古城の一夜
アイリスSS・巴里編


 ロワール河畔に佇む古城は、なぜか女性的に見えた。
 後部座席でお互いが同時に抱いた感想を何とはなしに話していると、中年の運転手が慣れた口調で解説を始めてくれた。
 同じように言う人が多いのだという。
 それも道理で、時の王は自分のためではなく、一人の愛妾のためにこの城を造らせたのだそうだ。
 その愛妾の名は、イリス・ナヴァル。

 今、すみれとさくらの二人の間に座っている少女もまた、イリスという。

 イリス・シャトーブリアン。
 愛称はアイリス。
 彼女は一歳のときから八歳になる直前まで、そのソローニュ城の中にいた。



 頑丈そうな、しかし無骨さを感じさせない優美な城門の前には、召使いやメイドらがずらりと列を作り、客人と令嬢を待っていた。
 助手席に乗っていた青年が一足先に降り、後部座席の扉を開けると、その列の頭が一斉に下がった。
 恭しさと……いくばくかの畏れを感じたのは、まず先に降りたすみれの気のせいではあるまい。
 目を合わせまいとして逃れようとする態度を察知することに、悲しいかな、彼女も長けていた。

 だが、下がり続ける頭たちの中で、真っ先に上げられた顔は違っていた。
 列の果て、なお頭を下げている初老の執事の隣にいる少年は、十二、三……アイリスとほぼ同い年であろうか。
 いささか無遠慮に、だがまっすぐに、何にも臆することなく、輝くような瞳でこちらを見つめていた。
 その視線はすみれを見ていたのではない。
 問うて確認せずとも解ろうというものだ。
 すみれの後ろから、金色の髪をかすかに振りつつアイリスが降りた瞬間、はっきりと笑顔を見せてくれたのだから。
 当のアイリスもその視線にすぐ気づいたようだ。

 わずかにアイリスは首を傾げた。
 その少年の顔に見覚えが無かったからだ。
 だが、類い希な霊力を持っているアイリスは五感だけで物事を把握しているのではない。
 顔ではなく、別のものに覚えがあった。
 まっすぐに向けてくれた視線と意識。
 そう、初めてまっすぐに自分を見てくれた視線だった。

「……ジャン?」

 アイリスはおそるおそる、尋ねるように名前を口に乗せた。
 その名前を持つ少年の顔を最後に見たのは一年以上前。
 その記憶にある顔はもっと幼かったからだ……自分と同じように。

「久しぶりだね、アイリス……!」

 肯定代わりに呼びかけたジャンは、その直後に隣にいる執事にはたかれた。
 お嬢様を呼び捨てにしたのだからもっともな措置だが、執事はそれ以上の叱責の言葉を飲み込んだ。

 下男に呼び捨てにされたはずのアイリスが、かすかに赤く、でも、幸せそうな笑顔を見せたから。





 理由は色々ある。
 三人の乙女がユーラシア大陸の端から端までわざわざ来た最大の理由は、もちろん、帝国華撃団花組隊長大神一郎に会うためだ。
 ちなみに、彼の肩書きに「元」をつけてはいけない。
 その彼は現在巴里華撃団花組隊長を兼任し……と乙女たちは考えている……ており、当然のことながら巴里に滞在している。
 それならマルセイユの港に着いて、真っ直ぐ巴里へ向かえばいいかというと、それがそうでもない。

 彼女たちは仮にも東洋一を謳われる大帝国劇場帝国歌劇団のスタアである。
 花の都巴里に入るのに、長旅でくたびれた姿を見せては沽券に関わる。

「パリジャンにはトップスタアのトップスタアたる姿を見せなければなりませんわ」

 と主張したのが誰かは語るまでもない。
 もっとも、これは後付の理由であることは三人が三人とも理解していた。
 パリジャンには、ではない。
 大神に久々に会うのだから、一番綺麗な笑顔で会いたいというのが乙女たちの本音であった。

 宿代をわざわざけちるつもりなどないが、アイリスの実家から二人も招待したいとの申し出があったので、それならばと、さくらとすみれも揃ってアイリスの実家を訪問することになった。
 二人は、ミシェルと名乗った老執事に案内された個別の客室で、改めて鏡を見てみる。
 一ヶ月の船旅の間に食べたフランス料理のせいか、帝都を出るときよりも少し丸くなったような顔は、やっぱりちょっと大神に見せられないほど疲れていた。



 令嬢であるアイリスを案内したのは、他ならぬジャンであった。
 最初はびっくりしたが、彼と歩きながら考えてみると、当然の人選であるようにも思えた。
 つまりは、消去法なのだ。
 古くからアイリスのことを知っている使用人たちは、皆、彼女に対する恐れを拭い切れていない。
 シャトーブリアン夫妻に対する忠誠心篤いミシェルでさえその気配は皆無でなかった。
 ただ一人、ジャンだけが、アイリスを恐れなかったのだ。
 恐れずに、いてくれたのだ。

「アイリス、こっちだよ」

 ミシェルに怒られたというのに、平然と呼び捨てを続けてジャンが声をかけてきた。
 そのことは嬉しかったが、アイリスにはジャンの言っている意味がわからなかった。
 かつて、城内の行動範囲を制限されていたとはいえ、城の大まかな構造はわかっている。
 アイリスの部屋は、城の南にあったはずだった。
 そちらへ行こうとしたのに、ジャンは東へと案内しようとしている。

「奥様がね、アイリスが成長したからもう子供部屋は悪いだろうって仰ったんだ」
「……ママが?」
「だからね、アイリスの新しい部屋はこっち」

 そう言われて、アイリスは何故かほっとした。
 南には好きだった部屋もあるし、廊下や部屋の構造もよくわかっている。
 でもやっぱり、そこにあるはずの思い出には影があったのだ。

「……ねえ、ジャン」

 すたすたと前を歩く少年の背は、一緒に巴里を駆け回った五年前の記憶よりもずいぶん大きく見えた。
 もちろん、あのときから比べればアイリス自身も成長しているけれど、ジャンの身長はアイリスよりも頭一つ以上高かった。

「なに?アイリス」
「えっとね……、ジャックと、ジョルジュはどうしてるの?」

 名前を思い出すのに少し時間が掛かった。
 二人ともジャンの兄だ。
 ジャックが長男、ジョルジュが次男、ジャンが三男。
 欧州大戦の戦災孤児であるこの三人が、アイリスを誘拐しようとして、何故かアイリスと一緒に巴里中を駆け回ることになった事件が、アイリスが日本に行くきっかけでもあった。
 その大騒動の後、三人はシャトーブリアン家が育成することになっていた。
 ジャンがこうしているので、両親が二人を追放したとは思わなかったが、やはり気になったのだ。
 しかし、ジャンの答えはやや意外なものだった。

「あれ?さっきアイリス、ジャック兄さんとは一緒だっただろ」
「え?」

 言われてアイリスは考え込んだ。
 さっき一緒ということは、つまり。

「助手席にいたのが、ジャック?」
「そうだよ。
 今、ジャック兄さんは蒸気自動車の運転手を目指しているんだ」

 特にアイリスに声を掛けてこなかったので気づかなかった。
 もちろん、五年前に背負って貰ったときと比べて、ジャックも成長しているからだろうけど。

「でね、ジョルジュ兄さんは庭師の修行中。
 アイリスが好きだった庭園があるだろ、兄さんもあの庭が気に入ったんだって」
「あ、あの花畑……」

 かつてアイリスがいた南の区画に面した庭園は、色とりどりの花が咲き乱れる花園だった。
 アイリスは確かにその庭園が好きだった。
 自由へのあこがれと共に、手に取ることの出来ない花々を見つめ続けていたのだ。

