夕方、大神の仕事が一応一段落したころを見計らって、マリアは大神の部屋のドアを叩いた。
先ほどのさくらの状態はかなり深刻である。
原因は、やはり大神に関すること以外には考えられない。
それにマリア自身、問いただしたいことがあった。
あのとき、本当に大神は覗きをしようとしていたのか。
大神が罪状を否認しなかったので、あのときは間違いないと思ったのだが、考えれば考えるほど疑問が生じる。
そも、覗こうとして失敗したとして、ロビーの上で酸を垂らすだろうか。
あの強力な酸を、貧困状態の大神がどうやって手に入れたというのだろうか。
つるし上げられて大して間もないこの時期に、わざわざこんなことをするだろうか。
結局は、大神を信じたかったのかも知れない。
直接、面と向かって問いただしてみたかった。
「隊長?」
返事がない。
扉に耳を当てて、中の音を探ってみる。
ゲリラ、そして用心棒時代に身につけた能力だった。
呼吸音は聞こえない。
どうやらここにはいないようだ。
「大神はん?見とらんなあ」
「お兄ちゃん、アイリスも探しているの」
「一時間ぐらい前までここで伝票整理をしていたんですけど・・・」
「ここ二時間ぐらいは、サロンを通っていませんわよ」
結論。
現在帝劇内にいない。
そこで思い出したのは先ほどの放送だ。
向かうのは支配人室である。
「支配人、失礼します」
「お?どうした、マリア」
米田はいつも通り酒を片手にしていた。
しかし、この姿が真実の時と覆面の時があることをマリアは知っている。
「隊長を捜しております。支配人、御存知ではありませんか」
マリアの言い方は、確実に知っているでしょう、と言う口調であった。
米田は、知らぬでは通せないと判断した。
「ああ、大神なら今、海軍に話に行かせてるぜ。ついでに酒も買ってこいって命令してあるがな」
「海軍、ですか?」
「おう、内容は、まあ、いろいろだ」
つまり、機密であり教えられない、と言うことである。
これは二重の障壁の効果を持っている。
秘密がある、と言っておいて、さらにその裏に真実を隠しておけば、たいがいの人間の注意は、
表向きの機密に向かい、その裏までは詮索しない。
「私でも、ですか」
「おう、悪いな」
これ以上は話せないぜ、とばかりに、米田は杯に酒を追加した。
「わかりました。失礼します」
マリアが扉を閉め、さらに遠ざかっていくのを確認してから、米田はふっとため息をつく。
「気をつけろよ。大神・・・」
その目は、少しも酔っていなかった。
ギィ
まずは手近なところからと、銀座の裏通りに入って探索したところ、いきなり遭遇してしまった。
紫の外骨格を持った、小型の魔物である。
野良犬を蹴散らして残飯を漁っていた。
それは、帝都の環境に適応しつつあることを意味する。
大神は霊力を周囲に張り巡らせて、簡易的な結界を作った。
見つけた所を逃げられてはどうしようもない。
ここ数日の付け焼き刃だったが、思いの外上手くいった。
「覚悟してもらうぞ」
花組の隊員たちの前では決してみせることのない、冷徹な表情だった。
大神に気づいた魔物は飛び去ろうとするが、結界に阻まれて空中で停止した。
ザシュッ
大神の振るう二刀が魔物を捕らえる。
だが、命中したものの、傷が浅い。
込める霊力を低く抑えてみたら、この様である。
小型であっても、存外に手強い。
逃げられぬと悟ったらしい魔物は、鉤爪をふるって大神に飛びかかってきた。
しかし傷ついている状態で動きも遅く、大神はこれを難なく受け止められた。
ググッ
「!」
しかし、左の刀で止めた魔物の爪がそこからさらに大きく伸びた。
伸びたように見えたのではない。実際に、魔物の身体の倍以上の長さに伸びたのだ。
それでも、すれすれでかわしきった。
かわした動きをそのまま円に変え、右の刀で今度こそ魔物を切り捨てた。
切り捨てた瞬間、魔物の身体はバッと液体の塊に変わる。
こうなれば、確実に倒したことになるのだろう。
大神は結界を解き、刀に付いた液体を拭き取って鞘に収める。
この程度では、苦戦してしまうか・・・。
全力を出せばそれこそ一瞬で倒すことも可能だろうが、これから見回りを続けるとなると、あまり力を使うわけにもいかない。
かといって、力を抑えすぎれば苦戦を強いられる。
それに、個体差がやけに大きいのが気になった。
帝劇で倒した魔物は酸を吐いてきた。
この魔物は、鉤爪を自在に振るってきた。
魔物と一口に言っても、どれほどの種類があるのだろうか。
