虚ろなる貴方無き世界
追憶其の七
第一章 終わらない戦禍


序章 姿無き静寂




「異常だらけで、変わりなし、か」

 日露戦争の英雄、帝国陸軍随一の戦略家とも称される米田一基陸軍中将は、赤文字で埋め尽くされた報告書を、机の上に広がる書類の山脈上に放り投げた。
 今の彼にはもうひとつの肩書きがある。
 帝国陸軍特殊部隊対降魔部隊長。

 今でこそ陸軍で知らぬ者のない小隊だが、当初は魔の脅威に対抗するなど馬鹿げていると陸軍上層部の大半から反対の声が上がり、花小路伯爵の尽力と米田自身の名声によって半ばごり押しで認められた経緯がある。
 立ち上げ時の隊員は、米田と、そして裏御三家最後の正統を残す魔を狩る者真宮寺家の当主である真宮寺一馬の二人だけ。
 最初は予算もなく部屋もなく、米田の私室が執務室だったくらいである。
 冷遇とはまさにこのことだろう。
 それでも米田はめげることなく部隊を強固にしようと東奔西走し、新たな隊員となりうる人材を捜し出し、入隊させた。
 天才的な魔術と科学の才能を持つ青年山崎真之介と、裏御三家の一つ藤堂家の流れを汲む藤枝家の巫女藤枝あやめの二人である。
 四人となったことで、対降魔部隊はようやく隊室を割り当てられることができた。

 今となっては冗談のような話である。
 やがて、発足に関わった米田や花小路ら少数の者が予見したとおり、帝都に魔物がはびこるようになった。
 すなわち降魔戦争の開始である。
 以後、魔物の恐るべき戦闘能力が明らかになるにつれ、魔物の出現報告が増えるにつれ、対降魔部隊は陸軍に欠くことの出来ない存在になっていった。
 同時に、異能集団としての恐怖と排他の目を集めつつ。

 降魔戦争の開始とされる時期からもう二年半になる。

 相次ぐ戦闘で削られ続けた結果の人材不足は、対魔物の実力者と呼ばれる二人、米田と京極の二人の陸軍中将の下に、膨大な仕事を呼び込むことになった。
 今、米田は、情報部の大河原少佐から帝都の地下に広がる大江戸大空洞に関する報告を受けていたところである。

「もはや私にでもくっきり見えるほど大空洞内の霊力は高まっています……が」
「側洞から巨大降魔が出てきた気配も無し、か」

 巨大降魔、という言葉を、嫌悪とも恐怖ともつかぬ顔で米田は口にした。
 それこそが、陸軍が内乱を起こしてまでその支配権を争う羽目になった最強の存在であり、そして、現在最大の敵であった。
 昨年末に対降魔部隊の二人、真之介とあやめによって発見されたこの降魔は、それまでの降魔とは体格、妖力共に、まったく桁の外れた存在だった。
 二人はこの降魔の創造主を打倒し、辛うじてこの巨大降魔に一時的な封印を施すことに成功した。
 近衛軍方術士団がこの封印を引き継いでいたのだが、その間にこの巨大降魔の処遇と支配権をめぐって陸軍内部で内乱が起きるなど様々なことが起こり、ついに天変地異と共にこの封印は破られた。
 しかも、帝都中の人々や地脈の膨大な霊力を取り込み、手がつけられないほど強くなって!
 確たる対抗手段が見つからなかったので、最厳戒態勢で大空洞を一時封鎖することになった。

 現在その巨大降魔は誕生した場所である最深部の第三十四側洞から動いていないということだけは、各所に設けられた妖力計が伝えてくれている。
 ただし妖力感知器のメーターは振り切ってしまっているのでその強度まではわからない。
 絶大、とだけ記録される。
 よって、何をしているのかも伺い知れない。

 それでも帝都各地の状況は感知器よりも雄弁であった。
 降魔目撃の報告は日を追う毎に増えている。
 それなのに、市民が襲われたという報告はほとんどない。
 魔物たちは無秩序に破壊を振りまいているように見えて、その実何か目的を持って動いているようにも思われる。
 おそらく、巨大降魔はのうのうと眠っているわけではない。
 帝都を滅ぼすために、着々と準備を整えているのではないか。
 米田はそう考えている。

「やはり、あの巨大降魔にはかなりの知性があると考えておくべきだろうな」
「本官にはいささか信じかねます。
 降魔は破壊本能によって動いているだけで、単に強い霊力を求めて彷徨っているだけではありませんか?
 少なくとも町中で見かける降魔には知性のかけらも見られません」
「あの巨大降魔は、特別なんだよ……」

 先日の戦いを思い出して、米田は疲れたようにつぶやいた。
 巨大降魔に魂が宿っていたとしても何ら不思議はない。
 あまりにも多くのものを託され過ぎている。
 しかし、だからといって負けてやる理由にはならない。
 現状のまま大空洞に攻め入ってもどうなるか予測が全くつかないため、こちらは現在情報収集と戦力の増強にかかりきりになっているだけだ。
 巨大降魔と直接刃を交えているわけではないが、とうに戦闘は始まっている。

