嘆きの都
追憶其の六
第六章 途絶えよ、滅びの階段 一



第五章 狂えよ、はかなき絆 九


 話は数日前にさかのぼる。

「兄者、猫の子が一匹迷い込んで来た」
「ほう。今朝食べた鰺が残っていたはずだからそれをくれてやろう」

 この二人の会話を聞いた者は、最初はまず違和感を感じることだろう。
 何故ならこの二人は、十歳程度に見える少年と京極配下の金剛を上回る巨漢という組み合わせなのに、巨漢の方が相手を兄者と呼ぶのだから。
 とはいえ、当の二人にとっては昔からそうなのである。
 この兄弟、
 兄を刹那、弟を羅刹という。

 鰺の残りを丁寧に細かくしてから水と一緒に子猫に与えてやる羅刹は、なんだか楽しそうである。
 しかし刹那はその可愛いとすら言えそうな顔を曇らせつつそれを眺めていた。

「兄者、やはり心配か?」
「まあ猫は元々妖力を持ちやすい動物だからな。
 集中する魔の力に誘われて偶然入り込んだだけだろうが、まったく気にせずにいられる事実でもない」

 少年のような外見に似合わず、その声は落ち着いており理知的である。

「渚に報告しておいた方がいいかもしれんな」

 二人は、地下都市の中でも一番大きいこの江戸中枢の外部警備を担当していた。
 今は、この町の中心で藤枝家の巫女を連れてきて帝都崩壊の準備を進めている重要な時期なのだ。
 一方で、現在小田原では重鎮の一人黒鳳が降魔を操って軍勢の多くを引きつけているが、決して油断できない状況なのだ。
 呑気に子猫の食事を眺めつつも、周囲に気をめぐらせるのは途切れさせることはない。
 文字通り、猫の子一匹とて素通りすることは出来ないように。

 が、

「何者!」

 とっさに刹那は叫んでいた。
 ふと間近にうっすらとした気配を感じたのだ。
 うっすらと、だが一度感じてしまえばどうしてここまで気づかなかったのかと思わせるほどの強大な気配だ。

「兄者?どうした……」

 羅刹はまだ気づいていないらしい。
 これはよほどの手練れだった。
 この任務に就いてから五年間、ここまでの相手は初めてだった。

「そこだあっっっ!!空刃貫殺!!」

 気を練り上げて瞬時に形成した鋭利な投げ槍をその気配のところへ投げ込んだ。
 その槍が、半ばで蒸発した。

「!?」
「なにっっ!?」

 ぼうっと、その場に陽炎が立つ。
 二人の肌を、目に見えぬ熱線がじりじりと焼く。
 相当の高温だ。

「気配は完全に消したつもりだったのじゃが……、水地め、なかなか優秀な番人をつけたようじゃな」

 その陽炎がゆっくりと人の姿をとっていく。
 いや、厳密には人ではない。
 相模、あずみ、あずさと同じその特徴は二人にはすぐに解った。
 長く伸びた耳、幾重にも重なったその尾はひいふうみい……八本!
 妖狐だ。
 それも相当高位の。

「……あなたは……」

 我知らず、刹那は二人称が「あなた」になっていた。
 老人然としたその姿からは、水地と同じかそれ以上かもしれぬ威厳を漂わせていた。

「儂の名は香神。莫迦孫たちに会いに来たのじゃ」

 その名を聞いて、刹那も羅刹も憶えがあった。
 相模たち三兄妹の祖父だ。



 刹那が吹いた召集の笛で、相模たち三人に優弥も集まってきた。
 あとの戦える者たちも半分くらいがやや遠巻きにしてこの場に集まってきている。

「何しに来やがった、クソジジイ」

 その壮絶な緊張感の中、相模はこの男には極めて珍しく、盛大に毒のこもった言葉を吐きつけた。
 なるほどこうして並んでみると、相模と香神はどことなく表情などが似ている。
 相模の五百年後……千年後くらいを想像するとこんな感じかも知れない。
 だが風格こそあれど、その身体には老いがはっきり目立つ。
 その老狐を向こうに回し、あずみとあずさはほんの少しだけ引いて、無意識に兄の影に隠れるように動いた。
 香神の視線が、かつて見たことがないほど厳しいものだったからだ。

