虚ろなる貴方無き世界
追憶其の七
第四章 止まらない時間
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雨の朝である。
帝都市民にとっては懐かしさすら感じさせてくれる風景の中、対降魔部隊は帰還した。
方術士団も一旦宮城へ引き上げ、装兵隊も各々宿舎へと戻った。
大空洞への突入予定は明朝なのである。
今は少しでも休みを取り、体調を回復させなければならなかった。
現在は陸軍に雇われている形になっている心霊術士真田の仮設診療所には、戦い終わった大量の怪我人が運び込まれて大わらわになっていた。
「ほら、男の子でしょ。しっかりしなさい」
「ぎいえあああああああ!!」
何故か看護婦姿で治療の補助に当たっている太田斧彦上等兵に押さえつけられた重傷の兵が、どちらかというと激痛とは別の意味で悲鳴を上げる。
「さ、ひかりちゃん、やっちゃって」
真田光。
この一年弱、あやめの主治医を務めている真田の本名である。
肺までえぐられた兵の胸の傷にも眉一つ動かさずに手を当て、霊波を当ててその痕を僅か数秒で塞いでしまった。
「琴音、後は頼む」
こちらも同じく知り合いのよしみで勝手知ったる清流院琴音少尉が、優雅に手早く消毒して包帯を巻き付ける。
要するに医者と看護婦の性別が逆になったような環境で、野郎集団の兵としてはあまり嬉しくない。
しかし真田の力は瀕死の兵であってもかろうじてその命をつなぎ止めることが出来るし、真田自身もそれを優先することは本望であった。
そのためここに運び込まれる者は多く、そして贅沢を言える筋合いではない。
さすがに重傷者が多いので、対降魔部隊の面々も治療が後回しになっている。
最後まで戦闘を続けられたくらいだから、比較的軽傷だったのでこれについてとやかく文句を言うつもりはない。
一馬はおとなしく待っているが、米田はぐーすか寝ている。
というのも、真田は米田軽傷と聞いて重傷者治療の片手間にこう答えたのだ。
「酒飲んで眠っていて下さい」
百薬の長というのとはこの場合意味が違うような気もしたが、若いころはそうやって治した憶えもあるので米田は素直に従った。
かくて陸軍中将閣下が廊下でゴロ寝をなさっているわけである。
忙しいはずの太田がいつのまにか毛布を掛けていた。
それから、あやめと真之介だ。
不思議なことに、あやめは傷一つ残っていなかった。
何故だろうと考えると、二人して霊力を炸裂させて倒れ込み、間近で見たときにはもう傷は無かったようにも思う。
ひとまず真之介はほっとした。
一方その真之介はと言うと、こちらは全身各所に傷が残っている。
ただし戦闘で受けた傷ではなく、自分で負った傷だった。
手の甲や額にはっきりと見えるこれらの傷は、封印を打ち破って飛び出すときにその反発で負ったものだ。
手の傷が一番深いのは、ここから封印に突っ込んだので力が集中したためだろう。
「ばか」
あやめは一言けなしてから、特に傷の深い右手をとって自分の手で包もうとしたが、真之介の手は倍くらいあるんじゃないかと思うくらい大きい。
少しでもその傷を癒そうとして霊波を当てようとすると、真之介は黙って左手の背を向けてきた。
よせ、と言う意味だ。
真之介としては、けなされるのは少々不本意だが、あやめの声が暖かかったので別に気分を害しているわけではない。
あやめの体調を心配したのだ。
自分も相当に霊力を消耗しているので、あやめの状態も大体想像がつく。
……というよりは、ほぼ手に取るように解るつもりだった。
確かにあやめも真田より劣るにせよ、霊力を使って他人の傷を治すことは出来る。
しかしそれは本人の霊力を確かに消耗する。
どこで学んだのかは知らないが心霊治療に慣れた真田だからあれだけの数を相手にして生きていられるのだ。
規模とやり方によっては、命の危険もある。
自分の手とあやめの命と、天秤にかけるまでもない。
いや、手と命が逆であっても天秤がどちらに決するかは変わらないだろう。
しかし、あやめにとっては意味が異なる。
この手は、奇跡のような品々を設計して作り上げ、戦場では自分のことをかばってくれたり、あるいは極々々々稀にだけど、自分の髪を不器用に梳いてくれる手なのだ。
ほっとけない。
そう言う目で見つめられると真之介は絶対に勝てない自分を知っている。
しかしここで負けてしまうわけにはいかないので、戦術的転針を計る。
「あのときに傷は大分ふさがっている。
包帯だけしっかり巻いておいてくれ」
とっさに出した妥協案ではあったが、それでなんとかあやめが頷いてくれたので真之介はほっとする。
瀕死の患者を一通り救い終えて、疲れ切った真田が戻ってきたのはそれから二時間後だった。
「真田さん、もう休んだ方がいいのでは……」