 まず露西亜国内で革命が起こったため、北に対しての守りは大幅に削ることが可能だった。
 日露戦争以来、例外的に大将まで置いて厳戒態勢を続けていた北海道からは、師団の約半分を帝都近郊へ移しつつある。
 その他の師団も、多いところでは三分の一以上が帝都へと戦力を移しつつある。
 平時どころか、非常事態でもまずありえなかった動きだが、相次ぐ戦いで帝都近郊にはそれでも兵力が足りぬほどの状況になっているのである。

 小型降魔一体でも魔物に慣れていない一小隊を全滅できるというくらいの、人間と降魔との個体能力差がその原因であった。
 小田原で起こった降魔の大量発生を鎮圧する戦いを生き抜いた兵ともなると、二人で小型降魔一体を倒すこともなんとか可能になるが、そういう兵こそ前線に立ち、そして、倒れていく。
 増え続ける目撃報告数に比例するかのように、巡回する兵と魔物との戦闘回数も確実に増えてきていた。
 帝都市民を守るために、掃討をやめるわけにはいかないが、組織的な動きでない分始末が悪い。
 今は愚策とわかった上で戦力を逐次投入せざるを得ないのだ。
 何しろ、連中の多くは空を飛べる。


 そういった中で、対降魔部隊は当然のように駆り出されていた。


「桜花霧翔!」

 霊剣荒鷹が閃き、放たれた霊力と剣閃が中型降魔三体を直撃する。
 それでもなお、やや後方にいた一体は消滅しなかった。

「やはり……強くなっているか……っ!」

 あまり考えたくなかった確信に、対降魔部隊の一人にして裏御三家の後継者たる真宮寺一馬大佐は顔をしかめた。
 今の帝都に満ちている霊力の強さを考えればさほど不思議なことでもなかった。
 小田原戦で戦い慣れしていた自分でさえこうなのだ。
 少し離れたところでもう一体を相手にしている藤枝あやめ少尉にはかなり手強い相手になっているだろう。
 先の戦いでは生け贄として拘束されていたため、降魔との戦闘にはしばらく参加していなかったのだ。
 未だに戦闘感覚が戻りきっているとはとても言えない状態だ。
 そんなあやめを一人で長時間戦わせたくは無いので、目の前の降魔だけに集中してじっくりと攻めていくわけにもいかない。
 かといって、霊力全開で必殺技を振るえばよいかというとそうでもないのが、小田原戦のときよりも状況を難しくしている。

 まず、そこかしこで出現する降魔に対抗するために、一戦一戦で力を使い切ってしまうわけにはいかないということ。
 これは小田原でもそうだが、あのときと違って交代要員らしいものが無い。
 あまり強力に霊力を消費する技を連発するわけにはいかないのだ。

 そしてもうひとつの理由の方が重要だ。
 ここは住宅の密集した帝都下町である。
 最大霊力で桜花放神を放てば二体どころか、上手くやれば数十体が同時に出現したとしても倒すことはできる。
 しかしそんなことをすれば、それに倍する数の家屋倒壊を招くだろう。
 桜花放神の威力は普通の人間は素通りするが、住居の崩壊に巻き込まれて死者が出るのは避けられないだろう。
 降魔の目撃回数が多すぎるために、避難勧告も間に合わずに戦闘に入ることなど珍しくもない。
 それでも一般市民の被害は最小限に抑えなければならないのだ。
 倫理的にも戦略的にも。

 現在、帝都のそこかしこで魔物が出現しているものの、七月に小田原で起こった大量発生よりもその数がずっと少なく済んでいるのは、帝都市民の精神がそこまで恐慌をきたしていないからだという。
 人間の負の感情を糧というか源にしている降魔の発生を抑えるには、帝都市民に安心感を与えることが大きな役割を担ってくるのだ。
 そのため、市民の生活保護は最優先事項と命じられているし、一馬自身も同意見だった。
 その意見を述べたのが京極慶吾陸軍中将だったので、信じるためには若干の精神的努力が必要だったが、どうやら正解らしい。

 かくて代償として、必殺技その他の行動が制限される。
 そのことも、相対的に降魔を強くしていた。
 やむなしとみた一馬は、虚をついて降魔の懐に飛び込んだ。
 本来、降魔との接近戦は極力避けるべきである。
 特に密着していると、切った瞬間に強酸性の体液を浴びる危険性もあった。
 一馬もそれは承知している。
 この三年で、嫌と言うほど!
 それでも、正確かつ最小の動きで倒すにはこれが最良の戦法なのだ。
 狙うのは降魔の本体、頭部だ。

「ハアアアアッッ!」

 振り下ろされた降魔の腕を踏み台にして飛び上がり、鞘走らせて加速した荒鷹を頭部に振り下ろす。

ギエエエエエッッ!!