「ジャンは?」
「僕?」
「うん。ジャンは……、何になりたいの?」

 実はさっきから気になっていたことがあるのだ。
 ジャンの腰に巻かれた革のベルトに紐で括り付けられた、先端が床を擦りそうなほど長い棒状の物体。
 やや湾曲したそれは……、鞘に収められた日本刀ではないだろうか。

「あ……えっと、ね。
 その、まだ、決めてないんだ」

 困ったような顔ではぐらかしたが、アイリスには聞こえてしまった。
 彼が心の中で強く思った声が。
 そう、

 騎士になりたい。

 と、ジャンは叫んでいた。





 シャトーブリアン伯が娘と娘の友人たちを招いた夕食会は、さすがに贅を尽くしたものであった。
 一ヶ月の船旅でフランス料理はそろそろ食べ飽きた気がしてきたさくらとすみれも、四百年の伝統を受け継ぐソローニュ城おかかえ料理人の技を前にあっさり白旗を揚げて、心ゆくまで堪能した。

「さすがですわね」
「すごくおいしいです!」

 どちらも最大級の賛辞である。

「お招きした甲斐がありましたわ」

 将来アイリスはこんな女性になるんだろうと思わされる容貌のシャトーブリアン伯爵夫人マルグリットは、どこか子供っぽくさえ見える優美な微笑みで返礼した。

「もう少し早く到着されれば、大神さんとも一緒に食事が出来たのですが、
 いや、やはり久しぶりの再会は花の都巴里の方がよろしいでしょうかな」
「パパ、お兄ちゃんがここに来たの?」
「ああ、先日お招きしてね。
 大神さんは忙しいから、お茶の時間くらいしかいられなかったけど」

 欧州経済界にその名を知られるシャトーブリアン伯爵ロベールは、とてもそうは見えない甘々の笑顔で娘の質問に答えていた。
 大神が来たときに伯爵が聞いた内容のいくつかは、三人にとって貴重な情報であった。
 マルセイユに着いた時点で賢人機関経由の電報によって、大神率いる巴里華撃団花組が敗北を喫したという情報は既に掴んでいたのだが、今の大神の状況は是非とも知りたかったのだ。
 伯爵が表現を選んで説明してくれているのだろうが、ひとまず大神自身に目立った傷は無いと聞いて三人は心底胸をなで下ろした。
 一方で、覚悟していたこととはいえ、巴里華撃団花組の面々が自分たちとそう歳の変わらない乙女たちであるという情報は、やっぱり心穏やかに聞けるものではなかった。

 ただ、それらの中で、
 ようやくにしてパパとママに会えて安堵した顔を、
 大神が無事と聞いて喜ぶ笑顔を、
 自分と歳の近い少女が巴里華撃団にいると聞いた複雑極まる表情を、
 並ぶ召使いの列の末尾から少年は見続けていた。




 話には花が咲いたが、何しろ三人は到着直後である。
 さほど遅いとも言えぬ時間に夕食会は終わった。
 途中から眠そうな目をしていたアイリスは、久々に両親に会えてはしゃぎすぎたのも原因の一つだろう。
 彼女がマルグリットとロベールに付き添われて部屋に戻ると、城の各所の明かりはいつもより少し早めに落とされていった。

 街から離れた古城は、その歴史と同じくらい親しんだ静寂に包まれる。
 元より、姫君の心を慰めるために造られた城は、その役目を忘れてはいなかった。

 とはいえ、城が完全な闇に沈むことはない。
 廊下の各所に設けられた油皿の上に、ゆらめく灯火が並んでいる。
 匂いも少なく、炎が明るい特別の灯油だ。

 今のところ伯爵は、ガス灯や蒸気灯に変えるつもりはない。
 手間も金も省けることは解っているが、居城にビジネス観など持ち込むのは無粋というものだ。


 かくて、四百年変わらぬ廊下を、ジャンは衛兵のような歩調で歩き回っていた。
 欧州経済界にその名を轟かせるシャトーブリアン家の居城ということで、この城に金品を狙った盗賊が入り込むことは少なくない。
 また、伯爵一家を暗殺、あるいは誘拐しようとする者もごく稀にいるので、この城には常時警備兵が詰めている。
 今日は特別に当番を合わせて、人数を増やして警戒に当たっていた。

 その彼らとすれ違うたび、慣れた態度で礼を交わす。
 少年ながら、実直な態度と姿勢を警備兵たちにも認められているのだ。
 だが今でも礼をする度にジャンは不思議な気分になる。
 かつてジャンたち三兄弟も、この城に盗賊として入り込もうとした前科がある。
 結果は未遂に終わり、何の因果か誘拐しようとした当のアイリスを助けることになったため、今ではこうしていられるが、十三歳にして人生とは不思議なものだと思わずにはいられない。
 そのアイリスをこうして守っていることに満足感を覚えているのだから、なおさらだ。

「やな夜だな、ジャン。
 月はおろか星も見えないぞ」

 東の廊下に詰めている三十前の警備兵が、真っ暗な外を見やりつつぼやいたので、ジャンもガラス窓の外を眺めてみた。
 城の警備用の明かりを除けば、外は文字通りの闇だ。
 いや、闇は闇だが……

「あれは……」
「どうした?」

 闇の中で、さらに一際濃い闇が見えたような気がした。
 まるで、羽が舞うような無数の闇が……

「何も見えないぞ……何か見えるのか?」

 元々巴里の孤児として路地裏で生活していたジャンである。
 闇を見通す目は、鍛えられた警備兵のそれをも上回っていた。
 しかし、あの羽が舞っているところは、確か……

 そこまで思い至るのとほぼ同時に、身体が駆けだしていた。

「お、おい、どうしたジャン!」
「気を付けて!侵入者かもしれない!」

 かもしれない、という口調には、確信がこもっていた。
 駆けだした足の向かう先……羽が舞ったように見えた先は、おそらくアイリスの部屋だ。
 理屈ではない。
 間違っているならそれはそれでいいではないか。

 だが、その想像は、幸か不幸か、的中した。
 アイリスの部屋の前までたどり着くのとほぼ同時に、

「きゃああああっっ!!」
「アイリス!!」

 聞こえた悲鳴がアイリスのものと解った瞬間にドアを蹴り開けようとして、さすがにこれは跳ね返された。
 いくらなんでも簡単に蹴り開けられるような錠など使っていない。

「開けて!!」

 扉の横で目を白黒させていた召使いと警備兵は、ジャンの叱咤を受けて我に返った。
 しかし、警備兵が持っている鍵は、アイリスの部屋に外から入る際に必要とする鍵のうち一つだけだった。
 かつての様にアイリスを閉じこめるためのものではなく、中から鍵を掛けるものではあるが、扉の前にいる扉番が全ての鍵を持っていては、賊にやられたときに鍵の意味をなさないからである。
 ここを開けるには、もう一つ、執事のミシェルか主人のロベールの持つ鍵が要る。
 そのことを、召使いは途方に暮れた表情で語った。

「ミシェル様を呼んでくる!」
「待てない!どいて!」

 ジャンを追いかけてきた警備兵が駆け出そうとするのを、止めようとしたわけではないらしい。
 腰に下げていた刀を躊躇いもせずに抜くと、飛び上がり、全体重を掛けて、錠の掛かった扉の狭間へ叩きつけた。
 金属と金属が削り合う鋭い音とともに火花が散り、その勢いのままに扉がこじ開けられた。
 周囲は止める間もない。

「アイリス!!」

 転がり込むように入り込んだ部屋は、マルグリットが娘のために自ら選んだ装飾品が壁一面を飾っていた。
 その中で数十人からの会議が開けそうなほどの広さの床は、身体がわずかに沈むような感覚さえ受ける絨毯が敷き詰められている。
 その奥にある黄色いカーテンで囲まれたベッドの横に、黒い人影が浮かんでいた。
 その人影の周囲に、細かく黒い影が無数に舞い、羽音を響かせていた。
 これは……カラス?

