嘆きの都
追憶其の六
第二章 唱えよ、夢見る世界 四



第二章 唱えよ、夢見る世界 三



「真之介の誕生日は、六月六日……双子座だね。血液型は……と」
「……?あやめ、何をやっているんだ?」

 昼過ぎの真田診療所ののどかな風景である。
 あやめは全快していないといっても、四六時中ベッドの上で寝込んでいなければならないと言うほどではない。
 一日の内の半分くらいは、こうやってゆったりと椅子に座っていた。
 欧米の文学を読んでいることが多かったのだが、最近は斧彦が買ってきてくれる婦人雑誌がやけにお気に入りらしい。
 どうやら、雑誌の占いコーナーらしいのだが。

「近松先生の来年度占いよ。もうすぐ四月でしょう。この人の占いはよく当たるって評判なんだから」

 真之介も魔術の心得があるので、占いというものを否定する気にはならないが、

「黄道十二宮が設定されてから何千年経っていると思っているんだ。当てにならんぞ」
「大丈夫よ。この人の基本はポンパ様の加護を受けた花札占いだもの」
「はあ?何だその聞いたこともない地方神は……」

 少なくとも真之介の知る限り、そんな名前の神はギリシアにもケルトにもオセアニアにもいない。

「ポンパ様というのはね、常に微笑を絶やさない慈愛の神様でね、1999年に降臨される救い主なの」
「ノストラダムスが聞いたら泣くぞ、その設定」
「それでね、近松先生は新年度から改名されてポンパドゥール近松と……」
「あやめ」

 楽しそうに語るあやめの言葉を遮って、真之介がずいっと迫った。

「没収する」
「あーん、返してよぅ」

 帝都はおろか日本全土を揺るがしている巨大降魔に一時的にしろ封印を掛けた少女藤枝あやめと、彼女を助けて現在は彼女の護衛に専念している青年山崎真之介の日常とは、まあ、おおむねこんなものであった。

「二人とも仲がいいわねえ。妬けちゃうわ」
「あ、太田さん、おかえりなさい」

 真之介と共に、米田からあやめ警護の任を命じられている太田斧彦上等兵は、主に買い出しなどを担当している。

「斧彦さん、俺は上官命令を下していただけで別に……」
「あーはいはい、わかったわよ真ちゃん。そういうことにしておいてあげるわ」

 本当だろうか。
 いまいち納得がいかない真之介である。

「はい、あやめちゃん。今日発売の雑誌買ってきたわよ」
「わぁ。太田さん、ありがとうございます」
「斧彦さん、お願いですからあやめに変なものを渡さないで下さい……」
「あら真ちゃんひどいわね。今の一言で全国の婦人運動家を全て敵に回したわよ」
「そうなんですよ。聞いて下さい太田さん。真之介ったら……」

 どうして斧彦に言ったのに婦人運動家を敵に回すことになってしまうのだろう。
 真之介はどっと疲れた。
 階級で言えば太田斧彦は上等兵で真之介は公式には中尉、非公式には少佐なので、ずっと上のはずなのだが、どうも苦手な人物である。
 しかし、少なくとも嫌な感触ではなかった。
 こんなのんびりとした光景が続けばいい、と心のどこかで思った。

「何をまた、壁に向かって黄昏ているんだ?真之介くんは……」
「一馬、やっと来たか」

 待合室から続く扉が開いて一馬が入ってきた。
 荒鷹ではないが、珍しく帯剣している。
 それにしても、どうしてこの男はいつもこう唐突に現れるのだろう。
 まあ、今回はこちらから来てくれと頼んだのだが。

「真宮寺大佐、今日はお休みですか」
「ああ、真之介くんに頼まれてね。あやめくんの護衛を一日肩代わり」

 あやめは、え?となった。

「真之介、出かけるの?」

 出かけると言っても、この診療所から歩いて十分以内の場所なら、真之介はちょくちょく外出している。
 その圏内ならば、感知結界を張ってさえおけば何があってもすぐ感知して十秒以内に戻ることができるからだ。
 そのときも、琴音か斧彦が必ず控えているのだが。
 わざわざ一馬に肩代わりを頼むときは神田の古書街まで足を伸ばしたりするときが多い。

