虚ろなる貴方無き世界
追憶其の七
第七章 今は亡き盟友
|
「駄目か……」
主戦場からやや離れたところ……といっても高度差の方が大きいが……にあるミカサの第一艦橋で、北村隆彦海軍少将は考えあぐねていた。
概ねのやり方はわかった。
第二艦橋はいざというときのためにその周辺もろともミカサ本体から分離できるようになっているらしい。
これなら集まっている将官たちを脱出させることが出来る。
しかし、その作業が問題だ。
想定艦隊人員36名と自動制御出来る部分が多いミカサだが、それらはまだ未完成であって、自分がしようとするような規格外の動作まで自動制御で行うのはほとんど不可能だった。
どう少なく見積もっても、あと五人……いや、八人はいるだろう。
そして、独断で動いている彼には今、自分の手しかなかった。
さらに心残りがある。
出来るものなら、このミカサだけではなく、あの巨大降魔もろとも倒してしまいたい。
二兎を追うもの一兎も得ずの格言に従って、ミカサだけに絞り込んだつもりだったのだが、宿営地で繰り広げられている巨大降魔との戦いによる凄まじいばかりの轟音はこの第一艦橋をも振るわせていた。
「まさか、自らここまで出向いてくれるとはな……」
その巨大降魔に、一度は夢を賭けたのだ。
巨大降魔とその配下の降魔たちをもって無敵にして人的犠牲の無い軍団を作り、大戦に明け暮れる世界を制覇する。
自分と、二将の乱の主役となった粕谷陸軍少将とで共有した夢だ。
だが今にして思えば、よくあんなものを御しようなどと思ったものだと自嘲せずにいられない。
響いてくる轟音、そしてこれだけ離れていても感じさせる威圧感。
改めて思う。
あれは人がどうにか出来るものではない。
倒せるのなら倒しておきたい。
側洞の奥底からここまで来てくれたのは好都合だった。
だがどちらにしても今のままでは何もできない。
まるで道化だ。
自分の人生の終わりにと思っていたことすら出来ないとは。
ふと、複数の足音が近づいてきていた。
さきほどミカサの主放送を使ったのだから、自分の侵入は司令部に完全に知られているはず。
おそらく畑中総司令官が自分を捕まえるために何人か派遣してきたのだろうが、捕まる前に自害するべきか……。
結論が出る前に足音たちは姿を現した。
「……お前たち……」
てっきり陸軍の兵だと思っていた来客は、意外にもよく見知った顔たちであった。
二将の乱に加担したことで左遷される前の部下たちと、左遷された先の水運局まで一緒だった部下たち。
すなわち、自分が粕谷陸軍少将とともに降魔空軍の計画を練っていた頃、秘密を共有していた腹心の部下たちだった。
「お一人で隠密行動とは閣下もお人が悪い」
「何故我々にもお声をかけて下さいませんか」
「……搬入作業にもぐりこんだのか」
彼らはこの大空洞への突入部隊には選ばれていないはずだ。
それなのにこんな大空洞の底まで来ているとすると、北村自身がここに侵入するのに利用した補給物資の搬入に紛れ込んできたのだろう。
対魔装備も無しに大空洞に入るだけでも危険きわまりないというのに、
「あの中で搬入する荷物が十個やそこら増えたところで、誰も怪しみませんからな」
年齢だけなら北村と一つ違いの矢船中佐がしゃあしゃあと言ってのけて笑う。
「全員帰れ。これは軍の正式な作戦ではない」
北村にとっては涙が出そうになるくらい有り難かったが、この十五人をこれからの作業につき合わせるわけにはいかないのだ。
単に巨大降魔に対抗するためだけにここにいるのではない。
表情をことさらいかめしく作って命令したのだが、
「ほう、つまり閣下は反逆者だと。
そうすると我々がその命令に従う義務はありませんなあ」
「……こいつめ」
これは一本とられた。
「さあとっとと指示を出して下さいよ。
命令に従う義務はなくても義理は十分にありますからな」
そこで大空洞全体が大きく鳴動した。
それも、大空洞のさらに底の方からだ。
何かが起ころうとしている。
仕方がない。
先ほど調べたところでは、ここから脱出する手段が無いわけではないから、それまでは彼らの心意気に頼らせてもらおう。
「谷口は五番卓で周辺装備を制御、
稲崎は二番卓で火器の搭載量を調査、浜岡も稲崎と一緒だ。
それから……」
轟音ではない。
あえて喩えるならそれは降魔たちの叫びに似ていた。
真之介の身体から放たれる黒い炎が強くなっていくのにあわせて大空洞全体が鳴動する。
元来地上よりもはるかに濃かった、空間に満ちる妖力がさらに強くなる。
降魔たちは一層騒ぎ立てて、どこか、それとは正反対の賛美歌でも歌っているかのようにも見えた。
真之介を中心にして、地脈に幾筋も霊力……いや、妖力の奔流が走る。
膨大な、ここまで巨大降魔が使ってきた術に匹敵するほど……あるいはそれ以上かもしれない力だった。
「これは……この前のときの比じゃねえぞ……!」
前回真之介の身体が北条氏綱の霊魂に乗っ取られたときでさえ、これほどではなかった。
これはどういうことだ。
氏綱の魂はずっと真之介が押さえ込んでいたのだから、そこまで強大化するような余地は……。
「これは……」
春日方術士団長は茫然とつぶやいた。
この力は、どこからか流れ込んできているようにも見えたのだ。
響き渡る鳴動は、ここよりもさらに地下から発せられているように聞こえる。
そこで、恐ろしいことに思い至った。
まさか……、聖魔城か……!?
聖魔城。
幻の大地大和に築かれた、北条氏綱の居城のことだ。
四百年の昔、降魔実験の失敗によってこの世の地獄と化した城は、数万もの人々とともに東京湾に沈められたという。
だが考えてみれば東京湾は、深いところでも水深五百メートルにも満たない。
海に沈めた程度では封印にならないだろう。
実際には東京湾の海底の、さらに奥底に封じられているはずである。
そうすると聖魔城は今、東京湾海底のさらに地下……この大空洞の近くにあるということになる。
瞬時に導き出された自分の推論に、春日は身震いした。
今、真之介は……いや、北条氏綱の魂は、自分の居城と呼び合っているのでは……!