「おやおや、姫君の危機に小さな騎士が駆け込んできた」

 芝居がかった口調、とはまさにこのことか。
 黒い人影が発したと思われる声は、丁寧なくせに癪に障るものだった。
 ゆらりとマントを翻してジャンに向き直った男が、つばの広い帽子の縁を軽く持ち上げると、その顔はくちばしのある仮面に覆われていた。
 不気味なことこの上無いが、この男のことなどどうでもいい。

「アイリスはどこだ!!」

 無理な使い方をしたというのに刃こぼれ一つ無い刀の切っ先を向けて叫ぶ。

「名乗るよりも何よりも、姫君の身を案じる……。
 その無礼でひたむきで愚かな心に敬意を表し、お別れの前にお見せしよう。
 貴君の慕う姫君の姿を!」

 羽音が一際激しくなったかと思うと、天井近くにあった闇の一部が散開した。
 雲間から太陽が差し込めるかのように、黄金の髪を頂く少女の姿が現れる。
 闇の中で金色にさえ見える黄色の寝間着に包まれた身体は、カラスたちの足に括り付けられた黒い紐で縛られて浮かんでいた。

「アイリス!!」
「……、ジャン!?」

 名を真っ直ぐに呼ばれて、アイリスは閉じていた目をうっすらと開け、呼ばれた方を見た。
 良かった、まだ意識がある。

「アイリスを離せ!!」
「それは儚く叶わぬ願い。
 この姫君は偉大なるカルマール公の恩人にして、宿敵。
 是非ともお連れせよとのご命令ゆえ」
「そんな奴知るか!」

 人類としては驚異的な高さまで跳躍して、アイリスの周囲を飛び交うカラスたちを切り捨てようとするが、天井の高いこの部屋で、羽を持つものたちの高さにまでは届かなかった。
 さらに、ジャンの後から部屋に入ってきた警備兵たちが、黒い人影に向けて拳銃を発射するが、黒い人影がマントを軽く翻すと、その眼前で銃弾は力を失って床に落ちた。

「化け物か……」
「無力。あぁ、無力。
 地に縛られた愚か者たちは、ただただ天を見上げるのみ。
 我はコルボー。
 マスク・ド・コルボー。
 偉大なるカルマール公に仕えし、悲劇の演出家!」

 コルボーと名乗った人影が、台詞の終わりとともにさっと右手に握った細身の剣を振り上げると、周囲を取り巻く羽音が一層激しさを増し、金色の少女を覆い隠した。
 そのさらに上の闇が一層濃くなり、カラスたちがゆっくりと上昇していく。
 これだけの数のカラスがどうやって部屋の中に入ったものか、そもそもこのコルボーという男がどうやって入ってきたのか解らないが、ともかく窓を破ったとかいうような尋常な手段ではなかったらしい。
 城の中から、窓も開けずにどこかへアイリスを連れ去る気だ!!

「アイリス!!」
「天を見上げて叫べども、人は空を飛ぶこと叶わず!」

 だが、勝ち誇ったようなコルボーの態度は、その一瞬後に崩れた。

「どうした……!」

 闇の中に溶け込もうとしたカラスたちが、跳ね返されたかのように隊列を乱していったのだ。
 あり得ぬことだった。
 確かにこの城には結界が張られていたが、このコルボーの前でそんなものは何の役にも立たなかったというのに。

 誰が想像しえようか。
 入り込むよりも、脱出することが難しい城なぞ。
 それは十数年前に、他ならぬアイリスを外に出さぬために作られた結界だった。
 かつては閉じこめるために。
 皮肉にも、今はそれが役立ったことになる。

 ジャンにはそれらの事情の半分も理解出来なかったが、ひとまず現状は理解できた。
 今ならまだ間に合う。
 アイリスに気合いを入れるため、アイリスの周囲にいるカラスたちを吹き飛ばしかねないほどの大声で名を叫んだ。

「アイリス!!」
「!!」

 夢うつつだったアイリスは、その声で再び我に返った。

「そんな奴ら、まとめてふっとばしちゃえ!」
「あ……」

 ジャンはかつてそこら中をふっとばしたアイリスの力を憶えていた。
 アイリスが本気になれば、こんなカラスたちなど造作もないのだ。
 だが、アイリスは本気になることを恐れていた。
 帝劇にいるときも、本気で激発することを極力抑えていた。
 周りにいる人々をまるごと巻き込んでしまうほどの自分の力を、このソローニュ城に来て、ジャンと再会して、再び思い出してしまった。
 あのときあやめがいてくれなければ、ジャンたちをも殺していたのだ。

 だけど。
 もう一つ思い出したことがあった。
 誰もが恐れ、忌み嫌ったこの力を、初めてすごいと誉めてくれたのが、
 ……ジャンだった!

「うん!」

 もう一度、あのときのように、ジャンに誉めて欲しかった。
 そして、帝都で帝国華撃団花組の一員として過ごした五年の日々は、アイリスに力の使い方を十二分に教えてくれていた。
 鋭く細い火花が、アイリスを拘束する紐を伝って的確にカラスたちを麻痺させていく。
 それでも一羽たりとも殺していないし、壁にも窓にもヒビ一つ入れていない。
 あっという間にカラスたちを払ったアイリスは、紐を切って床まで降りようとする。
 だが、それを阻む影が一閃した。

「アイリス!後ろ!」

 叫びつつジャンはアイリスを受け止めようと走ったが、それよりも早く空中を走った影がアイリスの身をかっさらった。
 執念で突き出した刀の切っ先は、かろうじてマントの端を切り裂くのが精一杯だった。
 宙に浮かんだままコルボーが何かしらの術を掛けると、再びアイリスは半ば意識を失ったようにぼおっとなってしまう。

「汚い手でアイリスに触るな!」
「どうやら、カルマール公の御許へ無事に姫君を連れ出すには、姫君の心を殺さねばならぬらしい」

 右手一本でアイリスを抱きかかえたコルボーの仮面に隠れた目が、確かにジャンを見据えたような気がした。

「お目に掛けよう。
 フランス一の戯曲家にして演出家たる、このコルボーの舞台を!」

 雲が湧き出たように見えた。
 アイリスとコルボーのどちらから湧き出たかはわからないが、現れた黒雲が室内を、そして、開け放たれたままの扉を出て、廊下からその先へと急速に広がっていった。
 しかも、雲が広がるのと同時に、部屋の様子が変貌していった。
 華麗な装飾品の数々が消えて無くなり、壁と窓が、果てが見えないほどに高くなった。
 さらに、雲を吸い込んだ警備兵や召使いたちが、その場にばたばたと倒れ込んだ。
 うめき声がするところを見ると、死んだわけではないらしい。
 そう、まるで悪夢にうなされているかのような状態だった。

 その中で、ジャンは異常な眠気に襲われながらも、唇を噛みしめてコルボーを睨み付け、寝落ちなかった。

「霊力も無しに見事だ、小さな騎士よ。
 やはり君には舞台に上がる資格がある。
 姫君に絶望と慟哭を堪能させる、悲劇溢れる舞台の助演男優たる資格が。
 さあ、開演のベルを鳴らそう!」

 ベルというにはあまりに耳障りな羽音が、これまた異様に高さを増した扉から一斉に廊下へと飛び出していく。
 同時に、アイリスを抱えたコルボーも宙を滑るように外へと飛んでいった。

