紐育の悲しき三角関係
第六節
轟華絢爛第一巻反逆小説
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帝劇でも異変が起こっていた。
爆弾を仕掛けられていた場所とは違う場所から光の柱が上がり、客席を中心とした劇場の六割以上を囲ってしまった。
その形状はストーンサークルと呼ばれる物に酷似していたのだが、幸か不幸かその場にそれを知る者はいなかった。
重要なのは、こういうことが起こってしまったということそのものであろう。
「くそぉっ!爆弾は全部が全部おとりだったか!」
米田は満州の大地で魔術部隊を相手にしたこともある。
これが何を意味する物か、大体は想像がついてしまった。
「あやめくん!済まんが指揮を頼むぞ。
俺は何が何でもこいつを食い止める!」
「分かりましたわ」
画面の向こうのあやめに対して、いささか無茶とも思えるような頼みだが、あやめはためらい無く答えた。
連絡待機のために椿とかすみが司令室に詰めてくれているので、あやめなら何とかしてくれるだろうという信頼感が米田にはあったのだ。
昔から、事務処理に関しては自分も、一馬も、真之介も、あやめに到底かなわなかったのだから。
ともかく、明冶以来の愛刀……神刀滅却を手にして、米田は一番手近な光の柱に駆けつけた。
場所は中庭のど真ん中だ。
「俺の可愛い娘たちに手を出そうとは、百年早ええぜ、バレンチーノフとやら!」
今にも膨れ上がりそうな光の柱へ向けて、米田は刀を突き立てた。
満州で何度か儀式魔術をくらいながら、経験で身につけた破り方である。
今回のはなかなか強烈な圧力が刀を通して実感させられる。
これは手強い。
「この帝劇を……米田一基をなめんなあ!」
魔術の進行しようとする圧力と、米田の霊力がぶつかりあう。
「あ、あやめさん、どうしましょう……。
劇場中がこんなんじゃあ、アドリブでどうにかなる範囲を超えてしまってます……」
二分割された電影板の右半分をさらに八分割ほどして映し出されている帝劇内各所の様子を確認しながら、かすみは途方に暮れた声を上げた。
しかしあやめは、特に取り乱した様子も見せずに顎に手を当てて考えている。
こう言うときに、この人と本当に一つしか違わないのかと不思議に思えるかすみであった。
「玄関の爆弾はどうなっているの?」
「あ……、今紅蘭が解体作業をしてくれている所なんですけど、これは起爆装置も揃っていて時間がかかっています」
玄関の爆弾が、観客をここに閉じこめておくための物だとすると、おそらくそれだけはしっかりと念入りに作っていたのだろう。
正面玄関と来賓用玄関は使えない。
かといって、資材搬入用の裏口を使っては、緊急事態であることが知られて大混乱が起こるだろう。
ならば。
「椿、いますぐ倉庫に行って販売決定を保留している限定生産品を取ってきてくれる?
