嘆きの都
追憶其の六
第五章 狂えよ、はかなき絆 三



第五章 狂えよ、はかなき絆 二



「どういうことだ……」

 もう何度目かになるつぶやきを粕谷はもらした。

 昨夜真田診療所を攻撃して、藤枝あやめと山崎真之介を奪取しようとした彼は、仲間の術者高音渚が藤枝あやめを手中にしたところで撤退せざるを得なかった。
 彼女を守ろうとする山崎真之介との戦いで重傷を負ってしまったところに、海軍の山口大将が自ら率いる制圧隊の強襲を受けたのだ。
 米田と並ぶうわばみと言われる飲んべえの彼が本気であった。
 真之介に両腕をへし折られた状態では、包囲網の突破も容易ではなかったが、どうにか追っ手を振りきった。
 そして、合流できた配下の兵五十人ほどと共に、高音渚との待ち合わせ場所である小田原にやってきていた。
 軍用自動車を用意していたものの、かなりの強行軍である。
 小田原までの進路でさらに数十人ほどと合流できたが、あとは倒されるか捕縛されるかしたらしい。

 しかも、ようやくたどり着いた小田原で彼らを待っていたのは、休息ではなく意外な光景であった。
 町のあちこちで煙が上がっている。
 まだ炎を上げているところもあった。
 電線もそこかしこで切断されており、おそらくは通信もままならぬまい。

「戦闘のあった帝都ならともかく、何故小田原が……」

 隊長を務める坂崎少佐が、理解できん、と言うように首を振る。
 一方で粕谷自身はある程度気づいていた。
 爪痕や、溶けた様な痕。
 間違いない。
 試験で見せつけられたからよくわかっている。
 ここで暴れたのは軍隊ではなく、小型降魔の集団だ。
 
……どういうことだ。
 既に降魔実験を実行したというのだろうか。
 真田診療所での高音の様子がおかしかったことを考えればあり得ない話ではないが……。

 何にしても、ここを放っておくわけには行かない。
 内乱とされ、反乱軍と扱われる身分ではあっても、全て憂国故の行動である。
 この国を守る気持ちでは誰にも負ける気はしない彼らだ。
 守るべき人民にここまでの被害が出ているのは見過ごすわけには行かなかった。
 義憤に駆られた兵士たちが、次々と救助活動をしたいと申し出てくる。
 粕谷は少々考えてから回答した。

「坂崎君、君は六十人を指揮して生存者の救助に当たってくれ。警察が機能していれば共同作業を優先すること」
「はっ!」

 無茶とも言える命令だが、警察には反乱軍を討伐する権限はない。
 組織が全く別であるのだ。
 小事より大事を優先することも出来よう。

「閣下はいかがなされますか」

 坂崎としては、粕谷には一刻も早く手当を受けて休んでもらいたいところなのだが、そんなことを言っていられる状況でないのは嫌というほど良くわかる。

「後の十名と共に城へ向かう。おそらく原因はあそこにあるだろうし、行かねばならぬ」

 そう言って粕谷はゆっくりと視線の角度を上げる。
 煙の間に、あり得ないはずの物が姿を見せている。
 小田原城は明冶の初頭に破棄され、破壊されたはずだった。
 だが今、彼らの視界の中にその姿は確かにあった。
 霊力のない者にすら肌で感じさせるほどの禍々しさと共に。

 坂崎少佐は壮絶に嫌な予感にとらわれた。
 しかし、止めることは出来ない。
 粕谷の言うとおり放っておくことなど出来るものではない。
 しかし超人と謳われる粕谷といえども、これほどの災禍をもたらす物が相手では……
 なおかつ粕谷は両腕を骨折しているのだ。
 それでも今この瞬間彼の目が、自分たちが信じた、自分たちがついていこうと決めた偉大な男の目そのままに一つの曇りもなかったから、坂崎は止められなかった。

