思い出の群像
岩井権太郎・追憶編




 小さい頃から不思議だったことがあります。
 生まれたときから……ううん、きっと生まれる前からあたしの傍にいてくれました。
 お父様でもなく、お母様でもなく、お祖母様でもなく、そして、御祖父様でもない人。
 でも、家族です。
 あたしの大切な家族です。
 あたしを守ってくれる家族です。
 みんな、みんな、あなたを家族だと思っています。

 ……どうして、ですか。


「ほう、さくらお嬢様もそんなことを気にするようになりましたかの」

 庭の落ち葉を掃く手をしばし休めて、権爺は嬉しそうにさくらを見つめた。
 お気に入りの桜色の羽織を着て縁側に腰掛けている姿には、ちょこんと、という表現を当てはめるべきかどうか難しいところである。
 少女は、大分大きくなった。

 よく、似てこられた。

 少し目を細めつつ、権爺はふっと微笑んだ。
 上下に少し狭まった視界のかげに、脳裏の映写機から何十年も前の映像が映し出される。

 違和感を覚えたのか、さくらがちょっと小首を傾げた。
 ……やはり、まだ幼く見える。
 同時に、自分が年を取ったということを、権爺は改めて実感した。

 さくらは、少し緊張していた。

 いつもの権爺とちょっと違う。
 いつも優しくあたしのことを見てくれるけど、今は違う。
 あたしを見ているけど、あたしを見つめているんじゃないみたい。
 聞いてはいけないことを聞いてしまったんだろうか。

 さくらは今まで、権爺に怒られたことはない。
 だがその小さな身体に、父一馬にも及ぶ壮絶な剣の腕が眠っていることも、もっと小さい頃に見たことがあったので知っていた。

 今でこそ、遠くの街で直接魔物と戦っている父の方が腕は上だが、かつては権爺が一馬の鍛え役を担っていたこともあるらしいとも。
 師でもあり、先輩でもある。
 今も手にしている箒一つで、下級の魔物の一体や二体、十分に相手取ることも出来るのだ。

 ザッ、と権爺の草鞋が落ち葉を踏みつける音がしたので、さくらはぎゅっと目をつぶった。
 怒られると思ったのだ。

「そうですのお……」

 ところが、怒るどころか何とものんびりとした声が横から聞こえてきたので恐る恐る目を開けると、権爺はすぐ隣りにちょこんと座っていた。
 座ってみると、さくらと座高はほとんど変わらない。

「何から、お話ししましょうかのう……」

 さくらはよいしょと座り直して、権爺の話を楽しみに聞くことにした。

「そもそもうちの家系は三代前から真宮寺の旦那様にお仕えしておりましてな……」





 権爺……岩井権太郎の家系についてはっきりとした起源が解っているわけではない。
 仙台藩に仕える下級武士であったことは確かなのだが、明確な家系図が存在せず、何代目かの藩主の隠し子という噂もあった。
 謎めいていながらも名門中の名門と呼ばれ、朝廷からも特別視されていた真宮寺家との接点は一見無いように見える。
 だが、ある理由が二つの家を巡り合わせることになった。
 岩井家の人間の持つ霊力である。
 下級武士の少ない俸禄を補うためにやっていた、自己流の剣術道場を開くほどの剣の腕もその助けとなった。

「岩井先生!」
「うおおおおおおっっ!!」

 元服したての若い門下生が敵の爪を避けきれずに深手を負ったのを見て、岩井は逆上した。
 怒気は剣の道と筋を鈍らせると普段は説いていたが、今は相手が違う。
 例え怒気でも良いからあらん限りの気力を込めねば、刀がそれてしまうのだ。
 この異形の……魔物が相手では!