医者としてだけではなく様々に助けられている上に、薬草学などではいくつか教えも請うているので、真之介は真田に対してはずいぶんと丁寧な口をきく。
多分相手が帝でも口調を変えないだろうと米田が冗談交じりに評する真之介だから、この扱いは破格である。
特別扱いは嬉しいのだが……と真田は心中だけで苦笑いをした。
「いいから手を見せてみろ」
あやめの包帯の巻き方には文句が要らない。
その上から真田は、呪紋の描いてあったところをすっとなぞった。
「痛みは?」
「触ると少し」
「思ったよりましだな。あやめに感謝しておけ」
治療の間に、どんな戦いが繰り広げられたのか情報を集め終えているので、大体何が起こったのか想像はつく。
合体攻撃とも俗称される霊力の相乗効果は、生半可な絆で起こる現象ではない。
つまり意味するところは、この二人の間に入るのは不可能だと言うことだ。
苦い思いを飲み込んで、霊波をかけて傷を完治させた。
それから額と、
「靴下と上着を脱げ」
足の甲と胸と背の痕を確認する。
この辺はほぼふさがっていた。
何となく恥ずかしいのか、あやめは明後日の方向を向いている。
横で斧彦が身体をくねらせつつ同じ態度をとっているのはさておき……まだ二人はそういう関係と言うことだ。
真之介の回復力なら手以外は霊波を当てるまでもないと判断すると、次にあやめの様子を診る。
こちらは痕に残るような傷はない。
「あとはとにかく寝ておけ。
今のままでは何も出来んぞ」
そう言って二人を一緒に診察室の外に追い出してから、一馬と米田を診る。
今日の診察はこれで最後だ。
さすがの真田も倒れる寸前である。
「先生、申し訳ねえ」
米田は自分の半分にもならない歳の女性に、素直に頭を下げた。
真田とは元々直接の知り合いだったわけではなく、去年の暮れに琴音のつてで知り合ってそのまま巻き込んでしまったのだ。
どうしてここまで付き合ってくれるのか、米田には未だにわからないところがある。
「一年近くも顔つき合わせて、今さら他人行儀は感心しませんね、米田さん」
これは一本とられた。
そう、かれこれもう十一ヶ月になる。
真田と知り合ってから……そして、巨大降魔が出現してから。
いままでを振り返る米田が黙っている間に、診察をすすめる。
さすがに米田も一馬も無傷ではないので、なんとか霊力を振り絞って治していく。
次の作戦の難易度は、対降魔部隊の四人が全快かどうかによってかなり左右されるのだ。
「突入は、予定通り明朝ですか?」
出鼻をくじかれた格好になったが大丈夫なのか、と真田は聞いているのだ。
「ええ。
京極の奴が装兵隊の半分以上を温存しておきましたし、これ以上突入を遅らせればまたあの攻撃をされる恐れがありますから」
不安を押し殺して米田は答えた。
確かに難しいのだ。
状況はこの一夜でかなり悪くなっている。
敵の橋頭堡を落としたとはいえ、巨大降魔の推定される実力は大幅に引き上げざるを得ない。
突入作戦の危険性は否が応でも増していた。
「米田さん、今一度考えてくれませんかね」
「……他人行儀と言われても、さすがにそいつは認めるわけにはいかねえです」
真田は内々に、突入作戦への参加を米田に頼んでいた。
大空洞は軍事機密の塊ゆえ、立ち入りは厳しく制限されている。
巨大降魔が現れる前に地質調査を行う学者が入るときも、空中戦艦ミカサを置く本洞を避けて、側洞のみの限定的な立ち入りが認められているのみだった。
今回の作戦は本洞に直結しているため、軍人と、近衛軍の傭兵である陰陽師たちなど、限定された面々しか参加を許されていない。
しかし、実は本人以外からも、真田を参加させるべしとの声が挙がっていた。
真田がいれば参加する兵の生存率は確かに上がる。
それでも、軍人米田一基としては、たとえ霊力を有し、戦闘能力を有するとはいえ、一般人を突入作戦に参加させることはどうしても認めることが出来なかったのだ。
「……そうですか。
では、私は琴音たちと皆の帰還に備えて準備しておきます。
首を撥ねられたとかいうのでなければ、この身に賭けて治しますから、ひとまず五体満足で帰ってきてください」
「わかりました。必ずや」
真田は結局、それ以上を諦めた。
あることを言えば、米田は認めてくれるかもしれない。
つてをたどれば近衛軍に話を付けることも不可能ではないかもしれない。
だが、ここまで伏せ続けていたその事実を、彼らに明かしたくは無かった。
捨てたつもりの過去だ。
「門脇殿が、亡くなられたか……っ」
浅葱海軍軍令部長以下海軍の主な幹部たちはその知らせを聞いて一様に肩を落とした。
一介の技術者からの叩き上げであった門脇海軍少将は現将官の中でも最高齢で、誰からも敬意を払われていた。