「……では閣下、どうか……」

 お気をつけて、とは続けられなかった。
 言わずもがなのことでもあるし、そう口にして事態の不吉さを自分が思い知るのが怖くもあった。

「うむ」

 頷いてから、粕谷はさっと坂崎に耳打ちした。
 その後十人を選抜して手早く城へ向かう。
 その後ろ姿が安定していることに少しの安堵を覚えてから、坂崎は命令を下した。

「黒川中尉隊は水を確保せよ。井上少尉隊は警察を探し出してどうにか連絡を取れ。くれぐれも閣下の名は出すな。また、何者かに襲われた場合、生存して連絡することを第一の任務と心得よ」

 不安が増大するだけと考え、口にはしなかったが、この仕業は降魔によるものと粕谷に告げられたのだ。
 坂崎は粕谷に鍛えられている陸軍でも上位の格闘家であるが、それでも降魔と直接やり合って勝てるかどうかは大いに疑問である。

 閣下……。

 その巣とも言うべき場所に乗り込んでいく粕谷の身を案じながら、坂崎は残りの兵たちに救助活動の開始を命じて、自身もうめき声の聞こえる長屋の跡で瓦礫の撤去を始めた。



「今のうちに皆に告げる」

 どこに走る力が残っているのか、と思わせる粕谷の状態だが、口調は未だにしっかりしていた。

「この後私が指揮を執れない事態に陥ったら、その事態を外部に連絡することを最優先するのだ。忘れないでくれ」

 らしくない、気弱とも言える発言だが、極力悲愴めいて聞こえないように気をつける。
 ある程度の試算はある。
 これをしかけたのが高音だとして、自分を殺してしまうつもりなら真田診療所でそうしているはずだ。
 自分に小田原まで来るように告げたと言うことは、何かを考えてのことだ。
 だが、それにより自分に何か起こったときには……おそらく良いことは起こるまい。
 それをどうにかして外部に知らさねばならぬ。
 ここまでの事態を招いたのは、紛れもなく自分の責任だ。

 選んだ十人は持久力のある者が多い。
 この十人は、決死の脱出隊なのだ。
 口には出せないが、粕谷は彼らに心の中で詫びた。

 これが、魔の恐ろしさ……。春日殿……、貴方が言っていたのはこういうことか……。

 粕谷はまだ、春日玲介方術士団長が戦死したことを知らない。



 部屋の中に突然人影が現れる。
 もっとも、待っていた方にとっては驚くほどのことではない。
 身長三メートル余、側頭部から黒い翼を生やした雄大な姿の黒鳳であるが、帝都での騒乱にも参加せずにここ三日の間ぶっ通しで儀式を続けて、ひどく疲れていた。
 しかし、自分に頼みをした本人である、彼にとっては自分の子供にも近い渚の顔を見れば疲れも飛ぼうと言うものだ。

「黒鳳さん、ありがとうございました」

 姿を現した高音渚は、長身の黒鳳の半分ほどしかない身体を丁寧に曲げてぺこりとお辞儀をする。

「何、渚の頼みならこれくらいどうと言うことはない」

 そう笑いながら、自分にとってはずいぶんと小さな渚の頭をぽんぽんと撫でる。
 渚はうれしそうな、不満そうな、複雑な顔をした。

「……子供扱いしないで下さい」
「子供だよ、私にとってはな」
「先生でも、そうですか・・・?」
「……」

 黒鳳は、渚の師である水地と古いつきあいがある。
 古いと言っても数十年ではない。
 渚は、二人が赤穂浪士の討ち入りを懐かしそうに酒の肴にしていたのを聞いたことすらある。
 黒鳳は、渚にとっては師の面影がある人であった。
 水地は水神、黒鳳は元烏天狗の一族と、出身は全く違うのだが。
 黙って自分を見上げてくる視線がちょっと可哀想に思えて、黒鳳はちょっと励ましてやることにした。