 剣越しに伝わってくる、何度切っても慣れることのない感触。
 いや、慣れてはいけないのだと常に心に言い聞かせている。
 こんなものに慣れてしまったとき、……それは自分が戦いに呑まれて自分でなくなるときだろうから。

 さすがに本体をまっぷたつにされては降魔も生存できず、死滅して四散した。
 しかし、まだ気を抜くわけにはいかない。
 まだあやめくんは戦っているのだ。



 全快にはほど遠い身体で、藤枝あやめ少尉はよく戦っていた。
 帝都と、闇の者たちがその地下に築いた都江戸に流れる地脈の大半をその身に受けて、本来なら一ヶ月やそこらで治るようなものではない。
 主治医である心霊術士真田の腕が良いのと、彼女のために特別に作られた薬がうまく効いていることもあって、ここまで動けている。
 それに、一時的にしろ帝都の地脈と一体化したことで、あやめの霊力は向上していたのだ。

「深仙凄翔、鷹爪裂破!」

 ようやく得た命中の瞬間に、剣に過剰とも言える霊力を込める。
 ただし、深くは斬りつけられない。
 下手に切り込みすぎると、収縮する筋肉によって外骨格が閉ざされる際に噛み込まれて抜けなくなるのだ。
 小太刀に分類されても良い神剣白羽鳥は俊敏性と防御での使い方も重要だ。
 それが無くなると防御すらも難しくなる。
 そして今、隣に真之介はいないのだ。

 すぐに飛び退いて降魔の反撃を避ける。
 その後は出来るだけ少ない動きで追撃をかわすことに専念する。
 避けきれないと判断したら、霊力を放出せず白羽鳥に集中して構えて自滅を誘う。
 少ない体力をいかに持久させるかを考えて戦った。
 今の万全でない自分では一撃必殺は望めないため、こういう戦法を採るしかない。
 持久戦に持ち込む場合、狙うことは二つに分類される。
 相手が隙を作るのを待つか、援軍が来るのを待つか。
 今は両方を狙っていて、先ほどはうまく隙が出来たので攻撃したのだ。
 そして、今度は援軍も来た。

「あやめくん!」

 その声を聞いて、あやめは攻勢に転じた。
 一閃、二閃、上手く当たってくれたが、三閃目が止められた。
 深く入りすぎたのだ。
 それは十分な隙となる。
 降魔が反撃しようと大きく振りかぶったところで、背後から来るものを察して振り返ろうとした。

「桜花瞬閃!」

 それより早く、背後から斬りつけた一馬の一振りが、一瞬動きの止まった降魔を真っ二つにした。
 降魔を相手に卑怯も何も論じるつもりはない。
 それもこの二年半の学習事項だった。
 その身体の元になった物の正体を十二分に理解していても、切るしかない。
 降魔に取り憑かれて魔物と化してしまってなお助かった例など、一馬はたった一人しか知らない。

「あやめくん、怪我は無いかい」
「はい、少しかすったくらいです」

 それを聞いてほっとする。
 今や一日に何戦もこなさなければならないのだ。
 ここであやめが大きな怪我をして戦線離脱すると、一馬一人ではさすがに辛いことになる。
 と言うこと以上に、もう一人の娘のように思うこの子の顔に傷などつけたくはない。
 それに、そんなことになったら真之介くんを抑えておけなくなるだろう。

「よし、一旦帰還しようか」

 と、一馬が提案した言葉をかき消すかのように、やや遠くから低く腹に響く音がした。

「あれは……?」

 振り返ると、上空に飛行船の姿が見える。
 その形状に、あやめは見覚えがあった。

「あれは……真之介が前に描いていたやつじゃ……?」
「神崎重工に飛行船の設計図を渡して、空中砲台を建造させていると言っていたが、その試作艦だろうね」

 降魔には通常兵器の大半が効かないが、それでも大質量体による運動量まで全て無効化できるわけではない。
 物質に関与する事が出来る以上、作用反作用の法則を軽減は出来ても無効化は出来ないというのが真之介の解説だ。
 戦艦の主砲の直撃を食らわせれば、大型降魔であっても相当の損傷を与えることが可能だった。
 しかし、帝都に向かってそんなものを撃てば、降魔を全滅させる前に帝都が焦土になってしまう。
 出来るだけ命中率を上げて砲弾を撃つ技術が求められたのだ。

 そのために真之介が引っぱり出してきたのが、本来は輸送及び移動用に考えていた飛行船を空中の砲台として使用するという手段だった。
 海から地上を狙う場合には二次曲線を基本に空気抵抗も加味した複雑な弾道の計算が必要だが、上空から打ち込むとなれば弾道を直線近似出来るので命中率はぐんと上がる。
 神崎重工の技術者たちも意地があったのだろう。
 わずか二ヶ月で実戦配備できるだけのものを作り上げたようだ。

 これで戦いは少し楽になる。
 とはいえ、安心はしていられない。
 あのサイズの飛行船に戦艦級の主砲を積むのは無理だし、下方向への発射となるとそもそも砲を相当工夫しなければならない。
 つまり、どうしても口径……すなわち威力は落ちる。
 小型降魔が相手ならそれでも十分すぎるほどの威力のようだが……

バシュッ!

