかけて考えないことにする。
部屋にはいると、カーテンが微かに開いていて、そこから星明かりがさしていた。
そのために完全な暗闇ではなく、深い深い青色に部屋全体が染まって見える。
何度か入ったことのあるさくらの部屋が、全く違う部屋のように見えた。
明かりをつけようかとも思ったが、これくらいの光があれば、大神には十分物が見えるし、
どうせすぐに出るからと思い、つけないでおいた。
まず毛布をどけてから、さくらを起こさないようにゆっくり慎重に横たえる。
「ふう・・・」
疲れはしなかったのだが、ひどく気疲れした。
毛布を掛けてやろうとして、その手が止まった。
深い青に沈みそうにさえ見える身体だが、浴衣から覗く顔や手の肌が、
星明かりに照らされていつもより一層白く輝いて見えたのだ。
見とれなかったと言えば嘘になる。
美しい・・・。
それ以外の言葉が、頭から出てこなかった。
光と闇のなす魔術か、それとも、いつも大神は曇った瞳で見ていたのか。
「ん・・・・」
さくらが少し身じろぎして、そのときに微かに唇が開いた。
可憐な花びらのような唇から、息とも声ともつかぬものが漏れる。
その唇の間から、白い歯が垣間見えて・・・・・・・・・・
「!!!!!!」
ふと気づくと大神は、すっと身を乗り出してさくらの顔に近づいていた。
残り少なくなっていた理性を限界まで振り絞って、壁際までとびすさる。
無音でやるあたりは器用なものだ。
距離を置いてから、ようやく自分の呼吸を落ち着けようとする。
息が切れていた。
お・・・、俺は今・・・・、一体、何をしようとして・・・・。
考えるまでもなく、言い逃れようもなく、答えは一つであろう。
いかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかん!!!!!!!!!
海軍士官学校時代の禁欲的な生活を思い出して、邪念を振り払おうとする。
いやあ、大神ィ、若いっていいなあ。
何故か、ツボにはまったように加山の言葉を思い出して、あまりの情けなさに大神は盛大に自己嫌悪に捕らわれた。
ともかく、未だ頭の中でしぶとく響き続けようとするその言葉を振り払って、
今度はさくらの顔から視線をずらして毛布を掛けようとする。
そうすると今度は、胸元の浴衣の合わせ目をまじまじと見ることになってしまった。
大神の名誉のために付け加えるならば、断じてわざとではない。
しかし、横たえたときに少し浴衣がすれたのか、いつもよりほんの少しだけ開いて見える。
元々押し上げられているところが、さくらの呼吸に合わせてゆっくりと上下し、時折その合わせ目の奥が見えてしまいそうで・・・・・。
な・・・・、直して上げないと・・・・・・・・・・・・・。
熱にうなされたような表情のまま、震える手が延びる。
亀の歩みよりも遅く、しかし、確実に近づいていく。
あと十センチ、
五センチ・・、
三センチ・・・・、
二センチ・・・・・・、
一センチ・・・・・・・・
っって、ちがうだろおおおおおおおおっっっっっっっ!!!!!!!!
ギリギリ、寸前、土壇場、危機一髪、
まあ、それらの修飾語が百個くらい並びそうな状況で、かろうじて理性が叫んだ。
叫びが息だけで、声帯を震わせなかったことに、その判断能力を賞賛してもいいかも知れない。
声になっていたら、恐らく帝劇中をたたき起こすような大声になっていただろう。
そして、おそらく、何をやろうとしていたのか追求されることだろう。
それはともかく、大神は手を引っ込めたはいいものの、半ば錯乱状態を保ったまま、あちこちに視線をさまよわせていた。
関係のないことを、と思い、伝票整理の帳簿の紙面を思い出そうとするが全然うまくいかない。
何か、心を落ち着かせるようなものはないかと思うが、何しろうら若き乙女の部屋である。
そんな目で見れば、混乱に拍車をかけるようなものばかりであった。
このままでは、煩悩に押しつぶされてしまいそうである。
なにか・・・、何か無いのか・・・っ!?
と。
俺の・・・写真・・・?
綺麗に整理されたさくらの机の上の、ちょうど椅子に座るとすぐ目が届く場所に写真立てがおいてあり、 その中には、しっかりと髪の毛のそろった大神の写真が入っていた。
こんな写真、撮ったことあったかな・・・。
正面からの写真なので、隠し撮りされたものではない。
しかし、これまでもブロマイドがなかったことからわかるように、大神は帝劇に来てから一人で写真に写ったことはないような気がする。
身分証明書の写真も、海軍士官学校卒業時のものだ。
背景は、どうやら帝劇の玄関前のようだが・・・・。
思い出した。
黒之巣会を打ち倒し、平和が戻った記念にみんなで撮った集合写真に写ったときが、確かこんな表情だった。
おそらく、事務の誰か・・・由里だと後の噂が怖いから・・・かすみにでも頼んで引き延ばしてもらったのだろう。
しばらく微かに笑いながら眺めてから、置いてあった場所に戻しておく。
さくらくん、こんなものを見せられたら、何にも出来ないよ。
そうっと、今度は迷うことなく肩まで毛布を掛けてやることが出来た。
おやすみ、さくらくん。
言葉にしなかったその言葉を、夢の中で聴いているかのように、さくらは幸せそうな顔で眠っていた。