嘆きの都
追憶其の六
第二章 唱えよ、夢見る世界 一
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横須賀にある海軍支部の一角に異様な空気が漂っていた。
渦の中心にいるのはたった一人。
だが、この海軍支部で陸軍の制服が目立たぬ訳がない。
それも業務上の連絡できた下級士官ではない。
粕谷満陸軍少将その人だ。
ただの少将とは話が違う。
先の会議にて降魔を戦力とした対欧米論を展開して、渦中の人となっている人物なのだ。
報告を受け取った山口和豊海軍大将は一瞬我が耳を疑った。
穏健派で知られる彼は、会議には出ていたがどちらにも加担せず、立場上は静観することにしている。
私的には米田と酒を酌み交わして堂々渡り合っている彼であるので、出来れば米田に協力したいところだが、海軍内部の勢力均衡が表立ってそれを許さなかった。
山口が下手に動けば、北村少将らの急進派だけではなく、海軍内部の派閥分裂を招きかねない。
陸軍が事実上分裂している今、海軍まで分裂してしまってはいかに欧州各国が大戦で忙しいと言っても危険に過ぎるのである。
世の中が酒宴と同じように気楽に動いてくれないことを、山口は心中で残念に思った。
「それで、いかが致しましょう」
報告を持ってきた情報部の瀬川大尉が、考え込んでいる山口にやや遠慮しつつ尋ねてくる。
頭に浮かんだふざけた話をうち消して、ひげを撫でつつ考える。
「規約上、問題は一切無いのだ。同じ国の軍人が来ただけでは咎める理由にはならん」
当たり前と言えば当たり前だが、両軍の軍規に、互いの軍の人間の入場を規制する事項というものはない。
「……そうですね……」
「しかし、陸軍の少将自らがわざわざ出向くのは重要な事項があるからに他ならず、その用件を調べるのは当然だろう」
少し落ち込んだ瀬川の顔が付け加えた山口の言葉で笑顔に変わる。
「心得ました。では、後ほど報告を……」
瀬川が退室し、足音が遠くなったのを確認してから、山口はふうっとため息をついた。
詭弁と言われようがそうせざるを得ない。
本来、軍同士でいがみ合っている場合では無いというのに、現実はこれである。
ミカサの所属を巡って対立していたところにこの騒ぎだ。
皆、降魔の存在でどこかおかしくなってしまったようだ。
そこにある、と言うだけで、これだけの人間が取り憑かれたように動く。
山口はそこに、降魔の真の恐ろしさを見たような気がした。
方術士団に頼み込んで一度封印している現場に視察にも行っていた。
封印の向こうで降魔の姿こそ見えなかったが、その漂わせる雰囲気だけでも、山口は心胆を冷やかしめられた。
そうだ。
突然大空洞の底で出現し、調査隊を全滅させたのが発見のきっかけになったと言うが、あんなものが自然発生したとでも言うのか。
それは、肯定も否定もして欲しくない命題だった。
もし自然発生したというのなら、更に出現する可能性のある第二、第三の巨大降魔をどうにかして押さえ込まねばならない。
そも倒せるかどうかすら疑問のあれを相手では、それこそ降魔を操れる確信のある朱宮か粕谷に頼ることになってしまう。
そうなってしまえば、後は雪崩式に大勢が決まってしまうだろう。
それはこちらの敗北を意味する。
だが山口はそれ以上に、もう一方の可能性の方を恐れていた。
すなわち、何者かによって巨大降魔が作られた可能性。
あれだけのものを作り出せるだけの力を持っている者がいる。
そして、あれだけの力を持ってして、何をしようと言うのか。
降魔の取り扱いを巡って自分たちが無様に慌てふためいている裏で、何かが動いているのではないか。
海軍大将などと言う肩書きがあったところで、知りたいこと一つ見えない自分が、山口はいっそ情けなかった。
周囲の異様とも言える雰囲気にも、粕谷本人は何ら気にした様子はない。
指定された場所まで行くと、士官が一人待っていた。
「少将閣下はこちらでお待ちです」
と、応接室に連れて行かれた。
「ところで、そのお荷物は何でしょうか」
粕谷が風呂敷包みを持っているのを見つけて、士官が部屋の扉を開ける前に尋ねてきた。
爆発物か何かだとでも思ったのだろうか。
こんな、自分も巻き込まれるような場所で使うはずがあるまいに。