 江戸時代後期……といってもその時代に生きている人々には江戸幕府の崩壊はまだ予感でしかなかった頃。
 ここ仙台を含む東北地方は、度重なる飢饉に見舞われていた。
 農村では六道に云う餓鬼界さながらの光景すらも見られる時代。
 疲弊した人心と大地は、大儀式を必要とせずとも魔物を呼ぶまでになっていた。

 数は決して多くはないものの、長き平和に慣れた多くの武士には酷な相手である。
 弾丸を数十発浴びようともなお生きていることもあれば、振り下ろす刀や槍が独りでに避けることもある。

 時の岩井家当主……といってももちろん下級武士なのだが……彼自身は先天的ながらも休眠性ともいうべき霊力を持っていて、精神修養によりそれを引き出した人間である。
 それが転じて、並の人間でも気力を振り絞れば魔物に対しても傷をつけることが出来るようにすらなる修行を目標としていた。
 確かに不可能ではない。
 だが並の人間ではいかに鍛え上げたとしてもそれはかすり傷がいいところであった。
 それでも、護身、あるいは憤怒、復讐、それらを目的として、この飢饉下でも僅かの力を求めて自分に教えを請うてくれた弟子たちがことごとく倒される。
 引き替えに倒せた魔物はたったの一体のみ。

 このままで終わることなど、士として男として、断じて出来ん!

 全身全霊を刃に集中して、両手で最上段から振り下ろす。
 刀と自分の重みも何もかも乗せた、文字通りの渾身の一撃!

「ギエエエエエエッッ!!」

 頭をねらうと滑ってしまうことがある。
 確実を期すために狙った魔物の左肩に見事に命中する。
 翼は折れ、並の動物ならば心の臓までも断ち切っているはずだ。
 しかし……

「ギエアッ!」

 魔物は、死んではいなかった。
 耳障りな叫びと共に魔物が動くと、岩井の持っていた刀は半ばからポキリと折れてしまった。
 一地方武士が持てる程度の刀では、今の一撃に耐えきれなかったのだ。
 脇差は既に門下生に貸していて、その門下生は少し離れたところに倒れ伏している。
 武器は、尽きた。

「これまで、か」

 無いよりはマシと、刀身の失われた柄を捨てて腰から鞘を引き抜く。
 木刀とまでも行かないだろうが、おとなしく殺されてやるつもりはない。
 潔く散るなどという言葉は、人間が相手の時でしか適用する意味はなかった。

「来い化け物、せめて相討ちにはしてやるぞ」

 無茶だとは解っていても、まだ何人か虫の息で生きている門下生たちが助かるためには、何が何でもこいつを倒しておかなければ。
 魔物は少し引いて、ゆっくりとこちらを伺う。

 こいつには……この化け物には知性があるのか?

 ふと雑念が入ったその瞬間、化け物は飛びかかってきた。
 一瞬の遅れをとり戻さんとして、岩井も必死で鞘を突き出す。
 外骨格のある魔物にただの打撃では駄目だ。
 狙うならば……、上手い具合に化け物の口に突きを入れたと思ったそのとき、

バキッ!

 化け物が鞘の先端を食いちぎり、バリボリと食べてしまった。
 唖然とする岩井は次の攻撃を避けきれず、胸に三条の爪痕を食らった。
 ここに来てのさらなる出血は疲れ果てた身体に致命的だった。
 がっくりと膝をついたところに、勝ち誇った化け物がくわっと牙をむいた。

 無念……!

 と観念したのとほぼ同時に、あれほど頑強さを示していた目の前の化け物が頭部から一刀両断にされていた。

「……これは……」
「貴君、一人でこの降魔とやり合われたのか」

 岩井が視線を向けたそこに、確かな霊力をほとばしらせた若武者が立っていた。





「というのがそもそもの出会いと聞いておりますが、いささか劇的に過ぎますでな。
 どこまでが本当のことかはこの爺にも解りません。
 ただ爺の先祖も霊力を持っておって、魔物と戦っているときに真宮寺家の旦那様に助けられたというのはその通りでありましょう」





 当時でも霊力を持った戦士は多くない。
 孤独な戦いを続けていた真宮寺の当主には背中を預けられる相棒が必要だったし、岩井としても自己流による霊力鍛錬には限界を感じていたので、彼に師事することになった。
 これが以後百年以上に及ぶ真宮寺家と岩井家の関係のきっかけとなった。
 裏御三家正統最後の一つとなった真宮寺家の当主は常に犠牲となる可能性と背中合わせであったが、直接的にしろ間接的にしろ岩井の従者がそれを何度と無く阻んだのは間違いない。