 やや包囲され気味の状況ながら、委細構わずといった様子で香神は大きくため息をついた。
 その視線の先にあるのは、渚とあやめのいる祭壇の建物だ。

「……もう少し早く来るべきじゃった」
「訂正しろ。もっと早く動くべきだったとな」

 相模の言葉と視線には、本来は祖父に向けるものではないもの……憎しみさえ有った。
 やや隠れつつ、妹たちも同じ様な視線で香神をにらんでいた。

「ここまでのことを起こせば、き奴らとて全力で反撃してこよう。
 そうなればこの地ごと滅ぼされること必至」
「で?思慮深いクソジジイ上様は、孫に何を言いに来たのだ」

 相模の声は、いつもの冷静な声がよほど暖かく思えるくらいにとことん冷たい。

「最内陣は、解くな。このまま帝都から離れるのだ」
「あんたはまた、見殺しにするのか。
 自分の息子を……。俺たちの、父さんを……」

 相模は妹たちをすっと下がらせた。
 その周囲に氷の結晶が無数に浮かび上がる。
 彼らの立っている地にさっと霜が走った。
 呼応するように優弥も力を解放していく。
 散らばっていた小石がふわっと浮き上がり、粉々に爆ぜていった。
 いつも喧嘩していると言っても、この二人は境遇が似ている。
 いざというときの連携に目を見張るものがあるのはそのせいでもあった。

「死した者は帰らぬ」

 残酷な響きを以て香神は告げた。
 蘇らぬ、ではなく、帰らぬ、と言ったのは、反魂の術によって肉体だけを復活させることは可能だからだ。
 しかし、魂は変貌する。
 故に帰魂ではなく反魂と呼ばれるのだ。
 それは、この香神の力を持ってしても変わらない。

「そして死者のために、今帝都に生きておる人間共も、今生きておるお主達も、死なすわけには行かぬのじゃ」

 香神の八本の尾がゆらりと動く。
 伝説となった九尾の狐に比してはさすがに劣るが、

「さすがは香神、天海僧正の師であったのは伊達ではないか。だが……」

 香神の力は強い。
 それがかもし出す雰囲気とでも言うか、その威圧感は周囲を取り巻いた戦士たちを圧倒して無意識のうちに遠ざけてしまう。
 だが優弥と相模の二人ならばこれには対抗することもまだ出来た。
 刹那と羅刹もそれに次ぐくらいの実力はある。

「……衰えたようだな、御祖父様」

 優弥の言葉の後を拾って相模が言い放つ。
 息もぴたりと合っていた。

「死なすわけには行かぬ、だと?笑わせるな」

 視線と言葉だけでも香神を凍り付かせそうな迫力のまま相模は続ける。

「確かにこの江戸の人口は急激に減りつつある。日露の頃からそれが特に目立つようになった。
 だが、奥州、蝦夷に逃げ延びた隠里であろうとも、それが楽土となったのか?」
「……、この十年で逝った者は三十人。
 新たに生まれた命は十三人、……うち生まれて一年以内に逝ってしまった者が十人」

 香神は嘘こそ言わなかったがさすがに言い淀みかけた。

「この国全体が激変していく中、隠里であってもただでは済まぬ。
 ……先生は俺たちにそう教えてくれたよ」
「だから俺たちは帝都を破壊する……。煉瓦も蒸気も石炭の煙も、西欧と同じ末路をたどろうとするこの国の奔流そのものを止めてみせるぞ」
「新十郎か……、あやつが残るのを止めるべきだったか……」

 もちろん、優弥が言った先生とは水神水地新十郎のことに他ならない。
 香神に比べると水地も黒鳳も若い部類に入ってしまうのだが。

「現状を把握しておらんのか、相模。いみじくも水地の申したことの裏返しじゃ。
 帝都だけではない。大坂も、隼人の地ですらもこの国全体が変わっていくのじゃ。
 欧州から来る流れは嵐じゃ。もはや誰にも止められぬ」
「ならば座して死を待つというのか・・・!」