「新十郎ならば私とは違った感覚の持ち主だからな。答えは違うだろうよ」

 ちなみに、水地新十郎が水地の本名である。
 気休めに近いとわかっていても、師に近い雰囲気を持った黒鳳にそう言ってもらえるとやっぱり渚は安心した。

「……状況を詳しく教えて下さい」

 安心して、渚の顔は帝大講師の顔に……あえて言うならば現在の闇の者たちの指導者の顔つきに戻った。
 黒鳳は、ほんの少しだけそれを残念に思う。

「北条氏綱の魂は呼び寄せてある。そこにな」

 黒鳳は部屋の奥に掲げた黒い炎を示した。
 時折その中に、人の顔のような物が見え隠れする。

「陽動のための小型降魔はこれまでに百体作り出して、うち九十七体が実働可能だ。
 今は城門付近に待機させてある。
 そして粕谷少将は、配下十人と共に今城下をこちらに向かっているところだ」

 粕谷の名前を聞いて、渚の表情がやや曇る。
 悲しいのではなく、すねているような表情だが。

「十人ですか、少ないですね」
「こちらが小田原の町で降魔を暴れさせて警察まで襲撃したからな。
 粕谷は後の兵を城下の収拾に当てている」

 彼にしてみても、人間と敵対したいわけではない。
 江戸の二百年を、彼は人間と共存して生きてきたのだから。
 だが、今は必要とあれば実行に移す。
 彼が一番守りたいのは、人間ではないのだから。
 それが、正義ではないとわかった上で。

「死者は、どれくらいでしょうか」
「渚、おまえは考えてはならん」

 少しだけ、黒鳳の声は咎めるようであった。

「おまえが、何もかも背負うことはないのだよ」

 黒鳳はかがみ込んで……それでもまだ少し渚より目線は高かったが……渚の小さな手を取る。

「いかに私が衰えたといっても、まだこれくらいの儀式で力尽きたりはせん。
 氏綱を使うのもおまえがわざわざやることはないのだよ」

 師を思い出させるその優しい声に渚は思わず頷きそうになったが、改めて頭を左右に激しく振った。
 あのとき、真田診療所で自分は山崎真之介を殺せたはずだった。
 自分ならば殺してからでも脱出することができた。
 なのに、あのとき粕谷がとっさに撤退すると叫んだ言葉に従ってしまった。
 嫌悪だ。
 認めてなんか、いないのに。

「私がやります。……やらなければ先へ進めない……。私は、高音渚だから……」

 ここまで参加させるのではなかった。
 黒鳳は、渚をここまで引き込んだことに何十度目かの後悔を覚えた。
 いかに、渚無しでは今の自分たちがここまで来られなかったとしても。

「……」

 何十度目かの説得をしようとしたところで、城内に粕谷が入り込んだことに気がついた。
 仕方……あるまい……。

「十人の配下の方は私が何とかする」
「……一人、持ちそうな士官を逃がして下さい。見せつけた後で」

 渚の瞳は、一転して冷静で冷酷な物になった。
 黒鳳としては、この目をこそして欲しくないのだが。
 しかし、その指示は正確だった。

「そうだったな」

 心得たように頷いて、黒鳳は立ち上がった。

「下で彼らを迎えてこよう」
「では、私も最後の仕上げをします」

 そういって渚が取り出したのは、やはり五樹達の手によって宮城から手に入れてきた宝具の一つ、黄泉灯だった。



 百体ほどの降魔が居並ぶ異様な光景を横目にしつつ、粕谷たちは城門をくぐった。
 不思議なことに降魔たちはギャアギャアとわめくものの、襲いかかっては来なかった。
 粕谷としては、ここで迎え撃たれると思っていたのだが。
 中に入ればそれだけ配下を脱出されるのが難しくなる。
 しばし悩んだが突入することにした。
 このままおめおめと戻るわけにも行かない。
 入れと言わんばかりに堀には橋が架かっていたし、門も開け放たれていた。
 ならば中を確認せねばならない。
 この戦いを起こした者として、責任があった。

 それにしても、目の前で見上げる小田原城は不気味であった。
 粕谷は壊される前の小田原城を知っていたわけではないが、その壁がどうとも名状しがたい色というか、雰囲気を放っている。
 いや、はっきり言えば壁ではなく城全てからそれを感じる。