「待てえっ!!」

 追いかけて廊下に飛び出すと、目の前で大きな羽音がした。
 勢い余って蹴飛ばしてから姿を確認すると、体長1メートルになろうかという、とんでもなく巨大なカラスだった。
 考えなくてもコルボーの配下とわかるので、刀を抜いて叩き切り、コルボーを追いかける。
 だが、それは一羽ではなかった。
 コルボーを追いかけようとするジャンの行く手に、何羽もの巨大カラスが立ちはだかっていた。

 いちいち構っていたらコルボーを見失ってしまう。
 元より高いものがさらに高くなった天井の下を、コルボーは悠々と飛んで行っているのだ。

「どけえっ!」

 全部切り伏せるのが面倒なので、羽を狙って追って来られなくさせて突破していく。
 コルボーが消えた角を曲がったところで、カラスでは無い人影が立ちはだかった。
 身長はジャンよりも頭四つほど高い。

「そこまでだ、小さな騎士よ。
 我こそはマスク・ド・コルボー様の配下、三羽ガラスの一人ノワあああっっ!!」
「邪魔だあっ!」

 刀を叩きつけ、踏みつけ、乗り越え、蹴飛ばし、振り返りもせずに駆け抜ける。

「アイリス!」

 駆ける、走る、疾走する。

「アイリス!」

 届かない手の代わりに、せめて声を届かせようとするように。

「アイリスッ!!」

 誰はばかることなく、心の駆り立てるままに、ジャンはその名を叫び、コルボーを追いかけた。
 既に姿を見失っているが、勘で追いかけた。
 十体目の巨大カラスを切り伏せ、三つ目の角を曲がったところで、既に城内が自分のよく知っているソローニュ城の構造ではなくなっていることに気づいた。
 天井と壁が高くなっているだけではない。
 階段すら平時の三倍以上の長さになり、ただの通路だったところがいくつも枝分かれしていた。

 ところどころにある窓を見て、何となく解ってしまった。
 窓には、びっしりと鋼線が張り巡らされて、並大抵のことではヒビさえ入らないようになっていた。
 そして、迷宮と化した出口の無い城。

 そう、きっとこれが、アイリスが見ていた……かつてアイリスの心に深く深く刻み込まれたソローニュ城の姿なのだろう。
 初めて会ったあの日、アイリスはあんなにも、自由であることにあこがれていた!

「アイリス……っ!」

 あんまりにも可哀想だ。
 思わずこみ上げてきた涙を、叫びに変えて堪える。
 僕が泣いてどうする。
 泣きたかったのは、アイリスなんだ……。

「アイリス!!」

 さらに三体切り伏せて角を曲がったところで、廊下の先に二人組が見えた。
 いずれも武器を持っている。
 さっき蹴っ飛ばした指揮官の同類だろうか。
 二体同時というのがやっかいだ。

 初手で片方を倒して、もう一体……対処できるか?
 やるしかない。
 勘でここまで来たが、カラスたちが次々と立ちはだかっている以上、外れてはいないと思う。
 アイリスはおそらくこちらに連れ去られているはずなのだ。

 一体は長物持ちで、もう一体は剣。
 剣を持つ方を初手で倒して、もう一体と接近戦に持ち込めば……
 そう、判断した。
 最後の十メートルを、三歩で踏み込む。
 だが、

「止め……られた!?」

 鋭い金属音とともに、両腕に衝撃が走った。
 剣持ちの影は、揺るぎもせずに真っ正面からジャンの刀に剣を合わせて、完璧に受け止めたのだ。

 しまった!この体勢ではもう一体に……

「目を覚ましなさいなっ!!」

 横から、火のような叱咤が飛んだかと思うと、脇腹にやや強めの一撃を食らってジャンは吹っ飛ばされていた。
 無様にも床に転がり、一回、二回、三回転。
 それでも刀を手放さずにようやく膝立ちになったが、そのときには眼前に剣が突きつけられていた。

「ジャン君……ね。
 私がわかる?」

 剣を突きつけてきた黒い影の姿が、ふっと霧が晴れるかのように、別の姿に変わった。

「え!?
 あ、あなたは……」

 その人は、アイリスと共に日本から来た、さくらという人だった。

「やっと正気に戻りまして?」

 その横から呆れたような……いや、心底呆れた表情で声を掛けてきたのは、同じくアイリスの仲間であるすみれという人だった。

「正気……って、僕は……」

 つまり、コルボーの幻術にまんまとひっかかって、この人たちに全力で切り掛かってしまったらしい。

「すみませんでしたっっ!!」

 ジャンは頭を下げようとして、本で勉強したことを慌てて思い出した。
 日本では謝る際には、足の甲とすねを地に付けて膝を折ってから、手と額も地に付けると書いてあった……はずだ。
 やってみると、身体の各所の筋肉が伸びて、これは確かにすごく痛い。
 日本は礼儀を重んじる国だというのが解った気がする。

「……ま、まあ、反省しているのならよろしいですわ」
「そうですね。
 悪気があった訳じゃ無さそうですし、石の床に正座したら足を痛めますよ」

 まさかフランス人のジャンからいきなり土下座をされるとは思っていなかった二人は、顔を見合わせてため息をつき、ひとまず緊張の糸を緩めた。
 もちろん、周囲への警戒は怠っていないが、二人は戦場の緊張の中で適度にその糸を調整しきれるくらいに場慣れしていたのだ。

「ひとまずお立ちなさいな。
 それから、この状況についてわかっていることがあるのなら、あらいざらいお話しなさい」

 ジャンとしては、のんびり話していられる気分ではなかったが、実力の差をここまではっきり見せつけられては逆らいようがない。
 常人が聞いたら正気を疑うような事実を、ジャンは大まじめに話した。
 もちろん、さくらもすみれも、世間一般の常識の裏で戦っている人間なので、笑い飛ばしたりはしない。

「カルマールですって?」
「それって、伯爵が仰っていた……」

 そう、蒼き刹那以来、大神に二度目の敗北を味わわせた男の名が、確かカルマールといった。

「中尉へのあてつけかしら。
 大方そのコルボーというのも、巴里を騒がせている怪人の一人でしょうね」
「伯爵夫妻を眠らせて、アイリスだけ攫う……。
 アイリスの霊力に注目したのかしら」

 その言葉でジャンは、この二人が夫妻の無事を確認していることを知って一安心した。
 アイリスのことばかり考えて、他のことを考えるのを忘れていたのだ。
 ついでに兄たちのことまで失念していたとは口が裂けても言えない。
 だが、ここに来るまでに警備兵が何人も悪夢にうなされるように眠っていたことを考えると、夫妻も兄たちも、彼らと同じ状態にあることが考えられた。

「そうだ、こんなことしてる場合じゃ……」
「お待ちなさいな、ジョン」

 思い出したように駆け出そうとしたジャンの襟を、すみれはむんずと後ろから掴んで引き留めた。

「僕の名はジャンです」
「そんなことより、どちらへ行こうというのかしら?」
「え、だって、アイリスとコルボーは多分この先に……」
「そちらは私たちが来た方向ですよ」

 ずいぶんと白い沈黙が降りた。

「でも……間違いなくこちらに来たと思ったのに……」

 巴里の路地裏で浮浪していた頃から、勘には自信があるのだ。
 兄たち以外はまず信じてはくれないが。
 ぐるりと見渡す。
 左右に壁が続く何の変哲もない一本道だ。
 いや……扉も、窓も、不自然なほど無い。