 空中砲台が赤い信号弾を上げた。
 赤の意味するところは、大型降魔!
 空中砲台と今の戦力で、街への被害をいかに少なくして勝てるか、早くも確かめねばならなくなったようだ。

「行きましょう、大佐!」

 自分は行けますと言う代わりに、あやめはひらりと自分の自転車に乗った。
 細かい街路の多い帝都で、蒸気自動車以上に機動力を発揮するのがこの自転車である。
 二駅程度の距離ならば列車よりも速い。
 どういうことかというと、この自転車、実は駆動機がついていたりする。
 小田原戦において自転車が極めて有効な移動手段であったと聞かされた真之介が、それならばと、簡易蒸気機関に可変ギアをくっつけて文字通りの自転車にしてしまったのだ。
 かくて、あっさり戦闘場所に到着した。

 空中砲台による上空からの砲撃に巻き込まれないように、ボタン一つで信号弾を発して到着を知らせる。
 見ると、シルスウス装兵隊が大苦戦を強いられていた。
 人型蒸気も生身の兵も、使っている武器は小田原戦で絶望的な状況を改善させたシルスウス鋼コーティングの刀剣類だったが、この武器がまともに対抗する相手として想定しているのは小型降魔である。
 よくて通用するのは中型降魔まで。
 大型降魔の強力な装甲と妖力の前にはほぼ無力であった。

 さらに、装兵隊に同行していた四体の軍用人型蒸気は既にボロボロにされていて、生身の兵たちの盾としての役目すら果たせなくなっていた。
 日本製の軍用人型蒸気は先の小田原でほとんど破壊されてしまったため、現在稼働しているのは、亜米利加から緊急に輸入されたものがほとんどだった。
 亜米利加が欧州大戦に投入している最新型のスタアIIDは、欧州大戦においてもそれほど評価の高い機体ではないが、それにしても圧倒的すぎる。
 大型降魔が受けている傷は空中砲台から受けたものしか見あたらず、四体の人型蒸気など歯牙にもかけてないようだった。
 今帝都を襲っているこの驚異は欧州大戦の激戦をも凌ぐものであることが、ひしひしと感じられる。
 だが、それに臆していては始まらない。

「よし、このまま行くからあやめくん、後の援護を頼むぞ」

 そう言って一馬はギアを最速に入れ、ペダルを思い切り踏み込んで突っ込んだ。
 最初は乗るだけで精一杯だったのだが、慣れればこれくらいのことは出来る。
 自転車は高速移動中なら手を離しても直進する。
 動作の方法こそ違え、昔の騎馬での突撃を自転車に置き換えただけであった。
 二剣二刀に匹敵する槍があれば一番いいのだが、さすがにそんな贅沢は言っていられない。
 得体の知れない物体の接近に振り向いた大型降魔の右肩に、自転車の突進力を加えた強烈な突きが入った。
 次いで、通り過ぎる勢いを上手く利用して突き刺さった刀で傷口を大きく切り開きつつ脱出する。
 しかしここで、どうしても敵に後ろを見せないといけない。
 傷つけられた怒りに燃える大型降魔は、すうと空気を吸い込んだ。
 体色から見てこいつは、爆発性の強酸を遠距離にまで吐き出す酸弾と呼ばれる種類だ。
 それをわかっているので一馬はあやめに補佐を頼んだのである。
 あやめは自転車でぎりぎりまで接近してからひらりと飛び降りつつ、一馬の方を向いた降魔の左膝裏に、払うというよりは半ば押し込むような一撃を加えた。

 酸を吐き出そうとした降魔はものの見事に平衡感覚を崩し、一馬に吐きつけようとした酸は目標を大きくそれた。
 が、運悪くその酸が近くの蒸気柱に当たってしまった。
 蒸気で錆びないように金属部品をガラス質で覆った琺瑯製の強固な柱だが、さすがに外部から爆発を伴って酸を浴びせられてはたまらず、半ばでへし折れてしまった。
 おそらく周辺家屋に蒸気が届かなくなってしまったはずだ。
 まだ夜でなくて幸いだったが、住民生活に悪影響が出る形になってしまったのは誤算だった。
 通信兵がすぐに無線で陸軍本部に連絡し、そこから帝都蒸気力社に連絡が入るだろうが、ともかくこの場のこいつを倒さないことには復旧作業も出来ない。

 先ほどから砲撃を受け、今しがた右肩から先を使い物にならなくさせられたにも関わらず、大型降魔はしっかりと立ち上がり直して二人に向き直った。
 身体の大きさゆえ中型降魔のように自在に空を飛ぶことは出来ないが、その代わりに大型降魔の防御力と耐久力は中型降魔の比ではない。

「これは……手がかかりそうだな」

 大型降魔と接近戦となると、対降魔部隊でも直接攻撃を得意とする米田以外にはやや厳しい。
 それに、朝から動いていてこちらも万全の調子にはほど遠い。
 空中砲台にも相当動いてもらわねばならないだろう。