 相模の叫びが空を裂き、水蒸気が微かに結晶化する。

「まずは帝都だ。私はまずここにいる同胞を救う。そして今は息を潜めて生きる仲間全てを救ってみせるぞ!」
「そのためにどれだけの血を流そうというのじゃ。今街に生きている人々の生活をことごとくを破壊することになる」
「やって見せよう。無駄な破壊はしたくないが、家族を守るためになら私は何でもするぞ。
 おまえと違ってな!」
「争いになれば、今まさに生きておる仲間達の命をも即座の危険にさらすことになるのが解らんか。おまえの言う守るなど詭弁じゃ」
「逃げ延びてもいずれ緩やかに滅び行く。話し合いの道は奴らによって踏みにじられた……!
 おとなしく殺されてやる馬鹿がどこにいる!!」

 彼の激した声に、二人の妹が後ろではっきりと頷く。

「お爺ちゃんみたいに滅びを待つ気にはなれません。私たち未来が欲しい……。子供とか、孫とかにも会いたいんだから!」

 あずみが、ある人物の顔を見ないようにしてちょっとそっぽを向きつつ、顔を赤らめながら祖父に向かって叫んだ。
 末妹のあずさもならう。

「このままじゃ手に入らない未来なら、戦ってでも取るんだから!」
「……それらの未来も何もかも、閉ざさせたくはない。そしてこの国の人間達と共存する希望も失わさせん」
「共存、だと……?」

 相模の頬がかすかに震えたように見えた。
 呆れ果てているのと、怒りとが合わさっているのだろう。

「そなたらに儂の昔話をしたことはなかったな。
 丁度良い、聞かせてやろう」

 迷惑だ、という顔をした相模の態度をあえて無視することにする。

「人間たちと戦ってきたのは、確かに今に始まったことではない。
 儂とて、さすがに日本武尊と見えたことはないが、征夷大将軍坂上田村麻呂となら直に戦ったこともある」
「よく奴と戦って生きていられたものだな」

 平安時代に奥州を平定、あるいは征服した征夷大将軍。
 既に伝説の存在ではあるが、その常軌を逸した強さは昔語りに聞いたことがある。

「あやつは侵略者であったが、武人でもあった。
 儂らは確かに奴に敗れたが、あれは高潔であった。
 それが故に、我らは彼と大和朝廷と盟約を結んだのだ」
「それで、その盟約が守られたのか?」
「……いや」

 確かに、彼自身は盟約を守ろうとした。
 だが、彼の上にあった大和朝廷は違った。
 相模の言うとおり、彼らはその盟約をたてに田村麻呂の死後徐々に東へと押し寄せてきた。

「儂らは田村麻呂に負けたとは思っておらぬ。
 奴は儂らを倒したが、儂らに勝ったという傲りは見せなかった。
 だが、儂らは確かに敗北したのだ。
 奴ではなく、奴に遠く及ばない大多数の『人間たち』の前にな」
「それで、共存という台詞にどうやってつなげるつもりだ。クソジジイ」

 勝ち誇ったと言うわけではないが、香神の言葉を掴まえて、相模は畳みかけようとする。
 その拙速さが、甘さと危うさを伴っていることを感じて、香神は髭の奥で苦笑した。

「全てが敵であったわけではない。
 儂らも人間全てを敵に回したくはなかった。
 ……確かにその過程において、決して許されぬことも手を出したがな」
「何?」

 思い出したくない過去を思い出し、香神はいささか顔をしかめた。
 ある意味では、今相模たちがやろうとしていること以上のことをやっていたのだ。
 説得するためには、伏せておいた方が無難である。
 だが、若い孫を納得させようと言うときに隠し事などするのも無粋と言葉を続けた。