早急にね」
「え、……あ、はいっ!」
何を言われたのか一瞬目を白黒させた椿だったが、あやめの指示には信頼がある。
絶対に何とかしてくれると言う確信がある。
じゃあ私は、頼まれたことをしっかりとするんだ。
命令ではなくて指示であるのがあやめらしい。
「かすみはすぐに館内放送を入れてくれる?客席にも舞台にも聞こえるように」
「……何て言えばいいんですか?」
「違う!まだ来年の今月今夜になってないだろう!早いっていうんだよ!」
「あら、雨乞いをしようとして失敗したんですの、あなたらしいですわね」
二人ともアドリブでどうにか収拾できる範囲を超えていることは認めざるを得なかった。
台詞に無理が生じてきている。
如何に異変に慣れている帝劇花組と言えど、全く何の筋書きも無しにここまで小劇を続けて、かつお客さんを飽きさせなかったことだけでも本来驚嘆すべき話であろう。
思わず天を仰ぎかけ、そして何らかの来襲を警戒してすみれが携帯長刀に手を伸ばそうとしたとき……それは丁度観衆の疑問が声になる寸前だった……かすみの館内放送が入った。
『皆様、お楽しみの所お騒がせしてしまい大変申し訳ございません。
本日、抜き打ちでの避難訓練を予定しておりましたところ、災害演出用の装置が誤作動を起こしてしまいました。
実害は本来無い物なのですが、音響レベルの調整がきかない状態となっていますので、念のため皆様には本当に避難して頂かないといけなくなってしまいました』
「なんでえ、失敗かよ。あたいがこんなに頑張ってたって言うのに」
ごく一部の鋭い観客が覚えたであろう引っかかりを形にする前に、カンナが筋に合わせた台詞で文句を言う。
「あーら、あなたがその馬鹿力で壊したのではなくて?」
寛一とお宮ではなく地を出して……いや、八割以上地のままと言った方が適切な状態で……しかしすみれも見事にカンナに合わせて、事態を沈静化させる。
何も起こらなかったと言うのが不可能な所まで来てしまったのだから、花組にも予想していなかったことが起こっていると言う方が、この状況ではよほど説得力がある。
そもそも、説明になっていなくても説明らしいことを聞けただけで人は安心できるのだ。
帝劇が爆弾テロの標的になったという事実を隠すためならば、文句混じりの失笑が漏れるくらいはどうということはない。
普段爆笑を買っている二人ならではかも知れない。
『なお、お詫びを兼ねまして、避難訓練に参加いただいた皆さんに特別記念品を用意させていただいております。
何卒御容赦下さい』
「やるな……、あやめくん!それまで持たせろと言うことだな!」
米田はニヤリと笑って、強まろうとする魔力に対抗する。
いつの世も、ファンの多くは限定グッズを愛好する物である。
その説明で文句は無くなった。
『では係員の指示に従って、順に避難通路へご避難願います』
誘導しているのは、黒子衣装から事務員服に着替えて澄ましている黒子衆らである。
ただ、素顔のように見えてこれでも素顔ではなかったりするが、おそらく見抜けた人はいないであろう。
それはともかく、まずはオーケストラビットが舞台側に移動して、出来た客席最前列との間に三つの下り階段が現れた。
最前四列の観客がそこへ避難し終わると、その四列分の客席全体が二つに割れて左右にスライド。
そこへ向けて二階客席最前列から降りる下り階段が三つ、天井より降りてきた。
一方で、身体の不自由な観客のための昇降機が四機、一階一等席と二等席の間で踊り場になっている場所に出現し、杖をついた老人らが係員に背負われたり促されたりしてそちらに向かう。
ただ、どうも観客全体の動きが鈍い。
『え……と、皆様、これらは欧州最先端の技術を使った最高峰の防災設備ですので、物珍しいお気持ちは分かりますが、お願いですから見とれないで避難していただけませんか?』
ちょっと泣きそうなかすみの声にまたもや笑いが起こるが、さすがにそうと言われては従わざるを得ない。
階段を下りていきながらもちらちらと後ろを振り返る人は減らなかったが、動きは速くなった。
「順調ですよ。すごいですね、あやめさん」
本当に何とかなってしまった。
かすみは驚嘆せざるを得ない。
それともう一つ驚いたことは、
「こんな設備があったなんて……」
劇場にこんな緊急避難通路が設けられているなんて全く知らなかった。
そもそも、いくら大帝国劇場といってもこんな大がかりな設備があるはずがない。
しっかりと作られた避難通路は、帝劇地下……いわば帝撃部分に似た造りをしている。
つまり、これは劇場の一部ではないのだ。
かといって客席部分であることから、帝撃そのものとも別のように思える。
「あやめさん……、もしかしてこれは……」
話に聞いたことがある。
陸海軍が共同で開発しているという巨大空中戦艦。
帝劇全体がそこに収納出来て、司令部として使われると言う話も。
「ええ、その一部よ。
本当なら重要機密の一部になってしまうのだけど、まあこれくらいなら八百名の人命優先ということで何とかなるでしょう」
何とかする際の事務手続きの苦労などは、あえてかすみには語らないあやめである。
「それより、椿は出口の方にもう着いたかしら」
八百名ものお客さんに記念品を配らなくてはいけないのだ。
整然と行わなければ大混乱が起こってしまう。
「はい、もう着いたと思います」
「それから……そうね、紅蘭以外の四人にもそちらに向かうように伝えてくれる?