 結局、この大型降魔を倒すために、装兵隊の死者が三名、重軽傷二十五名、家屋全壊二軒。
 あやめも一馬も、軽傷と済ますにはやや深い傷を受けた。




「よし、これで顔の傷は綺麗に消えたぞ」

 疲れ果てて宿舎に帰ってきたあやめは、昨年末から主治医をやってくれている真田の所に来ていた。
 謎の多い情報網を持つ清流院琴音少尉の紹介だけあって一風変わっており、一見美青年で実は男装の麗人であり、しかも西洋医学の医者ではなく心霊術士を自称する。
 実際何者なのか、実はあやめも未だによく知らない。
 だが、見かけに反して大した胆力の持ち主であるこの女性は、先日の内乱に巻き込まれて自分の診療所が破壊されてしまったにも関わらず、対降魔部隊への協力姿勢を変えることなく、今も陸軍宿舎にほど近いところに仮設の建物をもらって開業している。
 腕の良さも折り紙付きで、今しがたもあやめの頬に走った傷を痕も残さずに癒してしまった。

「それなら真之介くんが騒がないで済むだろう」

 あやめに手鏡を渡しつつ、苦笑気味に真田はつぶやいた。
 この子の顔に痕の残るような傷でもつけてしまったら、あの青年をおとなしくさせておくのはもはや不可能になるだろうから。

「次は二の腕の傷だが……ふむ、さすがに真宮寺大佐は応急処置もしっかりしているな」

 包帯を外し、念のため消毒しておく。
 酸弾種は爪に毒は持っていないはずだが、降魔は総じて衛生上の問題があることが少なくない。

「つっ……」
「これなら治る」

 傷に強い霊力を掛けて、再生を促進させる。
 広い傷ではなかったので、さほど時間もかからずに治療は終わった。
 少し痕が残っているが、

「じきに消える。それから、何度も言っているとおり、肉類をしっかり摂るようにな」

 そう言ってペンをとり診断書を書き始めたので、ひとまずこれで終わりと言うことらしい。

「真之介はどうしていました?」

 何の屈託も無しに尋ねるあやめに、どこかまぶしいものを覚えつつ真田は苦笑した。
 かつての自分が憧れたのは、この光かもしれない。
 胸につかえるような気持ち以上に、無くして欲しくはないと思う。

「さっき私が行ったときには写真機を分解していたぞ」





「茶」
「はいはい」

 机に向かって作業してた真之介だが、少し顔を上げてあやめの顔を確認し、それからいつも通りの口調で言った。
 気配であやめだとわからないはずがないので、怪我をしていないかどうか心配してくれたのだとわかる。
 あやめはこっそりと笑って、薬缶に水を注ぎ火に掛けた。
 まだ市井にはあまり出回っていない蒸気バーナーが設置されている。

 ここは浅草の地下にある陸軍の研究施設内である。
 空中戦艦ミカサに搭載する霊子核機関の研究の折に、真之介はしっかり自分の研究室を確保していた。
 以後、ここは旋盤から魔術触媒まで並ぶ人外魔境と化している。
 ただし、今は魔術の研究は出来ないでいた。
 この部屋と、五メートル離れたトイレと、そこに至るまでの廊下には、近衛軍方術士団長春日光介による封魔結界が仕掛けられていた。
 帝都内に仕掛けることが可能な範囲では最強級の結界で、陰陽術から西洋の悪魔召喚まで全て無効化してしまう。
 同時に、真之介の身体にもそれと連動する呪法が仕掛けられていて、

「はい、お茶」
「ん」

 茶碗を受け取った手の甲に呪文が浮き出ているし、長い前髪で隠された額にも同様のものがある。
 この格好では見えないが、足首と胸、背中にも描かれているのだ。
 魔術の発動とともに、結界外に出ることも禁止されている。
 厳密に言えば、これは真之介自身を封印しているのではなく真之介の内側にいるものを封じているのだが、結果としてこうなった。
 だから、いつも通りの真之介らしい反応……というには動きが小さいが……が返ってくるだけでもあやめは少しほっとしてしまう。

 もう、あんな風になった真之介は見たくない。
 あのときのことを思い出すと、胸の奥が焼かれるように痛む。
 この痛みをわかってよ、と言う代わりに、背中から真之介の首に腕を回して痛むところを押しつける。
 ちょっと、気持ちが楽になった。
 真之介は嫌がることなく作業の手を止めて、いつも伸ばしている背筋を後ろに軽く倒す。
 銀と亜麻色の髪が絡み合い、その時にしかない模様を描いた。
 ちょっと首を乗り出して覗いてみると、拗ねているような怒ったような笑っているような、それらが混ざり合った複雑な表情を見せている。
 落ち着いて安心しているときでかつ自分が傍にいると、真之介がこういう顔をしてくれることをあやめはよく知っている。
 一言で言えば照れくさいのだ。
 ほっぺたは隠しきれずにちゃあんと赤くなっている。
 うれしくなってちょっと笑ったら、少し拗ね度が上がった。

「……」
「なあに?」
「袖めくれ」
「うん」

 あやめは頷いて、真之介の着ているもう白とは言えそうにない白衣の袖をめくる。
 また新しいのを縫ってやらなきゃと思う。
 蒸気管の金属表面加工などで変な薬品を使っていることが多いので、どれだけ洗っても汚れが落ちないことが多いのだ。
 だけど三回ほど折り返したところで真之介の手がそれを止めた。
 自分よりずっと大きい手に描かれている呪紋が苦しい。