……霊体で造られたという可能性もあるな。

 この数ヶ月でそういったことにずいぶんと詳しくなってしまったため、そんなことも考えた。
 少なくとも、再建工事をやっているという話は聞いたことがなかった。

 城内に入ると、戦国時代の建築物にしては天井が高すぎる。
 まともに政府主導で再建するならばもう少し再現させるだろう。
 まさか、大陸から攻め寄られたときのために帝都の前に砦を、などと馬鹿な発想でこれを再建するとも思えない。
 ただ中はどちらかというと、軍勢を待機させることを目的としているように感じられた。
 細かい部屋はなく、全般に大雑把というか大部屋が多い。
 三階までは何の障害も無しに来た。
 そこで一人の大きな影が待っていた。

「ようこそいらっしゃいました。粕谷満陸軍少将閣下」

 長身の影は……黒鳳は腰をかがめて恭しく挨拶する。
 確かに敬意を感じさせるが、同時に粕谷はその裏にやや敵意のようなものも感じた。
 彼でなければ気づきそうもないくらいわずかなものだが。

「高音と同じ術者と言うことか。
 この小田原城を再建したのはそなただな」

 こちらは略式の礼を取りつつ尋ねた。
 いささかも気が抜けない状況だ。
 目の前に立つ長身の男の実力は、粕谷の目で見たところ半端ではなさそうだ。
 簡単に底が見えるような使い手ではない。

「ご慧眼の通りでございます。
 先ほどから上で高音渚が待っております。
 内密のお話にしたいとのことですので、同志の方々はここでお待ち願いたい」
「それはならんぞ。閣下はひどい怪我をなさっている。それをお一人でなどと……」

 十人の内の一人、杉野中尉がたまらず抗議の声を上げる。
 そこで黒鳳はこの男にしようと決めてから、

「閣下の身の安全はこの私が保証する。
 私が信用ならぬと言われればそれまでだが、誠意としてまあこれくらいのことは出来る」

 そう言って、黒鳳は粕谷の腕に触れるか触れないかくらいの所から治療をかけた。
 渚ほどではないが、黒鳳もこういう能力がないわけではない。

「いかがでしょうか」
「ふむ」

 真之介に折られた両腕がまともに動くようになっていた。

「……なるほど、大したものだな」
「完治したというわけではないので、それほど無理はなさらぬよう」

 後々のことを考えるなら治しておいた方がいいのだが、渚は間違っても粕谷を治療することはないだろうと考え、黒鳳は自分でやることにしたのだ。
 包帯で巻き付けた添え木はまだ外させないようにする。

「上だな」


 四階は一つの広間になっていた。
 天井が高いくせに押しつぶされるような圧迫感が階全体を包んでいる。
 その奥に炎とは呼べないような黒い篝火、そしてその横に設置された灯火の青白い光に複雑に照らされて高音渚が待っていた。

「聞きたいことがある、という顔ですね」

 握りしめた掌にじっとりと汗がにじむのを押し殺しつつ、渚はにこやかを装った。

「腐るほどな」

 あまり笑う気にはなれずに、粕谷は素っ気なく答える。
 実際に渚の実力のほどはよく解らないが、小型降魔の数匹をけしかけられたくらいなら素手できり抜けることも不可能ではない。
 その間に術者をしとめることが出来る。
 その確信が持てる間合いまで近づいて、足を止めた。

「藤枝あやめは別室にて休ませてあります。診療所から脱出する際に私が少々無茶をしたので、現在体調を崩していますから」
「どうやってあそこから脱出したのだ」

 粕谷は一人で突破したが、まあ……この術者が脱出しているだろうとは思っていたが……

「方法は色々ありますよ。ご想像に任せるとしましょう」

 そこで渚はくすりと笑った。
 どこか影がある笑みだったが、渚の笑顔を粕谷は初めて見た。
……そこで、何かが頭の奥で引っかかった。

「まあいい。今はそれよりも聞きたいことがある。小田原の町を襲わせたのは何故だ」

 さすがに視線が凄絶さを帯びる。
 もう四十時間近く一睡もしていないはずなのだが、そんな気配は微塵も感じさせなかった。

「おまえは私に言ったな。
 巨大降魔に直結する藤枝あやめを奪取し、北条氏綱の器たり得る山崎真之介を手にすれば降魔の一大軍団を作ることが出来ると」
「ええ、申し上げました。虚言など入っていませんが」
「確かにな。私も一つの情報源だけで方針を決定する愚は犯さん。十数人の方術士や陰陽師に尋ねてみたし、おまえのおらぬ所でも実験もした」