「アイリスは……」

 名前を唇に乗せてみる。
 何かを感じたような気がした。

「多分、こっちの方向にいます」

 ジャンが指し示したのは、来た方向から見て左側の壁そのものだった。

「多分、と言われましてもね」
「でもすみれさん。
 この城が丸ごと幻術に掛かっているのなら、ありえますよ」
「そうですわね。
 他にあてもありませんし、ジョンさんの意見を試してみるのも悪くありませんわ」
「……ジャンです」

 すみれの消極的な賛同を得て、さくらはジャンの示した壁に向かって剣を抜いた。
 日本国外に持ち出していい物かどうかと言う話はさておき、二剣二刀の一振、霊剣荒鷹である。

 すっと目を閉じ、気合いの声と共に壁の十分の一寸手前に切っ先を振り下ろす。
 それと同時に、まるで書き割りを二つに割いたかのように壁が裂けて、その先に通路が現れた。

「よし!!」
「だからお待ちなさいな」

 即座に駆け出そうとしたジャンを、ふたたびすみれはひっつかまえた。

「待ってる場合じゃないです!
 こうしている間にもアイリスは……」
「それでまたひたすら全力疾走するおつもり?
 敵からアイリスを取り返そうというときに疲れ果てていてどうするのかしら。
 焦る気持ちはわからないでもありませんけど、たどり着けばいいというものではなくてよ」

 言われてようやくジャンは、自分がひどく汗をかいていることに気がついた。
 迷宮と化し、普段の何倍にも広くなった城内を戦闘を続けながら突っ走ってきたのだから、当然といえば当然かもしれない。

「こういうまどろっこしいことをする悪い人は、大体こちらが来るのを待っているものなんですよ。
 きっと、アイリスはまだ大丈夫です」

 さくらにも確信があるわけではなかったが、こうでも言わないとこの少年は我が身も省みずに全力疾走でマラソンをしかねないと判断して、すみれと口を合わせることにした。

「じっくりと歩いていきますわよ。
 その間に少しは体力を回復させなさいな」

 そういうとすみれは自分で歩くペースを主導するために先頭に立って歩き始めた。
 後に続いてさくらは日本から持ってきた水筒に、部屋で水を入れて持ってきていたのでジャンに差し出す。
 ジャンが初めて実物を見るそれは、

「……竹、ですね」
「あら、よく知っているのね」
「日本のことは勉強しました。
 アイリスがいる国だから……」

 最初は文字さえ読めなかったが、このソローニュ城に引き取られたとき二人の兄に比べて幼かったため、勉強すれば十二分に取り返すことができた。
 猛勉強してまず字を読めるようになり、それから日本のことを勉強したのだ。

「それだけの理由で日本刀まで手に入れるとは恐れ入りましたわ」

 フランスは今日本ブームであり、日本独自の美術品が高値で取引されていたり、日本の解説本が出たりしているとはすみれも聞いている。

「日本刀は魔物を切り裂ける魔剣だとも聞きましたから、伯爵にお願いして手に入れて頂いたんです」

 これには先を歩く二人の膝が思わず砕けそうになった。
 盛大に日本刀を誤解している。
 どんな本を読んだのやら。

「あ、あのですね……何か勘違いしてませんか……」
「勉強したといっても、これではかなり不安ですわ……」
「普通の武器は魔物には通用しないんでしょう。
 でも、この刀は確かにコルボー配下の魔物たちを切ることが出来たんです。違うんですか」

 言われてみると、二人がジャンと合流するまでに切ったのは下級ではあっても魔物の一種であった。
 霊力のある二人ならばこそ難なく倒せたものの、常人なら至近距離から銃弾を撃っても倒せるかどうか。
 そんなものがウヨウヨしている城内を突破してきたのだ。
 ジャンの言葉に嘘はあるまい。

「少しその刀を見せてもらえます?」

 これでも北辰一刀流免許皆伝、少しは刀に関する知識はあるさくらとしても、興味を惹かれた。
 見てみると、装飾がやや古いがかなりしっかりした刀だ。
 しかも、二剣二刀には及ぶべくもないが、打った刀匠の念に加えて過去の持ち主や切られた者らの念までも感じられる。
 妖刀として忌み嫌われた刀が、維新の折に美術品として海外に流出したものかもしれない。
 確かにこれならば魔物を切ることも不可能ではないだろう。
 そういえば降魔戦争の折に、各地の博物館や美術館から歴史のある刀が対魔武器として徴収されたと父が言っていたようにも思う。
 しかし、下手をすれば刀に囚われかねないおそれがある。
 よくこんなものを振り回して正気を保っていられるものだ。
 相当の精神力が必要になるはずだった。

「どうして魔物と戦う力が欲しかったんですか?
 この城にいて、魔物と戦うことなんて無いと思うんですけど」

 心配になって聞いてみた。
 刀を振るう動機一つ間違えば、この少年は殺人鬼になりかねないと危惧したのだが、

「僕は、アイリスを守ってやると約束したんです。
 でも、僕には、アイリスみたいな力は無いから……どうしても魔物と戦う力が欲しかった」

 ずいぶんストレートな答えが返ってきた。
 その想い一つで、こんな妖刀をねじ伏せているのだ、この少年は。
 さくらは、少しだけアイリスが羨ましくなってしまった。

「少年。
 あなた、アイリスのこと好きなの?」
「す、すみれさん!?」

 名前を間違えて呼ぶのはやめたらしいすみれが、ジャンの答えよりもさらにストレートに突っ込んだ。
 さくらは、いくらなんでもいきなりその質問は無いだろうと思うのだが、聞いてしまったものは仕方がない。
 しかし、ジャンの反応は二人の予想を超えていた。

「はい。好きです」
「……」
「…………」

 そう真っ正直に答えられると、聞いた方が恥ずかしくなってしまう。

「……あなたくらいの歳なら、もう少し、恥ずかしがって言うものではなくて?」
「告白するより先に、初めて会ったあの日に、もうアイリスに言い当てられてしまいましたから」

 その答えを聞いて、二人は再び顔を見合わせた。
 アイリスは心を読める。
 最近アイリスは意識してその力を使わないように心がけているので、そのことを忘れかけていた。

 勇気を振り絞って思いの丈を口にするより先に、力によって見透かされてしまった。
 どんな思いだったろう。
 この少年は、あるいは、アイリスを恐れていてもよかったのかもしれない。
 それでも、想いを変えなかったのだ。
 アイリスが持つ超常の力を、恐れずにいてくれたのだ。

 アイリスほどではないものの、霊力を有するさくらとすみれも、そのことが嬉しかった。
 だが、あえて礼を言わなかった。
 言えるはずがないではないか。
 二人がアイリスに出会うよりもさらに前から、アイリスに憧れ続けていた少年に対して、アイリスの身内のような顔をするのはどこか気後れしたのだ。

「あなたなら、この刀を使っても大丈夫そうですね」
「さあ、行きますわよ。
 約束したのなら必ず守りなさいな」
「はい……!」

 ゆっくりと歩いていくつもりが、軽やかになった気持ちが少しずつ足を速めていった。
 もちろん、拭いきれない焦りがそれに拍車を掛ける。
 いつのまにか、先頭がジャンになっていたが、二人も遅れずに続く。
 この三人の行く手を遮れることなど、並の使い魔程度に出来るわけがなかった。
 迷えばジャンがアイリスのいる方向を探し、立ちはだかる魔物たちを次々と切り伏せていく。

「よく来たな小さな騎士……ってま、待てまだ……」
「どけえっ!アイリスを返せえ!!」
「ひ、卑怯だぞ貴様!せめて名を名乗……ぎゃうあっ!」
「ジャン・ドレ!
 以上!肩書き無し!」
「もう聞く耳持ってないようですわよ」