「誰が俺の袖と言った」
「誰も私の、とは言ってないわよ」
「お前の袖だ」
「やーよ、助平」

 冗談めかして返答すると、真之介の表情が険しくなった。

「怪我をしてきたな」

 わかってくれるのはすごく嬉しいけど、あんまり知らせたくなかったことではある。
 一方、真之介としては、そうやって隠されるのが腹立たしい。

「もう真田さんに治してもらったから大丈夫。痕は残らないだろうって」
「そういう問題じゃない」

 あやめの頭に振り下ろそうとした真之介の握り拳が、目標に到達する前に分解して、すうっと髪の毛を梳く。
 撫でられているような感触が通り過ぎるのが、あやめには心地よかった。

「ねえ、何の研究をしているの?」

 あまりこれ以上この話題を続けたくなかったので、話を変える。
 真之介は、逃げたな、という顔をしたが、技術者というものは研究の話を振られると答えてしまうものなのである。
 もちろん、これはあやめの計算の内だ。

「写真機のレンズから映像を認識する方法を考えているんだ」

 前に言っていた人型蒸気の改良版……確か霊子甲冑とか言っていた……の話だろうとあやめは考えた。
 しかし、何かひっかかる。

「あれはもう試作機が完成したんじゃなかったの?」

 設計はとうの昔に完成していたはずで、実用化にむけて霊子駆動する試作人型蒸気とかなんとかを作っていたような覚えがある。
 ただ、現在の日本ではその試験が出来ない状態にあった。
 出来上がった試作品の霊子水晶製伝達装置を使ってその人型蒸気を動かせる人間が、今のところ真之介くらいしかいなかったのだ。
 人の霊力の波形か何かによって左右されるらしいが、詳しいことはあやめにもわからない。
 はっきりしているのは、米田も、一馬も、あやめも動かせないということだ。
 それに加えて、試作機の完成後に巨大降魔が出現したため、まともな試験を国内で行うことをあきらめたらしい。
 そのため、陸軍が協力関係にある仏蘭西に試作機を持ち込んで、動かせる人間を捜して実験しているそうだ。
 欧州大戦真っ最中の仏蘭西であれば、霊力保持者を捜すのは比較的容易であるということらしい。

 そこで、真之介の顔が一瞬、ばつの悪いものになったのを、あやめの目は見逃さなかった。
 何か隠しているような気がする。
 追求しようかと思ったところで、真之介は視線を机の上にずらして答えた。

「これはあれとは全く違う研究だ。
 自律思考型……とでも言えばいいか?
 人間が中に乗らずに戦える兵隊を作れないかと思ってな」
「……随分な方針変更ね」

 なんとか声を落ち着かせて感想を返したものの、あやめは妙に不安に駆られてしまった。
 それはつまるところ、人間外の兵力を求めた粕谷少将や朱宮中将と同じ考えではないのか。
 戦争で勝利するために人命が失われることがないように、人間ではなく、魔物に戦わせればいい。
 その考えの結末を見せつけられた後だけに、一見理想的なその考えが恐く思えて仕方なかった。

「亜米利加から輸入した人型蒸気も結局大して役に立っていないという話を聞いている」

 封印されているのにこの手の情報はしっかり掴んでいた。
 積極的に使い魔を行使できるという状態ではないので、どちらかというと人型蒸気の運営部隊の長が、専門家である真之介の意見を聞きに来たのかもしれない。
 人型蒸気はそもそも亜米利加で対呪術部隊に対する切り札として製造されていったものだ。
 外装を対魔効果のあるシルスウス鋼で形成しており、この降魔戦争においても、当初は対降魔の有効な切り札になるのではないかと期待されていたのだ。
 だが、小田原から最近の帝都において、人型蒸気では降魔の相手にならないことがほぼ実証されてしまった。
 現行のシルスウス鋼装甲では中型降魔以上の攻撃を防ぎきれず、かといってこれ以上厚くすれば重くなりすぎて各パーツを動かすには出力がまったく足りなくなる。
 現在でも間接部の反応速度が十分ではないため降魔の素早い動きについていけず、欧州大戦ではそこそこの戦力となっている亜米利加の最新式人型蒸気でさえも、せいぜい回数制限つきの盾にしかならないという評価が定着しつつある。
 しかし、それを打開するために霊子甲冑を考えていたはずなのに。

「無人機はまず捨て駒としての利用が出来る。
 人型蒸気が盾にしかならないのは、中に人間が入っているからだ。
 移動する盾とはいえ、結局は人間が持ち歩くことになるから運用方法が限られてしまう。
 降魔を引きつけて砲撃する際にも余分な犠牲が出る」

 まるで今日の戦いを見てきたように真之介は状況を正確に分析していた。

「無人機であれば、敵を食い止める際の自由度が跳ね上がる。
 一体の有人機と多数の無人機を組み合わせると、運用次第ではかなり多数の降魔を一度に相手取ることができるはずだ。
 そして、無人であれば内部の人間を守る必要がないから装甲は主機関部分の保護だけで済むから生産コストは下がる。
 重量も軽減できるから、機構を工夫すれば小型降魔の動きも追える敏捷度を実現できる」