 存じておりますよ、とでも言うように渚は表情を崩さない。

「おまえほどの術者はさすがにいなかったがな」
「それは光栄」
「だが今のこの状況はどういうことだ。北条氏綱を既に復活させたのか。
 そういえばおまえは診療所で山崎真之介を殺そうとしていたな。
 奴以外の器を使おうとして、失敗したあげくがこれか!
 この日本の中で民を巻き込んで無意味に暴虐をふるえなどと指示した覚えはないぞ!」

 陸軍叩き上げの猛者ですら震え上がるという粕谷の一喝を、渚は涼しい顔をして受け止める。
 粕谷は真田診療所の攻めの折も攻撃前に周囲に避難勧告を出した上で攻撃している。
 彼が目指しているのは外への攻撃で、本来内乱は本意ではない。
 本意でなくともやらざるを得ないのは納得しようとしているのだが、このような現状はさすがに容認出来るものではなかった。

「まだ行っていませんよ。それに無意味と言うこともありません」
「氏綱を蘇らせたのでなければ、あの小型降魔共は従来通りの方法で使役したのだろう。
 規模こそ大きいが、実験としての意味もあるまい」

 ここまで冷ややかなのもいっそ見事と呆れつつ、粕谷は更に問いつめた。

「軍の目をここに向けておかなければならないからです。
 生半可に活動をしたところで、陽動と見抜かれる恐れがあるでしょう」
「陽動だと?これだけの大騒ぎがか」
「軍団もそうですが、肝心なのはやはりあの巨大降魔。
 帝都で活動しようと言うところを気づかれたくはないでしょう」
「ん……」

 確かにあの巨大降魔だけは別格との報告を受けている。
 一般に小動物クラスの大きさの小型降魔。
 ほぼ人間大の中型降魔。
 人型蒸気より大きい大型降魔。
 乱暴な分類をかけるとこのようになる。

 ちなみにそれぞれの戦力は、小型降魔一体に対魔装備をした精鋭部隊の隊員か、あるいは一中隊ほど。
 中型降魔ともなると、大砲の直撃を当てるのでもなければほとんど対降魔部隊に頼るしかない。
 対降魔部隊は中型降魔を一対一で葬り去ることが出来る。
 無論、粕谷も本気で戦えばそれに近いことは可能かも知れないが……。
 大型降魔はこの降魔戦争を通じてまだ四体しか確認されていないが、対降魔部隊四人総掛かりを必要とする相手だった。
 そして日本橋の地下にいる巨大降魔は、その大型降魔に数倍する巨躯の持ち主だという。
 始動直後で活動が鈍かったらしい内に対降魔部隊の二人が辛くも仮封印を施すことに成功していたから良かったものの、携わった二人は瀕死まで追い込まれた。
 その二人こそ、当の藤枝あやめと山崎真之介なのだが。

 確かにその戦力的な必要性は納得せざるを得ない。
 直に見たことこそ無いが、粕谷はあれ一体で小国一つは潰せるほどの力があると試算している。
 絶対に近い力。
 それこそが粕谷と朱宮をして惹きつけた、降魔の負の魅力の頂点であった。
 無論そんな物を四六時中使うわけには行かない。
 切り札なのだ。
 実際に動かす戦力として、降魔の軍団を必要とする。
 それが北条氏綱を使う理由だった。
 甚だ不本意ではあるが。

 自分の選んだ道が修羅道であることを改めて再認識する。
 もはや後戻りは出来ないのだ。
 そう思い、顔を上げた。
 渚はいっそ憎らしく思えるほど涼しげな顔をしてそのままでいる。
 すぐ横に炎が燃えて、しかも夏が近いこの時期だというのにだ。
 闇色の炎だが、周囲の色彩がそれに合わせて踊る。
 渚の表情が、それに合わせて揺らめいたかのように見えた。