 なんだか司令官らしいのが二体いたが、とりあえず蹴散らした。
 どうやら走るペースを掴んだらしく、先頭を行くジャンの速度がいいところで安定してきた。
 丁度いいので、さくらは気になったことを伝える。

「ジャン君、あなた剣の使い方はどうやって覚えたの?」
「昔の騎士の教本が城に保管されていたので、それを読みました」
「独学で覚えたのはすごいけど、少し使い方が違います。
 刀がいいから西洋の剣と同じ使い方でもある程度通用するけど、元々日本刀と西洋の剣は違うものなのよ」
「違うんですか?」
「時間があればもう少ししっかり教えてあげられるんだけど……、
 西洋の剣はあまり切れ味というものを意識していないから、重量と勢いで叩き切るというのが発想の元にあるんです。
 でも、日本刀は引いて切るというときに真価を発揮します」

 西洋では板金加工技術が発達して、全身を覆う甲冑が出現したため、単に刃の切れ味だけでは傷を負わせることが出来なくなったのだ。
 そのため、重量と勢いを利用して切ることを意識せざるを得なくなった。
 結局は、板金を打ち抜く鉄砲の発明により鎧の時代が終わり、速度を求める騎兵と銃の時代が訪れ、西洋剣の進化も鎧とともにそこで止まった。

 一方で日本では板金鎧は極端な稀少品であり、鎧は皮を利用したものが多かった。
 切れ味というものが意義を持っていたのである。
 戦国時代の終焉とともに、兵器開発競争は二百年に渡り止まったが、刀は士道の象徴として神聖化されていった。
 鉄砲によっても立場を失うことはなく、技術は徹底的に磨き上げられ、その切れ味は世界に類を見ない。
 その美しさとともに、その切れ味もまた、西洋の好事家たちに賞賛される要素である。

 強靱な刀身と、鋭い刃を絶妙に重ね合わせた日本刀。
 触れれば切れるとまで言われるのは決して誇張ではない。
 だが、数百年の研鑽がいきついた曲線は、引いて切るときにもっとも真価を発揮することを目指して作られている。
 その切れ味は、念など無くても西洋人には魔剣に見えたに違いない。

 というようなことを、さくらはおおざっぱに説明した。

「引いて、切る……」

 右手にした刀を、ジャンは少し首をひねりながら握り直した。
 廊下の雰囲気が少し違ってきている。
 幻影によって何重にか偽装されているが、ここはおそらく城の南の廊下だ。
 それはつまり……

「やっぱり、ここか……」

 足を止める前に、左右に並んだ巨大カラス四体を、意識して刀を引きながら切り捨てた。
 よくわかったとは言い難いが、大した力も加えていないのに切り裂いてしまったように思う。
 だが、その実感よりも今は目の前だ。

 廊下の突き当たり。
 明らかに、ここが最後の扉です、という雰囲気で守っていたカラスたち。
 そして、明らかにこれまでくぐってきたものとは違う、何重にも鉄板で補強された、門ともいうべき扉。

「やっぱり……というのは?」
「ここは……かつてアイリスが一番好きだった部屋なんだそうです」
「その通り」

 その声は、扉の奥から聞こえた。

「コルボー!」
「ようこそ、最終幕の舞台へ。
 歓迎しよう、小さな騎士、そして姫君のご友人たち」

 ゆっくりとその声に合わせるようにして、扉が内側に向かって開いていった。
 そこは、扉を除く全方向が全てガラス張りにされた部屋だった。
 ガラスの向こうは、ジャンの兄ジョルジュが庭師としての修行をしている美しい花畑が、今は夜の闇に沈んでいる。
 しかし、ガラスには全てびっしりと鋼線が張られていて、しかもその一本一本が呪術で強化されているというとてつもない代物だ。
 また、部屋の床にはところ狭しとぬいぐるみたちが転がっている。
 並んでいたものが、大きくひっくり返されたようにも見えた。

 その部屋の中空。
 出口はなく窓も密閉されているというのに、勝手にはためくマントを翻しつつ、コルボーは支えも無く宙に浮いていた。
 右手一本でアイリスを抱えたその姿は、絵に描いたようなお姫様をかっ攫う悪役そのものである。

「よくぞここまでたどり着いた。
 その勇気と力、そして無謀さを心より賞賛しよう」
「よくぞここまで……ねえ」

 定番もここに極まるかと思う台詞は、しかし、確かにこの場にふさわしいと言えなくもない。
 しかし、

「腹が立ちますわね。
 大根役者にそんなしゃべり方をされますと」

 何かを思い出したかのように、すみれは顔をしかめた。
 聞こえていないはずはないのだが、コルボーは無視して台詞を続ける。

「ここは姫君の古き思い出の眠る場所。
 今ここに、新たな思い出を眠らせよう。
 姫君の友人と、姫君を守らんとする小さな騎士が、力尽き果て死にゆく悲劇の物語。
 姫君の心は絶望に切り裂かれ、その慟哭の涙は偉大なるカルマール公の喉を潤すことであろう」
「アイリスを返せ!!」

 抑揚から振り付け、果ては周囲の蝋燭の光を屈折させて照明効果まで計算されて語られる台詞を、演出考慮など一切しない叫びがかき消した。
 コルボーは仮面をしていてもはっきりとわかるほど不快とわかる態度でジャンを一瞥する。

「貴君の出番はここで終わりとなる。
 蜘蛛の巣にかかった羽虫のごとく無様に足掻いて果てるもよし。
 潔く血の華を咲かせて散るもよし」
「ごちゃごちゃ言ってないで降りてこい!」
「空にある我が何故に地に降りる必要があろうか。
 貴君らの最期を姫君にお見せするために、我がわざわざ地に降りることはない。
 さあ、節穴のごときその目を精々開いてとくと見るがよい!」

 その声に合わせて、床が浮き上がったように見えた。
 しかし、身体はそのままだ。
 浮き上がったように見えたのは床ではなく、その床中に転がっていたぬいぐるみたちだ。

「さあ行くがいい、姫君の古きお友達。
 いやさ!姫君の牢獄の獄卒たちよ!」

 その命令を受けて、ぬいぐるみたちが一斉にジャンたちに向き直った。
 その数は十や二十ではない。
 軽く見積もっても百……いや、二百体はいるのではないだろうか。
 アイリスとともに暮らし、念動力で浮遊する物体を比較的見慣れているさくらとすみれでさえ、これにはさすがに度肝を抜かれた。
 しかもぬいぐるみたちは、どうやって持っているものか、手に手にカラスの羽を掲げている。
 その羽は、かすかな蝋燭の光を反射してギラリと光った。

「くっっ!」

 いくらなんでも、これは数が多すぎる。

「卑怯だぞコルボー!」
「空を舞うことのかなわぬ小さな騎士は、絶望に駆られて天を恨む。
 あぁ、悲劇。
 滑稽にして哀れなる、結末は悲劇!」

 フェンシング用と思われる細い剣を抜いたコルボーが、それをさっと指揮棒のように振り下ろすと、ぬいぐるみたちが一斉に襲いかかってきた。
 ウサギ、イヌ、ネコ、イタチ、中にはもう何のぬいぐるみかわからないものも多い。
 それらが一斉に迫る、メルヘンの悪夢であった。
 アイリスのぬいぐるみを傷つけるのは躊躇われたが、小さな切り裂き魔と化した彼らにむざむざと切られるわけにはいかない。
 集団を相手にするのはまだ慣れていないジャンを、左右からすみれとさくらが半ばかばうようにしてぬいぐるみたちを撃退する。
 だが、

「そのぬいぐるみたちは、姫君の心。姫君の見る夢。
 あぁ、また一体、また一体。
 切り裂かれる度に姫君は、その心をも切り裂かれていく。
 心優しきお友達と小さな騎士は、果たしてそれに耐えられようか」
「なんですって!?」
「外道ですわね……」