「栗ようかんだ」
「は?」
「では、入らせてもらうぞ」
士官があっけにとられている間に、粕谷はさっさと部屋に入ってしまった。
「ようこそ、粕谷少将」
北村海軍少将は立ち上がって粕谷を迎えた。
立場上は同格の二人である。
部屋の真ん中におかれていた低い卓に控えていた秘書が紅茶を注いでから、一礼して部屋を出ていった。
ダージリンだな。
こういう場で紅茶が出てくるのは陸軍ではあまりない。
このあたりは風土の違いだろう。
「まあ、少将も掛けてくれたまえ。・・・おや、それは何かね」
「ああ、北村殿の好物を噂で伺いましてな。手みやげです」
包みを解いて栗ようかんを出すと・・・、北村の笑った顔を粕谷は初めて見た。
「これはかたじけない。ブラックのブルーマウンテンと一緒にこれをつつくのが私は大好きでね」
珈琲に栗ようかんだ・・・!?
そこまでは聞き及んでいなかった粕谷は、内心冷や汗をかいていたが、それはなんとか顔には出さないことに成功した。
「後でよろこんで戴くよ。少将」
最初とはうって変わっておだやかな表情になった北村は、改めて粕谷に座ってくれるように促す。
今度は粕谷もためらわなかった。
一瞬、身体を包み込まれたかと思うほど深いソファーであった。
容易には立ち上がったり出来ぬ為の意図的なものではないかと思ったが、まあそれはあるまい。
「さて、伺いたいことはいくつもあるが、まずこうして私に会いにわざわざ来ていただいた理由を伺いたいね」
笑ってはいるものの、その瞳に微かに鋭さが混じる。
「話さなければなりませんかな」
「交換条件に後でキャビアを要求されても困るのでね」
北村はそこで唇の端をもう数ミリ引き上げた。
栗ようかんにしても、キャビアにしても、実際にお互いの好物である。
これは相手に対して、多少なりとも調べは付いているぞ、という意味を持つ。
逆に言えば、警戒しているぞ、と言う意味でもあるが。
「朱宮中将の態度はあまりに、と思いましてな」
「それで陸軍からの仲介役、と言うわけですかね」
「今は、陸海軍がいがみ合っているようなときではないのです」
冷めないうちにと、粕谷は紅茶を口に含む。
まず砂糖を入れずに一口。
味におかしいところはない。
傾けるときのためらわぬ動きに満足したように、北村は砂糖を一杯入れてからゆっくりとかき混ぜる。
「どういうことですかね。ミカサの件も未だに片づいていないと言うのに」
現在陸海軍の間で最大の火種になっているのは建造中の超弩級空中戦艦ミカサである。
完成すれば人類史上最大の兵器になるこれの所属を巡って、どちらも一歩も引かなかった。
戦艦なのだから海軍に属するとか、着水しないのだから陸軍に属するのだとか言った初歩的な論議から、提供した予算関係、現在の主導権なぞも絡んできて、解決のめどは立っていない。
「実は、ミカサのこととも関係ありましてな。あれは陸軍だけで扱えるようなものではありません。……北村殿、降魔の姿は御存知ですかな」
「小型の降魔など、最近嫌でも目に付く」
やっと降魔の名が出た。
北村は粕谷の口から出るまでそれを言わないつもりだったのだ。
薄気味悪さとでも言おうか。
名前を言って連想されるその姿は、少なくとも好感の持てるそれではない。
「降魔には翼がありますが、その用途は戦闘用に特化したと言っても過言ではありません。人間大の中型降魔で、後続時間は飛行機の三分の
一程度、それ以上の大型降魔となると、おそらくは浮かぶことが出来るという程度です」
「米田中将の報告書だね。私も一応読んだよ」
北村はそこで一度紅茶を口にした。
ひどく喉が渇いていた。
陸軍特殊任務所属、対降魔部隊。
わずか四名の小隊ながら、魔物に対しての戦果は一人が一大隊をしのぐという集団だ。
この部隊の存在が、最近の陸海軍のパワーバランスを陸軍側に傾けていると言っても良い。
あのミカサの機関も、この部隊の一隊員が作ったというのだから。
海軍にとっては、目障りながらも認めざるを得ない集団であり、
陸軍にとっては、身内ながら得体の知れない集団である。
「日本国内で使う分にはそれでよかったのでしょうが……」
そこで北村ははっとなった。
それで、よかった、だと・・・?