「水地の研究室に行って来る」
『!!』

 ここにいる面々は全員その名を知っていた。
 情報部にも報告していないが、今渦中にある巨大降魔を作り上げた人物で、帝大の助教授である。
 ……いや、助教授だった。

 あやめと真之介を呼び込んで巨大降魔を進化させようとした戦いで、水地は真之介に倒され、最後は巨大降魔に飲み込まれた。
 その後解き放たれた巨大降魔はあやめと真之介の二人によって一時的ではあるにしろ封印されることとなり、次こそは対降魔部隊全員で討ち倒そう、としたところに朱宮と粕谷の降魔使用論が入って、現在の状況に至っている。
 いわば、この騒動の発端であった。

「それは確かに重要だが……、水地新十郎は助教授だったな。研究室の教授にでも会いに行くのか?」
「いや、水地が頭だったらしい。今は講師が一人いるらしいから、その人物に話を聞いてくる」


     *     *     *     *     *     *


 東京帝国大学。

 七つある帝大の中でも最高峰を謳われる日本最大の大学である。
 さかのぼれば、幕府の昌平坂学問所まで行き着くというから伝統も長い。
 実は真之介はこの大学との関係は浅くない。
 研究の関係上、理学、工学の研究室には知り合いも多い。
 かつて、霊子核理論に関する論文を初歩から応用の一歩手前まで合計八つほど提出して、学士、修士、博士号を特別に認められている。
 というわけで、ドクター山崎と呼ばれることもあったりする。

「ガハハハハ!よう、ドクター、久しぶり!」

 と、まあ、こんな具合に。
 受付に行った真之介を、バカでかい笑い声が襲った。
 真之介は落ち着いて、耳から耳栓を取り出す。

「相変わらずですな、横塚教授……」
「ガハハハハ!学習しやがったな、コノヤロウ」

 身長193センチ、体重109キロ。
 これでも理学部物理学科で素粒子学を専門にしている教授である。
 座右の銘は「科学もまず体力」と「なんとかなる」。
 こんな人物であるからこそ、真之介のような若年者の博士論文もまともに読んでくれたのだが。
 今回は、大学中に顔の知られている彼の知名度を見込んで仲介を頼んだのだ。

「しかしよりにもよって、おまえが水地研に用があるとな。おまえもとことん変人に縁があるな」
「有名なのか、あの研究室は」
「ウチに次いで有名だな。教授会のジジイどもが水地一人に恐れをなしているってのは、大きな声では言えないが半ば公然の秘密だよ」

 十分に大きい声だ、という指摘は入れないことにする。

「研究室の面々も変な奴らばっかりだぜ。おまえが面会しようって言ってきた講師の高音くんは若いのに水地に心酔しているし、一回生のころから水地と喧嘩しているくせに研究室にまで入った学生もいるし。あと、五百種類の手品が出来る奴とか、酒を飲んで口から火を吹ける奴とか……」
「よく知ってるな」
「水地研とはよく宴会をやるからな」

 どうやら、同類と言うことらしい。

「水地本人とはここん所しばらく連絡が取れていねえが、ま、珍しいことじゃねえ」
「…………」

 思うところはあったが、口にする気にはなれなかった。

 文学部棟、史学科、近代都史研究室。
 教授名は書かれていない。
 中から口論が漏れてくる。

「相変わらず騒がしい研究室だな」

 コンコン

「おーい、高音くんや、連れてきたぞ」
「開いています」

 中から素っ気ない返事が返ってきた。
 扉を開くと、天井まである本棚に挟まれた部屋の全景が目に飛び込んできた。
 奥の扉に学生が消えていくのが見えたので、何か討議をしていたのだろう。
 その相手だろうと思われる人物が正面の机から立ち上がった。