椿の手伝いと、それからお客さんへの出来るだけのサービスをね」
「ええ、すぐに」
あやめの的確な指示を改めて頼もしく想いながら、そのときかすみの胸を微かな不安がよぎった。
もし、
もし、あやめがいなくなってしまったら、そのときこの帝劇はどうなってしまうのだろう、
と。
「What!?」
レイノルズは、石板から返ってきた強烈な圧力に思わず顔をしかめた。
このままマリアを生贄にし、彼女の住まいである劇場全体を一挙に儀式の渦に巻き込んで、観客もろとも全滅させてしまう予定だったのだが、このままでは中の連中に逃げられてしまうではないか。
いや、しかし玄関の爆弾が解除できるはずがない。
ならば、このまま押し切るまでだ!
一方大神はスタア改と切り結んでいた。
バレンチーノフは、折られた右腕の機関銃を銃剣に付け替えて攻撃力を維持している。
しかし大神も伊達に海軍士官学校を首席で卒業したわけではない。
帝撃着任翌日に光武を操って見せたことからも分かるように、大神は人型蒸気の扱いも士官学校ではトップクラスだったのだ。
それは単に操縦できると言うだけではなくて、利点も弱点も踏まえていると言うことだった。
人型蒸気の欠点を上げればいくつも出てくるが、その一つに、出力伝達機関の反射が遅いと言うことがある。
操縦者の手足作業と共に霊力を感知して的確に動作する霊子甲冑に比べて、単純蒸気機関の限界があるのである。
すなわち大神はスタアに対して、敏捷性で対抗していた。
スタアの攻撃を食らえば確かに一発一発が重いが、どうしても大振りになる。
力任せな右腕の横振りをかわした直後、相手に大きな隙が出来た。
「せえいっっ!!」
大きく開いた右肩付け根の関節部分へ向けて、大神は的確に小太刀を叩きつける。
だが、音も手応えもしなかった。
二刀小太刀はスタアに届く前数センチのところで、何もない空中で弾かれていた。
「脇侍と同じ……!?」
霊力を込めていない攻撃の大半を無効化する。
敵がブードゥーの死霊魔術を使っているなら、考えられない話でもない。
脇侍は呪符と妖力を原動力にしているらしいが、おそらくそれと似たような加工をしているのだろう。
「無駄だ小僧。そんな攻撃が通用するものか」
「それなら……、狼虎滅却……」
「!?」
マリアならいざ知らず、と高をくくっていたバレンチーノフだが、大神から放たれる霊力に目を見張った。
「快刀乱麻ァッ!」
時間をかけている余裕はない。
大神は一気に片を付けた。
黒之巣会幹部級魔操機兵ならいざ知らず、この程度ならば霊子甲冑による増幅が無くてもかろうじて何とかなる。
大体、さくらは帝都に来た初日に偵察用脇侍を生身の一閃で倒したと聞いている。
これぐらいが出来なくてはそもそも隊長として立つ瀬がない。
スタア胸部の星型エンブレムに大きな亀裂が入り、その巨体がゆっくりと仰向けに倒れた。
「Jesus……」
驚愕するバレンチーノフは隙だらけだったが、大神はあえて追い打ちをかけなかった。
右腕が無く人型蒸気も失ったこの男はもはや無力だろうと思ったこともあるし、何よりも彼の始末をつけるのはマリアの役目であり意志でもあるだろう。
マリアの手をこれ以上汚させたくはないけれども、自分が手を下していいとも思えない。
そう判断すると大神は、魔術の影響だろうか何の支えもなく空中に浮かび上がっているマリアと、その傍で呪文を唱えているレイノルズに向かって突進した。
その前には、レイノルズの傍に付き従っていた五つの人影が立ちはだかる。
保身など考えてもいないような無謀な動きではあったが、攻撃のみを見た場合その身のこなしと連携は正確であった。
「邪魔だあっ!」
いかな大神でもその全てをかわしきるのは不可能だった。
五人をうち倒しつつも、うち一人の拳を受けてしまった。
衝撃。
体格離れした……いや、人間離れした力が、命中した大神の左腕に加えられる。
しかも、気絶どころか死んでいてもおかしくないような攻撃を加えたというのに、その五人はのそりと立ち上がってきたのである。
「げげっ……」
これにはさすがに大神の足も止まった。
よくよく見れば、視線は大神を捉えていないし、さっきから一言も……うめき声一つ上げていない。
