紐育の悲しき三角関係
第三節
轟華絢爛第一巻反逆小説


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 二日が過ぎた。
 さんざん警戒していたものの、あれから次の動きはない。
 しかし、どこで監視されているかも分からない状況で四十時間。
 マリアの精神はかなりすり減らされていた。
 かつては当たり前のように銃弾が飛び交う場所にいても、平然としていられたものを……!

 言い換えれば、それは生きていくことに意味を持った証明でもあるのだが、疲れ切っていたマリアにとっては、帝劇花組の一員として暮らしていくうちに自分が確実に弱くなったという実感となってのしかかっていた。

「マリア、少し休むんだ」

 楽屋に行く途中で、マリアは大神に呼び止められた。
 疲れが顔に出ていたと分かって、精一杯虚勢を張って顔を上げる。

「休む……?ご冗談を。あと一時間ほどで昼の部の公演が始まるのですよ」
「一時間でもいい、その緊張を解いて休むんだ」
「……!!」

 見抜かれていた。
 今の大神は戦場での彼に似ている。
 絶対の安心感を与えてくれるその声。

「何があったのか、まだ言いたくないなら無理に言ってくれとは言わない。
 だけど、今は少しでも休むんだ。
 その間、君は俺が必ず守るから」

 泣きたくなった。
 大神にしがみついて泣きたくなってしまった。
 誰が通るとも分からない廊下だと言うことを、考えるより先に自覚して、自制してしまった自分がいっそ恨めしい。

「……お言葉に、甘えさせていただきます」



 マリアは安心して座り込んだ。
 大神が巡回その他を全てやっているため、劇場設計者の意図とは外れて無用の長物と化している宿直室である。
 もし帝劇を改築するようなことがあったら、真っ先に別の部屋に改造される所だろう。
 つまり、滅多に使われることも、人が来ることもない部屋である。
 一応の備品はおいてあるので、大神はふすまの奥から座椅子を引っぱり出して少し埃を払った。
 それから毛布。
 有り難く受け取りつつ、マリアはふと気になった。

「……隊長、玄関のお仕事はよろしいのですか?」

 公演開始一時間前と言えば、モギリの仕事はこれからが本番である。
 さすがに心配になってしまった。

「ああ、由里君にお願いしてちょっと代わってもらったんだ」

 条件として、何でも一回言うことを聞くように、と約束させられたことはあえて言わずともいいだろうと思い、黙っておいた。

「ありがとうございます、隊長」

 そのままマリアは、あっさりと眠りに落ちてしまった。
 この能力は残念ながら、戦士としてのマリアの能力の一つである。
 眠れるときに確実に眠っておかなければ戦えないのだ。
 だが、毛布をかけ直してやりながら眺めるマリアの寝顔は、確かに自分より年下の少女らしい、どこかあどけなさを感じさせる表情をしていた。
 まじまじとみつめそうになって、前に警告されたことを思い出し、慌てて大神は目をそらした。

 そして、約束通り周囲に気を配る。
 耳と、それから霊力を察知する全身の神経に集中する。
 この部屋だけではなく、帝劇中を察知しようとする。
 さすがに人のざわめきなどが重なって難しいが、

「!?」

 公演開始二十分前ほど。
 妙な気配が玄関をくぐって入ってきたのを感じた。
 殺気……のような気もするが、どこか違うと感じた。
 敵意もあったが、明確な形を取ってはいない。

 何か来るとは思っていたが、正面から堂々と乗り込んでくるとは思わなかった。
 マリアが緊張するのも仕方がないと思う。
 あとで由里に珍しい客が来なかったか聞いておこう。
 今のところその気配は一階客席の雑踏に溶けて行くところまで確認して、そこからは追えなくなった。


 十分前。
 マリアに呼びかけると、すぐに目を覚ました。

「休めたかい?」
「はい、ありがとうございます」

 答える声に張りが出てきたので、嘘ではないらしい。

「何か、変わったことはありましたか?」

 と聞いてくることは、ちゃんと緊張は解いていたと言うことだ。

「敵意かどうか分からないけど、妙な気配が客席に入り込んでくるのを感じたよ。
 今日は俺も切符を切り終わったら客席に張り込んでおくから」
「分かりました」

 目立つと分かっていてバレンチーノフが乗り込んでくるとは少し考えづらかったが、ともかくいくら何でももう楽屋に行っておかねばならない。

「隊長、お願いいたします」

 その声には、確かな信頼が込められていた。



「あ……、おおがみ……さん」

 玄関に戻った大神を待っていたのは、いつもの快活さはどこへやら、疲れ切った表情の由里である。
 大神は即駆けつけてハサミを受け取って仕事を代わる。
 代わると同時に、由里は椅子にどうと倒れ込んだ。