 はったりの可能性もあるが、アイリスの記憶の中にある世界を写し出したこの幻影の城の中ならば、あり得なくは無かった。
 しかも、コルボーに抱えられているアイリスは、額に玉のような汗を幾つも浮かべてあえいでいる。

「さくらさん、切ってはいけませんわ!」
「わかってます……!でも……」

 すみれは長刀の柄で、さくらは剣の峰と腹で対処するが、どうしてもその動きが制限される。
 峰打ちなど知らないジャンは、左手にした鞘でぬいぐるみたちを叩き落とすしか術がなかった。

「くっっそおおおおっっっ!!」

 払い切れなかったネコのぬいぐるみが手にしていた羽が、ジャンの左手を傷つけた。
 力が抜けたところで、別のぬいぐるみ三体が鞘に群がり、ジャンの手から鞘をもぎ取った。
 とっさに右手の刀を振るおうとして、そこで状況を思い出し、動きが止まった。

「歳に似合わぬその健闘を、心より称えよう。
 汝の悲劇は姫君の心に深く刻まれ、姫君の心を裂く。
 さらば、あるいはこのフランス最後の騎士よ!」

 ぬいぐるみたちがジャンに殺到した。
 目の前の敵に対処していたすみれとさくらは、わかっていても止めきれない!

「アイリスーーーッ!!」

 どさりと降ってきたものが、ジャンを押しつぶした。
 ……いや、よく見るとつぶれてはいないが、背中に乗っかかられて床にうつぶせにされてあえいでいるので、つぶれたと言えなくもない。
 乗っかかったのは、ぬいぐるみたちでは、ない。
 ジャンの代わりに、ぬいぐるみたちの攻撃を受け止めたのは、

「あなたは……」
「ジャンポール……」

 いつもの十倍くらいの大きさに巨大化した、アイリスの友達だった。
 さくらやすみれにとっては、アイリスの光武が霊力を解放したときに見る姿として、ある意味では見慣れた姿であるとも言える。

「おまえは……」

 首をひねって自分をかばってくれた存在が何か確認したジャンは二人以上に絶句した。
 かつて巴里で大騒動を起こしたときにさえアイリスが肌身離さず、一番の友達と言っていた彼のことは、ライバルとしてよく覚えていたから、なおさら驚きが大きかった。
 しかし、ジャンポールはアイリスが肌身離さず持ち歩いているのだから、寝室にいたはずだった。
 しかも、コルボーが連れ去るときには一緒ではなかったはず。

 ならば彼はきっと、アイリスのために歩いてここまできたのだろう。
 非条理なはずの結論だというのに、すみれもさくらも、ジャンも、そう思わずにはいられなかった。

「あのジャンポールが、少年をかばった……?」

 名前の一部を共有する少年をかばったジャンポールは、身体からぽわっと光を発すると、元の大きさに戻って転がった。
 その光を浴びたぬいぐるみたちは、手にしていたカラスの羽を次々と落とし、その場に座り込んだ。

「美しくない!
 このように喜劇じみた人形劇など!我の演出する悲劇にふさわしくないぃぃっ!」

 ぬいぐるみたちが手放した羽に向かってコルボーの剣から黒い光がほとばしると、それらがカラスとなって舞い上がった。

「悲劇を!
 無惨にして凄惨にして過酷なる悲劇の結末を、我自らが手ほどこう!!」
「あいにくですけど、私たち帝国歌劇団花組は、アドリブに関しては世界一って自負してるんですよ」
「予期しない展開を見せた劇の終わり方を、身をもって教えてさしあげてよ」

 帝都一……いや、少なく見積もっても東洋一を謳われるスタアの座にかけて、さくらとすみれは黒い演出家の叫びを冷ややかに一蹴した。
 負けてはいられない。
 手放さなかった刀を握り直し、ジャンも立ち上がる。
 ジャンポールがかばってくれたおかげで、大したダメージはない。
 それに、さっきまでより身体が軽い気がした。

「まったく、あなたにそこまでされたら彼を認めるしかないじゃありませんの」

 ジャンではなく、ジャンの傍らに倒れているジャンポールを見つめて、すみれはさくらだけ辛うじて聞き取れるほどの声でつぶやいた。

「この黒き羽を幕としよう!
 さあ、悲劇にふさわしき叫びを姫君にお聞かせするがいい!」

 コルボーに指揮されたカラスたちが一斉に三人に向かって殺到する。

「笑わせないでくださるかしら、カラスごときが鳳凰の邪魔をしようなどと笑止千万ですわ」
「アイリスの友達が相手ならともかく、私も紅蘭と一緒でカラスは好きじゃないんですよ」

 二人はそれぞれの手にする武器に、ここまでの鬱憤を晴らすかのように霊力を集中させた。

「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんやとは、まさにこのこと!」
「帝国華撃団を舐めるのもここまでです!」
「神崎風塵流鳳凰の舞!!」
「破邪剣征桜花放神!」

 瞬時に出現した紅蓮の鳳凰が殺到するカラスをまず焼き尽くし、桜花の一閃がその炎をコルボーの周囲に向けて叩き込んだ。
 上空をとりまいていたカラスがことごとく全滅するまで、わずか数秒。

「認めぬ!これは我が演出する悲劇ではない!」

 アイリスを抱えたコルボーにはあえて直撃させずにその周囲を吹っ飛ばした。
 だが、カラスが全て消滅して自由になった空間に、その場の誰もが信じられないようなものが出現した。

「あなた達は、アイリスに償おうと……」

 ジャンポールによって解き放たれたぬいぐるみたちが二列に並んで、コルボーの眼前へと繋がる架け橋を造っていたのだ。
 真っ先に我を取り戻したすみれは、ジャンの背中を思いっきり前へ向けてはたき飛ばした。

「行きなさい、ジャン!」
「はい!」

 騎士道には、武士道には無い概念がある。
 すなわち、貴婦人を守り、忠誠を誓うこと!
 ぬいぐるみたちが我が身を礎として造り上げた架け橋を、ジャンは一直線に駆け上る。

 真っ直ぐに向かってくるジャンを前に、コルボーは冷静さを取り戻していた。
 あの二人の娘の力は恐るべきものだが、この小さな騎士一人なら造作もない。
 散々に狂わされた舞台だが、せめて彼に悲劇的な結末をくれてやらねば気が収まらなかった。
 瞬時に演出の段取りを決める。
 これで終わりだ。

 コルボーと同時に、ジャンもあれこれと考えた。
 コルボーがアイリスを抱いている以上、下手に切りかかるとアイリスを傷つけてしまう恐れがある。
 アイリスを盾とされたとしても、それをくぐり抜けてコルボーを仕留めるには、首か頭を突き通すしかない。

「やあああっっっっ!!」

 ぬいぐるみに心の中で謝って、架け橋の終端からアイリスとコルボーめがけて思いっきり跳躍した。
 コルボーは完全に計算していた。
 ギリギリでジャンの跳躍が届く高さに浮かんでいたのだ。
 わずかにアイリスを盾とするような動作を見せて牽制すると、予想通りジャンは突いてきた。

 ひねりも何もない、そんな直線的な動きで仕留められるこのコルボーではない!

 完璧に彼の演出通りに、ジャンの突きはコルボーの顔のわずかに左をかすめて、コルボーの帽子を吹き飛ばして、外れた。

「渾身の一撃は紙一重でかわされ、無念のイカロスは天より墜つ!
 あぁ、さらば姫君よ、不忠の騎士を許したまえ!!」

 このときコルボーは、一つ致命的な失敗を犯していた。
 舞台で使用される小道具の全てを、チェックしてはいなかったのだ。
 ジャンが手にしていたのは、コルボーが詳細を知らない、日本刀だ。

 引いて……切る……!