決戦を前にしてシルスウス鋼製造装置と装備群を守っての戦死とは、その一生にふさわしい最期だと言えるのかも知れないが、失いたくなかった人材が失われたことに変わりはない。
「はい……。最期、私たちに……帝国陸海軍兵器の未来を託すと……」
右腕を骨折したために今日の作業が出来ずに神崎重工からの連絡役となった森田技師は、そこまで言葉を絞り出すとその場に泣き崩れた。
「見事、なり……」
本来なら適用外となる軍外出向先での殉職ではあるが、門脇大将の二階級特進に異議を唱える者はいなかった。
しかし、哀しみに暮れている余裕はあまり無かった。
報告をまとめていくと、さらに過酷な状況が明らかになっていった。
門脇の他にも主だった技術幹部たちの中には、嵐に包まれた工場から脱出する際に部下たちの指揮を最期までとり続けたり、あるいは完成なった部品類を守るために嵐の中で作業し続けたりして命を落とした者も多かった。
また、機密を保持するために二枚複製して別々の金庫に保管されていた設計図は、金庫が稲妻の直撃を受けたらしくその中で全て灰になっていた。
現物が残っているのは、門脇が守り抜いたシルスウス鋼製造装置の中枢部のみ。
板金と粉体、そして鍛造によって砲弾までは造れても、刀剣や網をシルスウス鋼で大量生産する技術は人材ごと失われてしまったのだった。
すなわち、今ある武器類を使い尽くしたら、数を補充できるようになるのはいつになるのかまるで見当もつかないのだ。
虎の子となったそれらの武器類を投入せざるを得ない次の突入作戦は、まさに背水の陣である。
絶対に敗北は出来ない。
何が何でも勝たねばならなかった。
その覚悟の下、何人もの技官たちが命がけで守り抜いた装備類は今横浜工場より出荷されていった。
刀剣、防具、対魔カノン砲と、いずれも予定量の半分ほどになっていた。
口にはしないものの、将官から平技官に至るまで皆不安を覚えていた。
それでも、作戦の期日をこれ以上遅らせることは出来ない。
もう一度あの攻撃を食らえば、今度こそ工業地帯だけではなく帝都全土が壊滅してしまうだろう。
待てなかったのだ。
近衛軍方術士団は軍団の立て直しを急いでいた。
負傷者は多かったが、魔物との戦闘経験も多い彼らは死亡しないように上手く戦っていたため、陸軍などに比べて死者の数はそう多くなかった。
ここに、日本全国から集まった修験者や陰陽師らを加える。
京都などの霊的守りが手薄になってしまうが、今は何よりもこの帝都を守らなければならなかった。
集まった彼らは都市生活からかけ離れた生活をしている者が多いので、帝都各地の惨状を見せつけられてもそれほど落ち込んでいるわけではない。
むしろ、初戦で降魔の塔を倒したという戦果を聞いて十分に勝てるという意識が広がり、士気は高かった。
もちろんそうなるように情報の枝葉にやや脚色を加えて連絡しているのだが。
その中で、ごく少数の上級方術士たちとともに、団長春日光介は頭を抱えていた。
その降魔の塔を倒した立て役者たる山崎真之介と藤枝あやめについてである。
「正直言って、よもやあれほどまでとは思わなんだ」
現在三人にまで減っている副団長の中でも最高齢である南雲兵衛が重く口を開いた。
南雲は春日の父より一歳下で、維新の動乱にも参加した古株だ。
その彼にとっても予想外であった。
「ただ、先の戦いでの合体現象は、氏綱が発現したのではありません。
まだ未知数である部分も多いでしょう」
「そこが問題だ。
私としては巨大降魔とやりあう前に氏綱を発現させて、そのまま封印するつもりだったが、あの実力を見せつけられては今まで練ってきた計画の実行は不可能に近いと言わざるを得ない」
上にいる者が相次いで死んでしまったために、若くして副団長を務めることになった富山が的確に事態を把握していることに少しだけ安堵しつつも、やはり不安を隠しきれずに春日は言った。
元々、真之介に仮の封印を施した状態ならば、ある程度制御が出来るつもりでいたのだ。
だが、そのもくろみは真之介の潜在能力の前に断念せざるを得なかった。
結局、彼の動きを一時的に止めておく役目にしかならなかったのだ。
そして、今はその監禁のための封印すらない。
春日にしても、あの封印法術がまさかあそこまで見事に打ち砕かれるとは思っていなかった。
しかも、魂の中に眠る北条氏綱の力を使わずに、だ。
その上で、あの合体攻撃だ。
藤枝あやめと二人ともにいる間の強さは、こちらが手を出せる領域を遙かに超えている。
山崎真之介単独でも、押さえ込むことが出来るかどうか。
そして一方で、巨大降魔の実力に対する評価も完全に改めさせられた。
あれだけの天変地異を起こせるというのならば、今ある手勢でなんとかなると考えるのは楽観に過ぎた。