「ゆ……由里くん!?」
「大神さん、今は仕事に集中……」

 由里にも帝劇三人娘の誇りがある。
 気遣ってもらえるのは嬉しいが、そのために仕事を中断させるわけには行かない。
 大神もそれが解っているので、心配ながらもぐっと堪えて仕事にかかる。

 たかがモギリの仕事と侮るなかれ。
 彼の持論である悲哀に満ちたモギリ道はさておき、これには別の意味もあるのである。
 大神も三人娘もまだ知らないことだが、帝劇はそれ自体が巨大な祭礼殿である。
 来場者に直接相対するモギリの仕事は、外から来る正負あわせた力に立ち向かい、参列する者の正邪を計る門番としての役目もあるのだ。
 このため、帝劇のモギリの仕事は、他の劇場のそれよりも何倍も過酷なのである。
 特に、霊的な意味で。

 大神が来る前までは帝劇の公演そのものが本格化していなかったので、まだ三人娘でもこの仕事が出来たのだが、「ジュリオとロミエット」から「椿姫の夕」に変わるあたりで帝劇の観客動員数はぐんと増えている。
 今はその分だけ仕事は過酷になっているのだ。
 それに加えて、妙な人物が来たかどうか気をつけておいてくれ、などと言われた日には。
 由里が疲れ果てているのは以上のような理由からである。

「由里くん、本当にごめん……」

 公演開始二分前。
 駆け込みのお客さんのピークが切れたところで、ようやく大神は由里の方に回ることが出来た。

「大神さん、これじゃあ一回言うことを聞いてもらうくらいじゃ割に合いませんよ」

 そんな仕事を毎日やっている俺の立場は何なんだと、内心泣きたくなる大神だが、男子と帝国軍人の誇りに賭けてそれは口にしないでおく。

「……ところで、何か目出った人物は来たかい?」
「……来たわよ。妙というよりも格好いいと言った方がいい三十代。
 金髪碧眼、どこ系の人種かは分からなかったけど、白色系人種で背の高い……大神さんよりも十センチくらい高かったと思うわ。
 切符を受け取った瞬間、なんて言うのかしら……薄寒さを感じたわ。
 でもね、顔は八十五点くらい。着ているスーツは八十七点くらいかな。イギリス製で……」
「……ごめん、そのあたりはいい」
「そう……」

 ものすごーく残念そうな顔をされて、大神はちょっと罪悪感に囚われたが、今はのんびり聞いている時間がない。
 公演開始と共に客席の扉を閉めなくてはならないのだ。

「あとね……見切れた訳じゃないんだけど、その男、どうも銃を持っていそうな雰囲気だったわ」
「わかった、ありがとう由里くん」

 そう言って大神は扉へ向かった。
 のんびり話していたら、これ以上の要求を言われるのではないかという恐怖も少しあったが。
 もうこの後は、中で控えていなければならないだろう。

「あ、大神さん。事情はあとでたーっぷりと聞かせていただきますからね」

 大神はいまさら、由里に頼んだことを後悔した。



 言葉の定義が間違っているような気もするが、帝劇には立ち見席というものがある。
 安価ででも市民に公演を楽しんでもらうことが出来るようにと言う配慮と、少しでも多くの劇場収入で帝撃の費用を補填しなければならないと言う打算との共同産物だが、立ち見の当日券で毎日公演を見る強者もいるくらいで、今日も立ち見のお客さんは少なくない。
 扉を閉めつつ、まずその立ち見席、次いで通常客席をざっと調べる。
 立っている分目線が高く、舞台を狙撃するには都合がいいからだ。
 見たところ金髪は見あたらなかったので、二階に移る。
 こちらにも見あたらない。
 どこにいる……と思ったところで、客席の明かりが消えた。

 こうなってはもう気配で探すしかないのだが、これだけの人間がいる中でそれは不可能というものだ。
 仕方がないので大神は、一階客席前横の壁に張り付いて、客席全体を見渡し続けることにした。
 客席後方にいたのでは劇場の構造上、どちらかの階しか監視できないので。
 お客さんに不審がられないように、念のため黒子の衣装を着ておく。

