何百年、経った……?
何十人と王が代わり、時に皇帝が立ち、パリは外へ外へと広がった。
その全てを、余は見上げ続けてきた。
それらを滅ぼすことを、ただただ、確信して。
何年何月何日かは知らない。
ある日だ。
何かが、パリに入り込んだ。
パリで起こったことの全ては、余の魂に直接流れ込んでくる。
何だ、この強烈な金色の衝撃は。
まるで余が行う前夜祭のように、小気味良い破壊がパリに振りまかれる。
誰だ?
覚えがあるぞ、この何百年かの記憶ではなく、かつて会ったことがある。
誰だ。
誰だ?
おまえは、誰だ!
その時、天が裂けた。
いや、本当に裂けたのは遙か上の大地なのだが、そのとき余にはそう見えた。
裂けたのは、凱旋門。
皇帝を名乗った男が造らせ、死んでからくぐった場所だ。
そこに、深い十字が穿たれていた。
そう、見えた、のだ。
この深い地の底に、太陽の光の欠片が落ちてきた。
まぶしい。
あまりにまぶしくて、余は手を掲げて額にかざした。
そう、信じられないことに、手が一本、動いた。
余の身体に繋がる鎖の一つが、今の衝撃とともに巴里から断ち切られていた。
手をかざして、それでも目が慣れずに、金色の姿を見ることができない。
だが、穴が穿たれたことで、気配がはっきりとわかった。
「おまえは……アンリ……!」
いや、奴はとうに死んでいるはずだ。
だが、その気配はあまりにもアンリに似ていた。
アンリの、末裔か……?
落ちてくるかと思えた金色の姿は、落ちては来なかった。
まるで、余を睥睨するかのように。
「子孫となってもなお、余を見下すか、アンリよ……」
忌々しく天へと登り帰る金色を、ただ見送る。
自由になった手を伸ばそうとしたが、拒絶するかのように阻まれた。
その代わりに、落ちてきたものがある。
人間だ。
最初に一人落ちて来たかと思うと、ついで五六人まとめて続いてきた。
放っておけば床に叩きつけられて死ぬだろう。
久々に人間が死ぬのを見るのも面白い。
次いでにその苦悶に満ちた魂をすすることが出来ればなおよい。
だが、ふと気になった。
最初に落ちて来る男に目を向けた。
年の頃は三十過ぎくらいだろうか。
半ば呆然として、半ば狂気に侵されたような顔で落ちてくる。
眼前であの金色の姿の放った、余の封印の一端を吹き飛ばすほどの衝撃を受けたのならば当然かもしれぬ。
放っておけば、そのまま床に激突して死ぬだろう。
だが、その男には懐かしい気配がした。
他の人間どもとは違う、確かな懐かしさがあった。
よかろう、お前だけは救ってやろう、我が同胞よ。
手が一本解き放たれたことで、念じる力が使えるようになっていた。
金色には弾かれたが、間近に近づいてきた男一人止めることぐらい造作もない。
落下する男に抵抗をかけて減速させ、ゆるやかに床に着地させる。
それとほぼ同時に、後から続いてきた人間が床に激突して砕け散った。
まあそれはどうでもよい。
どうせただの人間だ。
後で魂だけ食らうとしよう。
ともかく、この男に気力を込めて正気に戻してやるとするか。
「……何が……?」
「余に助けられておいて、礼の一つも言えぬのか?」
何百年かで、移り変わった言葉に合わせて声を掛ける。
「だ、誰だ!」
だが、信じられないという顔で前後左右をおろおろと見渡す男には、どうやら余の姿が見えていないらしい。
長年この暗闇にいた余には、今はるか地上からかすかに降り注ぐ光だけで十分に明るいが、日の光の下にいた人間にはここは真闇なのだと、ようやく思い出した。
軽く念じて微かな燐光を灯らせる。
これでこの男にも余の姿が見えよう。
「お……おぉ……おまえは!?」
余の姿を目にして、驚愕に目を見開きまたもや絶句する。
しょうがないやつだ。
もっとも、今の余の姿を見て驚くなという方が無理かも知れぬ。
何百年ぶりかに光を浴びる余の身体は、以前にも増して白くなり、ますます人間からかけ離れてきていた。
今の余を見て人間と思う輩などおるまい。
結構だ。
実に結構だ。
だが、
「余は……」
余は、……誰だ?