天をあそこまで操るのであれば、地すらどこまで操れるものか。
大空洞に埋められるのは巨大降魔ではなくこちらになるのではないか。
どんな悲観論ももはや杞憂ではない。
「あまり採りたくない方法でしたが、氏綱と巨大降魔との共倒れを狙う方針に……」
「変えざるをえない、か」
米田への弁解のために考えた策の一つで、不確定要素の大きい危険な案だ。
今となっては、春日はどちらにも戦慄を覚えている。
山崎真之介も、巨大降魔も、どちらも計算を超えた存在だ。
現在の戦力で倒せるという保証はどこにもない。
そこにさらに北条氏綱という伝説の存在が絡んでくるとなると、どちらかがどちらかを吸収する危険性は、米田の危惧以上に高まっているということでもある。
「もしかしたら、山崎真之介が勝つということは考えられないかな?」
春日とほぼ同期である佐々木が、控え気味に発言する。
副団長三人の中でも雅楽と和歌に優れ、術力が高い。
「私としては、もう少しあの若人たちを見てみたい」
「お前らしい意見ではあるな」
佐々木は、降魔の塔を倒した山崎真之介と藤枝あやめの二人に賭けてみたいと言っているのだ。
「話を聞いたところでは、彼女がいる限り彼の精神は保てそうだ。
自由にさせてやってもいいのではないのか」
「和歌の題材が失われるのが嫌か」
「その動機があることは否定いたしませんが」
南雲もこれには苦笑したが、春日は表情を崩さなかった。
「いや、前提に問題がある」
「山崎は彼女を守りきれると思うのだがな。
ああいう若人の強さは限りないと思うぞ」
「そうではない」
答える春日の表情は苦い。
「忘れたか。
藤枝あやめ嬢は藤に連なる者でもあるのだ。
もしものときには、その若人の強さが真っ正面から我々に向かって襲いかかってくるということなのだぞ」
もしものとき。
それが何を意味するのか、ここにいる人間は皆よく心得てた。
神世の時代より、二千年。
彼らはそうやってまつろわぬ神々を封じ、この王朝を守ってきたのだ。
「……何奴!」
睡眠を取っていた真田だが、危機に対する備えまで怠っていたわけではない。
診療室への侵入者の気配を察して、即座に跳ね起きた。
しかし、備えてはいたものの、予想外ではあった。
真田が多くの兵たちの命を救っていることは周知の事実であるため、彼女への尊敬の念は今や一般兵の間で不動のものとなっている。
その中でも特に彼女を弥勒菩薩のように崇める一部の若い兵たちが自発的に診療室への通路で警護に当たっているこの現状で、まさか不埒な侵入者が来るとは思っていなかった。
魔物の気配では、ない。
「何奴とはずいぶんだな。ノックはしたぞ」
「……守屋か」
守屋陸軍大将の苦虫を噛み潰したような顔を見た真田は、即座に納得して歯がみした。
さすがに大将の命令とあっては警護の兵たちとて通すしかないだろう。
「蝦夷暮らしで目でもやったか。休診中の札が見えなかったようだな。後で来い」
「今更貴様の診療など受けるか。ふざけるな」
悪態をついて、どっかと患者用の椅子に座りこむ。
少なくともこの場は暗殺に来たのではないらしいと判断し、真田は霊撃の構えを解いた。
しかし、気は緩めなかった。
今頃になってこの男がわざわざ自分の所に来る理由が不穏でないはずがないのだ。
「今更と言うか。ならば袂を分かった私の下に、今更何をしに来た?」
「……御役目を完全に放棄したようだな。
明が死んでからの一年でまさかここまで八鬼門が悪化していようとは思わなんだぞ」
やはりそのことか、と思った。
明とは、約一年前に巨大降魔誕生の折に魔物に殺されたことになっている水無月明陸軍少将のことに他ならない。
無論、真相は異なる。
「荷担するつもりは無いと言ったはずだぞ。
そもそも水無月少将が真之介くんも水地新十郎も侮った結果が現状ではないか。
もっとも、そのおかげで私は得難い知己を得られたがな」
「三百年の御役目を何と心得るか、小娘が!」
「顔も知らぬ祖父の役割など課してくれと頼んだ憶えは一度も無い。
ああ、この短い髪型だけはモダンで気に入ったからこれだけは感謝してやる」
そもそも女として扱われなかった修行の日々の名残だが、悪癖として男装が身に付いてしまった。
だが、江戸時代と隔絶した太正時代のモガとしてこの格好を自らの意志で続けることは自分の誇りだった。
そうやって女性の権利獲得運動をしている最中で、清流院琴音、太田斧彦という得難い友を得ることもできた。
「とにかく、今更私が貴様らに荷担するとでも思ったのか。
貴様の霊力が枯渇したとはいえ、雛にやらせればいいだろう」
「あれはまだ未熟に過ぎるわ。
だが、元より跳ねっ返りな貴様の助けが得られるなどとは思っておらん。
釘を刺しに来ただけだ」
「……何?」
「金輪際、山崎真之介の治療をするな。