「ガハハハハ!こいつがウチで最年少博士号を取りやがったドクター山崎だ。えーと、陸軍の、中尉……だったっけな?」
「ああ」

 形式上はそうなっている。
 段階的に、裏の規定で少佐位まで上がるはずだったのだが、このところの騒ぎで昇進に関する人事も棚上げになっていた。
 下手に誰かを昇進させれば、それは張りつめた水面に大岩を投げ込むようなものだからだ。
 昇進したところで給料が増えるぐらいの利益しかないから、真之介は半ばどうでもいいと思っている。
 元々階級社会である軍にとっては型破りな存在だが、これも上官が米田であるということを考えれば当然かも知れない。
 とはいえ、礼儀をまったく心得ていないというわけではなく、

「初めまして。陸軍中尉、山崎真之介です。よろしく」

 と、素直に礼をする。
 頭を下げた瞬間、何かを感じた。
 電磁波でも、重力波でも熱波でもない。
 空間を振るわせるようなパルス波だった。

 何だ……?今のは……

 実害はなかったが、初めて感じるものだけに真之介はやけに引っかかった。
 学問的興味を覚えたのかも知れない。

「ドクター。こちらが水地研の講師、高音渚くんだ。通称、留守番先生」
「教授」

 紹介されて、高音は呆れたように言い放つ。
 横塚は悪戯を咎められた子供のような顔でぽりぽりと頬をかいた。

「高音渚です」

 高音はすっと礼を返す。
 どこか、ぎこちなく感じた。

 細面で、どう多めに見積もっても二十歳程度に見える。
 一応受付では二十六と聞いているが、ちょっと信じられなかった。
 それほど背が高いわけではないが、細身で姿勢がいいため幾分高く見える。
 注意してみると、髪を後ろで束ねてあり、やや長い。
 礼をしたときにそれがわずかに翻った。

「ガハハハハ!じゃあ、機密な話もあるだろうから俺は失礼するよ」
「ああ、礼はいずれする」
「そのつもりなら理研に参加してくれ。おまえの頭脳が欲しいんだよ」

 今年度中に理化学研究所が出来るというので、横塚はそちらの方でいそがしいらしい。
 横塚が去ると、何だかとたんに静かになった。

「どうぞ、お座り下さい」

 そう言うと高音は自らお茶を入れた。
 部屋の真ん中にもう一つ机があり、こちらが会議したりくつろいだりするためのものらしいので一番手近な椅子に座らせてもらうことにした。

トン……

 出されたお茶からいい匂いが漂う。
 どうやら少し香りの入った特殊なお茶らしい。
 高音は、自分も向かいになる椅子に座って茶を一口。
 喉を湿らせてから、

「先生の捜索に向かわれた方ですね」

 と、いきなり切り出した。
 真之介もこれにはかなり驚いた。
 軍の内部情報で、一般人が知っているはずがないからだ。
 陸軍からは、生死不明という連絡を通知してあるが、捜索者の名前まで伝える必要はないし、特に今回は状況が状況だ。

「そうです。よく御存知でしたね」

 少なくとも、捜索に向かったことは本当である。

「先生が生死不明と聞き、ある方から無理矢理聞き出しました。その方の安全のためお名前は明かせません」

 真之介は少々呆れたが、まあ機密なんてそんなものだと割り切ることにした。
 今軍内はそれぞれの陣営が機密を守ろうとしているが、それ以上にお互いを探ろうという動きが盛んだ。
 おそらく、どこで漏れたか調べるのは不可能だろう。

「わかりました。少なくとも私はこれ以上追求するつもりはありません」

 他の誰がどう動くか解らないので、真之介はやや控え目に答えておいた。

「結構です」

 お互いに本心を隠していることは明らかな会話だ。
 丁寧語とは時として一種の精神障壁ともなりうるのである。

「わざわざ来ていただいたところ恐縮ですが、まずお尋ねしたいことがあります」

 まず口火を切ったのは高音だった。

「大空洞の底で何があったのですか」

 さすがに答えにくい質問が飛んできた。
 まず真之介は、実際に水地がどんな術法を用いたのかは知らない。
 更に言うなら、降魔出現に関しては箝口令が敷かれているし、真之介もあまり語りたくなかった。
 そして、水地は巨大降魔に食い殺されているわけだが、実際に剣を交え、瀕死まで追い込んだのは真之介なのである。
 その弟子の前でそれらを説明するというのは、はっきり言ってやりたくない。
 自分が大空洞のそこに行ったとは知られていないと思っていたので、こう来るとは予想していなかった。
 降魔のことを知っているのか知らないのか。
 それからしてまず問題だった。
 とにかく、ここは何も知らないと仮定して話を進めるのが無難だろう。