 その関係が二代続いた後、時は流れ幕末。

 真宮寺家の後継者たる真宮寺龍馬とその従者たる岩井権太郎は、同い年の幼なじみとして少年時代を過ごしていた。
 まだ破邪の血統と自覚する前の少年にとっては従者とは言っても、悪ガキ同士でどちらが率先して動くか、と言う程度の差でしかなかった。
 一方権太郎少年の方は、幼心にでも真宮寺家の御方を守らねばならないと言うことは叩き込まれていたために、何かもめ事があったときは自然に一歩引くことが身に付いていた。
 今日も今日とて。

「少女占い師?」

 権はいささか呆れたように尋ね返した。

「ああ、城内でも良く当たると評判になっているらしい」

 本来ならその血筋の悲劇故に孤独であることが多かったであろう真宮寺家の若き後継者は、その御多分に漏れ……ていた。
 権という幼なじみがいるせいか二人して街まで出かけることも多く、またその生来の行動力や指導力から城下にかなりの人脈を作っていた。
 それらの情報網から噂を聞きつけてくることは今までにも何度かあった。
 彼が好んで集める噂は主に魔物に関する噂であり、聞きつけては二人して噂の場所へと向かって剣を振るっていた。
 権にとってはそこへ同行するのは従者として当然のことだったので、後継者にふさわしいとは世辞にも言えない龍の行動であっても異論を挟まずに付いてきたのだが、今回はちょっと訳が違う。

「ついに色恋沙汰に目覚めたのかい?龍」
「ちがうわ」

 あまり容赦したとは言えない勢いで権の頭に鞘ごとの荒鷹が降ってきた。
 二剣二刀の一振をこんな使い方する当主もおそらく史上初めてだろうと二人ともに自覚していたが、日常茶飯事になってしまっては一々気にも留めなくなっていた。

「まあ俺の耳に最初に聞こえてきたのは美人だという噂だが、そんなもの当てになるか」

 怒ったような龍の弁解は、苦し紛れのものだけではなくていくつかの経験からも来ている。
 少年たちの大将としても魔物退治の剣士としてもそれなりに知られていて、しかも容姿も悪くないとあって、龍に声をかける婦女子の数は少なくなかった。
 しかし霊力だけでなく霊的感知力も優れた龍は、相手が美人かどうかよりも先にその生命力や霊力が澄んでいるかを見てしまうので、ほとんどの場合は一言二言でさようならとなってしまう。
 本人は心外らしいが、女嫌いだの、果てはもっと発展したような噂だのが、彼をやっかむ人間の口から漏れているらしい。
 権がそれを揶揄するようなことを言ったので、龍は怒ったのである。

「俺は……不安なんだ」

 権の前でしかすることのない悩める素顔を晒して龍はうめいた。

「裏御三家だの、破邪の血統だの、生まれてくる前から決められていた奴らのことが……」

 言われるまでもなく、権はそのことを知っている。
 だが改めて龍の口から言われるとその重みは違う。
 龍にあって権にはない力、……あるいはそれを責務ともいう。
 例えばかの魔神器が生贄をと必要としたとき、権は身代わりになることが出来ない。
 大いなる都市が危機に瀕したときも、赴かねばならないのは龍であって権ではない。
 無論そうなったら権はついて行くつもりだが、それは自分の意志でだ。
 運命とか宿命といった、押しつぶすような強大なものは龍にしかない。

 折しもこの時代、薩摩長州といった西の藩で既存のしがらみをうち崩す若い武士たちの活躍が、ここ東北にまで聞こえてきている。
 五年ほどの差はあれ同世代とくくられてもよい彼らの行動が、最も深く長く歴史に組み込まれていた真宮寺家にも、少なからぬ影響を与えていた。

「敵の姿を知らなきゃ、倒せない」

 敵とは、魔物のことではない。
 権にはそれがよく解った。

「俺は知りたいんだ。俺が立ち向かわなきゃ行けないものの正体を」

 と、言うところで龍はころっと表情を入れ替えた。

「で、その少女占い師の近辺に最近魔物が現れる気配があるらしい。
 これを退治して知り合いになれば占ってもらえるだろうと思うんだ」

 そんなことをしなくても真宮寺家の名前を出せば占ってもらえるだろうと思うのだが、そう言う話なら権もつき合う気になった。
 責務は肩代わりできずとも背中くらいは守ってみせるというのが、従者として幼き日からの誓いなのだから。
 それに、魔物が近辺をうろつくというのはその少女占い師が山師でない証拠である。
 魔物は人の生命力を好むため、特に霊力の強い人間に寄り集まることが多い。
 さらに二人が出向けば魔物に対して餌をちらつかせるようなものなので、それだけで罠をしかけるようなものになる。