そして、あれだけ動いているというのに、肩で息をするどころか……いや、息をしていなかった。
「……ゾンビ」
「正解だよ、youngman」
ブードゥー教に秘術として伝わる、死体蘇生……いや、死体使用術と言った方が適切かも知れない。
この五人は既に死んでいて、単に動いているだけだ。
「バラバラに解体でもしないと、止まらぬよ」
まあ間に合わんだろうと言う意味の、勝利を確信した笑みをたたえつつ、レイノルズは丁寧にも助言をよこしてきた。
呪文を唱える声のトーンが上がり、儀式が終局に近いことを示している。
「くっそおおおおお!」
レイノルズの言うとおり、切っても切ってもまとわりつくゾンビどもを突破できず、手こずっていたところで、
ガアンッッ!
背後からの殺気をギリギリで察知して動いた。
それでも脇腹に焼け付くような痛みが走る。
避けきれなかった……。
背後を振り向くと、左手に銃を構えたバレンチーノフがニタリと笑っていた。
銃口からは硝煙が微かになびいている。
「左手で銃は持てないと思ったか、小僧」
勝ち誇りつつ、もう一度引き金を引く。
今度は銃口の向きと視線の角度から弾道を予測して何とかかわせた。
この流れ弾を顔面にくらったゾンビがいたが、そいつは倒れもしなかった。
対して大神はここまでのダメージの蓄積が大きい。
動きが止まったところで完全にゾンビたちに囲まれる。
そしてレイノルズが石板をマリアに向けつつ高く高く掲げた。
儀式が……何が起こるか分からないが、ともかく絶対にいいことではないことが……完成する……!
「させるかあっっっ!狼虎滅却……!」
こいつらを蹴散らそうとしていたのでは間に合わない。
ならば!
大神はまだ自由に動く右手の小太刀を逆手に持ち、
「……、とにかく飛んで行けえっ!」
こんな技に名前なんか無い。
だが、投げる一瞬、バレンチーノフから受けた傷が痛み、狙いが甘くなった。
驚いて石板を動かすレイノルズ。
大神の小太刀は……石板の横スレスレを通過していった。
「Hahahahahahahaha!残念だったな、young……」
ガアンッ!
やけにあっさりとした音が響いて、レイノルズの台詞は途中で中断させられた。
ふと見ると、レイノルズの持っていた石板の中央に穴が開いて、石板の光が完全に消えている。
「First attackに注意が向いたところで、one more attack.
Old techniqueだが、悪くない」
「あなたは……」
大神が声の出所を探すと、場所はこの付近で一番高く積み上がったコンテナの上。
いささか格好を付けつつ、硝煙の上がる銃を収めたのは、やはりもう一人の男ボードヴィルだった。
大神の投げた小太刀にレイノルズが注意を向ける瞬間を狙ったと言うことは、どうやらかなり前から状況を伺っていたことは間違いない。
「Don't killってことは、死なせても駄目なんだったな」
ドサッと、空中で支えの無くなったマリアが倒れ込む。
既に意識は取り戻していた。
「ボード……ヴィル?」
話には聞いていたが、いざこうして目の前にすると合わせる顔が無い。
マリアは顔を背けようとしたが……しかし、それも出来なかった。
懐かしかったのだ。
この男の顔が。
「せっかく罠だと分かっているから、hypnoを解いてやろうと呼び出したのに無視してこいつの方に来るんだからなあ。
相変わらず冷たいねえ」
前よりもかなり日本語が流暢になっている。
hypnoというのは催眠術のことだろう。
だが操る言語が変わりこそすれ、その口調は非難していると言うよりは笑って見せているという方が正しい。
マリアの、思い出にある通りに。
思わず涙がこぼれそうになって……慌ててそれを拭いた。
今のボードヴィルが味方かどうか、まだ分からないのだ。
自分を守って死んでいったあのときの姿と、劇場で自分に向かって銃を撃った姿とが、奇妙にぶれて重なる。
……どうしても敵と思いたくない。
茫然とボードヴィルを見上げるマリアだが、レイノルズはその隙を見逃さなかった。
術の中心たる石板が砕けてしまいもはや儀式は不可能となってしまったが、この女だけは何が何でも殺しておかねば気が済まない。
術などではなくて直に、この手で!