「死の瞬間を見たわけではありませんし、遺体を確認したわけでもありません」

 最後の瞬間は見るに耐えなかったので目を背けていたから、一応事実である。
 遺体に関しても、降魔に飲み込まれているのだからこれはれっきとした事実だ。
 このように、出来るだけ嘘を言わないようにしておく必要があると思ったのは、高音の漂わせる雰囲気だった。
 下手な虚言は見抜かれるのではないか、というくらい、瞳が鋭い。

「ですから、生死不明と報告しました。この報告は受け取っていますね」

 横塚が知らなかったところを見ると騒ぎを大きくしないように研究室に直に伝えられているらしい。
 とはいえ、帝大の教授陣が十何人も行方不明になっているのだから噂にはなっているだろう。
 この調査隊に水地は出発寸前に参加していて、他の教授の研究室は水地が大空洞に入ったことを知らないらしいが。

「何故それで行方不明としなかったのですか」

 うなずく代わりに高音は更に質問してきた。
 表情は仮面をかぶっているかのように動かない。

「行方不明、とは?」
「大空洞は入り組んでいると聞いています。捜索に向かったあなたは、大空洞の全域を捜したのですか」

 彼の怒りはもっともかも知れないが、水地のやったことを考えると責められるのは割に合わない。

「調査隊の目的地である最深部……第三十四側道の奥底で、第一次調査隊のものと思われる遺留品を発見しました。
 いずれも、それを残して動くと言うことは考えられない物がほとんどでした。よって、遭難ではないと判断されます」

 実際には水地の言葉から判断したのだが、遺留品の話は事実だ。

「先生の遺留品は受け取ることが出来ますか」
「出来ません。回収されていませんし、現在側道は封鎖されています」

 真之介は少しいらだってきた。
 高音の言葉に、まるで感情が感じられない分、かえって水地を殺したことを責められている気分に陥ってきた。
 いっそ、正面からなじられた方が言い返せるものを。
 事実を隠さなくてはいけない分、自分の中で嫌な考えが何度も反芻されてしまう。

−−−闇の救世主、山崎真之介君−−−

 水地の言葉が断片的にいくつも浮かんでくる。
 目の前にいる高音は水地とはまったく違う雰囲気なのに、こうして向かい合っていると何故か連想させられた。

「何故入れないのですか」
「調査隊を全滅させたと思われる、もの、を警戒してのことです」
「そうですか」

 ここで高音は一度瞳を閉ざした。
 何を考えているのか読めない。
 まったく読めない。
 すうっと幕を開けるようにその瞳が開いた。

「先生の失踪から二日後、陸軍の将官が料亭で惨殺されるという事件がありました」
「!!」
「魔物の仕業と噂された事件です、御存知ですね」

 真之介は今度こそ動揺を隠しきれなかった。
 公式には、犯人不明。
 軍内部では魔物の仕業として記録されている事件だが、実際のところは、自分とあやめを謀殺しようとした陸軍の水無月少将とその一党を、真之介が暗殺したというのが真相であった。
 軍内でもこの事実を知っているのはほとんどいないはずであった。
 水無月少将の場所を教えてくれた清流院琴音は理解しているだろうし、米田、一馬、あやめの三人は薄々感づいてはいるだろう。
 しかし、目撃者は一人もいないはずだった。
 現実に魔物の仕業と処理されているのだからそうだろう。

 だが裏を返せば、真之介にとっては自分が魔物と言われているようなものなのだ。
 首の後ろに冷たいものが流れるのを嫌と言うほどはっきりと感じながら、真之介は高音の言葉を聞いた。