「わかった、手伝うよ。……ところで、その子の名前は?」
「家名はこれから調べさせるんだが、名前は……確か、桂とか言ったかな」



「隠れる場所があって良かったな、権」
「ここはそう言う問題じゃないと思うんだけど」

 城下でも一二を争う大きさを持つ屋敷の敷地内に二人は忍び込んでいた。
 調べてみると桂はこんな名家のお嬢様だったのだ。
 これが年頃の普通の少年ならばもしかしたら逆玉の輿とでも考える可能性もあるが、龍には全くその気はないらしい。

「で、いつまでここでこうしていればいいんだい?」
「魔物が出てくるまでさ」
「……わかった、もういい」

 立木や飾り灯籠などがあって家屋そのものからは見えにくい庭の隅っこで、権は諦めたように座り直した。
 実際に二人が来ることで魔物は来やすくなっているから、そう的はずれな回答でもなかった。
 腹具合から考えて、一刻ほど経っただろうか。

「来た」

 さすがに龍の感知力は並はずれている。
 権は言われてから少し気配を探らねばならなかった。

「寄り集まってきているからかな。降魔じゃない低級の魔物みたいだけど数が多いね。二手に分かれようか」
「今回は占い師の安全確保が最優先だからな。そうしてくれ」

 主君の許可を得て権は裏手へと回った。
 屋敷全体は何らかの結界で包まれているのか、魔物たちは塀を乗り越えての侵入は出来そうにないらしい。
 これは、ますます少女占い師とやらは本物のようだった。
 ただの霊感知だけでなく、相応の実力があるのだろう。
 表と裏の二つの出口さえ止めれば二人でもどうにかなる。
 ……まるで、あらかじめ二人がいることを解っていたかのように。
 そんなかすかな疑問を覚えないでもなかったが、今は眼前の敵だ。
 この程度なら自分が背中を守らなくても龍は問題ないだろう。

 一方正門に向かった龍の前には裏門より多くの魔物が群がっていた。
 低級霊程度の物が多く、門を守っている警護の者が持っていた少々の霊力でもある程度戦えなくもなかったが、いかんせん数が多かった。
 負ける心配などまったく無しに龍はそこへ駆けつけた。

「助太刀するぜ!」

 軽く放った桜花霧翔の一発で魔物の半分が消し飛んでいくのを見て、門を警護していた三人は驚愕し、次の瞬間にはありがたい、という顔になっていた。

「君は!?」
「名乗るほどの者じゃない」

 実は真宮寺の名を軽はずみに出してはいけないということでもあるのだが、この場はこの場だけにいささか芝居掛かった台詞でもごく自然に響いた。
 次いで振る剣も壮絶。
 思った通り、この程度の魔物ならば問題にならない。
 しかし、切っている内に魔物連中の妙な動きに気づいた。
 龍ではない何かを恐れるというか遠慮しているというか、迫ってくる勢いが弱まった。
 振り返れば、こんな雑魚とは確実に違う妖気が屋敷の結界を正面から突っ切ろうとしていた。
 この妖力は、小型ながら降魔のもの……!
 その妖気が目指しているのは、龍でも権でもなく屋敷の中だった。

「こいつは……大したもんだ」

 ここを防御している意味が無くなってしまう。
 潜在的に桂は自分たちを超える霊力を持っているというのだろうか。
 妖気の目指している方向は、こちらよりも裏口の方が近い。

「ちっ……、もう大丈夫だろう。あとは任せたぜ!」
「え……、おい……ちょっと……、君!」



 控えめな動きで、しかし確実に裏口に迫る魔物を仕留めていた権は、直接その気配に気づいたわけではない。
 最初に気づいたのは、屋敷に侵入しようとするやや大きな妖気……おそらく降魔のものだろう……の方だったが、それが目指している方向を探ってみると、かつて感じたことのない霊力を感じたのだ。
 これほど静かでかつ澄んだ霊力に会ったのは、霊力保持者と接する機会の多い彼にとっても初めてだった。