足音を忍ばせて背後から迫る彼の存在を、今のマリアは全く感知できなかった。
だが、上から見ればそんな物はバレバレなのであって、
「マリア、こいつを使え!」
ボードヴィルはポケットから何かを投げつける。
それは丁度、マリアの首を絞めようとしていたレイノルズの顎に命中して跳ね上がった。
「ぐっっ……」
予想していなかったレイノルズは、その一撃で大きくよろめいてしまい、マリアを掴めなかった。
そこで振り返ったマリアはようやくレイノルズが近づいていたことに気づいた。
目の前に敵!
それだけで、意識が鮮明になる。
鍛え上げられた戦士としての感覚は、幸か不幸かまだ失われていなかった。
跳ね上がったそれを、マリアは半ば無意識に空中で掴んだ。
少し古めのリボルバー型の拳銃だが、十分使える。
そういえばエンフィールドは取り落としたままで丸腰だった。
「shit!」
レイノルズは毒づきつつ魔術を使おうとして両手を合わせようとする。
そこへマリアの銃が火を噴いた。
弾薬も入っているし、暴発もしなかった。
「Gaaaaaa!」
撃ち抜かれた両手を押さえてわめくレイノルズの眼前に、ぴたりと銃口が突きつけられる。
「……クワッサリー……」
冷や汗と脂汗を盛大に垂らせつつ、恐怖と共にうめいた。
これはもう脅迫という領域ではないと、マリアの全身から立ち上る霊力が物語っていた。
いつでも引き金を引ける状態。
単音節の呪文ですら唱える暇を与えないと、その瞳が雄弁だった。
「レイノルズ……。何故バレンチーノフを蘇らせたの?」
その声を聞いてレイノルズは、全身が焼き尽くされるような凍気に襲われたかと思った。
答えなければ殺される。
だが、恐怖で唇も舌も動かなかった。
「私の過去を呼び覚ますために……、私を苦しませるため……?」
最初から答えを期待していたわけではない。
そんなことは既にマリアは承知していた。
「私は奴を殺した。
間違いなく殺した。
私を裏切ったことよりも……、隊長を殺したことが許せなかった」
もう一度全てを思い出して反芻するように、淡々とマリアは語る。
「奴を殺したのは、私が出来る隊長へのせめてもの償い。
それだけで償えた訳じゃないと分かっているけど……私は自分では死なない。
自分では死ねない。
隊長との、約束だから……」
約束……そのとき言ったその言葉が、二人の内のどちらを指していたのか、マリア自身にもわからなかった。
ただそこで、マリアの視線が僅かに緩んだ。
レイノルズは、その隙にどうにかバレンチーノフを操ってこちらに向かわせようとする。
元々、バレンチーノフも彼が蘇らせた以上、他のゾンビたちと同様にその気になれば意志を無視して操ることが出来る、はずだった。
だがバレンチーノフはそのとき、右手一本で五体のゾンビをどうにかこうにか破壊し終えてしまった大神と格闘戦に持ち込まれており、レイノルズの所に来るのは不可能だった。
「ただ私のニューヨーク時代を呼び覚ますためだけに……、私の過去の全てを、隊長を冒涜したおまえを、私は許さない……」
「う……、うおおおおおおおおおっっっっ!!!」
恐怖に耐えきれなくなったレイノルズは理性の吹き飛んだ形相でマリアにつかみかかろうとする。
だが、マリアは冷静だった。
魔術も使わないこの男など、既にものの数ではない。
「Docvi……」
Docvidanijaと言いかけて、マリアは途中で止めた。
この言葉を、かつてバレンチーノフにとどめを刺したときに言ったのを思いだしたのだ。
ロシア語で、「さよなら」
だがもう一つの意味があるのだ、この言葉には。
「また、会おう」と。
自分の言葉が、もしかしたらあの男を呼び戻したのではないか……そんな気がした。