気がつけば、大型中型小型の降魔たちは暴れるのを止めて整然と整列している。
それはまるで、帝の帰還を迎える近衛兵のように見えた。
その中で、真之介の身体は悠然と、傲然と宙に浮き、全てを見下ろしていた。
冷たい。
その視線を、一馬はそう感じた。
普段からにこやかな表情などとはほど遠い顔をしているのが山崎真之介という男だが、それでも若い研究者として、一人の青年としての情熱は常に感じさせていたものだ。
だが今は、強大な意志を秘めたその瞳に、人間らしさはまるでない。
視線をぐるりと一周させると、静かに、宙を滑るように移動し始めた。
「山崎!」
「真之介君!」
米田や一馬の叫びにも何も応えない。
それを見た春日は悩んだ。
この場は完全に巨大降魔の狙い通りに動いているらしい。
放っておけば壊滅的な事態……最悪の場合は聖魔城の復活を招くだろう。
対降魔部隊と激突することを覚悟で、山崎真之介をこの場で封印すべきか……。
もっとも、それすらも果たして可能かどうか……!
しかし、米田はまだ諦めていなかった。
「あやめくん、頼む!」
自分や一馬では無理でも、あやめの叫びならまだ届くはず。
そういった真之介の現金さには確信があった。
だが、肝心のあやめの様子がおかしい。
喉と胸を押さえて地面に転がっていた。
何事かと思い、米田が周囲に視線を巡らせると、この騒ぎの中で静かに傍観していただけであった巨大降魔が、あやめに向けて手の平を大きく開いている。
酸素を遮断しているのか、それとも大気そのものをせき止めているのか解らないが、ともかくあやめは呼吸すらままならぬ状況に追い込まれているのだ。
米田は駆けつけたものの、手の打ちようがなかった。
これでは声など上げられない。
しかしあやめは酸欠で薄れ行く意識の中でも、黒い炎に身を包んだ真之介の姿が徐々に遠くなっていくことだけはわかった。
行かせない……。
あいつを一人にしたら、どんなことしでかすか解ったものじゃない。
そしてそれは、自分自身も同じことだった。
真之介がいなくなってもなお生きていける自信はない。
真之介……!
魂を振り絞るようにして、心で心に呼びかける。
行かないで……、真之介……、
真之介…………!!!!
光が、走った。
直後に響く激突音。
不意にあやめの呼吸が楽になった。
同時に、はるか底から響いていた鳴動が止まった。
黒い炎を纏ったままの真之介が巨大降魔に突撃したのだと、目の前の光景を見てかろうじて理解した。
あの巨大降魔が背を地につけて倒れていて、その上空に真之介が浮かんでいる。
「真之介……?」
自分の声にならぬ声が届いたのだという確信はあったが、宙に浮かんだままなおも真之介は絶叫している。
「オオオオオオオオオッッッ!!」
少なくとも、真之介の叫びのようには聞こえなかった。
その真之介へ、巨大降魔が炎を吐きつける。
真之介は黒い炎を全面に展開して相殺する。
巨大降魔はその間に体を起こすと、自らの周囲に猛烈な風を起こして宙に浮かび上がる。
そして、激突が始まった。
「第二艦橋の切り離しは出来そうか」
「はい、緊急用回路ですがかろうじて動作する模様です」
「……いつでも分離できるようにしておいてくれ」
「はっ」
北村少将が何を意図してその指示を出したのか、制御卓の小出中尉は何も尋ねなかった。
「それから、脱出用パラシュートを十五……いや、十六用意しておいてくれ」
空中戦艦であるミカサから脱出するためには、通常の戦艦のようなイカダは役に立たない。
最近ようやく実用化されつつある飛行機用に考案されたパラシュートが、緊急脱出用として搭載されているはずであった。
しかし、
「ありません」
周辺機器制御をしていた谷口大尉が即答した。
「そんなことはない。あるはずだ。もう一度確認してくれ」
「閣下。そのパラシュートをいつ、誰につけさせるおつもりでしたか」
悟りきったような谷口の口調に、北村少将ははっとなった。
「おまえたち……まさか……」
「妻子や親のある者らは残して参りました。
本音を言えば、閣下もここから叩き出さねばならないと思っておるのですが」
矢船中佐はそう言ってふっと笑った。
「ご自分の部下をあまり見くびらないで戴きたい。
密かに閣下の調査している書類の写しを取って調べるくらいのことは出来ますぞ」
「かつて閣下と粕谷少将とともに、未来を共有させていただいた我ら一同」
「冥土へのお供いたしましょう」
降魔軍を以て亜細亜も欧州も全て平定してうち立てる平穏なる未来を、確かに夢見ていたのだ。
だが結果的にはその未来予想図が、二将の乱とそれに引き続く巨大降魔の解放につながった。
北村がそのことに責任を感じたのと同様に、彼らもまたこの国に対する責任を果たそうとしてここに集ったのだった。
北村はもう、自分には彼らを止める資格がないことを悟った。
彼らをここまでつき合わせたのは、他ならぬ自分自身なのだ。
同行しようという彼らを止められるはずがない。
「……済まぬ……!」
男たちが頷きあったその次の瞬間、ミカサ全体が大きく揺れた。
「確認せよ!」
「はっ!」
全員が即座に卓に向かい直す。
電影盤にミカサの周辺映像が次々と映し出された。
「巨大降魔です!奴がこのミカサに激突した模様!」
「我々の動きを察知したというのか!?」
巨大降魔の襲来を感知した後、宿営地で戦闘が繰り広げられていたところまではこの第一艦橋の搭載設備で調べることが出来た。
その宿営地とミカサとは、岩盤一枚隔てているだけである。
巨大降魔がその気なら、そんな壁など破壊してしまいかねないが、
「いえ、どうやら戦闘中の模様……」
電影盤に映る巨大降魔の様子は、ミカサにぶつかったというよりも叩きつけられたといった方が正しい。
「!相手はやはり……」
「はっ、山崎真之介のようです!」
その巨体が、ゆらりと立ち上がった。
無傷ではないが、シルスウス装甲板に覆われているミカサに激突したというのに、それほど動きに支障はないらしい。
「あれでも倒れねえのか……」
米田は絶望的な思いでつぶやいている自分を否定できなかった。
真之介は今おそらく北条氏綱の魂を意図的に暴走させつつ、ギリギリのところで自分の意識を残してその戦闘能力を巨大降魔に叩きつけているはずだった。
それは危険すぎる賭けである。
真之介の意識が押し切られれば、もう一度逆転できるあてはあるまい。
つまり、押し切られたときには、疲弊していない完全な状態の氏綱が復活するおそれが高い。
だがそれでも真之介は、氏綱を封じ返さなかった。
生半可な方法では巨大降魔は倒せないと、ここまでの経過で悟っていたこともある。
しかし、真意は別の所にあった。
巨大降魔の向こうに垣間見える存在への反発心があった。
その策を逆手にとって、打ち倒してくれる。
あいつの思い通りにはならん……!