「この霊力が……桂嬢……?」

 と、惚けている場合ではない。
 いつも龍より後に行くことを心がけている彼であったが、ここはそうも言ってられそうにない状態だった。
 ……理由がそれだけだったとは、言い切れないが。

「御免!」

 草鞋を脱ぐ間が惜しかったので、そのまま屋敷に駆け上がる。

「キャアアアアッ!」

 絹を裂くような女性の悲鳴が上がる……が、この声は少女のものではなく中年くらいの女性の声のようだ。
 おそらく侍女か乳母か……。
 方向がはっきりしたので、その方向に向けて部屋二つ分のふすまを一息に蹴り開けた。
 これで魔物がいなければ叱責どころでは済まないだろうと思ったが、幸か不幸か蹴破った先には腰を抜かした乳母らしき女性と凛としてたたずんでいる少女が、今まさに小型降魔に襲いかかられようとしている光景が広がっていた。

「ハアアアッッ!」

 権が居合い抜きを繰り出すのとほぼ同時に、少女は乳母を引っ張って身体を伏せ、権の邪魔にならないように動いた。
 突然の闖入者だというのに、的確な判断だった。
 おかげで申し分なく振るうことが出来た権の一撃で、小型降魔は見事に吹っ飛んだ。
 しかし、まだ倒し切れていない。
 もう一撃をと思ったところで、降魔が離れたために別の魔物が接近してきた。
 一体は権に、さらに三体が少女に向けて……
 そこへ、

「権!!」

 その叫びで全て解る。
 今一度少女を伏せさせて、自分もその後に慌てて伏せる。

「桜花放神!」

 建物には一切損傷を与えずに来た龍の一閃がその場を吹き抜けた。
 接近してきた魔物も手負いの小型降魔も、吹き飛ばされた勢いのまま消滅した。

「もう、大丈夫でございます」

 さすがに龍はぬかりない。
 今の一撃で、周辺に近寄ろうとしていた他の魔物まで全てなぎ倒してしまったらしく、周囲に魔物の気配は感じなくなっていた。

「あ……ああ……そなたらは……」

 驚きおののく乳母の問いに対して権は自分では答えずに、丁度ふすまを開けて入ってきた龍の方へと目を動かした。

「俺たちは……」
「噂に聞いておりましたわ。魔物退治の少年剣士お二人」

 予見していたかのような少女の声は、二人が期待した以上の美声だった。





「というわけでして、この権がおらねば大奥様もあわや、というところだったのですじゃ」

 そこで珍しく冗談めかして権爺は笑った。

「じゃあ権爺がいなければあたしも生まれていなかったんだ。
 権爺、ありがとう」
「ほっほっほ、そうとも申しますなあ」

 素直に答えてくれるさくらが嬉しくてまた思わず笑ってしまう。

「ですがそんなに気にする必要はございませんぞ。
 この権は、一馬様とその子供らを守ることを龍に……大旦那様に託され、その約束を果たしているだけですからの。
 お嬢様がすくすくと育って下されば、権にはそれが一番嬉しいのですじゃ」
「はい、わかりました」

 御祖母様の言葉を聞き取れるのも昔から聞いていたからなんだ、と納得できた。

「ところで、御祖父様は御祖母様にちゃんと占ってもらえたのですか?」
「それはそうですじゃ。それが大旦那様と大奥様の馴れ初めでいらっしゃいますからのお。
 ですが、大旦那様がどのような占いを受けたのかは権も聞いてはおりませんですじゃ」

 そこで権はふっと遠い目をした。
 隣にいたさくらには、それは不思議な感覚だった。
 自分と同じくらいの背しかない権爺の横顔に、あまりにも深い悲しみのようなものを感じたのだ。
 悲しみ……と言って良いのかわからない。
 さくらにはそんな風に見えたのだが、いずれにせよそれはさくらが未だ知らない感情だった。