 封印されている中で、相当に理論を練る時間があったためか、口を開き始めた真之介の説明は淀みなかった。
 だが、その淀みなさがあやめにはかえって不安だった。
 今の真之介は、霊子核機関の危険性を叫んでいたころの真之介と、技術に対する思いが変わり果てているのではないか。
 無人機だから切り捨てるなどという考えは、かつての真之介の口からは決して出なかったはずだ。
 人間嫌いで通っているほどの技術好きだからこそ、技術の粋を集めて作りあげた作品には確かに愛情を込めていた。

 それが、冷徹に兵を運用する戦国大名のような……
 その、とっさに思い浮かんだ不吉極まる想像を、あやめは無理矢理打ち切った。
 少し明るくしてやろう、と考えたあやめは、そういえばと今日のことを思い出した。

「そうそう、今日ね、空中砲台に助けられたの」
「ほう、ようやく出来たか。戦力のほどはどうだった」

 二ヶ月ほど前に神崎忠義に飛行船の基本設計と共に案を渡したのだから、本来なら速いと誉めるべき所だが、今の現状を見るとやはり一日でも早く完成して欲しかったのだ。
 待ちかねた、という気持ちがつい口調に出る。

「大型降魔が相手だったから一撃必殺とはいかなかったわ。
 だけど命中精度はかなり高かったわよ。近くで戦っていたけど私はこの通りだもの」
「それは朗報だが……大型降魔か。
 目撃報告はいくつも届いていたが、とうとう破壊活動も始めたか」

 このあたりの詳細な情報収集は、どこから情報を集めているのかわからない清流院琴音陸軍少尉に助けられている。
 一度彼に情報源を尋ねてみたが、「美しさは空を駆けるのです」という訳の分からない返事しか返ってこなかったので、追求は諦めていた。
 ただ、その情報の正確さは信頼している。
 かつてある陸軍少将の一党を全滅させるときに、その居場所を尋ねたら即答したものだ。

「ええ。出現する頻度は以前よりずっと高くなっているわ。
 どう少なく見積もっても帝都のどこかに潜んでいるのは一体や二体じゃないでしょうね」

 昨年末までの二年間で大型降魔は四体しか出現しなかったのに、である。
 ただし、今夏の小田原ではかなりの数が確認された。
 ただの降魔出現事件ではなかったのだ。
 歴史上に言う降魔誕生のきっかけとなった降魔実験の実行者である北条氏綱の霊魂が召喚され、それに呼応して大量の降魔が発生したのである。
 これはなんとか鎮圧することが出来たのだが、氏綱はまだ消えていない。
 どこにいるかというと、まさにこの場にいる、と表現してもそう間違いではない。

「真之介……、真之介だよね……」

 多分自分は今泣きそうな顔をしているんだろうと自覚しつつ、あやめは真之介の顔に手を伸ばした。
 頬をなぞり、額の封印を確かめる。
 この封印は、真之介の中にある北条氏綱を押さえ込むための物なのだ。

 小田原で北条氏綱の魂を叩きのめした真之介は逆にその身体を乗っ取られかけた。
 その場は脅威的な精神力で氏綱の魂をはね除けたと思われていたのだが、先日の帝都地下での戦いにおいては氏綱の魂が暴走して真之介は我を失った。
 凄まじいばかりの妖力と戦闘能力で戦況をひっくり返したものの、既に制御できる状態ではなくなっていた。
 自我を取り戻したのは奇蹟かも知れない。
 あのとき真之介は、あやめの叫びによって我を取り戻して救われたのだ。
 かくて、氏綱の魂は今表には出てきていない。
 だがそれは裏返せば、真之介の中に北条氏綱の魂は今なお存在していると言うことである。

 先の戦いが終わり、崩壊する敵本拠からかろうじて脱出した直後、一馬はその場で真之介の中の北条氏綱を封滅しようとしたが出来なかった。
 真之介の意識がしっかりしているときは、北条氏綱をほぼ完全に押さえ込んでいて、こちらからも向こうからも手出しできないらしい。
 しかし、この次いつ暴走するともわからなかった。

 彼の扱いをめぐって、協議会は紛糾した。
 元より化け物集団と見る目もある対降魔部隊の一員なので、氏綱もろとも殺してしまえという声も一つや二つではなかった。
 当然、米田も一馬もそんなことをみすみすさせるつもりはない。
 まず真之介が空中戦艦ミカサに搭載する霊子核機関についての準筆頭技術者であることと、小田原戦で大きな効力を上げたシルスウス鋼コーティング装備の発案者であることなどを挙げて、技官や軍事力信奉者からの支持を集める一方、対降魔部隊の必要戦力の重要性を説いた。
 元々四人しかいない対降魔部隊をこれ以上減らしては、残る最大の敵との戦いをどうすればよいのか。
 これについては陸軍大臣代行を務める京極慶吾陸軍中将が協力的だったこともあり、その信憑性は高まった。