……パリ公爵?
……フランス王?
余は、誰だ?
「余は……シャルル……マール……」
何だ?どちらだ……余の名は……
どちらの名でも呼ばれていたような気がする。
シャルル……
マール……
「カル、マール……?」
思わず口から漏れ出た余の声を聞き留めたらしく、男が二つの単語を奇妙に連結させて反芻した。
それでは別の意味になってしまうではないか。
だが、偶然か、必然か。
生白く変わり果てたこの身には、妙にしっくりとくる名だ。
よい。
丁度良い。
もはや余が誰であったのかもわからぬのなら、その名を我が名としようではないか。
「そう、余はカルマール。
パリ公爵であり、このフランスの真なる王でもある」
ああ、そんなことだけは覚えている。
どうしてそんなくだらないことだけ覚えているのか。
何百年間も誰一人傅くことの無かった王など、笑いぐさだ。
だが、余は王であった。
間違いなく。
かつてそうであり、
長きに渡って、そうであったのだ。
「王……
おまえ……い、いや、貴方は、我らの王なのですか!?」
「いかにも」
余が名乗ったことで男の態度が急変した。
いささか形式が変わったようだが、少しは礼節という物を心得ているらしい。
片膝を床に着け、恭しく頭を上げる。
うむ、悪くない。
「この地より王が失われて久しく経ちました。
カルマール公爵よ、貴方はブルボン王家のどなたに連なるお方なのですか」
「ブルボン王家?」
なるほど、この男は余をそのような新参の輩だと思っているらしい。
「かような新参者どもと余を一緒にするでない」
「何ですと?
されば貴方様は一体……」
「その前に貴様に聞きたいことがある。
今はイエスが生まれてより何年経つ?」
「は?
今年は……1921年でございますが」
五百年か。
ずいぶんと時が経ったものだ。
だが、アンリよ。
千年はさすがに保たなかったぞ。
お前の計画のほぼ半分で、お前の末裔に解き放たれるとはな。
「余は今をさかのぼること五百年前、この地をイングランドより守った王である」
「なんですと!?」
「信じられぬと申すか」
信じ難いという顔を見せていた男は、余が視線を向けると跳ねるように平伏した。
「い、いえ、そのようなことは決して……。
されば、偉大なるカルマール公爵よ、御身は今不遇の身にある我ら貴族を救うお力をお持ちでしょうか。
今このフランスは王の権威が地に落ち、平民どもが……」
「くだらぬ」
「は?」
この者は何も解っておらぬ。
何ゆえ余が貴様の命を救ってやったと思っているのか。
「耳を傾けよ。
聞こえぬか、巴里の声が。
貴族も平民も関係ない。
大地を忘れた人間どもが、その大地を汚してこの巴里にのさばっていること自体、あってはならぬことなのだ」
そうだ。
平民も貴族も同じこと。
二千年の昔、この地にはそんなものはどちらも無かったのだ。
川が、森が、大地が、嘆きの声を上げ続けている。
その声が、余と同じ力を持つこやつには聞こえるはずだった。
「巴里の声……?」
男はいぶかしげに遙か遠い大地を見上げる。
「おまえには見えるはずだ。
おまえには聞こえるはずだ。
余と同じ血を引くものよ、そなたはかつて何であったか」
「おお……おお……!!」
そこまで教えてやって、ようやくこの男は気づいたらしい。
首を仰け反らし、服を胸元から引き裂いて、吼える。
叫んだのではない。
古き記憶そのままに、己が存在を知らしめるように、その男は、その雄は吼えた。
気配が変わった。
余には及ぶべくも無いが、それまでの人間の気配ではなく、力を秘めた気配に変わった。
どうやら余の目に狂いは無かったようだ。
二度、三度。
咆哮を繰り返していくに従って、雄の全身に剛毛が生え揃う。