頭の中からなおも消えぬ死者の声に抗うように、真之介は巨大降魔に向かって光刀無形を振るった。
「春日、おめえさんが狙っていたのはこういうことかい」
米田すらも荒れ狂う妖力の激突に手が出せずに傍観するしかなかった。
丁度近くにいた春日方術士団長に、納得したように声をかける。
この戦いが始まる前に春日は、いざとなれば巨大降魔と氏綱を激突させてでも、と言った。
巨大降魔が直接出向いてきたことによって彼の立てていた計画のほとんどは日の目を見ることなく破棄するしかなかったのだが、今のこの状況は彼が考えていた計画に沿っているともいえる。
「……そうです。ですが……」
巨大降魔があれほどまでとは思わなかった。
その言葉を春日は飲み込んだ。
氏綱が出現するにしても、真之介の魂を打ち破るために相当疲弊することを期待していたのだ。
しかし、今の氏綱は真之介によって暴走させられている。
それでも巨大降魔は、容易に倒れない。
春日が飲み込んだ言葉を察し、米田も唇を噛んだ。
「ガアアアアッッ!!」
光刀無形が黒い光と炎を放ちつつ、衝撃波が立て続けに巨大降魔に襲いかかる。
本来の真之介の最高必殺技に近い威力の攻撃を、巨大降魔はなおも受け止めた。
次いで湧き起こる水流。
さらに、
『あれはっ……!』
米田と一馬、そしてあやめはぞっとなった。
その水流を伝うようにして巨大降魔の手に剣のような稲妻が出現し、真之介を直撃したのだ。
地面へ叩きつけられた真之介に向かって、止めだと言わんばかりに巨大降魔が第二撃を振りかぶる。
「やめてええええっっっ!!」
そこへ、轟音が響き渡った。
誰もが耳を押さえて何が起こったのか把握しようとする。
見ると、巨大降魔の肩から煙が上がっている。
さらに目を凝らしてみれば、そこに砲弾がめり込んでいた。
シルスウス鋼弾ではないだろうが、それでも大きい。
あれだけの弾を撃つには、持ち込んできたカノン砲では不可能だし、そも持ってきていないはずだ。
そうすると答は一つ。
最大口径三十センチになるミカサの側砲だった。
「初弾命中!!」
ミカサの第一艦橋が沸いた。
この世で出来るだけのことはやっておきたい。
機会を伺っていた北村少将の執念が実った。
「次弾装填を急げ!」
シルスウス鋼弾ほどの威力は望めないが、いかに巨大降魔でも大質量体の力積を丸ごと無効化できるわけではない。
北村は小田原戦役において、相模湾に浮かぶ戦艦から主砲を放って大型降魔を何体も倒している。
砲術卓につかせた浜崎大尉はそのときの砲術隊長だ。
未だミカサは完成前の段階なので、連続斉射出来るほど多くの砲弾があるわけではないが、それでも巨大降魔に傷を負わせられるのだ。
「シルスウス鋼弾は届きそうか?」
「主戦場の砲兵と連絡がつきました!もう少しかかります!」
北村の配下はここにいる者等だけではない。
家族や妻子があるために第一艦橋へはせ参じることを矢船中佐に止められた者たちが、第一艦橋と通信しつつ主戦場を回り、発射できなくなっているシルスウス鋼弾を移動させ始めていた。
巨大降魔は余りに大きすぎるので、三十センチ弾であっても倒しきれるような傷は与えられない。
決定的な傷を与えるにはやはりシルスウス鋼弾が必要だった。
門脇大将が、いざという時のために対魔カノン砲の砲弾規格をミカサ搭載の高射砲と互換性を持たせておいてくれたので、使えるはずだった。
しかし、おそらくそれでも倒すには至らないだろうと北村は思う。
シルスウス鋼弾だというだけで倒せるくらいならば、先ほどの山崎真之介の攻撃でも倒されているはずだ。
もっと決定的な何かがいる。
北村は第二射の命令を下しながら考え込んでいた。
絶対的な威力を持った攻撃が……。
「!!」
そこで自分が何をしにここまで来たのかを思いだした。
そうだ、おそらくこれならばいかに巨大降魔でも倒せる。
しかも一石二鳥のこと。
「外にいる者の中で一番階級の高い者につないでくれ!」
ここで、外にいる、というのは、艦橋に来ていない北村の部下の中で、と言う意味である。
矢船中佐が抜け目無く外に残る者等に通信機を運ばせておいたのがここでも幸いした。
外でシルスウス鋼弾の運搬作業を行っていた町田中佐と連絡が取れた。
「おまえたちは無事か。うむ。
近くに米田中将か春日士団長はいないか?
ああ、彼に伝えて欲しいことがある……」
危険に過ぎると止める一馬の手を振りきって、あやめは駆けだしていた。
目指すは真っ直ぐに真之介である。
巨大降魔の電撃剣の直撃を受けて地面に叩きつけられた真之介は、身に纏った黒い炎が途切れかかっている。
どちらにも考えられる状況だった。
氏綱の魂から解放されようとしているのか、それとも……真之介が氏綱もろとも力尽きようとしているのか……。
どちらにしても、真之介は無傷ではない。
駆け寄ってみると、当たって欲しくなかった方の想像が当たっていた。
既に意識はなく、呼吸もおぼつかなくなっている。
ぐずぐずしてはいられなかった。
心霊術士として開業している真田には及ばないが、あやめも心霊治療の基本くらい心得ている。
なんとか治そうと思って手を伸ばすと、未だ残っていた黒い炎が反応してあやめを弾こうとする。
「どきなさいよっ!」
真之介に取り憑いたこの存在には、これまで何度か助けられてはいる。
それでもあやめには恐れと嫌悪感があった。
氏綱の魂に真之介を奪われてしまうという恐れが。
こいつなんかに負けてなるものかと、火傷を負うのも構わずに真之介の身体に触れる。
「くっ……」
手を離そうとする脊髄反射を無理矢理押さえ込んで自分の霊力を注ぎ込む。
清浄の巫女の称号は伊達ではないのだ。
氏綱の炎を鎮めつつ真之介の傷を目につくところから治していく。
むしろ恐ろしいのは、自分の霊力が、魔に近い真之介そのものを消し去ろうとしてしまうのではないかということだったが、どうにかうまく行ってくれそうだ。
黒い炎の勢いがさらに弱まるのとともに、真之介の目の焦点が合ってようやくいつもの表情に戻ってくる。