 ふと。

「……どこかで、会ったか?」

 そんな気がした。
 今年になってから風塵に優秀な術者だと紹介された、その前にだ。
 どこかで見た顔だ。
 どこかで……。

 そういえば、この謎めいた術者と一対一でこうして向き合うのは初めてだ。
 常に風塵を挟んでいるか、周りに余人がいるかのどちらかだった。
 どこかで、こうして会ったような気がする。
 だが、頭の中の記憶の欠片がつながらない。
 もう……十年以上前のような気がする。
 しかし、目の前の渚はどう見ても二十が良いところだ。
 不老の術などを使っている可能性もあるから、それが否定できないのだが。

「いいえ」

 きっぱりと渚は答えた。
 ただ否定するにしては、やけに強い口調で。

「あなたに会ったのは、風塵に紹介されたのが初めてです」

 嘘の気配のないその言葉に、どこか咎めるような気配があった。
 何故だ……、何故だ……?
 覚えはあるのだ。間違いなく・・・!

「先ほどの質問の続きをお答えしましょう」

 半ば混乱している粕谷に対して、渚はあくまで静かだ。
 嵐の前がそうであるように。

「山崎真之介は必要ではないのです。あれはあくまでその素養があると言うだけのこと。
 器さえ他にあれば、彼は殺してしまって構わない」

 渚の瞳が、一瞬、壮絶な色合いを帯びる。
 粕谷は無意識に、ほんの数ミリ足が引いた。

「他の器を見つけたと言うことか」
「ええ……」

 粕谷に向き合っていた視線を外し、先ほどから横で燃えさかっている黒い炎に向いた。

「最初から、ね」

 すうっと渚が手を掲げて灯火をかざすと、横の篝火の炎が一気に膨れ上がった。
 光の代わりに、渚の顔を闇が照らす。
 わき起こる大気の乱れに、渚の長い髪が鮮やかに舞い踊った。

「・・・っっ!!!」

 思い出した!
 それが記憶の欠片を全てはめ込ませた。
 その面影が誰だったのか。
 どこで会ったのか。
 全て思い出した。

 だとすると、目の前にいるこの術者は・・・!
 そんなはずはない。なぜならあの子は・・・!

 確信と疑念が、嵐のように粕谷の心の中で吹き荒れた。
 柏谷にとっては最大の不覚だったろう。
 その隙が、命取りになった。

ガッ・・・!

 渚に顔面を掴まれていた。
 華奢な右手だが、案外に力が強い。
 そしてもう一方の手は膨れ上がった闇色の炎を纏っている灯を掲げている。

「おまえは……」

 反撃する気力すら起きず、茫然とした顔つきで粕谷はすぐ間近にあるその顔に向かって手を伸ばす。
 だがそれが届くより先に、渚は冷たく、何かを断ち切るような叫びのように、告げた。

「さよなら・・・・・・・・・!」

 粕谷の視界が黒い炎で埋め尽くされる。
 ただその一角を引き裂いてあるのは、思い出した面影。
 だがそれすらも朧になっていく。

「あああああああああああっっっ!!!」

 声にすらならぬ叫びを上げつつ手が伸ばされる。
 だがその指先は渚の艶やかな前髪をかすめて力無く落ちた。
 そして、その全身から彼にあらざる力が吹き上がる。



「閣下ァッ!!」

 粕谷の叫びを聞いて、それまで黒鳳を胡散臭そうに見つめつつもおとなしく座っていた士官たちが色めき立った。

「貴様っ、これはどういうことだ!」
「身の安全は、保証した」

 我ながら詭弁だと思いつつも、黒鳳は四階へ向かおうとする彼らの前に立ちはだかる。

「どけいっ!!」
「そなたらに恨みも罪もないが……」

 静かに告げる言葉と共に、黒鳳の周囲にいくつもの朧な塊が浮かび上がる。

「許せとは、言わぬ!」

 先頭の士官がまずその塊に取り憑かれた。

「ぎゃあああああっっ!!」

 人外とも思える……いやまさしくその通りの叫びを上げながら、彼は変貌していく。
 耳障りな音を立てつつ、皮膚の下から外骨格が、背を裂いて翼が現れる。
 粕谷直属である彼らは、今しがた城門でも見たそれが何であるかよく知っていた。
 紛れもなく降魔……それも中型降魔だ。