「源氏の遺児を後ろから支えて朝廷に立ち向かわせるのは一時的に成功したが、それも長くは続かなかった。
 その後再び京都に実権が移り、この関東は京都に立ち向かおうとして平定された。
 そのときに、儂らはどうにか儂らと協力できる者に覇権を握らせようとしたのだ。
 純然たる魔の力によってな」
「……まさか……」
「それは……」

 関東公方が京都の室町幕府の将軍に倒されたのは室町時代の中期。
 その後に起こったことといえば、一つしかない。

「氏綱が何故あれだけのことが出来たのか、疑問だったが……。
 降魔実験……、あんたが加担していたのか」
「儂だけではない。あのとき、黒鳳や水地らの師も一緒に動いていたものよ。
 魔の力は、人間よりも儂らに近いと思っていたのだ。
 だが、……結果はおぬしらも知っての通り。
 儂らの仲間も、何人もが帰らなかった」
「……、無様だな」

 結果くらい知っている。
 最悪の形で失敗したのだ。
 北条氏綱が実験の場として選んだ聖魔城は、それがあった大地「大和」ともども海中に沈められた。
 暴走した魔の力に飲み込まれ行く数万の苦悶の叫びと共に。
 このときに、陰陽師たちを隠れ蓑に先祖たちも関わっていたとは。

 相模はうまく言葉が出てこなくて、吐き捨てるようにつぶやいた。
 香神の言わんとすることくらい察することが出来る。
 巨大降魔を使っている自分たちの行動を危険だと言っているのだ。

「あれを繰り返してはならん。
 天海がやっとの思いでこの地を浄化してくれたのだ」

 四百年前、人間との最後の架け橋となれと祈って香神が育てた少年は、その期待に応えてくれた。
 氏綱の折に失われた大和の地を封じるための河川浄化の法を受け継ぎ、朝廷から黄泉の宝具を強奪か譲渡かはともかく入手して、朝廷からの防陣ともなる八鬼門封魔陣を造り、新たな町江戸に盟約となる六破星降魔陣を立てた。

 それからの二百五十年。
 かつてとは比べるべくもないが、それでも人と魔の共存できた平和な時代。
 若い水地や黒鳳には、やはりあの時代が全てだったのではないだろうか。

「あの巨大降魔が暴走すれば、お前たちが取り戻そうとしている時代の痕跡すらも全て崩壊する。
 お前たちは知らぬのだ、降魔の真の恐ろしさを。
 それが、人の子らと盟約を結んだ理由の一つですらあったのだぞ」

 だがそれは外から、そして予想していたとおり、西から破られた。
 そのとき多くの犠牲を払った。
 彼は再び人間の強大さを知った。
 この流れは止められぬと水地らと袂を分かち、争いを嫌う者等を連れてまだ力の遠いはずの東北、蝦夷へと移住した。
 滅びが近づこうと、待つことにしたのだ。

 これ以上多くの血を流すことよりも、人間が今一度自分らともこの国の大地とも共存できる日が来ると信じて。

「俺たちに人間と共存することが出来ないと言いたいのか。言っておくがそこにいる刹那と羅刹は人間だぞ」

 相模に名を呼ばれて、小さな兄と大きな弟の二人はすっと前に進み出た。
 香神の値踏みするような視線にひるみもしない。

「俺たちだけではないぞ、妖狐の長殿。今この町にいる者の三分の一は俺たちのような人間だ」
「俺も兄者もここではいじめられない。ここで相模達と一緒に、間違いなく生きているぞ」
「水地も黒鳳も、努力はしたのだな……」

 二人の言葉に偽り無しと見て、香神はふっとつぶやく。

「だが所詮それは個人の話だ。本来の人間社会から弾かれたからこそ、お主らはここと分かり合えた……それだけじゃ。人間のごく一部、それでは共存とは言えぬ」
「人間全てと共存する意味があるのか」