「よせ……あやめ……」
かろうじて漏らした声も、確かに真之介のものだった。
未だ炎を放っている自分の身体からあやめの手を引き剥がそうとするが、ここはあやめも従う気はない。
二人ともに、自分の代わりに相手が傷つくことを我慢できなかったのだ。
てこでも蒸気機関でも動きそうにないあやめの目を見て、真之介は言葉を変える。
「今のオレ達では奴を倒せん……、こいつを使わなければ……」
「こら」
こつんと、額に額を当てて真之介の言葉を遮った。
両手がふさがっているからということもあるけれど、当てたまま間近で瞳をのぞき込む。
「いつからそんなに弱気になったの、天才科学者。
まだ負けた訳じゃないでしょ。
私たちはまだ力を全部尽くしたわけじゃない。
なんとかするの。
私たち自身の力で」
諭された真之介の瞳に確かな、氏綱とは違う意志が宿るのを確認して、あやめはそっと額を離した。
お互いのぬくもりをそこに残しつつ。
すでに黒い炎は押さえ込まれていた。
冷静さを取り戻した真之介は、自分がミカサ横に移動させてきた主戦場を見渡してみる。
ミカサ側砲が続けて火を吹く中を、巨大降魔はいくつかを食らいながらも宙を舞ってミカサへ反撃し、既に半分の砲を黙らせていた。
もっとも、その動きは全力ではないようだ。
真之介や、隙をうかがっている一馬や米田への注意をなお怠っていない動きだった。
しかし今さら対降魔部隊の力を結集しても、せいぜい弱らせることが出来るかどうかだろう。
何か……。
助けを求めるように泳いだ視線は、視界を大きく占めるミカサに当たる。
このあたりはミカサ中央よりやや後部よりでメインエンジンに近く、だからこそそれを防御するための側砲も揃っているのだ。
メインエンジン。
「打つ手は、まだある……」
自分が思いついたことの内容に慄然としつつ、真之介はつぶやいた。
そのとき真之介が思いついたのと同じ内容について、北村少将は通信で春日方術士団長と話していた。
「確かに巨大降魔を封じるための封印陣は準備している。
だが今のまま仕掛けてもおそらく奴には通用すまい。
それに……もし成功したとしても、奴に破られぬ保証はない……」
春日は通信機に向かって苦しげにうめいた。
認めたくない事実ではあるが、冷静に考えれば考えるほどそういう結論しか出てこないのだ。
元々巨大降魔が強大であることは予想していて、それを凌ぐほどのものをと想定して準備を始めた封印陣だが、奴はそれらの予想を全て凌駕してくれたのだ。
いくらなんでもこれほどまでだとは思っていなかった。
わかっていたらあれを持ってきていたかもしれないが、それはこの場では無い物ねだりだ。
そして先ほどの状況を見る限り、儀式もまた不可能だろう。
絶望しかかっていたところだったのに、しかし北村の声は意外なほどに明確な活気を持っていた。
両軍協議会のときの死人のような様子が嘘のようだ。
『こちらはもうじきシルスウス鋼弾による攻撃を開始する。
何とか奴を弱らせたところを、一日……いや、半日保つ封印でいい。
ミカサの中に奴を封じて欲しい』
「中……だと?格納庫にか?」
『通風口……メインエンジンのすぐ近くだ』
それが意味するところを理解するまで春日は二呼吸ほど要した。
「星龍を、自沈させるつもりか……」
ミカサを嫌っている彼にしてみればある意味では願ってもない申し出である。
しかし、膨大な人員と時間と予算を注ぎ込んだこれを自沈させるなどという暴挙が認められるわけがなかった。
例えばそれは、陸海軍の首脳達であり、
例えば、その内容を考えていて春日のつぶやきを耳にした開発者の一人がだ。
ミカサを、自沈させる……。
考えを必死でうち消そうとしていた所に、他人の声で外からその考えを突きつけられた真之介は恐怖に近いものを覚えた。
真之介が関わったのはミカサの最終段階、まさにそのエンジンである霊子核機関についてである。
霊子工学者、技術者としての腕を見込まれた開発陣に三顧の礼で頼み込まれて、霊子甲冑の開発を棚上げにしてまで取り組むことになったのだ。
その危険性をうすうす感じつつも、志半ばで逝去した尊敬すべき前任者の遺志を受け継ぎ、技術者として全身全霊を尽くした。
仕事仲間が技術者という同じ人種だったこともあり、物体への思い入れの少ない真之介としては別格ともいえる思い入れが、ミカサに対してあった。
それゆえ、その場の最善の策として論理的に思いついた内容は、感情が納得できることではなかった。
「……真之介?」
「ミカサを……、壊す……」
魂が失われたような様子ではあったがその声は間違いなく真之介の声だったので、あやめは一安心した。
しかし、それはどういうことか。
耳を澄ましてみると、それに関係した会話が聞こえてきた。
『飛ぶこと以外はほとんどこちらで制御できる状態にある。
だが、この状況では主砲も副砲も役に立たない。
側砲で倒せなければ、この場で使えるのはこのミカサの霊子核機関そのものしかない』
通信機から聞こえてくる声は切迫しており、そして真之介にとって容赦のないものだった。
学者としての論理的な思考が、技術者として携わった作品に激突する。
真之介はうめいた。
膨大な危険性をはらんだ機関だが、それ自体を兵器として作ったつもりはない。
砲弾のように使い捨てるものではなく、エンジンとして作ったのだ。
空中……戦艦だ。
滅びるのが……宿命か……。
珍しく気のあった開発仲間たちの顔が頭をよぎる。
一番嘆くとすれば、二代でミカサに関わったというあのオヤジや、職人集団の連中だろう。
一緒に仕事をしたあいつらはそう嫌いではなかったのだが、
……仕方、……あるまい。
「真之介……?」
血が出るほど唇を噛んだ真之介に、あやめが心配して声をかける。
その声で、真之介は腹を決めた。
「誰だか知らんが、そっちはミカサの第一艦橋か」
後ろからかけられた声に、不覚にもそこまで存在を気づかなかった春日は驚いて振り返った。
「山崎真之介……!」
『何……、山崎少佐だと!?
聞こえるか、山崎少佐!