 伸びきった手を叱咤して、ジャンは執念で刀の刃をコルボーの左頬に当てた。
 西洋の剣ならば、仮に刃が当たってもそれだけで切れはしなかっただろう。
 だが、ジャンの体重によって地に引かれた日本刀の刃は、金属製のコルボーの仮面をすら切り裂いてしまった。

「ギャアアアアアアアアアアアッッッッ!!!」

 おそらくは目から鮮血を吹き出させつつ、コルボーは全身をのけぞらせて絶叫した。
 同時に幻術を維持できなくなったらしく、幻影が解けて周囲の様子が一変した。
 かつてアイリスを阻み続けていた鋼線の巡らされたガラス窓が、鳳凰の舞と桜花放神の威力で大きく破られていた。
 しかも、コルボーがジャンとの距離を取ったために、コルボーとアイリス、それにジャンの三人は、既にその穴から外に飛び出ていた。

「お……おのれ……この舞台は、失敗だ!!」

 コルボーは幻影を操る力を失い、これ以上ここで戦うのは不可能だと判断した。
 頭蓋を横から切り裂かれた傷は、早くカルマール公に癒してもらわなければ命に関わる。
 幸いにも、既に外だった。

「この公演は、必ず再演し直してくれるわああああ!!」

 捨て台詞と共に、コルボーは西の空へと飛び去った。

 とはいえ、ジャンはそんなことを確認する余裕も無かった。
 のけぞったコルボーが、激痛のあまりアイリスを手放したのを確認すると、思いっきり手を伸ばしてアイリスを捕まえた。
 高さは数十メートル。
 この高さからこのまま落ちたのでは、二人とも死んでしまう。
 五年前のあの日、誘拐しようとした自分を、アイリスは二番目に好きだと言ってくれた。
 そして自分は、守ってやると約束した。
 その約束を、この五年間守ることは出来なかった。
 だけど、今は、この手の中にアイリスがいる。
 迷うことはなかった。
 アイリスを抱きかかえると、空中で身体をひねってアイリスの下に回った。
 幻が霧のように晴れていくのに従って、落ちていく速度が速くなる。

 それでも運が良ければ……いや、僕の身体が砕けても、アイリスは守ってみせる……!

「アイリス!」
「起きなさい!アイリス!!」

 危機的な状況を悟ったさくらとすみれは、霊力を限りにしてアイリスに呼びかけた。
 アイリスと同じ帝国華撃団の一員とはいえ、二人には念動力も瞬間移動も使えない。
 アイリス自身だけではなく、ジャンをも救うためには、アイリス自身が目覚めるしか無い。

「アイリス!」
「アイリス!!」

 背後に地面が迫るのが、見えなくともわかった。
 最期のつもりで、もう一度だけ声に乗せて呼びかける。

「アイリス……!」
「ジャン……?」

 ふっと、アイリスが目を開けた。

「アイリス!!」
「ジャンを守りなさい!!」

 気づいた二人は即座にもう一度呼びかけた。
 アイリスは状況を完全に把握できたわけではなかったが、守るという言葉にとっさに反応した。
 アイリスを中心にして、ジャンも取り囲む防御壁を作り出す。
 ほとんど地面への激突の寸前だった。
 衝撃を吸収しきれない。

「かは……っ!!」

 ジャンはかなり強く背中を打ってあえいだ。
 肋骨がいくつか折れたかもしれない。
 それでも、抱きかかえていたアイリスを、自分の身を緩衝材にして受け止めた。

「あ……アイリス、怪我、してない……?」

 声が出るかどうか心配だったが、思ったよりしっかりした声が出せた。
 肺のあたりが痛む気がするが、とりあえずはそんなことより気に掛かることを尋ねる。

「うん……!大丈夫……大丈夫だよ、ジャン!」
「良かった……守れた……」

 その笑顔を見れば、何よりも報われたと思う。
 安心して、身体から力が抜けた。
 ふっと、意識が遠くなる。

「ジャン……?
 ジャン!!」

 かくん、とジャンの頭が横になり、
 やがて、すーすーという寝息が聞こえ始めた。

「ジャン……」

 一瞬本気で焦らされたアイリスは、ほっとしてこちらも力が抜けた。
 ようやくにして自分の周囲を確認すると、そこは、かつて窓越しにだけ幾度と無く見続けてきた庭園だった。
 手に取ることの出来なかった花々が、今は手の届くところにある。
 その花に、東から不意に日の光が差した。
 夜明けだ。
 長い悪夢の終演を告げる光が、周囲を、眠りこけるジャンの顔を照らし出す。

「ありがとう、ジャン。
 アイリスを守ってくれて……」

 窓の内側で、助演にされてしまった女優二人が苦笑した顔を見合わせながら、ハッピーエンドに拍手していた。







 いくつか後日談がある。

 まず、巴里に向かうのは当然にして翌日以降に延期となった。
 夜更かしは美容の大敵なのである。
 徹夜で動き回った女優二人は、さすがにそのまま巴里に行くのがはばかられた。

 アイリスはアイリスで、ジャンの手当をしようとして、人の傷を癒せないことに落ち込みつつも、ジャンの目が覚めるまでは枕元にいると言い張った。
 悪夢から目覚めたロベールとマルグリットの二人は、さくらとすみれから事情を聞かされて、愛娘のわがままをひとまず聞くことにした。

 ガラス窓の部屋は、結局全てのガラスを鋼線の無いものに変えることになった。
 さらに、部屋から庭園に出ることの出来る扉も付けることになり、多分今後もアイリスのお気に入りの部屋になると思われる。

 翌日になって目覚めたジャンは、結局背中側の肋骨が二三本折れていたが、どうやら後遺症などは残らないで済みそうである。
 ジャンの怪我が治るまで付き添っていたいという気持ちと、早く大神に会いたいという気持ちの狭間で揺れるアイリスではあったが、

「行ってきなよ、アイリス」

 という、ちょっと淡泊すぎるようなジャンの言葉に、結局その翌日には巴里へ行くことになった。



 巴里へ向かうための外出着に着替え、城を出る直前にもう一度、アイリスはジャンの部屋を訪れた。
 看病していた兄二人は、お互い顔を見合わせながらそそくさと席を外す。
 しばらく、温かい沈黙があった。

「ジャンは……アイリスがいなくても平気なの?」

 嬉しいけれど、すこし悔しい気がしてアイリスはこんなことを尋ねてみた。

「平気じゃないけど、今のままじゃ君を守れないから。
 次に会うときには、僕はもっと強くなっているよ。
 いつかは、大神さんよりも強くなってみせる」
「……あ……うん」

 アイリスは、反論しようとする気持ちが何故か出てこなかった。
 おにいちゃんにそう簡単に勝てるわけがないとわかっていても、その言葉は、なぜか嬉しかったのだ。

「ジャン……ありがとう」
「うん」
「またね」
「うん、またね」

 別れ際に、アイリスは一度だけ、ジャンの手をはっきりと握った。
 そして、思いっきり赤面して、無言で部屋を出た。



 なお、この公演の再演は巴里はモンマルトルのシャノワール前にて行われたが、
 幻影術を使えなくなった演出家はそこでアイリスのおにいちゃんに討ち取られたという。





 またこの数十年後、ジャンはフランス最後の騎士と呼ばれるようになる









……かどうかは本人の努力次第である。





初出 平成十五年七月五日 SEGAサクラ大戦BBS
イメージ画 市浦画匠画




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