 静かに言い放ったのは優弥だ。

「俺にも憧れていた人間がいた。今守ってやらなきゃいけない人間もいる。だが、親父達を殺し、この街を睥睨している奴らと共存なんかする意味があるか」
「それでは永遠に分かり合えはせん。我々が人間の街を破壊すれば、我らと分かり合える人間をも敵に回す。奴らに非があろうと無かろうと構わずにな」
「分かり合えない人間が向こうにいるから、こちらは手を出さずに滅ぼうとでも言いたいのか」

 相模の歯が鳴った。

「滅びはしない!滅ぼされはしない・・・!
 そしてそれは人間達も同じだ、このまま進めば人間とてあの街では生きられなくなるぞ。
 街の奔流をせき止めて、永久なる都を、手を携える人間と共に造ればいい!」
「それはおごりじゃぞ相模!神にでもなったつもりか!」
「正義の名の下にこの国を蹂躙してきた奴らを倒すためなら、神にも邪神にもなってやろう!!」
「言葉では理解できぬか、孫よ」

 相模の尾が白い凍気を纏わせて踊り、香神の尾は灼熱の炎となる。
 優弥、刹那、羅刹も動いた。
 あずみ、あずさの二人は相模に無理矢理下がらさせられた。

「お兄様!!」

 相模はその叫びには返答しなかった。
 香神を相手にしてはさすがに気を抜く余裕は相模にも無い。
 感情が激していても、その怖さが実感できなくなるような愚か者ではない。
 真っ正面から香神に向き合って視線を動かさない。
 代わりに香神と姉妹の間をかばうように、優弥が立ちはだかった。
 刹那と羅刹は二人の反対側に回る。
 一応は取り囲んだ格好だ。
 しかし、衰えたとはいえ八本の尾を有する香神にはさすがに隙が全く無い。
 だが対する香神も、この四人を同時に相手にするにはいささか衰えすぎていた。
 双方どちらも動けないまま、息詰まるような静寂が続く。

 最初に動いたのは刹那だった。
 迎撃されるのは覚悟の上だった。
 自分が受ける隙に、相模達の攻撃が決まる。
 刹那が動いて、羅刹もいささかも遅れることなく続いた。

「魁、空刃冥殺ゥッッ!!」
「轟、爆裂岩破ァッッ!!」

 斜め両後方からの同時攻撃。
 香神は大きく尾を展開してこれに当たる。
 攻撃に対して振り返ることはない。

「無限精炎、二式之灼薙!」

 地を割り空を裂く二人の必殺技を、横様に振るわれた炎が相殺しきっただけではなく衝撃で二人を吹き飛ばす。
 だが刹那の狙い通りそこに隙が生じる。
 如何に八本の尾を持つ香神と言えど、後方に振るった後では。

「無限精凍、四式之冷瀑!」
「大地讃唱、湧昇地龍!」

 相模と優弥は無論その瞬間を見逃さない。
 だが香神もギリギリでこれに反応する。
 二人の絶妙さ故に、その攻撃を予測できた。
 若いなと思いつつ……

「裏七式之双壁!」

 正面から来た相模の攻撃、真下から湧き上がってきた優弥の一撃、どちらも防ぎきった。

「くっ・・・!」
「何っ!」
「少しばかり痛い目を見るがよい!四式之光爆!」
「あずさっ!」
「うん!」

 姉妹が止めにはいるが、香神の方がわずかに早い。
 巨大な火球が膨れ上がり……
 次の瞬間、跡形もなく霧散した。

『!!?』

 その余波だけで香神はかなりの後退を強いられた。
 しかし、直接攻撃力は無い。
 香神は跳ね飛ばされただけだ。
 しかし、香神を驚かせたのはそのことではない。
 彼を以てしても、眼前で起こった出来事が、何が起こったのか全く視認できなかったことだ。