こちらは確かにミカサの第一艦橋だ』
北村は真之介のことをかなり知っているが、実は真之介は北村をよく知らない。
噂に聞く通りに、階級など一切気にしないその口調に、北村は通信機越しに苦笑した。
『開発者の君には悪いが、奴をミカサの中に封印して霊子核機関を暴走させてミカサごと葬りたい。
おそらく、この場で打てる手はもはやこれしかないだろう』
どうやら考えていることは同じかと真之介は思った。
確かに指摘の通り、ミカサの霊子核機関は現段階で巨大降魔に叩き込める最大のエネルギー供給源だろう。
八千メートル級の空中戦艦を連続浮遊航行させるエネルギーは、搭載する霊子核機関の最終段階に関わった当の真之介ですらも厳密な計算を放棄したという膨大な量だ。
とにかく、足りるということだけは保証してある。
そのエネルギーを直接叩き込んで……それで生き残るようなら今度こそお手上げということだ。
「戦艦は兵器だ。……芸術作品ではない……」
自分を無理矢理納得させるための言葉だった。
機密だなんだということ以前に、開発段階から問題視していた部分はある。
そこでも問題になったのは、やはりその途方もない存在と必要エネルギーだ。
霊的都市である帝都に対する影響も試算してみたことがある。
帝都各地に施された封印の三分の一はその影響で解ける可能性があるとの答が出た。
それでも作り上げたのは、科学者としての意地と、予感めいた想いからだった。
いつか必要になるときが来るのではないか、と。
今がそのときなのかもしれない。
それに水地も……と思い出しかかった言葉は頭の中ですぐにうち消した。
『では……、霊子核機関を爆発させる。いいな』
「待て、それをやれば帝都だけではなく関東一円全てが危なくなる」
あやめは思わず真之介の顔を見つめ直した。
嬉しかったのだ。
昔の真之介ならば、帝都がどうなろうがまったく気にしなかっただろう。
約束のことを、ちゃんと覚えてくれている……。
しかし、それを聞いて北村は焦った。
破壊力を期待しているとはいえ、そこまでしてしまっては何のための勝利か。
『ならばどうすればいい……!?』
「制御弁の五十一番から五十六番を解放して、三十一番から四十四番を閉じろ。
その状態で臨界に達したところで十一番から十六番の最終安全弁を解放するように設定すれば、通風口付近をエネルギーが直撃する。
そこまで調整して……威力は、大空洞の本洞が埋まるかというところだろう」
真之介は科学者の顔で頭を全開に働かせて総エネルギー量を概算する。
こんなことなら設計段階でしっかりと計算しておくのだったと後悔したが、桁数くらいは合っているだろう。
『よし、それで決行する』
北村の返答に迷いがなかったので、真之介は自動制御機構が動いているものと判断した。
「パラシュートがあるはずだ。今のうちに用意しておけ」
「策はわかった。だがどうやって奴をその通風口に叩き込むのだ」
春日も氏綱は後回しにして巨大降魔だけでもと腹をくくらねばと思ったが、その大前提が問題なのだ。
すでにミカサはゆっくりとだが側部の通風口を広げつつある。
飛行時には膨大なエネルギーを放出するミカサの冷却機構の要である。
全開すれば巨大降魔をエンジン部まで送り込むくらいの大きさは十分あった。
だが問題はその方法だ。
あれを簡単に叩き込めるくらいなら、とっくに倒せている。
言われた真之介は一瞬考え込んだが、
「……あやめ、いけるな」
「うん」
言われて気づいた。
打つ手はまだあった。
真之介とあやめの手がしっかりと結ばれる。
あまりに臆面もない真之介に、見ているこっちが恥ずかしくなってくるが、意味は分かる。
あれだ。
降魔の塔を一撃で吹き飛ばしてしまったあの必殺技ならば、巨大降魔をも圧倒できるかもしれない。
いや、通用しなければこちらは全滅するしかないのだ。
こうして打ち合わせをしている間にも軍勢は崩壊しつつある。
「まかせた」
そう告げると春日は封印呪法を練り直しにかかった。
どうやら畑中総司令官と打ち合わせをしている余裕はない。
勝手にミカサを破壊する算段を立てては後ほど軍の反発を招くだろうが、星龍を滅ぼせるのならばそれぐらいは覚悟しよう。
それよりも封印の方が問題だ。
永久封印を想定して練っていた陣だが、短期用に変換すればより強力なものにでも適用できるようになる。
既に呪法に参加できる者の数が半減している今、やれるだけのことをやっておかねばならなかった。
「生きてるか、一馬」
「ええ、なんとか」
巨大降魔の攻撃を何とか凌いでいた米田と一馬は、既に満身創痍だった。
それも、凌いでいただけで巨大降魔に大した傷はついていない。
かろうじて周囲を取り巻いていた大型降魔たちを滅ぼせたのがまだ救いだろうか。
桜花放神すら吸収して見せた存在を相手に下手に最強必殺技を叩き込もうとすれば、虚脱状態になった次の瞬間に倒される可能性があるので踏み込むに踏み込めないのだ。
しかし、そうしている間にも軍勢は壊滅していく。
巨大降魔は再生できるが、人間は再生できない。
いっそバラバラに敗走した方がこの場の犠牲は少なくて済むかも知れないが、それは同時に帝都の陥落を意味する。
第二艦橋から指揮を執っていた畑中総司令は、もはや指揮系統が崩壊しつつあることを認めざるを得なかったが、次の手段を思いつかなかった。
ここまでか……。
声には出さぬものの、既にこの場で腹を切る覚悟は出来ている。
実行出来ないのは、全軍への責任感ゆえだった。
あの化け物を相手に無策のままのこんな無能な総司令であっても、今死んでしまえば全軍を動揺させて戦線は一気に崩壊するだろう。
武士としての矜持さえも果たせぬ自分にいらだっていたそのとき、
「総司令、北村海軍少将から通信です!」
「!!」
言われてようやく、彼がミカサの中枢部にいたことを思い出した。
今となってはそれが最後の助けになるかも知れぬと、畑中はすぐ回線を繋がせた。
「畑中大将。全軍に撤退命令をお願いします」
いきなり飛んできた北村の言葉は畑中の予想を裏切るものだった。
今のミカサの全能力を以てしても、あれには勝てないということなのか……。
「北村少将……、それでは我々は帝都の全滅を座して待つしかないというのか。
そんなことになるくらいならば……」
『いいえ、犠牲になるのは帝都ではありません。
この、ミカサです』
北村は、立てた作戦の内容を手短に、しかし自分が残ることは伏せて解説した。
言えば畑中大将にさらなる苦渋を強いることになる。
生真面目な畑中大将の性格は知っているので、黙っておくべきだと判断した。
その代わりに、既に春日方術士団長が術の準備にかかっていることまで伝えたので、ほとんど事後承諾願いに等しい。
畑中は解説を黙って聞いていたが、その心境はいかばかりであろう。
『もちろん、奴を葬るだけの爆発ですからこの大空洞くらいは吹き飛ぶ可能性が十二分にあります。
我らの勝利のために、生き残った面々にはなんとしても脱出してもらわなくてはならないのです』
詭弁だなと自嘲しつつも、それを声には出さずに北村はとうとうと説いた。
畑中はしばらく腕を組んで考え込んでいたが、
「解った。どうやらそれに賭けるしかないらしい。
責任は全て私がとる。
頼むぞ」
陸海軍間での所属が未だにはっきりしないミカサを、完成前に自沈させてしまうというのだ。
おそらく糾弾の声は凄まじいものになるだろう。
だがその責任くらいとれないようで、何のための総司令官か。
畑中総司令名で、かろうじて残った指揮系統へ退却準備が伝えられる。
こういった命令ならばおそらく全軍に行き渡ることだろう。
疲れ果てたような雰囲気が漂い始めた第二艦橋が、その直後、大きく揺れた。
次いで僅かに浮遊感があった後でもう一度揺れる。
「何だ!?巨大降魔がまた激突したのか?」
「いえ……それが……この第二艦橋が分離したような……」
畑中ははっとなった。
慌てながら、自ら通信機に向かって呼びかける。
「応答せよ!北村少将!」
返事は、無かった。
その代わりに、脱出を促すように非常口が開く。
「北村君……」
「第二艦橋、切り離しました」
「通風口開放94パーセント!」
張りつめた空気が漂う中、北村は少しほっとしていた。
これでもう後戻りは出来ないと決まると、かえって悩む余地も無くなった。
自分も、ここまで自分についてきてくれた者たちも……。
最期まで指揮をとり続けることで、自分に残された最後の責任を果たすこととさせてもらおう。
「シルスウス鋼弾、装填完了しました!」
待ちに待った知らせだった。
既に三十センチ砲の多くは沈黙させられていたが、幸いなことにシルスウス鋼弾が装填可能な小型高射砲が残っていた。
「発射十秒前……」
「待て!残りの通常弾を連続して撒きながら撃て!