かつての弟子として、それを守れば不孝を許してやろう」
一瞬、何を言われたのか理解するのに時間がかかり、理解した瞬間、怒りで頭が真っ白になった。
「……ふっざ……けるな!」
「巫山戯てなどおらんわ。
今度の作戦が首尾良くいけば奴は大空洞で死ぬ。
だが、奴が生きて地上に戻ってくる可能性もそう低くはない。
しかし、それでも巨大降魔を相手にして無傷もありえまい。
貴様が余計な手出しをしなければ、山崎真之介をほぼ確実に八鬼門に送ることができる。
明のことを抜きにしても、北条氏綱まで取り込んだもはやあれはこの地上にあってはならん存在だ。
八鬼門へ送ってこの都の糧としつつ天海様の遺産をもって浄化するしかない」
二の句が継げない間に、守屋はとうとうと説明する。
腹立たしいことに、かつて幾度と無く聞かされた口調に耳が慣れている。
「……いい加減に、黙れ!」
「叫んでも事態は変わらんぞ、愚か者め。
貴様が山崎真之介の主治医になっていると聞いたときには奴の監視をしていると思っておったが、気づいていないとは言わさん。
あれは間違いなく、この帝都を滅ぼすぞ」
「滅ぼさせはしない!米田閣下も、真宮寺大佐も、あやめも……、それに私もいるのだからな!」
わずかに苦い思いに気づかないふりをして反論を繋ぐ。
守屋がそれに気づいたかどうか。
押し隠すようにして叫びを続ける。
「かつて人を助けよと私に言った貴様が、人を見殺しにしろとはな!」
「あれはもはや人ではない。
あと一度でも押し切られれば、過去の亡霊に乗っ取られるのは必定。
怨霊を浄化するは我らの尊き使命であることを忘れたか」
「怨霊で栄える都などがあっていい時代じゃない!
八鬼門で反映を謳歌したところで、それではこの都市そのものが悪ではないか!
真之介くんにその片棒を担がせるなど私が許さない!
そんな時代はこの太正で終わりにするんだ!」
「ここは帝都にして帝都に非ず。
今なお、この地は江戸ぞ。天海様と大久保長安が築いた四百年の都ぞ!」
声に留まりきらない霊力が溢れて、互いの間で火花を散らす。
そこで睨み合いとなった。
こちらが治療に霊力を使い果たしておらず、守屋の老いがここまで深くなっていなければ、この場で開戦していたことだろう。
だがお互い、今はいかんともし難いことは理解できた。
「……何を間違えたのかの。御役目の意義も為すべきことも教えたはずが」
「全てだよ、守屋。
お前だけではない、全て最初から間違っていたのが、ようやくこの太正時代で終わるんだ」
「不肖の弟子への最後の忠告と知れ。
これ以上闇の救世主に手を貸せば、貴様もただでは済まぬぞ」
「忠告だと……いや、待て、闇の救世主だと……!?」
脅迫の間違いだろうと言い返そうとしたとき、聞き捨てならない単語を聞いた。
それは確か、あやめから聞いた、水地新十郎が真之介くんを陥落させるために呼んだ称号のはず。
その呼称を、何故守屋も使うのだ。
「忠告ぞ。ゆめ忘れるな」
問いに答えることなく、守屋は今一度念を押すように睨め付けて、諦めたように去った。
素直に喜んでいいものか、悩まないでもない。
北村海軍少将の手の中に、空中戦艦ミカサの主設計図があった。
普通なら海軍少将といってもこれだけまとまった量の機密文書を手に入れるのは容易ではない。
しかし今は大空洞への突入前夜とあって、そこら中で人と物と情報が動いている。
前線司令部が設置される予定のミカサについて再検討が必要になった、という名目で情報部に頼むと、命令の裏付け確認も無しにあっさりと書類が送られてきた。
いくら将官からの命令とはいえ、一応の危険人物からの連絡くらい検証して欲しいものだ、と一軍人として思わないでもないが、その雑さに今回は助けられた格好になるわけで、いささか悩みたくもなる。
しかし、いつまでもそんなことで悩んではいられない。
一晩で最低限必要なことを頭に叩き込まなければならないのだ。
幸い、今の担当任務である食糧補給の準備は前日までに終わっている。
大空洞での降魔掃討が何日に及ぶかわからないために予備として用意する程度なので、それほどの量は必要としなかったのだ。
既に遺言状も離縁状も書き終え、知り合いの探偵に処置も頼んでいた。
誰にも邪魔されずに調べることが出来る。
蝋燭の最期の炎だとばかりに集中していた北村は、そのために気づかなかった。
彼の部下たち十余名が、扉の隙間から彼の様子をうかがっていたことを。
忙しいのは突入する者たちだけではない。
地上に残る者たちも、関東一円での被害の把握と復旧のための活動に大わらわだった。
復旧というよりも、巻き込まれた人間の救助がまだ終わっていないところも多いくらいだ。
警察だけでは到底手が足りない。
