虚ろなる貴方無き世界
追憶其の七
序章 姿無き静寂



 これが嵐の前の静けさでないならなんだというのだ。

 フリー記者の長曽我部崇は、非の打ち所のない快晴の空を見上げるのをやめて、足下に転がっていた石ころを蹴っ飛ばした。

 コツ……コロ……

 他愛のない音が、やけにはっきりと聞こえる。
 しかし、響いているという感覚はない。
 むしろ全ての音が空に吸い込まれて行くかのようだ。
 静かだ。
 不気味なまでに。
 道を歩く人の姿もまばらで、こんな天気ならば外で遊んでいていいはずの子供達の姿も見えない。

 先日の天変地異とも言うべき大災害の後、帝都全域は暗黙のうちに戒厳令が敷かれたような雰囲気になってしまった。
 大半の店が閉まっている中で奇跡的に開いているミルクホールを見つけた。
 日差しから逃げるように扉を開けて中に滑り込む。
 ジュースを頼もうかと思ったが、メニウにアイスコーヒーなどという珍しいものがあるので注文する。
 最近欧米で流行し始めたという冷やしたコーヒーだ。
 もう十月だというのに、暑い。
 客が自分一人の静かな店内に、豆を挽く音が響き始めた。
 出来上がるまでの間に、ここまでの状況を整理してみよう。

 愛用の手帳の新しい頁に、太正六年十月五日、と書き込んでから頁をぱらぱらと戻す。
 毎年新年に同じ手帳を買って使っているが、例年ならば半分ほどしか書き込まないで終わっているのだ。
 その残ったページにためらうこと無しに落書きをするのが年末の楽しみだったりする。
 だが、どうやら今年は落書きなど出来そうにない。
 あるいはもう一冊買わないといけないかも知れない。
 本当に、無茶苦茶な年だった。
 そしてまだ四分の一も残っている。


 そもそもの始まりは長曽我部の知る限り二年半ほど前にさかのぼる。

 銀座上空に能楽師が現れたなどという眉唾ものの事件報告を最初に、帝都各地で魔物や怪奇現象の目撃報告が相次いだのだ。
 最初はすぐに収まると思われていたその騒動は、やがて陸軍だけではどうにもならない事態であることが発覚した。
 だが、宮城の方術士や陰陽師らが出動したことと、陸軍の中に設置された魔物退治専門の小隊が動き始めたことでそれらの魔物は退治され、事態は沈静化したと思われていた。
 ここまで調べたところによると、その小隊は対降魔部隊と呼ばれ、わずか四人の極めて特殊な部隊であるらしい。

 降魔。

 一般名詞ではない。
 だが昨今この帝都に跋扈している魔物は、古くは平城京に現れた鵺や平安京に現れた食人鬼や餓鬼といった一般的な魔物ではなく、特別な魔物ということらしい。

「本当かなあ……」

 思わず声が出てしまって主人が振り向いてきたので、愛想笑いを返してからまた手帳に目を戻して考え込む。
 妖怪の類を信じる気にはなれないが、しかし当たり前のように降魔の姿を白昼堂々と見せられては信じざるを得ない。
 が、やはり納得し難いものがあるのだ。
 維新から五十年も経て、産業革命の成ったこの帝都東京にて!

 そう、魔物の跋扈は終わってなどいなかった。
 再びおかしいと思い始めたのは昨年の年末あたりだ。
 どうも陸軍が妙な動きをし始めているという情報が流れ始めたころから、帝都各地で魔物の目撃情報が増えていった。
 そして同時に、路上生活者の中から次々と行方不明者が出るようになった。
 何かが起こるのではないかと思われたその時、起こったのは陸軍の内乱だった。
 しかも起こした人物は血気盛んな青年士官ではない。
 一人は親友の米田一基陸軍中将と共に日露の戦場で名を馳せた朱宮景太郎陸軍中将で、もう一人は陸軍武闘派の筆頭と呼ばれた粕谷満陸軍少将だったというから、信じられない話だ。
 内乱そのものは一日で平定されたものの、死者行方不明者五千人以上、陸軍参謀長に近衛軍方術士団長までが殉職するという事態になった。

 このあたりの記述は見ていると気が滅入ってくる。
 おまけによく解らない部分も多かった。
 畏れ多くも宮城で大激突があったかと思えば、陸軍の女性士官が入院していたという小さな診療所でも何百人かが死ぬ激突が起こっている。
 さらに、それとほぼ時を同じくして小田原で降魔の大量発生が起こった。
 さすがにここまでの経験から多少なりとも魔物を迎撃する手段を身につけた陸軍は、大苦戦したもののこれをなんとか鎮圧したらしい。
 ……らしい、というのは、さすがに厳戒態勢の小田原には入るに入れなかったので、陸軍の公表を信じるしかないからだ。
 公式には戦死者数の発表はないが、その後の陸軍各師団の動きを見ると、もしかしたら万を数えたかもしれない。
 同業者の中でも勇敢な者が何人か小田原へ向かったが、いずれも沈静化を待たずに連絡の手紙は途絶えた。

 小田原が鎮まったと思ったら、今度は帝都で天変地異が起こった。
 江戸の昔から少々の地震には慣れている帝都市民だが、これは訳が違った。
 そこら中で光の柱が立つわ、怪談に出てくるようなお化けが実体化するわ……。
 自然現象にしてはあまりにも異常すぎると思っていたら、どうやら首謀者がいたらしい。
 陸軍は帝国大学内に出現した敵根拠地への突入口に精鋭部隊を送り込んだ。
 彼らは生還率が一割を切るという大激戦の末に騒乱の首謀者たちを全員討ち取った、と陸軍は発表した。
 ただしこの戦いの余波らしきもので、帝都三十七箇所に局地的な壊滅現象が起こっている。
 市民の死者百三十名、重軽傷者……

 やめよう。
 書き並べた数字の一つ一つが恨みの声を発しているような気がして、長曽我部はたまらず頁をめくった。

「お待たせしました」

 丁度そこで店主がアイスコーヒーを持ってきてくれた。
 水で冷やしただけだと思っていたら、驚いたことに氷が入れられていてグラスが汗をかいていた。
 気がつけばひたすらに喉が渇いている。
 考えるのを中断し、クリームを入れるのももどかしく、一口目はそのまま飲んだ。
 あまり味覚は働かなかったが、望外の冷たさが心地よい。

「ふう……」

 いささかに苦い気もするが、ともかく一息ついた。
 落ち着いてから、改めてクリームを入れてかき回す。
 氷がグラスに当たってカラカラという音を立てる。
 涼やかな反面、何かもの悲しく思える。
 逆に暑いということを実感してしまうのだ。
 十月の気温ではないと改めて思う。

 外を歩けば三日に一回は魔物の姿を見かけるようになった帝都は、

 八日前から、風が完全に止まっていた。




第一章 終わらない戦禍



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