「お止め下さい。香神様」

 聞き覚えのない澄んだ声を、香神はすぐ間近から聞かされて思わず眉が跳ね上がった。
 黒髪の長い美貌が真横に立っていた。

「渚ちゃん!」

 あずさがほっとしたような声で叫ぶ。
 今は儀式中だったはずの渚だが、来てくれると一安心だ。

「……そうか、おぬしが、水地の愛弟子の、渚か」
「お初にお目にかかります、香神様」

 香神の尾が直接届く距離で、渚は丁寧に頭を下げる。

「渚ちゃん、そいつに礼を尽くす必要はないぞ」
「おぬしはしばし黙っておれ、相模」

 孫を一喝してから渚を改めて眺める。
 話には聞いていたが会ったのは初めてだ。
 だが、少々話と一致しない。
 何より、自分に気づかせることなく光爆を吹き飛ばし、間近まで接近しているとは。

「……やめろ、と申したの」
「はい」
「儂の話を聞く耳を持つというのでは、無いのだな……」
「はい。香神様のおっしゃることは、私たちには黙って首を差し出すようにしか見えません。
 このままでは滅び行くというのに、待っていることなど出来ません」

 あやめに向かって語るときの事務的な声ではない。
 よく響き、美しく通り、聞く者を感嘆させるほどの強い意志が感じられる。
 香神は一瞬そこに水地の影を見た。
 五十年前、自分と対立してこの帝都に残ったあの男の叫びを彷彿とさせる。
 だから、単に受け売りではないかとも考えた。
 渚の年齢が彼の聞いたとおりだとすると、人間のこの年齢でこの意志は驚嘆すべき者だ。
 だが、

「滅ぼさせたりはしません。私が先生に育ててもらったこの町も、私の大好きな人たちも・・・!」
「渚ちゃん・・・!」
「渚・・・!」

 優しく、そして強い叫び。
 姉妹が渚の下に駆け寄る。
 それで香神は、渚について聞いた話を納得した。
 同時に、その存在がどこかまぶしく感じられてしまった。

「お帰り下さい、香神様。私たちは従いません。しかし、仲間と戦いたくもありません。どうか、私たちの成すことを見守っていて下さい」

 そういって、渚は真っ直ぐに香神を見つめた。
 先ほどまでの対峙と一見似ている。
 違うのは、渚に全く敵意がないことだ。
 香神が睨もうとも構わずに、静かに答えを待っている。

 難しい。

 初対面の香神としては、渚が同胞という意識はない。
 孫らのように仕置きするのではなく排除するために戦うことも出来なくはない。
 だが信じられないことに、渚の実力のほどが読めない。
 水地を凌いでいるはずもないのだが、しかし、先ほど何が起こったのか自分には解らなかった。

 また、渚は自分のことをてらいなく仲間と呼んだ。
 それが、この場で戦おうという気持ちを萎えさせる。
 純粋無垢に近い想いが香神の心を揺らす。
 黒鳳までがこの子を可愛がっていたと言うが、それがいささか解らぬでもなかった。
 今この者等の中心はこの渚なのだろう。
 止めるにはこの子を排除しなければならない。
 しかしそれをすれば、優弥も孫達も絶対に香神を許すまい。
 それほどの存在だと言うことは、孫娘二人が渚としっかり結び合った手を見れば想像がつく。
 渚を殺さずとも、危害を加えたら今度こそ仲間内での全面対決を招くだろう。
 仕置きでは済まない。

 香神は悩んだ。
 その間、渚は僅かも香神から視線をずらすことはない。
 そして、同じ瞳で三兄妹が、優弥が、立ち上がった羅刹と刹那が彼を見つめていた。
 渚が、平和にこの場を収めようと言うのなら、それに賛同する所存らしい。
 どれくらい、そうしていたか。

「……もはや、止めぬ」

 認めたわけではないが、この場は諦めざるを得まい。
 彼にとっての未来は大きく狭められた、あるいは遠のいた。
 だが、この者等にとっては開かれたのだろう。
 香神の言葉に気を抜ききったわけではないが、一様に安堵したような表情が揃った。