加藤首相は、突入作戦に関する任務が終了した隊から順次復旧活動に回るように両軍大臣に要請した。
終了した隊から、という控えめかつ拒絶しにくい要請の仕方が手慣れた首相らしいと、京極陸軍大臣代行は思う。
この激務下で、単純に協力願と言うだけではその場で突っぱねたい気分になっている。
しかし突入作戦は間近に迫ってきており、いくつかの後方支援隊の準備は確かに終わりつつある。
人手を回せて回せないことはない。
ただし、それは巨大降魔が目算通りに片づいたときの話だ。
もし作戦が失敗したときには……。
そこで京極は、自分の想像に嫌気が差して壁に拳を叩きつけた。
この作戦が失敗した場合、現時点で採りうる手段がほぼ一つに絞られるからだ。
その策を、採りたくなかった。
失いたくない人材なのだ、真宮寺一馬は。
可能性を否定するためにも、京極は要請受諾の意を総理府に伝えた。
夜三時。
真之介の研究室の戸が軽やかに鳴って、ひょこんとあやめが顔を覗かせた。
恐れられている対降魔部隊の一角に近づく者もまずいないので、鍵も掛けていない。
「そろそろ起きる時間よ、真之介」
「む」
床に転がった毛布の中から不機嫌そうな声が返ってきた。
見ると、時刻を設定して仕掛けておいたはずの目覚まし時計……これも画期的な発明品なのだが……が煙を上げている。
一応、起きる努力はしたらしい。
ひとまず笑顔で嘆息してから、あやめはすすっと部屋の中に侵入した。
論文や試作品や、それからよく解らない物がいっぱい並んでいる中にかろうじて足場を見つけて、カタツムリのところまで近づいた。
「よいしょ」
意図的に声を上げつつ毛布を引き剥がそうとしたら、しっかりと握っているらしく剥がれない。
「こーら」
しばらくぐいぐいと綱引きならぬ毛布引きが続けられる。
ちゃんと起きているじゃないか。
同情できないわけではない。
確かに、帝都の異常気象が止んだためにこの一日で気温は十五度も下がっている。
毛布から出にくいのはあやめも一緒だ。
おまけに、突入作戦前に睡眠をとっておかねばならないとあって、半ば昼夜が逆転している。
特に夜更かしする傾向のある真之介にとっては完全に逆転している。
「眠い」
「起きないとお茶いれてやんないぞ」
「おのれ」
毒づいたところで引きが弱くなった。
この隙を逃すものかと一気に毛布をはぎ取る。
案の定、研究着に白衣を引っかけたままの格好で転がっていた。
これが寝間着の類だったら、決戦前夜の雰囲気とかいったものがあるんだろうけど……と考えないでもないあやめである。
しかし、こういういつも通り過ぎるくらいのところが、実は緊張している自分をもいつも通りにしてくれるようにも思えた。
ちょっと寒そうに背中を丸めつつ身体を起こしてきた真之介は、とても陸軍最凶の魔術師兼研究者には見えない。
「早急に緑茶を一杯要求する」
「朝ご飯……というか、夜ご飯だけど、用意してあるからちゃんと起きなさいよ。
何にも食べないで大空洞に出向くつもり?」
「そういうことは早く言え」
あやめの作った朝食が冷めるのをむざむざと待っている理由はない。
「二分で着替えて行く」
「はいはい」
このところ一緒にいることの多い清流院琴音と太田斧彦の二人は、情報連絡要員として駆り出されているので今日は姿が見えない。
米田の補佐役を務めることの多い大河原一美は、情報部で現在激務の真っ最中だ。
また、心霊術士の真田は昨日午前中の激務の反動で長い睡眠をとっているとのことだった。
というわけで、図らずも対降魔部隊四人による朝食……いや、夜食になった。
考えてみれば、こんな場はずいぶんと久しぶりのように思う。
このところの食事は士官食堂で摂ることが多いし、ここ一ヶ月真之介は軟禁状態にあった。
さらにその前の二ヶ月はあやめが誘拐されていたので、ざっと三ヶ月ぶりくらいになる。
だからこそ、あやめは久しぶりに張り切って作ったのだ。
もしかしたらこれが最後になるかも知れないという思いを、必死に心の中から追い出そうとしつつ。
「おー、いい匂いだ」
「あやめくん、済まないね」
世界で一番美味いのは妻若菜の作った食事だと言い切る一馬だが、愛娘はまだちょっと料理は苦手であるため、あやめの作る食事は世界第二位に位置づけされる。
この無茶な時差にも、動く気が起きようというものだ。
「ところで、当の旦那はどこへ行った?」
「中将、話を飛躍させないで下さいっっ!」
一応怒ったように米田におたまを向けるあやめだが、眉をつり上げようと努力したあとが一応見られる他は、頬は赤いし、まなじりは下がり気味だしで、……まんざらでもないらしい。
人の悪い笑みを浮かべたまま、悪い悪いと身振りを返すと、ひとまずあやめもため息一つで和平に応じた。
米田にとっては実に幸いである。