『うあああああっっ!!』

 悲鳴とも怒りともつかない叫びが残りの九人から上がる。
 五人は恐怖と共にその場にへたり込み、残りの四人は黒鳳に向かってこようとする。
 まず向かってくるうちの二人に取り憑かせてから、その場にくずおれた五人にも取り憑かせていく。
 残り二人の内、先ほど残そうと決めた男をかわしてもう一人を取り憑かせる。

 残された杉野中尉は、全身が凍り付くほどの恐怖と沸騰するほどの怒りに、腰の軍刀に手をかけた。
 しかし、こんな物でどうにかなる相手でないことは明白だ。
 そこで彼の頭によみがえったのは、先刻城下にて粕谷に告げられた言葉だった。

−−その事態を外部に連絡することを最優先するのだ−−

「う……く……」

 抜こうとした手を離し、黒鳳に背を向けて走り出した。
 背後からあっさり取り憑かれる可能性の方が高かったが、彼は無駄になるかもとわかってはいても最後まで粕谷の命令に従うことを選んだ。
 自分と同じくあの英雄に夢を託した同志たちに出来る、それが唯一の供養かも知れない。
 走りながら杉野中尉は叫んでいた。
 己の無力を嫌と言うほど味わい、呪いつつ。
 不思議なことに、追っ手は襲ってこなかった。

「……準備は、整ったな」

 今や完全な降魔と化した九人を命令に従わせて見渡してから、黒鳳はふたたび四階に戻った。

「・・・!」

 入った瞬間、言いしれぬ感覚が走る。
 これほど強力な気配を感じるのは久しぶりだ。
 広間の奥、渦巻くような妖力の向こうに粕谷が直立したまま浮かんでいる。
 いや、粕谷の肉体が、と言った方が正確だろうか。
 その傍では渚が、口元を押さえてうずくまっていた。

 必要な儀式手順は全て終わっているらしい。
 暴走を押さえるための結界陣も既に完全な形で作用していた。
 氏綱の暴走を食らって倒れたのではなく、それらを終えてからうずくまったらしい。

「渚……」

 そっとその背を押さえてやる。
 渚はその場に吐いていた。
 わずかに面を上げた瞳がうっすらと潤んでいる。
 その姿は、あまりにも痛々しかった。

……無理もない。

 階下で降魔に変えた九人には申し訳ないと思いつつも、黒鳳にはその姿の方が胸に痛みを感じた。
 しばらく背中をさすってやってから、ハンカチ……外来の物だが黒鳳は手ぬぐいより気に入って使っていた……でその口元をすっと拭ってやる。

「黒鳳……さん……」

 やっとの思いで言葉を紡いで、渚はそのまま意識を失って黒鳳の腕の中に倒れ込んだ。
 とはいえ、この子に気付けの酒など飲ませるわけにも行かない。
 口と喉を湿らせる程度の水を与えてから、その場に横たえる。

 江戸まで連れていってやりたいが、この場を離れるわけにも行かない。
 配下の烏を呼び出して、おそらく今一番自由が利くであろう相模へ伝言を託して飛び立たせた。
 半刻もせずに相模はやってきた。

「渚ちゃん……」
「今日は一日しっかり休ませてくれ。おまえが状況をみて、明日動いて良いかどうかの判断も頼む」

 浮かんでいる粕谷を見て、相模はなるほどと納得した。

「わかった」

 渚もろとも姿を場にとけ込ませて、相模は飛び上がった。
 その姿を見送りつつ、黒鳳は今一度、渚をここまで引き込んだことを悔やんだ。



第五章 狂えよ、はかなき絆 四


初出、SEGAサクラ大戦BBS平成十一年八月十四日



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