「さあ、そろそろ剣の修行のお時間ですぞ」
「わかっています。権爺に負けないように頑張りますから」
「ほっほっほ、その意気ですじゃ」

 ひょいと縁側から降りて軽やかに駆けていくさくらを見送ってから、権はふっとため息を付いた。
 今の話では、さくらの問いに答えているようで実は答えていない。
 さくらはまだ純粋な分、悪く言えば騙しやすかった。
 自分と龍と、そして桂の関係には続きがあるのだ。

 あのあと……龍が占ってもらった後に、権も占ってもらうことが出来たのである。
 桂が龍に何を言ったのかは本当に知らない。
 だが権が言われたことは、僅か五年で現実のものとなった。





 幕末と言われる激動の時代を駆け抜け、真宮寺家の存在を盾に仙台藩の優遇を新政府にごり押しで認めさせることも出来た。
 そして、その間に多くの魔の者を倒した。
 江戸城開城の折には、三人して江戸まで出向いて魔の者等との戦いに従事した。
 めざましい活躍をした三人の間に信頼とは別の感情が有ることが解ったのは、戦いの終わりを実感出来たそのころだった。

 桂は霊力に関しても、封ぜられし者等に関する知識に関しても今や申し分無く、
 龍自身の感情を考えても、五年に渡る戦いの中で最も頼ることが出来る女性だった。
 こうなると、少々適齢期を過ぎているとか言う話はほとんど関係なくなってくる。
 とんとんと両家の間で話は進行していった……と思われた。

 めまぐるしく変わる日々の一コマ。
 うららかなる春の青空に恵まれた、結納の日。
 桂の家に出向くというので準備に慌ただしいその日の朝から、権の姿が見えなかった。

「あいつ……この一番忙しいときに何をやっているんだ」

 と、つぶやいたときの予感はまだ大したものではなかった。
 だが、出発する予定の刻限になっても権は姿を現さなかった。
 そこで、確信めいた予感があった。

「済まないが、羽織袴をもう二揃えと、薬箱も用意しておいてくれ」

 家を出ると、丁度桜が満開になる前日くらいだろうか。
 道行く間あちこちで美しい桜を見ることが出来た。
 何一つ起こりそうにない平和な一日……龍以外の一行全員がそう確信しながら歩く行程の中ほど。
 河原に沿って桜並木が立ち並ぶ道の真ん中に、その男は立っていた。

 白装束で、右手には既に抜き放っている太刀。
 桜の花びらが舞う中で、その姿はどこか幻想的で儚くさえ見えた。

「権……おまえはこの忙しいのに……」
「下がっていてくれ」

 家人のまとめ役が権を叱責しようとするところ、それを抑えて龍は前に出た。
 権も無形の位からゆっくりと右手を上げ、切っ先を龍に向ける。

「権、お前は小さい頃から何でも俺に譲ってきてくれたな」

 霊剣荒鷹を包んでいた布を破り、その姿を露わにさせる。

「正直言って、俺は少し嬉しい。
 お前が従者としてではなく、正面切って俺に自分の望みを叩きつけてくれたことが」
「お、お止め下さい、若!今日が何の日か……」
「叱責なら全て俺が受ける。
 だが桂は……あいつは、悲しむだろうが、怒りはすまい」

 制止しようとする家人を振りきって、龍は権と対峙した。

「だがこれは俺にも、絶対に譲れぬものなのだ」

 対して、権が返した言葉は簡潔だった。

「桂さんは、渡さない」

 これが桂の占いにて言われたこと。
 あなたはいずれ、主君に刃を向けることになる、と。
 あり得ないことだと思っていた。
 だが、五年の歳月を経てそれは現実となった。
 他ならぬ、桂の存在故に。
 もはや、引けぬ。

「権、許せとは言わん!!」

 その叫びが、激突の合図となった。
 待ちかまえていたと言っても、権は罠など仕掛けてはいない。
 龍はそのことには確信を持っていた。
 それを肯定するかのように、真っ正面から突っ込んできた権の太刀筋にはいささかの迷いもない。
 手合わせの時や修行の時とはまるで気迫が違う。
 迷っていて勝てる相手ではない。