「先生を殺したのは魔物……。そしてその魔物は大空洞の底ではなく、既にこの帝都に解き放たれている……違いますか?」

 高音の瞳が一瞬光ったような気がした。
 幻とは思えないくらい、やけにはっきりと。

 しばし、そのままだった。

 静寂ならざる沈黙が、その場を支配した。
 真之介の耳には、自分が唾を飲み込む音が皮肉なくらいよく響いてくれた。
 この沈黙の主は高音であり、真之介はそれに支配されているのが明らかだった。
 精神的な外圧と内圧を同時に味わいながら、この場の唯一の武器である舌を叱咤する。
 しかし動かない。
 動けない。
 大空洞の底で水地の講義を聴かされたときと同じ圧力を、真之介は否定できなかった。
 あのときは対抗できたものが、二度目であるが故に対抗しきれない。
 押しつぶされそうで、息苦しくさえある。
 抗しきれずに、思わず右手で呪紋を描きそうになったとき、

「沈黙も答えです」

 と、高音の声が響き、圧力は途絶えた。

「ありがとうございました」

 そう言うと高音は緩やかな動作で立ち上がった。
 話をこれで終わるつもりかとも思ったが、そうではなかった。
 備え付けの魔法瓶から湯を注いで茶を入れ直した。

「冷めてしまいましたから」

 それぐらいの時間が経過していたと言うことらしい。
 時計を見る気にはなれなかった。
 喉が渇いていたので、魔法瓶の中で少し冷まされたくらいの湯温がちょうどよかった。
 ほとんど味わいもせずに喉を通す。

「先んじての質問失礼いたしました。では改めて中尉殿のご質問をお伺いいたします」

 対して高音は優雅な動きですっと茶を飲んだ。
 その余裕とも言える動きに気圧されながらも真之介はどうにか思考を整えた。
 何を聞きに来たのかという意識まで吹き飛ばされていた。
 わざわざ思い出さねばならなかったが、それでも何も考えられないと言うほどではない。

「では、お聞きいたします」

 無意識のうちに、一拍おいていた。

「大空洞の底に向かった第一次調査隊は、地質学者や地震学者がほとんどでした。その隊の出発直前に、歴史学者の水地助教授が参加されたというのは明らかに話が通らない。水地……助教授の専攻は何で、大空洞に何をしに入ったのですか」
「学者というものは、興味がわいたものなら専攻にこだわらないものですよ」
「我々は、水地助教授がわざわざ調べに行ったもの……あるいは理由が、この度の騒動と関係しているのではないかと疑ってしまうのです」

 私、ではなく、我々、と言って、無意識にすがるものを増やそうとしていることに、真之介は自分で気づいていなかった。

「なるほど」

 理解しましたよ、という表情すら見えなかったが、その代わりに

「……?」

 微かに、ほんの少しだけ、高音が笑ったように見えた。
 微少すぎて何を意図した笑いだったのかはさっぱり読めなかったが。

「この研究室が近代都史研究室という名を冠していることは御存知ですね」
「はい」

 底無しに嘘臭いと思った、とは口にしないでおく。
 真之介は、水地の専攻は古代史に違いないと決めつけていたので、買った本の著者紹介文を読んだとき、本気で疑ってかかった。

「中尉殿、あなたはこの街を……かつて江戸と呼ばれていたこの東京をどう思いますか」

 何だか妙な質問が飛んできた。
 いや……そういえば水地も、

−−−あの薄汚れた街は、私や同胞たちが守ってきた町ではないのだ−−−

「悪くはないと思っています。欧州から入ってきた文化と日本の文化が一つになった都……。かつて世界のどこにもなく、これから二度と現れることのない都市でしょう」

 耳の奥に響く水地の声を振り払うように喋りながら、真之介は少し驚いていた。
 以前の自分なら、間違ってもこんな風には言わなかっただろう。
 享楽をむさぼっている人々が暮らしているだけの街。
 無駄なものがあふれ、真実が見えない街。
 かつてはそう思っていた。
 あのころなら、水地の意見に共感さえしたかも知れない。