顔を上げると、粕谷がこちらに何とも形容しがたい視線を向けていた。
なるほど。
書物がどうとか朱宮中将が言っていたが、あれはやはり人為的なものなのだな。
粕谷が、よろしいですかな、というように微かに唇の端を上げる。
どうやら、今言うつもりだったのはここまでらしい。
だがこれは好意的な伏せ方になるだろう。
いずれ見せる、と言うことなのだから。
心中苦笑しながら、北村はうなずいた。
「降魔を以て世界を制しようというときに、このままでは使い物になりません。大陸においては、戦地近くまで鉄道を敷くとして、海洋越えの場合は……」
「なるほど、戦艦の要請ではないのだね」
「いかにも」
粕谷が考えているのは、いわば航空母艦としての海軍の必要性だった。
飛行機がようやく偵察用として作られ始めたこの時代、粕谷の考えは十年以上先を行ったものだった。
まして、海軍は巨艦巨砲主義全盛である。
「あなたの考えの重要性は解るが、海軍にいるのは正真正銘の海の男たちだ。そうたやすく納得はすまい」
「でなくば別の手段も考えましょう。陸と海から独立した組織、とか……」
さすがに、北村の表情が変わった。
下手をすれば日本だけでなく世界中の軍組織構造をひっくり返しかねない発言だった。
北村はこのときようやく、粕谷が単身で乗り込んできた理由を悟った。
自分を取りなすと同時に、誘っているのだ。
天空より全てを見下ろす第三の軍、空軍に。
しばし、沈黙した。
粕谷としては、手札の中のかなり強力な一枚を開いたのだ。
交渉初回ではあるが、北村の反応が悪くないと見て、一つ勝負に出た。
どう来る……。
ここで蹴られると、彼の構想が漏れることになる……。
長い沈黙の後、北村がゆっくりと口を開いた。
「少し……時間をくれないか……」
……駄目だったか……
粕谷は落胆……しそうになった。
「内容は伏せたままで、私もできる限り工作してみよう」
北村がニヤリと笑った。
「次に来ていただくときにはキャビアを用意させるよ」
その言葉で、粕谷も思わず笑顔が出た。
そのとき、確かに二人には未来が見えていた。
* * * * * *
「粕谷が、北村に会いに行っただと・・・!」
電話を受け取った米田はにわかに信じられなかった。
「はい、朱宮中将のことで立腹された北村中将を粕谷少将が取りなしているそうです」
しかし、電話の主は軍情報部の大河原一美少佐である。
直接の部下ではないが米田を敬しており、その情報収集の確実さと口の堅さには定評のある男だ。
間違いはあるまい。
「そうか……」
陸軍少将ともあろう粕谷が、わざわざ海軍少将たる北村のところまで直に出向いて、ただ取りなすだけではあるまい。
粕谷は確実に味方を増やそうとしているのだ。
陸海軍の、厚い壁を越えて。
「解った……。引き続き監視を頼む」
電話を切った米田の顔は、陸軍一の戦略家と言われる彼のそれになっていた。
向こうが戦略で来るならこちらも対抗するのみ。
粕谷と朱宮がどうやって降魔を操る目算を立てているのかは未だに解らないが、少なくとも今、最大の問題である巨大降魔はあやめと真之介の掛けた封印に捕らわれている。
それを近衛方術士団が支えているという形を取っている以上、いきなり強攻策でくることは出来ないはずである。
封印を解くためには、近衛方術士団を壊滅させるか、あやめを奪取するしかないわけだ。
そんな真似をしてくるようなら、こちらもすぐに対応できるようにはしてある。
あやめをパワーバランスの対象として扱うのはかなり抵抗があるが、今はやむを得まい。