「来い、権!」

 振り下ろされた剣を正面から受け止めて一瞬力くらべとなるが、次の瞬間には一転して力の向きを変えて権を跳ね上げようとする。
 だが権はこれに反応した。
 手首を素早く返してこの切り上げを弾くと、回り込んだ勢いのままに龍を蹴りつけた。

「ハアッ!」
「やるなっ!!」

 顔面を狙った攻撃が避けられないと判断した龍は霊力を眼前に集中してこの蹴りを吹き流す。
 そのまま浮いていた刀を上段から振り下ろすと、権はこれにも反応して刀を叩きつけて防いだ。

 技量と霊力では龍が勝っている。
 しかし、権はその動きのことごとくに反応した。
 反応することが出来た。
 先頭で戦う龍に従い、その背中を守ってきた十数年……いや、それ以上。
 いつどんなときに龍が隙を作り危うくなるかを知り尽くし、それを補助し続けてきたのだ。
 龍に従ってきた年月が、権を龍と互角に戦わせていた。
 逆に権に全幅の信頼を置き、振り返る必要の無かった龍は、権の戦い方の全てを知っているわけではない。
 剣術だけではなく、その場に最も速く反応できるならば蹴りでも拳でも鞘打ちでも体当たりでも使う。
 龍はそれを知ってはいたが、こうして対峙したときに感じる強さは想像を遙かに超えていた。

「隙だらけだよ、龍。そんな様じゃあ……」

 権はあえてその次に続く言葉を口にしなかった。
 権の言うとおり、龍は全身に傷を負っていた。
 ただし、切り傷と刺し傷は一つもない。
 致命傷となる攻撃は全て防ぎきっていた。
 対する権は傷の数は確かに少ないが、何ヶ所か出血している。

「俺を倒してから言え、権。
 俺は倒れない。
 倒れることなく、守り抜いてみせる……」
「その言葉に二言がないかどうか……確かめるよ」

 権は距離を取り、剣を鞘に収めた。
 これで退いたのではない。
 その逆。

 権も裏北辰一刀流の使い手だ。
 霊力を刀身に集中して練り上げる。
 次の交錯は文字通りの必殺技となるだろう。
 龍は荒鷹を両手に構え、こちらも霊力を集中させる。

 濃密になっていく霊力がその場に静かな嵐を生じさせ、風ではなく霊力に吹かれて花びらが舞い上がる。
 桜の美しさは、時には人の血を吸うからだと言われることもあるが、このときの二人はそれを意識していたかどうか。
 舞い上がったたくさんの花びらが二人の間に紗幕を作る。
 ほんの僅かな一瞬、その幕を隔てて全てが静止した。

 やがて、南西から柔らかく吹いてきた春風が、紗幕を青空へと押しやった。

『破邪剣征…………!!!』

 凄烈なる叫びの前奏は異口同音。
 同じ剣術。
 同じ流派。
 だが、それは激突の宣言。

「桜花……放神!!」
「桜花……霧翔!!」

 何だと!!?

 霊力を放ちきった直後の虚脱状態で龍は無理矢理に思考回路を働かせる。

 桜花霧翔では放てる霊力にも限度がある。
 この期に及んで、権は手加減した……!?
 いや、それはありえない!
 と、いうことは…………っっ!!!

 二つの霊力の激突は、一瞬拮抗したものの次の瞬間には龍の桜花放神が押し切っていた。
 だがその霊力の行き着く先には既に権の姿はない。

 どこだ……!!

 権の言わんとするところは、常に権が守り続けてきた自分の隙。
 これからは権無しで、龍自身で打ち破らねばならない弱点を暗示する。
 必殺技を放った自分が、最も対処しにくい方向……
 利き腕の逆……、左斜め上後方だ!!
 なんとか目をそちらに向けると、はたして権はそこにいた。

「破邪剣征……!!」

 自分の生じさせた隙を、危険を、その場で払ってきてくれ続けた速さがこれだった。

「百花繚乱!!!」

 霊力とともに舞い狂う花びらを身に纏い、権は剣を先端として全身で突っ込んだ。
 防げるはずがない。
 ここは龍にとって絶対とも言える隙。
 今までの龍ならば、これで倒れないはずがない。
 今までの、これまでの、
 自分が守り続けてきた龍ならば!!