一二発では奴にかわされる!」
「ハッ!」
試験段階で収納されていた通常弾はそう多くなかったが、何とかここまで保ってくれた。
もう、あとは撃ち尽くすのみだ。
撤収準備の命令が伝達されつつある軍の上空で、これが最後だとばかりに盛大な砲音が連なった。
いかな巨大降魔でも全弾避けられるはずはない。
撃ち落とされるものも多いが、約半分が命中。
その中に、五発のシルスウス鋼弾が含まれていた。
さすがに巨大降魔に対しては一撃必殺とはいかなかったが、翼や胴体に大きな穴が開き、宙に浮かんでいたその巨体が地面に落下して地響きを立てた。
そこへ、
「忘れてないよね。約束」
「忘れてたまるか」
高く澄んだ音がより高く、より高く響き渡る。
二人の間で交わされる言葉と、繋ぎあう手と、絡み合う視線と、重なりゆく霊力が、この地下にまばゆい地上の恒星を作り出していった。
巨大降魔がそれに気づかないわけはない。
しかし、シルスウス鋼弾五発の直撃からはさしもの巨大降魔も簡単には再生しきれなかった。
やっとのことで立ち上がり妖力を繰り出すよりも、二人の方が早い。
「帰ろう」
「あの、都へ」
取りあった手が、静かに巨大降魔へ向けられて、
「光虹霊鳥、彗輝新星!!」
太陽よりもまばゆいのに少しも見る者の目を痛めない光り輝く大鳥が、卵の如き恒星から飛び立った。
巨大降魔はなお翼を広げて妖力を限りに高め、これをこらえようとする。
真之介とあやめの繰り出した光は、氏綱の魂を使って振るった一撃よりも、地上で降魔の塔を倒したときよりもなおはるかに強いはずだった。
それでもなお、巨大降魔はこらえていた。
背後にはミカサの通風口が大きく口を開けている。
そこが自分にとっての破滅の門であることを、巨大降魔は気づいているのだろうか。
「手空きの者は何でもいい!奴に攻撃を仕掛けろ!」
第一艦橋と切り離されて通信のほとんどが使えなくなった畑中総司令は、朗々と響く地声だけで全軍に命令を出した。
せめぎ合いになっていたところへ、儀式術を専門としていないために封印陣の準備に参加出来なかった方術士や陰陽師らが加わって気弾や火の玉を叩きつける。
遠距離武器のない兵たちは布にくるんだ手榴弾を遠距離投法で放り投げたり、腕に覚えのある一部の者はシルスウス鋼剣を巨大降魔に向けて投げつけた。
無理矢理爆薬用の火薬を使った対魔カノン砲部隊が、暴発を起こしつつもシルスウス鋼弾を巨大降魔の顔面と首へとたたき込んだ。
そして、
「こんな場面で何もしねえと立場がねえんでな!」
これを外されたら最後だ。
米田と一馬の二人が残された全霊力を集中する。
「逝っちまいなあっっっ!!!」
「破邪剣征、桜花放神!!!」
対降魔部隊四人、方術士団、陰陽師、陸海軍の合わさった力が、巨大降魔の妖力を突き破って、直撃し、吹き飛ばした。
圧倒的な光の洪水の中で、その翼が朽ち、身体の各所が崩れていく。
その身体が霊子核機関の唸りが響く通風口に狙い違わず吸い込まれていった。
「それが貴様の棺桶だ!巨大降魔よ!!」
戦闘開始直後から練り上げてきた封印陣が、春日方術士団長の叫びとともに発動した。
霊力で造られた幾千本もの注連縄が巨大降魔の後を追って通風口へ殺到する。
到達したそれらは次々と巨大降魔に絡みついて、その身体を霊子核機関の集う中枢部に拘束しようとする。
だが、巨大降魔はまだ力尽きてはいなかった。
通風口からミカサを丸ごと振るわせるおどろおどろしい叫びが大空洞全域に響き渡ったかと思うと、上空……いや、上方の地殻部から無数の妖力の塊が呼び寄せられるかのように巨大降魔へと吸収されていく。
失念していた。
この大空洞に至るまでに倒された人間と降魔の怨念を、巨大降魔はまだ切り札として残しておいていたのだ。
今にして思えば、おそらくそのために、苦しみが長引く酸欠や生き埋めを大量に起こさせる地震を用いたのかもしれない。
封印術の呪文を唱える春日の額に滝のような汗が浮かび、掲げる手が血を吹いた。
巨大降魔が力を盛り返して、封印術を破ろうとしているのだ。
強……すぎる……!!
その状態は、術に参加していようとしていまいと手に取るようにわかる。
霊力がない者にさえはっきりと目に見えるまでに瞑き妖力が拡大してきているのだ。
「真之介……、力貸して」
先ほどの一撃でほとんど霊力を使い尽くしたあやめと真之介の二人は、倒れ込みそうになったあやめを真之介がやっとのところで支えているという状態である。
それなのに言いだしたこんな言葉を聞いて、真之介は文字通り顔色を変えた。
「この馬鹿野郎、何を考えている!