 さて、そんなことには別段構った様子も見せずに舞台は始まる。
 マリアもいつも通りの演技を見せていた。
 ……いや、いつもより熱がこもっていたかも知れない。
 客席を監視している大神は、それをほとんど見られなかった。
 マリアの役は脇役とはいえ、ヒロインお宮に言い寄って寛一との仲を裂く役であるので、これはこれで出番が多い。
 だが、マリアが出ても客席からは普通に歓声とため息とが聞こえるだけである。
 自分の思い過ごしだったのかと大神は思い始めてしまい、慌てて思考を引き締める。
 気を抜いたときが一番怖いのだ。

……あと考えられるとすれば、カーテンコールか。

 大神は気配を完全に殺して待った。
 出来れば何も起こらずに済むことを祈りつつ。

「来年の今月今夜、
 再来年の今月今夜、
 あの満月を、僕の涙で曇らせて見せよう」

 舞台ではカンナが、あの余りに有名な台詞を朗々と語っている。
 もう二人の世界であって、マリアの出番はカーテンコールまで無い。

 そして、拍手と共に幕が降り、花組のみんなが揃う。
 一人一人の紹介が始まって、

「寛一の恋敵、富山を演じました……」

 敵意が、
 動いた……!!

 一階客席最後列。
 どうやって隠れていたのか、潜んでいたのか、明らかに西洋人と分かる優男が、マリアに銃口を向けていた。

「マリア……」

 カンナの紹介する声に、男の引き金を引く指が重なる!
 大神はとっさに自分の霊力を放出していた。
 本来なら隊長機に搭載されている装備がなければ不可能な霊子防御壁。
 ガクンと力が抜ける……だが、なんとかなったか……!?

「タチバナ!」

 ガアンンッッ!!

 歓声に包まれそうな劇場の賑やかさを、その寸前で引き裂くようにして放たれた銃弾は、大神が必死で放った霊子防御をスレスレですり抜けていった。

「なっ……!?」

 しくじった……。
 絶望的な思いとともに、その軌跡を見送ることになる。

 バスッ……!

 マリアの髪をかすめて、奥の吊り背景に銃弾が突き刺さった音である。
 客席から上がる声が、その一発で凍結した。
 舞台上にいた花組のみんなも同様である。
 最も驚愕の表情をしているのはマリアだ。
 信じられないという顔のまま、少し灯りのついた客席の奥でにこやかに微笑んでいる男を凝視する。
 その男はさっと手を挙げて、いかにも軽そうにマリアに向けて挨拶した。

「あ……あ……」

 男の周囲の客が十数人、腰を抜かしている。
 それもそうだろう。
 実弾の発射シーンはおろか、拳銃を見たこともない人がほとんどのはずなのだから。
 その恐怖が高まり、悲鳴となろうという寸前で、
 かろうじて我に返ったマリアはとっさに叫んでいた。

「皆さん、お金があるからと言って人の心を自由に出来るなんて思わないことです。
 でないとこのように、人の恨みを買うことになるんです。
 分かっていただけましたか?」

 一瞬客席全体……いや、空間全体があっけにとられ、次に大爆笑が起こった。
 びっくりさせられたが、帝劇お得意のアドリブ演出だったのか。

「I'm sorry. Thanks for your looking.」

 ……”裏方さんであるらしい”その男はおどけた口調ながら、なめらかな英語で告げた後、鮮やかな仕草で銃をしまって、
 一番近くにいて腰を抜かしてしまった老人を丁寧に助け起こしてから、紳士な態度で一礼。
 悠然と退席していった。
 余りにその態度が見事だったので、大神も一瞬追うのを忘れそうになってしまった。
 舞台で紹介の続きが何事もなかったように始まったのを見てはっと我に返り、横口からトイレのすぐ横に出て駆け足でロビーに戻った。

「椿ちゃん!今、西洋人の男が出ていかなかったか!?」

 風のように現れた大神にいきなり尋ねられて、椿はめちゃくちゃ吃驚しながらこくこくと頷いて外を指さした。

「ありがとう!!」

 礼の言葉の終わりの方が、大神の移動速度によって低音に変わって聞こえた瞬間には、大神の姿は見えなくなっていた。

「……何があったの?」

 茫然とする椿の問いに答えがもらえるのは、公演終了後の売店の仕事が終わってからである。



 大神が玄関から飛び出すと、その男は手近な路地に入ろうと言うところだった。

「逃がすか!」

 叫んで走り出してから気づいた。
 拳銃を持っている相手に対して、こちらは丸腰だ。
 強いていえば、ポケットにいつも入れるようにしているモギリのハサミだけである。
 圧倒的に分が悪すぎる。

 しかし何とか行く先を突き止めねば、相手は全くこちらに気配を悟らせなかったほどの手練れである。
 一度見失ってもう一度探し出せる自信は無い。
 ままよ、と路地に入り、もう一度曲がったところで、

ガアンッッ!!