そう考えてしまう軍人的な自分に嫌気を覚えながら、米田は今度は自分から電話をかけた。
戦争は、金がなければ出来ない。
向こうが軍事的に広げてくるなら、こちらは財政面の手を打つ。
「あー、陸軍の米田ですが」
執事が向こうで電話を取り、数秒で目的の人物が出た。
「中将か、どうなされた」
「忠義さん、あんたの耳にも届いているだろう」
神崎忠義。
日本初の人型蒸気を作った人物であり、今や日本最大と言われる神崎グループの総帥である。
南北戦争を見た経験からか、魔に対する対抗意識は強い。
特に、孫娘に霊力があるらしいと解ってからは、帝都の霊的防御を唱える米田と親交が深くなっていた。
「あの件か……。会議の日のうちに聞いておるよ」
一応あの会議は陸海軍の機密事項であり、政府高官の中でも知る者は少ないはずだが、情報というものは必ず抜け道があるのである。
そして、日本最大の財閥の運営に、政府内部の動向情報は欠かせないものなのだ。
「ことを大事にしたくなかったんだが、向こうさんがそうさせてくれなくてな」
出来るなら陸軍内部で片づけたかったのだが、それでは米田は劣勢を強いられるのは明らかだった。
下士官まで情報が伝わっていないので大勢を動かすほどにはなっていないが、戦争となれば死ぬ可能性が高い軍人にとって直に戦わなくて
済むということは、どうお題目を唱えても否定できない気持ちとしてどこかで望んでしまうものなのだ。
魔の力の恐ろしさを知らなければ、朱宮、粕谷の意見は誠にもっともなものとして受け止められるだろう。
だから米田は、魔の力の恐ろしさを知る味方を必要としたのだ。
近代史初の霊的戦争となった米国の南北戦争。
南部が使ったブードゥー部隊の振るった暴虐は、南部の司令官たちをしても恐れさせたという。
当時米国に渡っていた忠義は、それを直に見てきたのだ。
「そのようだな。実は……いくつかわしの所に話が来ていてな」
商売人として、相手の名を出さないと言うラインは守りつつ、米田には裏事情を話しておくことにした。
「財界への口添えと、資金協力の要求だがね」
米田は心中で舌打ちした。
花小路伯爵や賢人機関と連絡を取っていたこの一週間でこれだ。
これまでの膠着状態を一気に打破しようと言うのか……。
「済まんが忠義さん、あんたの信義に反するかもしれんが、財界の方はあんたに色々とやってもらわざるを得ねえ」
「安心してくれ中将。この忠義の信義に反するというのは、家族を見捨てると言うことだよ」
忠義はビジネスにおいてはとことん冷酷になれる男だった。
しかし、同時に家族を守ることだけは譲らぬ男であるのは米田も聞き及んでいた。
魔の力が増大すれば、霊力のある孫娘を危険にさらすことになる。
忠義の真の行動理由はここにこそあった。
だからこそ、米田に先んじて手を打ってきた者等の要求をはねつけたのだ。
「頼んだぜ……」
一音ずつ噛みしめるように言ってから、米田は受話器を置いた。
あまり長時間の電話は盗聴の危険性が高くなる。
既に軍情報部が実行しているので、そのあたりへの注意は米田も抜かりがなかった。
「さて、俺も直に動くとするか」
この調子では、今日もあやめの見舞いに行けるかどうか疑わしい。
ぼやきながら米田は、対降魔部隊とは別に仮に作った自分の執務室を出た。
楽屋に戻る。
もう一つの第十話目次に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。