 自分が変わったのは、自分が変わったと思うようになったのは、いつからだろう。
 研究室にこもっているばかりでは考えは何も変わらなかった。

 そうだ……あのとき……

 あやめと、多分初めて一緒に銀座の街を歩いた日。
 無駄と思っていた装飾が、煩わしいと思っていた人々の目が、あの日初めて輝いて見えた。
 そう……約束したんだ……。
 この街を守ってもう一度、一緒にあの街を歩こうと。

 ふらっと外出するときに自分の趣味の店を回る一方で、洒落た店に目を向けている自分がいた。
 あやめが元気になったら、この騒動が片づいたなら、増えた給料で連れてきてやろうと思う店を探していた。
 幻影を振り払うようだった真之介の言葉の中に、明かな賞賛の単語はなかったが、彼が言ったにしては絶賛かも知れない。

「意外ですね」

 極めて対照的に、冷ややかな答えが返ってきた。

「あなたほどの工学者が、この帝都の限界に目を向けていないとは」

 その言葉で、高音が工学者としての真之介を既に調べてることが推測された。

「二百六十年の江戸幕府が終わって、まだ五十年です。信じられますか。幾度もの大火を経験しつつもそのたびに元の姿を取り戻してきたこの町が、わずか五十年で蒸気と煉瓦に覆われてしまった」
「それが近代都史ということですか。失礼ですが、江戸の二百六十年は停滞と呼ぶのではありませんか」
「今を、繁栄と呼ぶのですか。あなたは」
「呼びます」

 今度は真之介もひるまない。
 真っ向から二人の視線が激突する。
 今度の沈黙は長く続かなかった。
 高音が視線を外し、本棚から講義用資料と書かれているファイルを取り出した。

「少々、先生のまねごとをさせていただきましょう」

 まず広げられたのは、古い帝都の……いや江戸の地図だった。といっても、海岸線の記述は伊能図と思われるくらい正確であるので、江戸後期の地図だろう。
 等高線の代わりに、円と直線で描かれた何重もの図形と、風水で用いられれる方位図が重ねられている。
 真之介には一目でわかった。
 これは江戸の霊的防御陣を描いたものだ。
 おそらく、伊能忠敬によって海岸線がはっきりしたため、江戸の測量と霊陣の座標設定をやり直した時の地図だろう。
 年代もさることながら、幕府の機密であっただろうこんなものが残っているとは。
 水地が数百年生きてきたというのもどうやら本当かも知れない。

「風水、というものを御存知ですね」

 尋ねると言うより、確かめるような聞き方だ。
 まあこれを見て「なんだこれは」と言わない時点で、ある程度知識があると解るだろう。

「まあ、人並み以上には」

 実際には、そんじょそこらの専門家程度なら一蹴できるくらいの知識はある。

「江戸という都市は設計段階から風水を考えて作られています。その機能を担っていたのが、ここに描かれている陣の数々です。これらは今でも残っています」

 そこで高音は地図から顔を上げた。

「否定しないのですね。工学者なのに」

 一般に、帝大で扱っている理学、工学は、欧州から入ってきた純粋科学がほとんどである。
 よって、基本的には超自然的な事項は排除否定する傾向が強い。
 もっとも、今やその欧州で、大戦のために魔術が掘り返されている時代だが。

「私の学位論文は霊子物理学でしたから」

 霊子物理学とは、広義では超自然的な現象を引き起こす要素を、数学的に扱う学問のことを指す。
 例えば、ミカサのエンジンとして採用された霊子核機関の基本原理である霊子核理論というのは、その力に素粒子的な解析を持ち込んだものである。
 霊子というものが純粒子なのかそれとも波動なのかは結論づけられていないが。