ひとつひとつを倒していく中で、それも学んでいくしかないのか。
それにしても・・・、帝都にこんな面があったのかと思わされる。
銀座の華やかな表通りからは想像もつかない、薄汚れた街並みだった。
汚れているのは建物の壁や道だけではない。
取り巻いている大気の臭いが、どす黒さを感じる。
魔物が実体していても何ら不思議はなかった。
しかし、こんな所にでも生活している人間はいるのだ。
大神は周囲の人間の気配に気づいていた。
窓の影から、曲がり角の影から、ゴミ箱の影から、いくつもの視線を感じる。
この区画にあって、大神はかなり目立っている。
いつものモギリ服ではなく、鼠色の目立たないような服装に着替えてはいたが、身に纏った雰囲気が根本的に違っていた。
野良犬ではなく、研ぎ澄まされた狼の牙を彷彿とさせるその気配は、気高ささえ感じさせた。
もちろん、大神自身にはそんな偉そうな気配を纏っているという自覚は全くない。
だが、いつも帝劇の入り口でハサミを握っているときとは違う感覚ではいたが。
どちらかというと、周囲の視線達の方がそれを実感しているだろう。
視線達は、この来訪者を諸手をあげて歓迎しているようでは無かったが、魔物を倒したことを責められているようではなかった。
視線の中には、少々の疎外感はあっても、敵意はなかったから。
ここも・・・、俺が守るべき帝都なのだ・・・・。
それを、忘れずにいたいと思った。
ここにいる人たちにも、光溢れる帝劇の舞台を見せてやれたらとの想いが頭をよぎった。
どうやら、この周囲にはもう魔物はいないらしい。
この街並みを瞳に焼き付けつつ、大神は次の巡回地点へ向かうことにした。
去る大神の後ろ姿に、数々の影がそっと礼をしたのを、大神は気づかなかった。
午後十時前、見回りの時間が来る前に、大神はこっそりと帝劇に帰ってきた。
外出していたことを出来るだけ悟られないように、裏の非常口から入り込んだ。
花組隊長の権限で、ここの合い鍵は渡されていた。
隊長室には行かず、紳士用化粧室へ入り込み、置いておいたモギリ服に着替える。
ここならば、さすがに花組の面々に見つかることはない。
そして、午後十時。
懐中灯片手にいつものように、しかし腰には小太刀を携えて夜の見回りをしているモギリの大神一郎の完成である。
「隊長・・・、戻ってきたのですか」
二階ロビーを見回りしていると、一階から微かに棘のある声がかかった。
「やあ、マリア、どうしたんだい。こんなところで」
確かにこの時間に玄関近くにいる理由はそう無い。
「隊長が帰ってくるのをお待ちしていたのですが、裏口から帰ってこられたのですね」
口調は丁寧だが、言葉のそこかしこに鋭さが感じられる。
あなたが帝劇から外出していたことを知っています、ということを言外に匂わせていた。
「べ、別に今日は覗きなんかしていないぞ・・・」
「そうですね、ここから隊員たちの部屋まではずいぶんありますからね」
どこか会話が噛み合わない。
大神を追いつめようとするマリアの瞳には、不信ではなく、不審の色があった。
巡回の時の緊張感がまだ残っていた大神は、それに気づいた。
「こんな所に酸を垂らしても、覗くことは出来ませんよね」
前奏は終わりとばかり、一歩大神に詰め寄る。
感づかれたか・・・・。
大神は心中で舌打ちした。
さて、ここをどう切り抜けるか。
これでは、道化の仮面をかぶる真似はもはや通じないようだ。
「一体、ここで何があったのですか?」
黙っているだけの大神にいらついたようにマリアはさらにもう一歩詰め寄った。
さすがに迫力がある。
しかし、今の大神はこれに気圧されることはなかった。
「女の君には関係のないことだ」
あえて、「女の」というところに力を込めて言った。
大神がこんな女性蔑視を思わせる発言をすることは今まで一度もなかった。
さすがに、マリアの眉が跳ね上がる。
「・・・どういう意味ですか・・・?」
「そのままの意味だよ、君も消灯時間までにちゃんと部屋に戻ってくれ」
近づいていたマリアのすぐ横を通り過ぎざまに、甘やかすような口調で言葉をかける。
「隊長!」
激昂したマリアが振り返ると、そこには既に大神の姿はなかった。
「いつの間に・・・」
まさか、こんなわずかな一瞬で逃げられるとは。
マリアは手袋の中で拳を握りしめる。
しかしこの行動は、やはり大神が腐抜けてはいないことを意味している。
「隊長・・・、あなたは何をしようとしているのですか・・・」