 最終的に、抹殺派は米田のこの言葉が決定打となって口をつぐむことになる。

「山崎を殺すってえなら、その前にこの俺が相手になるぜ」

 朱宮中将亡き今、純剣術では陸軍最強と目される米田が、神刀滅却の柄を示して睨め付けた目を、真っ直ぐ迎え撃つことの出来る者はいなかった。

 かくて真之介の存命が決定されて、その次がまた問題だった。
 北条氏綱をどう取り扱うかである。
 近衛方術士団春日光介は、何とかして真之介から氏綱を分離してその魂を滅ぼすようにと言ったのだが、軍の一部が難色を示した。
 氏綱の戦略性が取り上げられたのである。
 この話が出たのは初めてではない。
 巨大降魔に対して真之介とあやめが暫定的な封印を施したときに、それを戦力として使おうという案が出た。
 特に、氏綱の魂を使えば降魔の軍団を直に操れることは、小田原で多くの者が見させられていた。
 一度は陸軍の内乱を招いた降魔軍団の設立論がここに来て再燃したのである。

 ただし、今回は明確な目的が眼前に示されていることが前回との大きな違いである。
 巨大降魔の対抗馬としての役割だった。

 先の戦いの最後で、巨大降魔にかけられていた暫定的な封印は解かれてしまったであろうというのが立場を超えた共通の見方だった。
 大江戸大空洞の底で封印を支え続けていた方術士団の一団が連絡を絶ったことに加え、大空洞の各所に設置されていた妖力計のいくつかが振り切れるほどの反応を示したのである。
 もはや、昨年末に暫定封印を施せたときのような生やさしい相手ではない。
 それは誰もがはっきりと悟っていた。
 巨大降魔に勝つ術はあるのか。

 これをめぐってまた議論になったころ、帝都の異常に誰もが気づき始めた。
 魔物の数が明らかに増え、なによりも完全に風が止まったことが皆に言いしれぬ不安を与えていた。
 魔物に対処したり、異常天候を調べたり、そして、動きの読めない巨大降魔を探るために、この問題は一時棚上げと言うことになってしまった。
 かくて、対降魔部隊の一人である真之介を、こうして縛りつけておくという状況になっているのである。

「あやめ……泣くな……」
「だって……」

 思い出されてならないのだ。
 氏綱に支配されたときの真之介の姿。
 どこか遠くに行ってしまう……自分の手の届かないところに行ってしまうようなどうしようもない絶望感。

 こわかった。

 大切な人を失う痛みというものを、あやめは先日味わったばかりなのだ。
 生まれて初めて友達と呼べる気がした相手。
 自分を捕らえていた敵だったけど、それでも、一緒にいて楽しかった。
 ……多分、もう生きてはいない。
 誰であろう、おそらくは他ならぬ真之介の手によって。

 真之介を責められるわけがない。
 真之介はただ自分を助けに来てくれただけなのだ。
 あれほどに傷つき、魂まで奪われそうになりながらも戦ってくれたのだ。
 そのことを考えると、自分がどうしていいかわからなくなる。

 それでも、こうして真之介の傍にいれば安心できた。
 自分のことを肯定してくれる人。
 使命でも血筋でもなく、自分を必要としてくれる人。
 自分が傍にいないとどうしようもない人。
 ……挙げていけばキリがない。
 真之介のことが好きだった。
 消えて欲しくなかった。
 死んで欲しくなかった。
 もう、二度と。

「あやめ、お前の泣き顔……悪くはないが、見ていて辛い……」

 真之介語で言う「悪くない」は誉め言葉である。
 思えば、それが解るまで半年以上かかったものだ。
 通常語に訳すると、「きれいだけれど」といったところか。

「うん……うん……」

 ぎゅっと、真之介の服の胸を掴んで頷こうとする。
 汚れてきているから、これも洗濯してやらなきゃ……
 頭の中を埋め尽くしそうな不安に立ち向かおうとして、必死になって目の前にいる真之介の存在を確かめる。

「お前を泣かしてしまうと、俺は自分を殴りたくなってくる……だから、もう、泣くな……」

 こういう時に気の利いた冗談を言える真之介ではないから、本当にやりかねないと思って、何とか気力を振り絞って泣くのを止めた。
 そのあやめの肩に手を置き、まだ睫毛の端に雫を残している瞳を真っ正面から見つめて、真之介は呼びかける。

「あやめ。魔物と戦っていて泣かされたら俺を呼べ。
 お前がいつどこにいても、必ずすぐに駆けつけてやるから」

 いつもとは逆に小さな子供のようにあやされている自分を感じつつ、どうしようもない安心感に包まれて、あやめはふっと眠り込んだ。

 きっと、朝からかけずり回っていたのだろう。
 真之介は、今すぐにでもこんな封印など破ってしまいたい気持ちを、あやめが怒るだろうから、悲しむだろうから、そして、起こしてしまいそうだからという理由をつけてなんとか自分に言い聞かせて堪えた。


第二章 戻らない未来



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