 見事に合わせるようにして一発飛んできた。
 髪の毛の先端をかすめた風を、大神は盛大な冷や汗と共に感じていた。

「Nice to meet you. Mr. オーガミ……だな」

 英語から、ややぎこちない日本語に変わった。
 あの優男が、既に銃をしまって道の中央に立ち、待っていた。

「マリアの知り合いじゃないのか?」

 相手が自分の名前を知っていることが、大神には驚きだった。
 それと共に、先の二発をこの男が意識的に外したことも悟った。

「youのことも、employerから少しきーている。マリアの新しいplatoon leader……らしいな」

 隊長、ということらしい、
 多少なりともマリアの過去を知っているようだ。
 それに、帝国華撃団のことも。

「確かにそうだ。だけど、それを知るおまえは?」
「ボードヴィル。NewYorkでのマリアのfriend……かな?」

 冗談めかしているが、言外にただの関係じゃないと主張しているところが明らかだった。

「その人物が何故マリアを狙うんだ。
 しかも、殺す気無しに」
「Don't kill Maria. ……と、employerから言われている。And、苦しめろ、と」
「何?」

 マリアの様子がおかしかったのは、この男が原因か……!
 と、気づいたときには銃口が向けられていた。
 速くて読み切れない!
 本能に従って身体を動かした。

「Great!」

 第一射をかわした大神に、ボードヴィルは感嘆の声を上げた。
 今度は本気で狙ったというのに。
 かわした大神は一旦障害物の陰に隠れて、転がっていた手頃な大きさの石を二つ拾い上げた。
 その間に飛んできた、障害物越しだというのに正確な一射を大神は辛くも避ける。

 これは、かなり手強い!

 小石に霊力を込め、まず一個思いっ切りぶん投げると共に大神は障害物の蔭から抜け出して、間を詰めにかかった。
 背を見せればやられると言う確信があった。
 ボードヴィルが慌てずに小石をかわして狙ってくるところ、二個目の小石を手裏剣でも投げるかのような短い動作で、一個目よりもさらに鋭く投げつける。
 この狙いも正確無比。
 だがボードヴィルはその正確さを逆手にとって、真っ向からこの小石を撃ち抜いた。

 しかし大神もその間に、何とか直接攻撃距離までたどり着いて、ボードヴィルの銃を持つ手を蹴り上げようとする。
 だがボードヴィルも上手く身体をひねってそれをかわしつつ、回し蹴りを放ってきた。
 拳法の動きではなく、喧嘩で鍛えたような動きではあったが、しかし慣れた動きだった。
 カンナほどではないにしても、大神は格闘術の心得もかなりある。
 しかしそれでもボードヴィルの実力のために、十センチの身長差から来る体格の違いを埋めるのがやっとだった。

 当たりは互角!

「Wonderful!」

 まさか止められるとは思っていなかったボードヴィルは、口笛を吹いて叫んだ。
 お互いに飛びのいて距離を取るとボードヴィルは銃をしまった。

「OK,オーガミ。安心した」

 安心した……?

 日本語を間違えたのだろうかと大神は思ってしまったが、
 ともかくこの場は引き分けと言うことらしい。
 つまりは、追跡もするなと言うことにもなるが。

「See you again.」

 悠然と手を振りつつボードヴィルが去るのを見届けると、すぐ大神はその場に膝をついて倒れた。
 無茶な霊子防御で霊力を消耗した上にやり合って、今にも眠り込みたい状態だったのだ。





「二人とも、私のニューヨーク時代の知人です」

 大神がいささかふらつきながら帰ってきたところで、マリアは花組の面々を前にして重い口を開いた。

「先日から私が警戒している男はバレンチーノフ。
 かつて……ロシアの大地にて私と隊長を含む革命軍の仲間を売り渡した男です」

 こうなってしまっては黙っていることは出来そうにない。
 ならば自分の忌まわしい過去であっても、哀しみに彩られた記憶であっても語るべきだ。
 仲間を信じられるようになった自分なのだから。

「ニューヨークにたどり着いた後にもまた、私を利用しようとして接触して来ました。
 同じ頃、打ちひしがれていた私に声をかけて励ましてくれ、バレンチーノフから私を守ってくれたのがもう一人の男、ボードヴィルです」