「儂らは再び待つことにしよう。お主らが勝つか負けるか……、それが我々全ての勝敗ではないが……、この場は、引こう」




「よっ、お疲れさん」

 渚が自室でくつろいでいると、ひょっこり優弥がやって来た。

「あ、優弥さん、それって」

 呼ばれ方はちょっと引っかかるが、渚がめざとく優弥の持ってきた物を見つけて嬉しそうな顔をしてくれたのでまあいいかと思う。
 季節はずれのイチゴのジュースである。
 よーく冷やしてすりつぶしたイチゴと牛乳と砂糖を混ぜ込んだもので、すっごく甘い。
 初めて水地にミルクホールに連れていってもらったときに飲んで以来、渚の大好物だった。

「今回は渚ちゃんにすっごく助けられたから、ご褒美」

 優弥は渚の喜んだ顔が見たいので、材料をある程度保存していたりする。
 とはいえ、氷室の割り当てもあるのであんまりたくさんは出来ないのだ。
 でも、

「・・・っ、おいしいっ……」

 一口飲んでみて、すっごく幸せそうな笑顔を見せてくれたので、それくらいは安い安い。
 ちょこちょこと飲んでいる渚の横顔は、普段は隠している本当の年齢を改めて納得させる。
 いや、無理している反動か、それよりも幼く感じる。
 それが、優弥にとってはいささかつらい。
 とはいえ、渚はジュースに集中していたので優弥のその表情は見なかったし、見られなかった。
 少し多めに口に含んで、顔中に幸せいっぱい振りまいて、
 ごっくん。
 こんな感じで、よーく冷やしたジュースが少しぬるくなってきたかなと言うところで、渚は飲み終えた。

「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」

 やっぱり来年は、もっと多めに材料を保存して置いてやろうと思う。

「ところで、来てくれたのは助かったんだけど、今日は藤枝のお嬢の方は?」
「体調が悪いらしいので、今日から三日くらいお休みです」

 優弥が口元を示してくれたので、いそいそと唇の端に残っていたのを拭きながら答える。

「体調が悪いって、ねえ……」
「あ、その言い方。優弥さん、女の子のこと解ってないでしょ」
「あ、えーと、その……」

 言葉に窮する優弥である。

「……ごめんなさい」
「解ればよろしい」

 渚はうって代わっていかめしい言い方になる。
 とはいえ、顔は笑っていたのであんまり効果はないが。

「なあ、渚ちゃん……」
「……はい?」

 言いにくそうな優弥に、笑顔のままの渚の答えが返ってくる。

「……渚ちゃん、つらくない?」
「え?」
「俺たちのために、無理してないか……?」

 最初戸惑っていた渚だったが、ふっとその表情がまた柔らかな物に戻る。

「生意気言いますよ。優弥さん達の為じゃないんです。私、本当に自分のためにここにいるんです。
 ……確かに、帝都全てが嫌いじゃないです。
 先生に連れていってもらったところ……、先生と一緒にいたところ……、それを壊すのはつらいけど……」

 渚はちょっとそこで言葉を途切れさせる。
 水地と一緒にいた帝大の研究室、あそこは、どうだろう……。
 何とか、してくれると思う、多分……。

「帝都が存在し続けることで、優弥さんや相模さんが、みんなが滅んでしまうと言うのなら、私は……、そんな帝都を壊したい。
 みんなに消えて欲しくない……。そんな、私のわがままなんです。
 知らない多くの人たちが苦しむ方が、自分の好きな人たちが苦しむよりずっといい……」

 本当は、ほんの少しだけ、嘘。
 上の帝都に住まう人々の中にも、忘れられない人たちはいる。
 渚は、やはり人間だった。
 捨てたつもりではあったが、あえて師である水地は渚にそれを忘れさせなかったようにも思う。

 紗蓮のように、転生に成功するのでもない限り人間は長くは生きられない。
 帝都を滅ぼすことが出来たとしたら、渚はきっと、優弥よりも兄弟たちよりも黒鳳よりも先に老い、死ぬ。
 同じ速さの時間の中では生きられない。
 それが解っているからこそ、渚は必死なのかも知れない。

「止めろと言っても、もう聞きませんからね、優弥さん」



第六章 途絶えよ、滅びの階段 二


初出、SEGAサクラ大戦BBS平成十一年九月四日



楽屋に戻る。
もう一つの第十話目次に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。