今の状態でそんな真似をしたら……」
「だから、力貸して」
髪はほつれ、疲れ切った顔の中であやめは精一杯の笑顔を向けた。
対真之介絶対武器である。
対抗手段はない。
真之介は降伏して、あやめの手をしっかと握りしめた。
何をするのかと、真之介はわざわざ聞かなかった。
「いくよ」
あやめはまるで歌うように祝詞を連ね始めた。
同時に、ゆるやかに舞うような動きの中に真之介も引き込まれていた。
空いた方の手であやめが神剣白羽鳥を抜いたので、真之介も倣って光刀無形を抜く。
二振りの剣に、どこからわき出てきたのかと思うような霊力が宿る。
「我はあやめ。藤枝あやめ……。
日の本の央を支えし藤に連なる者にして、都の清浄を司どりし巫女なり!!」
それはあやめが普段忌み嫌っている自らの血との対面でもあった。
自分の人生を縛り、真之介との仲まで引き裂こうとする鎖。
だが同時に、それがなければ真之介と出会うことも無かったともいえる。
今は、その力が有り難かった。
集結していた怨念が、あやめの繰り出す呪法によって吹き飛ばされるように浄化されていく。
今にも破られようとしていた封印術と巨大降魔との力の均衡が逆転して、徐々に封印の方が強まっていく。
頼む……、このままいってくれ……!!
春日以下、方術士団はここが勝機と力を込める。
しかしその勝機を作り出したあやめは、密かに覚悟していた事態に襲われつつあった。
ここに至ってなお真之介の力にはまだ若干の余裕があったが、その力は半ば妖力にちかい魔の側面を強く持った力だった。
自分の身体に流れる裏御三家の血がその力に反発して浄化しようとするのをあやめは必死に堪えつつ、なおかつ外部に対してはその真之介の力を使って浄化の法として放つという離れ業をやってのけていた。
たとえ自分の使命が魔を浄化することであっても、真之介の存在だけは絶対に否定しない。
真之介がなんであっても、私は受け入れてみせる……!
流れ込んでくる真之介の力が、半ば霊力の尽きかけた自分の身体の中を満たしてくれているのがいっそ心地よかった。
……誰かの色に染まるとは、こういうことだろうか。
血を吐いて倒れてもおかしくない状態だというのに、心は少しも疲れていない。
自分が笑っていることをあやめは自覚していた。
二人の目が、全ての目が見守る中で、巨大降魔を拘束する封印は完成した。
『やったぞ!!!』
歓喜の声が唱和した次の瞬間に、術に参加していた者の多くが力尽きてその場に卒倒する。
あやめも例外ではなく、倒れ込んだ所を真之介がかろうじて受け止めたが、その真之介もあやめの緩衝剤になってすぐに意識を失った。
一馬と米田が慌てて駆け寄って抱え起こす。
まだ終わりではない。
この封印はまさに仮の物なのだ。
霊子核機関の力を叩きつける前に、大空洞を脱出しなければならない。
しかし、二人が意識を取り戻すようには見えなかった。
霊力を文字通り全て使い尽くしたはずなので、もしかしたら命に関わる状態かもしれない。
その意味でも早くここを脱出する必要があった。
ただ一つ、一馬が笑いたくなったことがある。
こんなになってもまだ、しっかりと結ばれていた二つの手が微笑ましかったのだ。
ともかく、撤退が始まった。
意識を失った方術士達は陸海軍の中の軽傷な者が運んでいくことになった。
退路が確保されているのは、米田や春日が確保した神保町の経路だけだったが、生存者は突入した全軍の三割ほどであったので、それでもなんとかなってしまいそうだ。
それよりは、あまりにも重傷の者が多くて運びきれるかどうかという問題の方が切実だった。
畑中総司令は、階級を問わず犠牲者の遺体を回収することを禁じさせた。
無論、感情では納得出来るものではない。
だが、怪我人を運ぶだけでもやっとの状況で死者にこだわっていては巨大降魔に封印を破る時間を与えることになる。
その非情の決断は、予想通り伝達段階で猛反発を招いた。
「隊長!自分は納得できません!」
「奴はもう封印したんでしょう!それを何故早急に撤退など!」
一時しのぎの封印で縛りつけて、ミカサの霊子核機関で止めを刺すという作戦の全貌が厳密に末端まで伝えられていたわけではない。
命令を伝える各隊の長らも、解っているのは命令の骨子と、そして、苦渋に満ちた上官の顔までであった。
その命令を発する者のつらさと、そうしてまで言わねばならぬという切実さは誰もが解っていた。
「頼む……。従ってくれ……」
すすり泣く者もいるが、それでも徐々に大空洞から地上への洞窟へと戻っていく。
上層の怨念は先ほど巨大降魔が使用したし、当の巨大降魔が封印されている今、おそらく待ち伏せはないだろうと判断されて、昇降機にはめいっぱいの人間が詰め込まれた。
残りの生存者数を考えれば、どうやら速やかに撤退は可能だろうと思われたが、別の所で問題が起こっていた。
「北村!早く自動制御に切り替えてミカサから脱出しやがれ!」
真之介とあやめを一馬に託して先に行かせた米田が中将自ら通信機に向かって怒鳴っているのを聞いて、撤退を最後まで見届けるつもりだった畑中総司令は、やはり、という思いを抱かずにはいられなかった。
『米田中将、ミカサの自動制御機構はまだ完成しておりません。
無理に自動制御で行えば、奴を討ち漏らす可能性があります。
しかしここにいればあなた方の脱出を確認した上で、確実に奴を仕留めることが出来る』
「テメエ、肝心なことを黙っていやがったな……」
『最初から、そのつもりでしたから』
仏室のような雰囲気の漂う第一艦橋で、北村は静かに語っていた。
「元はと言えば、私と粕谷が巨大降魔を操れると過信したのがこの戦いのそもそもの原因なのです。
私自らの手で決着をつけねば、あの世で彼に合わせる顔がない。
巨大降魔ごと倒れるのは僥倖というべきなくらいなのです。
私は、倒せるのはミカサだけだと覚悟しておりました」
『ミカサだけ……だと?巨大降魔じゃなくてか』
米田の疑問も当然だろう。
自分も直に調べて見るまでは信じる気になれなかった。
「巨大降魔が、……いえ、ここ数年に渡る一連の戦いが起こった理由を御存知ですか、米田中将」
米田からは沈黙が返ってきた。
対降魔部隊の隊長として、いや、それ以前から魔の脅威に警鐘を鳴らし続けてきた人物として、薄々は気づいていたのだろう。
もちろん、このミカサだけが原因というわけではない。
江戸から東京へ移り変わった明冶の激変があってのことだろう。
しかし、帝都の霊的均衡が揺らぎ始めた時期と直接的に降魔の出現し始めた時期は、ミカサ建造の進行具合と、そして試運転の時期と完全に一致する。
「巨大降魔を、生み出したミカサもろとも葬ります。
これは、私の役目なのです」
『馬鹿野郎!粕谷と違って、てめえにゃあまだ家族がいるだろうが!』
米田ならそういうだろうと思っていた。
最初から答えを用意していなければ、その言葉にぐらついたかもしれない。