唇を湿らせて、言い直す。
日本語で。
「さよなら」
レイノルズは、バレンチーノフとは少し違って、眉間に銃弾を撃ち込まれて死んだ。
「Gaaaaaaaaaaaa!!!」
大神と格闘戦を演じていたバレンチーノフの様子が変わった。
格闘戦技術で引けを取る大神ではなかったのだが、ここまでの勝負はほとんど互角か、バレンチーノフがやや優位だった。
バレンチーノフは、自分の肉体の限界を超えた攻撃を仕掛けて来ていた。
やはり、この男は既に死んでいるのだ。
本来人間の肉体は限界まで使わないように制御されている。
どうしても必要なときだけ、火事場の馬鹿力などと呼ばれるように本当に僅かの間だけ使うのだ。
だが既に死んでいるバレンチーノフの身体には、その制御がもはや無いらしい。
腕の筋組織を自壊させつつも振るわれる攻撃は、先ほどの五体のゾンビと同等以上だった。
さしもの大神も、これにはたまらない。
強烈な勢いで地面にたたき落とされ、身動きがとれなくなったときにバレンチーノフが突然叫びだしたのだ。
「Ma・・ria……MARIAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!」
既にその目は正気ではなかった。
目の前に転がっている大神には目もくれず、野獣のような動きでマリアに向かって突進した。
「バレンチーノフ!」
大神の所に向かおうとしていたマリアは、様々な感情を込めて、向かってくるその男の名を叫んだ。
もはや、かつての面影は何一つ無い。
レイノルズが死んだことで魔術の効果が消えかけているのか、頭髪は抜け、白目をむいて、
だがそれでもマリアへ向かって真っ直ぐに向かってきた。
あの男では、ない。
自分と隊長を罠にかけ、多くの仲間を殺し、その舌で自分を何度となく欺こうとした、あの男ではない。
憎悪とは違う、現在への嫌悪が走った。
せめて、もう一度あのときと同じようにとどめを刺してやる!
かつてと同じように、マリアの撃った銃弾が額に向かって吸い込まれていく。
命中した。
間違いなく。
だが、バレンチーノフは倒れない。
頭部の原型すら留めていないと言うのに、まだマリアに向かっていった。
かつてニューヨークにおいて、別の意味でこの男に襲われたことが今一度思い出された。
だが、もういいだろう。
あまりにも悲惨なこの男の姿を見て、かつてこの男に抱いていた憎しみも恨みも、どうでもよくなっていた。
死の眠りについていた者を蘇らせる。
そのおぞましい行為の犠牲者となるほどの罪だったか。
「マリア、凍らせるんだ」
ボードヴィルが冷静に助言をくれた。
かつてこの男に殺されたボードヴィルだが、やはりその声にはバレンチーノフへの憎しみよりも哀れさを感じさせた。
ボードヴィルがどうして、見せたことのない自分の凍気の力を知っているのかというのは、そのとき考えなかった。
最後の十数メートルを一息に跳んでマリアに迫ってくる。
ため息をつきつつ、マリアは霊力を解放した。
「スネグーラチカ!」
初めてこの男と会ったあの氷の大地のような、全てを凍てつかせるような凍気がバレンチーノフを包み込んだ。
「Ma……Ri……」
かろうじて残っていた口が、凍結寸前にもう一度だけマリアの名を呼ぼうとして、呼びきる前に、
バレンチーノフの全身は凍結した。
「さよなら……」
凍結したその身体は地面に落下した衝撃で粉雪のように四散し、
バレンチーノフは水蒸気のようになって消えた。
初出、SEGAサクラ大戦BBS 平成十一年十二月二十九日
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