薄曇りの夜。
「時は来た」
居並ぶ士官たちを前に、朱宮は静かに、しかし気迫のこもった声で告げた。
「行こう、遙かな夢のために」
『はっっ!』
* * * * * *
降魔支配のために宮城の祭器を手に入れようと政治的な工作を続けていた朱宮中将だったが、その軍がついに動いたとの情報が、警戒に当たっていた大河原から電信で米田の元に届けられた。
対盗聴設備は十分ではないあやめの入院している真田診療所で受け取ったのだが、もはや盗聴など気にしている事態ではなくなった。
「こういう伏線だったか」
つい二時間前に朱宮から一馬宛に届けられた書簡を広げて、全員揃って検討していた真っ最中だ。
完全に出し抜かれたと言って良い。
手続きを無視していきなり朱宮が実力行使に及ぶとは思わなかった。
世論をまとめる自信があってのことだろう。
元々、朱宮の掲げるのは理想主義だ。
おそらく何中隊かは報道関係を押さえるのに動かしているはずである。
無論、本隊は宮城攻めだろう。
「俺はすぐに宮城に向かう。済まねえが、あいつだけは他の誰にも譲れねえ」
「朱宮中将がこんな文を送ってきたのも、私を宮城に向かわせないためでしょう。
ここは中将閣下の助言に従うことにします。
実際、朱宮中将の言うようにあの戦神を放っておくわけには行きませんしね」
一馬は朱宮からの連絡状を自分の懐に入れて立ち上がった。
無論、戦神とは京極慶吾陸軍中将の異名である。
王子で会ったときから嫌な予感はしていたのだ。
朱宮の洞察通り、かなりの術者であるのは間違いないはずだ。
生半可な相手ではない。
だが、一馬も負けるつもりはなかった。
「悪いが、俺はここから動くつもりはないぞ」
真之介はちらっとあやめの方を見てから改めて座り直した。
元々話し合っていたのは、対京極とともに、この診療所の周囲に配置されている軍勢に対抗するための勢力分散をどうするかという話題だったのだ。
周囲を取り囲んでいるのは、あやめを奪取しようとする粕谷満陸軍少将旗下の数百名ともいう。
今は大空洞の地下に一時的に封じられている巨大降魔の、封印をかけた張本人であるあやめを確保すれば降魔を支配できる、という推測はそう間違いでもない。
「真田さんには悪いが、ここで守らせてもらう。請求は後で陸軍の粕谷少将宛にやってくれないかな」
「真田先生、というわけで早くここから避難してくれませんか」
「二人とも何を寝ぼけたことを言っているんだ」
真之介とあやめの提案を、診療所長であり同時にこの診療所唯一の心霊術者としてあやめの主治医である真田は一蹴した。
「自分の患者を見捨てるような医者になるつもりはない」
そう言って、真言の画かれた手袋を取り出して両手にはめた。
心霊治療を応用すれば、戦闘に持ち込むことも十分可能なのだ。
「では米田中将、私たちもここを守らせて頂くわ」
「真ちゃんと一緒に戦えるなんて、斧彦幸せだわぁ」
最近ここにいることが当然のようになっていた陸軍の琴音と斧彦の二人はニヤリと、そう、確かにニヤリと笑いあった。
「えーい、どいつもこいつも!」
ぐしゃぐしゃと頭を掻いて米田はわめいたが、
「仕方ねえ!今は討論している時間が惜しい、許可する!それから山崎!」
てきぱきと身支度を整えながら米田は叫ぶように真之介に命令した。
「二剣二刀をここに召喚しろ、任務停止などもう知るか!」
「その命令を待っていたぞ!」
我が意を得たり、という表情で真之介は呪文を詠唱し始める。
対降魔部隊の対魔戦闘装備である二剣二刀は、この度の一件で降魔掃討が決定するまで、対降魔部隊の執務室共々封印ということになっていた。
これに手を出すのは、独断専行、協定違反なのである。
しかし、向こうが実力行使に来たこの状態でそれを馬鹿正直に守っているいわれはない。
二剣二刀があるかないかは、対魔戦闘でなくともかなりの差がある。
そして、直接宮城に向かうつもりの米田は、わざわざ取りに行く時間が惜しかった。
「主の呼び声に来たれ、我らの剣!」
真之介の詠唱完了と共に、中空に稲妻が四回走る。
米田の手に神刀滅却が、
一馬の手に霊剣荒鷹が、
真之介の手に光刀無形が、
あやめの手に神剣白羽鳥が、
彼らにとって、半年ぶりに手にする愛刀がここに集った。
「てめえら全員に命令する。絶対生きてまた会うぞ!」
『了解!』
* * * * * *
粕谷中将の下に朱宮中将動くの報が入った十分後、今度は真田診療所を監視していた士官から、米田と真宮寺の両名が離れたという報告が入った。
「ついに機会が巡ってきたぞ!」
粕谷に協力している北村海軍少将率いる海兵隊は、既に朱宮の軍を鎮圧するために動いているのに対して、粕谷は自分の軍は動かさなかった。
朱宮が動けば、米田はそちらに行って、そしておそらく戻って来られなくなると予想できたからだ。
その上真宮寺一馬大佐も同行した。
おそらく二人は、今夜中は戻ってこない。戻って来られまい。
残る砦は山崎真之介ただ一人。