「もとより反逆者となるつもりでしたから、既に知り合いの弁護士に絶縁状を託しています。
米田中将。
もし最後の情けをかけて下さるのでしたら、私の家族が路頭に迷わぬように取り計らって頂けますか」
米田が声にならぬうめきを上げる。
しばらく通信機越しに睨み合っているような気がした。
ややあって。
『どこの、……なんてえ弁護士だ』
「神田にある、酒井弁護士事務所です」
そうかい、と、ほとんど声にならない米田の声がかすかに聞こえた。
最後に残された心配が、それで解けた。
『北村少将、そして、そこにいる諸君』
米田の近くに来ていたのだろう、畑中総司令の声が聞こえ、しばしの沈黙……畑中と米田が敬礼してきたのを察して、北村は通信機の向こうに敬礼する。
第一艦橋の面々が、それに続いた。
敬礼を終え、米田と畑中は一旦通信機のスイッチを切った。
出来るなら地上に出たと連絡し終わるまで繋げておきたかったが、連続使用には携帯蒸気が保たないのだ。
やるせない思いで二人はミカサを見上げた。
威風堂々とはまさにこのことを言うのだろう。
今見えている部分を見ても、要塞か何かの様にしか見えない。
北村の言葉に確証があったわけではない。
問題だと思ったことは、単に統計上の偶然という可能性だってある。
本来はそれらを検証した上で結論を下すべきだった。
しかし、今は時間がない。
それに、確信はあるのだ。
帝国……いや、人類史上最強最大の兵器。
その代償が、安いわけがないではないか。
言葉無く顔を見合わせてから、二人の将はしんがりとして脱出の途についた。
抱えている通信機が、地上からでもミカサに届くことを祈りつつ。
ミカサ内には静かな時間が流れていた。
棺桶の静寂だと思えば納得だと、北村は心中だけで思った。
それでも艦長席に座る身体はほとんど微動だにしない。
艦長席にて最期を迎えると言うことには、海軍士官として特別な思いがある。
同時に、将としての責務もあった。
人類史上最強の巨艦の、最初で最後の出航にここまで同行してくれた部下たちが、せめて誇りを持てる将でなくてはならない。
泰然として、そのときを待っていた。
三分に一度、機関部を監視している湯川少佐の
「エンジン部、妖力変わりなし」
と告げる声が緩やかに時を刻む。
そんなとき、微かな匂いが鼻をくすぐった。
「閣下、どうぞ」
矢船中佐の声に振り返ると、陶器のカップを持っている。
モカのミディアム・ローストとあとはキリマンジェロか……少し湿気て香気が落ちているようで匂いで判別しきれないのがいささか不本意だったが、この場所と状況では信じられない代物だ。
「備蓄庫を調べてみたらありましたので入れてみました。
ブルーマウンテンではありませんが、そこはご容赦を」
北村の好物が珈琲と栗羊羹で、特にブルーマウンテンをブラックで飲むのが好みなのはここのメンバーが全員知るところである。
そして、その影響で全員珈琲党でもあった。
「皆の分もあるか?」
「はい」
「では、いただこう」
最期に味わえるとは思っていなかった味を堪能しつつ、北村はここに至るまでの道を思い返していた。
決して強くはなかった幼少期。
自分を変えるつもりで入った海軍士官学校は三位卒業だった。
士官になってからは、中佐時代のあの門脇大将に鉄拳を食らったこともあった。
はっきりと覚えているのは、今年の四月に開かれた両軍協議会で粕谷と衝突し、そして共闘し始めてからのことだ。
あのとき、激突した直後の自分と話し合うために粕谷が持参してくれたブルーマウンテンは心底美味かった。
あれからまだ七ヶ月。
もう、何年も前のことのようだ。
降魔の軍団による世界の平定を目指して、力を手中にしようとした二将の乱。
参戦できず、おめおめと生き残ったときには自分もこれで終わりと覚悟を決めたものだ。
その自分が今こうしている。
過分な最期と言えるだろう。
まもなくそちらに行くぞ、粕谷……。
陸海軍の壁を超えて夢を共有した盟友を思う。
地獄とはこの深き地底より上なのだろうかそれとも下だろうかと、妙な考えが頭をよぎった。
どちらにしても、近いことは間違いないだろう。
どれくらい時が過ぎたことだろう。
待っていた通信が入った。
地上と大空洞を繋ぐ通信線が一本でも残っていれば、大空にあって地上の通信をも受けるように設計されたミカサの強力な受信能力によって、その逆に地底にあっても通信を受け取ることができた。
『わ……れら……、地上……到ちゃ……せり……』
増幅器を限界まで使った雑音だらけの通信の中に、米田の声が確かに聞こえた。
「全霊子核機関出力増加!」
「ハッ!全霊子核機関出力増加」
「出力40パーセント……、50パーセント……」
「100パーセントで固定せよ!」
「ハッ!出力100パーセント、固定します!」
霊子核機関の潜在能力がどれほどかは今もって解っていない。
だが、周囲の霊力を吸収して純エネルギーに変換することが出来るため、暴走させれば周囲の生命体全てを吸収して爆発を起こす可能性があった。
当初北村が考えていたのは、この能力を使って巨大降魔の力を全て吸い尽くした上でその巨大降魔の力そのもので完膚無きまでに奴を葬り去ることだったが、それは想像を絶する現象だった。
下手をすれば遥か地上の民の命をも奪いかねないおそれがあるほどに。
出力100パーセントとは、この艦が死者の艦となるのを防ぐために真之介が仕掛けた安全装置の範囲内における最大出力である。
それでさえ、このミカサを自沈させるには十二分だという。
動力弁が推進装置から切り離されている今、制御卓には次々と警告灯が点灯する。
「妖力計、確認せよ」
「ハッ!機関部付近の妖力なお確認!」
どうやら逃げられずに済んだらしい。
「十一番から十六番、最終安全弁解除!」
山崎真之介に教えられた通りに駆動させると、ミカサが振動し始めた。
同時に、あちこちで警報が鳴り始める。
艦橋から見えるミカサの全景が、増大する純エネルギーによって霞んでいく。
そして、ミカサ全体が大きく揺れた。
巨大降魔の存在する機関部にエネルギーが流れこんだのだ。
「妖力計、極大より低下!」
報告する井上大尉の声がややうわずっている。
まもなくこの第一艦橋にも膨大なエネルギーが流れ込んでくる。
死の恐怖が無いわけがないのだ。
だがそれを歓喜で無理矢理押さえ込んだ。
自分たちの役目を果たせるという、最期の歓喜が。
「諸君」
北村は艦長席から立ち上がり、部下たちを、第一艦橋を見渡した。
「感謝する……」
北村は静かに敬礼し、十五名も整然と敬礼を返した。
達者でな……。
最期に北村が妻子に想いを馳せた瞬間、
ミカサは、
爆発した。
初出 平成十三年七月十八日
SEGA サクラ大戦BBS
楽屋に戻る。
もう一つの第十話目次に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。