「なるほど。では少し飛ばして話をします」

 そういって、高音は今度は現代のものらしい資料を取り出した。

「こちらは帝都周辺の森林面積の変化です。御存知でしたか」

 帝都……というよりは関東一円の地図だが、いつ頃森林が失われたのかが綺麗に色分けされてある。
 その資料は、真之介の予想を上回っていた。
 建築物が木造だけではなくなったとしても、近代建築の現場では作業に今まで以上の木材を使うのである。
 その他、近代化、工業化にともなう数々の工事で木材は多用されていた。
 そして、この五十年で増大した人口を受け入れるための開発。
 これでは霊的平衡などあって無きがごとしというのがはっきりと解った。

「そしてこちらが、帝都各地における大気中の微粒子含有率。帝都の病院における喘息患者の推移。降雨の酸性度……」

 次々と見せられた資料は、ここが文学部の研究室であることを完全に否定したくなるほど見事な資料だった。
 足尾銅山の鉱毒事件から二十年が経っても、未だに環境に対する問題は帝大でもまともに取り扱われてはいない。
 ある程度想像はしていたが、これほどまでとは……。

「そしてこちらが、東京湾と隅田川の水質調査……」
「いや、もういい。見なくてもわかります」

 そういえば水地は隅田川の水神と言っていたことを思い出す。
 高音は満足したのか新しく出そうとした資料を元に戻した。

「これはある程度一般人にも解る部分ですが、もう少し霊的な話をしましょう」

 そういって、資料に埋もれかかっていた最初の地図を再び一番上に持ってくる。

「なるほど」
「御存知だと思いますが、都市の繁栄はその土地の地脈と直結しています」

 都市のエネルギーが正常に循環していれば、その影響によって人々の意識が活性化され、都市全体の流れもよくなる。
 一般に、大衆心理などとよばれる部分に大きく作用し、金融流通量以上に景気などに対する影響も大きい。
 同時に、第一次産業の収穫率にも如実に現れる。
 しかし、それ自体は自然の力を寄り集めた物だから、自然の力が枯渇していけば血液が不足するように、やがて流れなくなってしまう。
 エジプト、ギリシャ、ローマ時代から、全ての都市国家がたどった衰退の道がこれだった。
 古代魔術を学習する上で、太古の人々がそれに立ち向かおうとした歴史を、真之介は学んでいた。
 だから魔術には超自然に働きかけるものが多いのだ。

「先生は、この街を再び修復する方法を常々考えていらっしゃいました。そこで実際に地脈が走っているであろう大空洞に調査に向かわれたのです」

 建前だけでなく、実際に水地はそう考えていたのかも知れない。
 少なくとも、目の前にいる高音は水地を疑っていないようだった。
 確かにそうといえなくもない。
 ミカサの起動実験で発生した膨大なエネルギーを利用して、あの巨大降魔を作り上げたと言っていた。
 エネルギーの代用方法であることは確かだ。

「このままだと、遠からずこの街の活力は限界に来るでしょう。資源を過剰に輸入することによって無理矢理その寿命を引き延ばすことは可能でしょうが、それは世界の別の地の寿命を削ることであり……同時に、この街はこの街ですらなくなっているでしょうね」

 真之介はどう答えていいかわからなかった。
 高音の言っていることは、ある意味では筋が通っている。
 地脈の異常については、ミカサの起動前後に自分も調べて薄々感じていたからだ。

「この資料の写しを差し上げましょう。一度ご自身でそれを確かめて下さい」

 どうやら、これで話は終わりということらしい。
 高音は立ち上がり、授業配布用と書かれたファイルを取り出して十枚ほどまとめた。

「実感されることです。あなたが先生のお考えを理解して下さることを切に願いますよ」

 渡された資料はただの紙だというのに、なぜか、ひどく重く感じた。





 大学構内を帰る道すがら、真之介は言われたことを考え続けていた。
 だから、屋上から自分を複雑な表情で見下ろしていた高音の視線には気づかないままだった。

「先生……、どうして、彼なんですか……」

 先ほどまでのまるで動かぬ表情が嘘のように、真之介の後ろ姿を睨みつづけていた。

「どうして……私を連れていってくれなかったんですか…………」

 にらみつけようとしたその目は、今にも泣き出しそうだった。

第三章 告げよ、静寂の終わり 一



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