その山崎真之介も、「王」すなわち降魔実験の主催者たる北条氏綱の魂を降臨させる器として必要としていたのだ。
巨大降魔の封印を握る藤枝あやめともども奪取する千載一遇の機会であった。
「行くぞ諸君、我らの理想への階段を!」
粕谷は、真田診療所を囲んだ三百の兵に攻撃指令を出し、自身も精鋭部隊を率いて出撃した。
* * * * * *
「よし、壁の補強はこんなところだろう」
真之介は、工兵隊に裏から回り込まれるのを防ぐため、診療所の壁を土の精霊魔術で補強して置いた。
扉も大半は封鎖しておく。
ただし、全てではない。
全てを封鎖するとどんな手段を向こうが持ってくるか解らないし、こちらも動けなくなる。
正面玄関からあやめの部屋に通じる道を一本だけ残しておいた。
最悪の場合は、ここで防ぐことになる。
「ねえ……、真之介」
「病人はおとなしく寝ていろ」
「神剣白羽鳥を呼び寄せておいて、その態度はないでしょう!」
待合室まで剣を握って出てきたあやめが反論してくるのを一切無視し、無理矢理抱き上げて病室まで運ぶ。
真之介は最初からあやめを戦わせるつもりはなかった。
「半年寝込んでいて、今も霊力は低下状態。こんな状態で戦わせるか」
今日は珍しく真之介の方が正論だ。
あやめは言い返せなかった。
というわけで、別の手段を講じる。
「あ、こら!どこ触ってるのよ!」
「え?」
じたばたあやめが暴れた拍子に、真之介の手が丁度あやめの胸をつかまえる形になった。
真之介はたちまち頭に血が上って、顔を真っ赤にしながらあやめの身体から手を離す。
「す、すまん!」
「いいわよ」
と言い返してそそくさと待合室の方に戻ろうとする。
真之介はそこでようやくあやめに仕組まれたことに気づいた。
「あ、待て!」
「待たないわよ」
「じゃあ力づくだ!」
手早く呪文を唱えて、あやめの履いているサンダルを床にへばりつけた。
すたすた歩いていたあやめは、当然平衡感覚を崩して前のめりに倒れた。
「きゃあああっっ!」
という悲鳴ごと、真之介は手早く回り込んであやめの身体を抱き留めた。
「離しなさいよ!助平!」
「何とでもわめけ」
真之介も開き直った。
あやめがじたばたしようが、変態だのと言おうが、そのままあやめの身体を離さなかった。
こうなってはあやめも、無駄な抵抗だとあきらめることにした。
ちょっとだけ、くすんと泣いてみせる。
「そんなに、私、邪魔かな……」
「おまえがしっかりしすぎているんだ。たまには男に守らせろ」
「それ、明冶の考え方よ」
「うるさい」
強がったつもりの真之介だが、結局はあやめにいいように言われてしまい、そっぽを向いてすねてみせる。
安心したようにあやめは、今度はくすりと笑った。
いつも通りだ。
二人共に、いつも通りの安心感があった。
その安心感に浸ってしまっている自分を確認して真之介は苦笑してから、もう一度真面目な顔つきに戻る。
「ここまでの道、誰一人通しはしない。だから安心して寝てろ」
「私が傍にいなくても、大丈夫なの……?」
あやめは、自分のことより真之介の方を心配していた。
水地とやりあったときのことがある。
水地が真之介に向かって言った言葉が、ずっと頭から消えない。
自分を奪いに来る者よりも、そちらの方が怖かった。
上目遣いのこの視線に、真之介は弱かったりする。
「……少し寂しい」
言った言葉が照れくさいのか、ちょっとそっぽを向きつつ、床に接着させたサンダルの魔術を解除する。
「だが、おまえを守るためだ。なんとでもする」
足が自由になってあやめは真っ直ぐに真之介を見つめてから、ふるふると首を横に振る。
そうして、すっと真之介の手を取った。
「……、私をおいて、遠いとこに行かないでね……」
死なないで、とは言えなかった。
死という言葉を口に出すのが怖かったのだ。
泣きそうになったその瞳に泣くなと言うように真之介は、涙を拭いてやるような仕草であやめの目の下をすっとなぞった。
「わかったよ」
その言葉を聞いて、あやめは無我夢中で真之介の右腕を胸に抱きかかえた。
自分のために、幾度も剣を振るい血に染まってしまったはずのその腕を。
一息……、二息……、三息……、
真之介があやめの呼吸と鼓動と柔らかさにどぎまぎして呼吸困難になりそうなくらいの時間そうしてから、あやめはすっと腕を解いて、その手を両手で握った。
真っ直ぐに、その瞳を向ける。
「もう一つだけ、お願い……。出来るだけ、襲いに来る人たちでも殺さないで……」
真之介は、その言葉に少し考え込んでから答えた。
「出来るだけ、な」
この瞳を守るためなら自分は何でも出来ると心に誓いながら、真之介は答えた。
「さあ」
軽々とあやめを抱きかかえて病室へ運び込む。
今度は、あやめも抵抗しなかった。
真之介の身体に触れているところに頼るように、目を閉じておとなしくしていた。
真之介の腕の中から、寝台の上に移されるとき、少し、名残惜しかった。
「じゃあ、行ってくる」
「行って……らっしゃい」
あやめは、上目遣いに真之介の額をすっと押して見送った。