 本当は、そう一言で語れるような男ではない。
 だがこれは恐怖ではなく恥ずかしさが、記憶から舌に乗る前に無理矢理話題を降ろした。

「バレンチーノフの罠にはめられた私を助けるために、彼は死んだんです。
 私の腕の中で、確かに……」

 あのときの悲しい感触が腕に蘇り、マリアは自分の両腕を見つめてぎゅっと拳を握りしめた。

「死んだ……?」
「はい」

 思わず聞き返してしまった大神だが、マリアの返答は揺るぎのない物だった。

「生きているはずがないんです。
 でも、彼は確かに私の知っているボードヴィルだった……」
「その人が、なぜマリアさんを殺そうとするんですの。
 話が合いませんわ」
「……マリアは殺すな、と雇い主に言われている……、ボードヴィルはそう言っていたよ」

 大神はあえてボードヴィルがつけ加えた言葉は説明しなかった。
 それを聞いただけでもマリアは、驚きの表情を見せて……すぐに沈んだからだ。

 その雇い主とやらがボードヴィルを蘇らせ、自分に対して何を考えているのだろう。
 自分のせいで死んで、そして今また自分のために蘇らされたボードヴィル。
 どうしようも無く、済まないと思う。
 『俺のために死のうなんて思うなよ』……そう言ってくれた彼が……。

「マリア。もう一人のバレンチーノフってのはどうなったんだ?」

 マリアがどんどん落ち込んでいくのを見かねて、カンナが少しでも話を変えようとする。
 自分のために死んでいった人間のことを考えるより、自分を殺そうとした人間のことを考える方が、……どちらも負の方向性を持った感情であるにせよ……、少なくとも落ち込まずには済む。
 その心遣いを感じたマリアは目でカンナに礼を言って、話を続けた。

「バレンチーノフがそのとき属していたレイノルズ家というマフィアを壊滅させて、私は彼の右腕を打ち砕きました」
「……殺さなかったのか」
「ええ……」

 答えながら、マリアはとまどいを覚えていた。
 何故殺さなかったの……?
 どうして、奴は生きているの……?
 レイノルズ家の一党は、重要参考人であるボス、グリフ・レイノルズを除いてことごとく葬り去っているというのに!

「……ようは逆恨みってことかよ。腐った男だぜ」

 沸々と沸き上がる義憤のぶつけ場がないカンナが、バシリと右拳を左の掌に叩きつけた音が響いた。
 まったくである。
 花組全員、その意見に異論はなかった。

「ですが、どうしても見えてきませんわね。
 そのバレンチーノフという男の行動はまだわかりますが、ボードヴィルの方は……本当に蘇ってきたと言うんですの?」

 確かに、にわかに信じられる話ではない。
 そっくりの人物を仕立て上げたのかも知れないし、

「キョンシーとか……、はちゃうなあ。大神はんは彼とちゃんと話をしたんやろ」
「ああ、銃を撃つ腕も正確だったし、強烈な蹴りを飛ばしてきたから幽霊でもない」
「……アイリス、お化けは嫌いだよ」

 というアイリスの意見が、皆の一番正直なところかも知れない。
 いくら七月だと言っても、怪談話が盛り上がるにはまだ早いだろう。

「その……、バレンチーノフがまだ生きているから化けて出てきたってことじゃ……、
 な、ないんですね……」

 おそるおそる言ったさくらは、すみれの呆れ果てたような視線に睨まれて、しゅん、となってしまった。
 が、これには意外なところから賛同者が出た。

「そうかもしれないわ、さくら」

 かすかに……本当に微かに微笑みを浮かべたマリアである。
 その微笑みが今にも壊れそうなことがいっそ痛々しかった。

「いずれにせよ、バレンチーノフは私を狙ってくるわ。
 偽物であろうと本物であろうとも、彼を今度こそ完全にうち倒して、そうしてから私はボードヴィルに会いに行くわ」

 それを聞いてカンナは安心できた。
 壊れそうな微笑みの奥に強力な意志を感じる。

「意気込むのは構いませんけど……、今度黙って出ていったら花組失格と見なしますわよ。マリアさん」

 きつさの戻ったすみれの言葉も、その真意はよくくみ取れる。
 もう心配させるなと言っているのだ。

「わかったわ。
 行くときはみんなに告げてから出かけることにする」
「ちゃんと、帰ってくると約束もしていただきませんとね」





第四節へ


初出、SEGAサクラ大戦BBS 平成十一年十二月二十九日



楽屋に戻る。
マリアの部屋に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。