「俺は……、倒れぬ!!」

 気力とか、執念とか、それらの全てを振り絞って龍は権に向き直った。
 全力を放ちきったはずの後の限界を超えて、もう一度霊力を剣に乗せて放つ!

「桜花爛漫!!」

 突っ込んで行った権の眼前で、龍の霊力が爆発した。
 かつて無い……、初めて見る、強大な霊力。
 だが権が感じたのはそれ以上に強固な龍の意志だった。
 その意志が、龍の所に届く前に権を吹き飛ばす。

「ああああああああああああああっっっっっっっ!!!」

 桜の花びらを今一度舞わせつつ、龍の霊力が吹き抜けていった。



 今しがた降ったばかりの花びらに埋もれるようにして権は倒れていた。

「権……」
「あなたの……勝ちです……、龍馬様……」

 恐る恐る声をかけた龍の耳に、苦しいながらも……しかし、聞き慣れない声が響いた。
 岩井権太郎の声が真宮寺龍馬の耳に響いた。

「私のことは……心配しないで下さい。
 今や、あなたが心配しなければならないのは、ただ一人……。
 ……行って、下さい……」
「……………………………………………わかった」



 服だけは着替えたものの、包帯で応急処置をしただけの姿で現れた龍を見て、出迎えに出た桂の家の者たちは揃って仰天したが、
 ただ一人桂だけは、常に彼に付き従ってきた権太郎がいないことで全てを察していた。

「ここに来る資格があるかどうか、試されて参りました」

 龍馬は傷についてただそう説明した。
 権太郎が何を言い、何を叫んだか。
 それは言ってはならないことだった。
 顔を拭い、龍馬は怪我などものともしない堂々たる立ち振る舞いでその場に参じた。

「お嬢さんを……、桂さんを頂戴したく参りました」












「よろしいのですか、大奥様」

 権太郎はこの温泉宿でも一番である茶席にて、向かいに座る人物に恭しく尋ねた。
 年齢もわからない老女である。
 いや、老女という呼び方は適切だろうか。
 外見しか見ていない者には単なる老人にしか見えないだろう。
 だが、霊力の見える人間にはまた別の姿として見えるはずだ。

 高貴なる霊力を持った巫女として。

「よい、あまり年寄りがおらぬ方が若い者にはよかろう」

 そう言って彼女……真宮寺桂はゆっくりと茶をすすった。

「さくらお嬢様が手紙の度に書いていらっしゃる大神一郎という若者を、
 常々見たいとおっしゃっていたではありませんか」

 権太郎の言い様は責めているのではなく、あくまで確認しているのである。
 本来彼がこのように桂の行動に対して尋ねることすら珍しいのだ。

「仙台の地に足を踏み入れたときに、その霊力は確認しておる。
 さすが、米田殿の目に狂いはなかった。
 あの若者ならば、間違いなく真宮寺家の運命からさくらを解き放ってくれよう」

 昨年十一月に帝都で起こった騒乱において魔神器が失われたいきさつについて、桂は米田より内々に事情を伝えられていた。
 あの若者……今さくらがこの仙台に連れてきている大神一郎が、さくらを犠牲にすることをよしとせず、あの魔神器を破壊したということを。
 彼女の最愛の息子を奪った、あの忌まわしき祭器を。

「それに……」

 ゆっくりと茶碗を置きつつ、桂は珍しく一度言い淀んだ。

「いかがされましたか、大奥様」

 こんな時でも権太郎は丁重な態度を崩さない。
 桂の霊力に翳りが見えたわけではないので、それほど深刻なことではないと察しているせいもある。
 尋ねられ、桂は一度権太郎を見つめてからゆっくりと大きく息を吐いて、
 観念したように口を開いた。

「それに、さくらの手紙でのはしゃぎ様を見ていて、ふと懐かしくなったのです」

 その声は老いた今の桂の声ではなかった。
 少なくとも、権太郎の耳には違って聞こえた。

「権太郎、そなたと……、龍馬殿と、一緒にいたあのころが」
「桂殿……」

 何十年ぶりかで、権太郎は桂を名前で呼んでいた。






平成十二年 桜嵐さんサイト「SAKURA SQUARE」へ押しつけ
平成十四年五月二十七日 再録



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