料理を目前にして食料支援をうち切られてはたまったものではない。
「米田さん、口は災いの元ですよ」
「けっ、よく言うぜ」
などと人畜無害な会話をしていると、あたふたと、という表現が実にぴったり来る様子で真之介が駆け込んできた。
慌てて出てきただろうに、髪の毛が全然癖になっていないところが、あやめには羨ましかった。
見えないところで女は結構苦労しているのである。
「十五秒遅刻よ、真之介」
正確に真之介が「二分」と言い終わってから計測していたわけではないが、まあ概ねそれくらいの時間である。
「す……すまん……」
大型降魔をも退ける男の肩が、言い訳も出来ずにしゅんと小さくなる。
こういうときには到底あやめより三つ年上には見えない。
ちょっと、あやめはいたずらしたくなってしまった。
「罰としてご飯を……」
「げっっっっ……!!」
真之介の顔が恐怖に引きつる。
「十五粒減らすから」
「お、こけた」
のけぞった真之介は平衡感覚を崩して床に転がった。
「あーやーめー」
「食べないの?」
顔いっぱいに楽しそうな微笑みを浮かべつつ、あやめはわかりきったことを聞いた。
「よこせ。誰が残すかっ!」
「はい」
きっちり十五粒減らした茶碗を、そっと両手で差し出す。
だけど、手渡さない。
「……いただきます」
「よろしい」
叱られた子供のような声で答える真之介に、米田と一馬は思わず笑ってしまう。
米田などは遠慮なく笑い転げていた。
「……殺す」
「はいはい、喧嘩しないで早く食べるの」
そうだったと思い出して、一馬も米田も慌てて席に座り直して一礼する。
「はいどうぞ」
既に味噌汁に口をつけてこっそりと幸せそうな顔をしている真之介を眺めて、こちらも幸せそうな顔をしつつあやめは答えた。
あやめの作る食事の何が美味いかと聞かれたら、例えば真之介の場合だと知らんと答えつつ内心では全部と考える。
確かにあやめの作る日本料理は料亭の調理人としても十分生活していけそうなくらいなのだが、しかし例えばさんまの塩焼きなどは焼き加減の妙はあるにしてもそこまで差の出る料理ではない。
一馬などは箸を動かしつつこう考える。
やはりご飯と味噌汁がいい、と。
ご飯は米の品質も関わってくるだろうが、やはり炊き方と蒸らし方がいいのだろう。 味噌汁は人によって好みの分かれる難しいものだが、これまた申し分ない。
そして頭の中でつけ加える。
やはり若菜の次に美味い、と。
一方、米田はいささか心配してしまう。
決戦前にこれだけしっかり食事を作って、あやめはちゃんと休んだのだろうか、と。
だが見ているとどうやら要らぬ心配かもしれないと思う。
真之介がしっかりと幸せを噛みしめるように味わっているのを眺めているあやめに、疲れなどどこにも見えなかった。
「なあ……、おまえら」
先ほどの笑い飛ばしたときの笑いとは違う、深みのある、穏やかな笑いを浮かべつつ米田が切り出したので、二人は手を止めて目を向ける。
「巨大降魔さえ倒せば、帝都の霊的なゆらぎも一段落してくれるだろう。
そうなりゃあ対降魔部隊もひとまずお役ご免だ」
米田の言葉は多分に楽観的なところがある。
だが久しぶりに得た団欒の場で、悲観的な考えはしたくなかったし、そもそも思い浮かばなかった。
ともかく対降魔部隊が無くなれば、二人は仕事の同僚では無くなってしまう。
それはちょっと困るな、と同様に思った二人は顔を見合わせた。
「だから、この戦いが終わったらな、一馬に仲人やってもらえ」
『え?』
驚いた二人の声が、申し合わせたようにピタリと重なる。
仲人というものが何をする人間か、朴念仁の真之介でもさすがに知っている。
あやめはもちろん言うまでもない。
視線を泳がせて助けを求めるように一馬を見ても、既に米田から話がついている笑顔だった。
「私と……」
「俺が……」
「ああ」
異論でもあるのか、とでも言いたげな顔で笑っている米田の視線が恥ずかしくて顔を背けると、互いに赤くなっている顔を見合わせることになってしまった。
「えっと……なんだ……、その、つまり……」
「う、うん……。ええっと……」
色々考えるべきことはある。
まず第一に藤枝家がはいそうですかと認める訳がないのだ。
あやめは藤枝家の後継者であり、ひいては藤枝家の本家であり京の守護を担当し都の清浄を司る裏御三家の一つであった藤堂家の後継者とすらいえる。
清浄の巫女とも呼称される存在とあっては、おいそれと結婚できる身分ではない。
それに関係して、もう一つ実質的な問題もある。
北条氏綱の魂を抜きにしても、真之介は元々魔術を駆使するなど魔の属性が強い人間だ。
一方のあやめの清浄の巫女という能力は、並の人間では交わることが不可能とされる。
その浄化の力に耐えられなければ存在ごと抹消されてしまうのだという。