今この場だけではなく、大神に置いてきぼりにされるような気がした。
「あー、危なかった・・・」
手際よくそのあとの見回りを終えて(花組隊員たちの部屋周りは未だに入らせてもらえなかった)、自分の部屋に戻ってようやく一息ついた。
しかし、まだ終わりではない。
これからあやめへの報告である、という意識は実はあんまり無い。
やっと夜食にありつけるという意識の方が強かった。
「あやめさん、大神です」
「開いてるわ、入りなさい」
「失礼します」
扉を開けると、まずおいしそうな匂いがした。
お盆に載せて、おにぎりが五つといろいろなおかずが大神を待っていた。
「先にお食べなさい、お腹空いているでしょう」
「はいっ!ではいただきますっ」
言い終わるか終わらないかの間に、おにぎりが一つ大神の口の中に入っていた。
「あれ、あやめさん。その格好・・・」
嚥下してからようやく気づいたのだが、あやめはいつもの陸軍服ではなく割烹着姿であった。
夏の特別公演の時に一度見たことがあったが、こうしてみるとやはり新鮮な感じがする。
「さすがに軍服でご飯を作るのはどうかと思ってね。おかしいかしら」
「い、いえ・・・、とても似合っていると思います」
「ふふっ、ありがとう」
さてさて、ともかく大神は見ている方が気持ちよくなるくらいの見事な食べっぷりで盆の上を全て空にしていった。
「ごちそうさまでしたっ!」
「味なんてしなかったんじゃないの?」
「いえ、すごくおいしかったです」
即答する大神の笑顔にあやめはすこし寂しそうに笑った。
あの人は、いつも面と向かってはひねくれた言葉しか言わなかったっけ・・・。
でも、裏では、いつも旨いと言ってくれていた・・・。
「あやめさん・・・、どうしたんですか?」
大神が不思議そうに尋ねた声で、あやめの意識は今に戻った。
「ごめんなさい、少し考え事をしていたの。それより、そろそろ報告をしてもらいましょうか」
このあたりの逃げ方はさすがに世慣れている。
報告書類を取り出して、日付を書き込んで促す。
大神はお茶を飲んで落ち着いてから本日の顛末を話し始めた。
「・・・というわけで、五時間で三体の魔物と遭遇したことになります」
「そうね・・・、大河原さんも回ってみたけど、一日一回ぐらいしか遭遇しなかったと言うわ。
大神くん、どんな方法で探したの?」
「こうやってみました」
座ったまま、大神が呼吸をすっと整え始める。
その身体から、霊力が流れてくる。
「・・・、なるほどね」
大神の霊力は、波動となって放たれているのではなく網目のように部屋中に張り巡らされている。
「じゃあ問題。この部屋のどこかに硯があるんだけど、何処にあると思う?」
「・・・机の引き出し、左手前の所です」
「大正解だわ。視覚に近い感覚なの?」
「視覚と触覚の間のような感覚です。今のは、あやめさんが字を書いている姿を連想して探したんです」
これには驚いた。大した能力である。
「海軍士官学校で習った、と言うわけではないわね。いつ身につけたの?」
「それが・・・、劇場で迷子を探しているといつの間にか出来るようになりました」
がくっとなるのをなんとかこらえた。
まるで予想していなかった答えである。
しかし、この劇場の真の意味を考えればあり得ない話ではない。
まだ大神にも話していないが、この帝撃は帝都でも最大級の地脈の集中する場所に立っている。
そこで帝撃の奥に眠る祭器を守護すべく、神楽を奉納するこの劇場はある種の神殿と言ってもよい。
大神は、この神殿の門番である。
ここに渦巻く人知を越えた力が、大神に何らかの変化を起こしても不思議ではなった。
「・・・頼もしいわね」
考え直して、それだけを口に出す。
「では、これからもう少し回ってきます」
話が終わったと、大神は立ち上がった。
「あまり無茶はしないようにね。あなたの霊力も無尽蔵ではないのだから」
「はい」
消灯時間が過ぎてから、さくらは一人でこっそりと厨房に入り、虚ろな目で食べてもらえなかったお弁当を片づけていた。
「・・・大神さんの・・・ばか・・・・」
そうつぶやいたとき、どこかで物音がした。
外を、何かが通り過ぎていったような気がした。
その姿は・・・・。
「大神さん・・・?・・・まさかね・・・・」
自分の想いが作り出した幻影でも見たのだろう。
幻影でも、会いに来てくれればいいのに・・・・。
未練がましく幻影の通り過ぎた先を、立ちつくしながら見つめていた。