一説には、藤堂家の本家が絶えた理由の一つがこれであるらしい。
十三で神剣白羽鳥を継いだあやめの能力は裏御三家の歴史を見ても稀なくらいなのである。
その潜在能力のほどは想像が付かなかった。
だからこの二人、真之介の性格に問題の一端があるにしても、こんなに仲がいいというのに未だに接吻の一つも出来ないのである。
米田も、そして一馬もそれらの事情は踏まえている。
一年前にはいい雰囲気になり接吻しそうになった二人を危惧して、一馬はわざわざお邪魔虫になって止めたこともある。
だが、今の真之介ならば大丈夫なのではないかと思う。
伝説の悪霊とも言うべき北条氏綱をまがりなりにもここまで押さえ込んでいるくらいなのだ。
そして、裏御三家の宿命を毛嫌いしている真之介にとって、藤枝家の意向など知ったことではない。
などということを米田は色々考えていたが、見たところ当の本人たちは思考回路がすっ飛んでしまっているらしい。
そこで抱き寄せるくらいのことはしやがれと言いたいが、そこは堪えて。
「だから山崎、今度の戦いではあやめくんの顔に傷一つつけずに帰って来んだぞ」
「……言われずとも」
無茶な条件を突きつけて、かえって素直な返答を引き出した。
米田の本音はというと、要は二人とも生きて帰ってこいということなのだが、そんな死とスレスレの条件などこの場では縁起でもない。
だから、最も幸せ極まる条件をくれてやったのだ。
もしかしたら、本当に実行するかも知れないと思いつつ。
ここまでこちらがお膳立てを整えるのはさすがに過保護かもしれないと思ったが、真之介の性格を考えると十年経ってもそのまんまという可能性もある。
これくらいはさせてもらおう。
若い頃に妻を亡くしているので仲人にはなれない。
しかし二人の子供の名付け親にはなりたいなあ、などとささやかな野望を抱いている米田であったりする。
「さて、話がまとまったところでご飯に戻らないか。
あやめくん、私は軽くおかわりが欲しいのだが」
と、一馬がのんびりと締めくくったので二人は我に返った。
「あ、はい。わかりました」
「あやめ、俺も」
十五粒減らされたことにまったくへこたれずに茶碗を差し出す真之介の額を笑いながらつついてから、あやめはしっかりとよそってやった。
ご飯時にこういう話をした米田の気持ちが、家庭を持つ一馬にはよく解った。
自分が戦いから帰ってきて一番幸せを感じるのも、要は妻と娘と母とで囲む食膳なのだ。
大体そこで、遠慮する権太郎も無理矢理引っ張り込むのだ。
生きているということを実感する。
死ねない。
おかわりをしっかり噛みしめながら、一馬は強く心に銘じた。
食器を洗い終わったあやめは、三人に風呂敷包みを手渡した。
中身はおにぎりと水筒である。
「何から何まで助かるぜ、あやめくん」
今度の大江戸大空洞への突入作戦は、どれほど長引くか想像が付かなかった。
最深部の側洞のさらに奥にいるとみられる巨大降魔の前に、おそらく相当数の降魔を片づけなければならないだろう。
作戦の第一段階は、単純に数時間はかかる大空洞までまずたどり着くこと。
そしてミカサ近くにある広場に宿営地を確保することなのである。
首尾よく巨大降魔を倒しても、広大な大空洞に潜む残敵を掃討し終わるまで何日かかるかわからない。
そのために補給部隊も用意されているのだが、側洞の奥底まで補給線を通すのは極めて難しい。
そもそも洞窟内での補給線確保など、将軍たちの誰もやった経験が無かったからだ。
これを担当することになった北村海軍少将は貧乏くじを引いたものだと誰もが思っていた。
最初の補給線が整うまでの携帯糧食は各自に配布されているが、陸上用携帯糧食は日露の反省以降未だ改良中で味の評判は悪い。
そんな状況であるので、手軽でしかもしっかりしたおにぎりというのは何よりも有りいのである。
その気になれば、行儀は悪いが歩きながらでも食べることが出来る。
特に米田は、満州の大地で握り飯の有り難さをこれでもかというくらい思い知っていた。
その握り飯が白米であることが満州では問題だったが、ここではそこまで問題とはならない。
それから、水分も必需品だ。
腹が減っては戦は出来ぬが、水さえあれば人間は数日から一週間ほど命を繋ぐことが出来る。
さらに応急処置用の包帯などが軍服のポケットに入っていることを確認し、米田と一馬はついでに梅干しを入れる。
疲れをとる効果があるのだ。
さすがにお酒を持っていくとかさばるので米田は断念した。
戦闘の邪魔になっては元も子もないので、この辺が限界だった。
そして最後に自分たちの愛刀を掴み、
「さあ、行ってくるか!」
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