首から頭にかけて鬣が生え、肩から腕の太さが倍以上に膨れあがる。
その姿は、見たことは無いが覚えていた。
獅子だ。
この雄は、かつてそうして大地に生きていたに違いない。
「ようやく解ったか。
余らが何をなさねばならぬかが」
「ははっ。偉大なるカルマール公よ、我らが先達よ、我が無知をどうかお許しください」
愚直なれど、物分りは悪くない。
当面の手足とするには十分であろう。
さて、命を下すかと思ったが、そういえばこやつの名をまだ知らぬ。
「されば……、名を何という?」
「はっ、エティエンヌ・シャルグランと申します」
「ふむ……あまりに人間じみた名じゃな」
雄は跪きつつも、胸を張るようにして返答してきた。
だが、名を誇らしげに語るのは、意味の無い家名などにこだわる無能者の悪癖だ。
これは五百年経っても変わらぬものであるらしい。
そんなものにこだわっているようでは困る。
余をカルマールと名付けたお前には、褒美として名乗るべき姿と名をくれてやろう。
我らは個でありながら、かつてありし人と獣を継ぐものなのだから。
ゆえに、
「よかろう、これよりお前はレオンと名乗れ。
貴族どもを凌ぐ真の貴族となり、百獣の王のごとく人間どもを狩り集めて、余の前に集めよ」
「レオン……百獣の王レオン」
雄は、レオンはその名を口の中で確かめた後、獲物を前にしたかのように舌なめずりをした。
よい。
「心得ました、偉大なるカルマール公よ。
このレオン、頂戴したこの名に賭けて御身の御命令を果たしましょうぞ」
かくして、余は食事の調達に困らなくなった。
面白いことに、人間から目覚めて間もないせいか、レオンは姿を人間に戻すことが出来た。
人間を捨て切れぬという点はいささか不快だが、狩りには便利なのだという。
レオンに狩り集めさせた人間から恐怖と怨念を抽出して、徐々に力が戻ってきた。
だが、それだけではどうにもならぬこともあった。
残り九つの肢を戒める鎖は、容易なことでは外れそうに無い。
それは、巴里の地上から解かねばならないようであった。
動かせる手駒がレオン一匹では、これらを解くのは困難だ。
何より奴には余の食事を調達してもらわねばならぬ。
いや、手駒ならある。
ようやくにそれを思い出した。
中身など無くともよい。
余の力であやつる騎士を再び造ればよいではないか。
既に騎士が巴里から消えて久しいが、地上を探れば鎧を造る材料には事欠かなかった。
ここ最近になって巴里中で発達した蒸気機関なる仕組みは、膨大な鉄くずを生んでいたからだ。
真夜中、人間どものいない鉄くず置き場へ向けて、唯一動かせる肢から念を込める。
ひとまず手ごろな大きさの機関を本体に、板金を曲げて鎧を作り、管をつないで手足を作る。
思ったよりも手軽に騎士人形が完成した。
だがそれに命を与えて動かそうかとしたとき、予期せぬことが起きた。
人形が、ひとりでに動いたのだ。
人形に取り込んだ古びた蒸気機関が蒸気を吹き上げ、機構も何も揃えた覚えの無い四肢をひとりでに動かしていた。
四足で鉄くずの山を這い、むさぼるように辺りの鉄屑を口に運んでいる。
余は口に穴など空けておらぬので、その鉄屑は口に当たるところでへしゃげるだけだが、その様は飢えた獣を髣髴とさせた。
何故だ。
騎士人形の動きを封じて調べてみる。
人形に取り憑いているものがあった。
これは……なんだ。
余が意識を向けると、一瞬の敵意の後に恐怖を感じて逃げようとした。
当然、その身体の自由は余が奪っているのでそんなことはままならない。
しかし、この感覚はどこかで遭遇したような気がする。
人間の気配だが、現在この巴里の地上を歩いている人間どもとは違う。
しばし考えて思い至った答えは意外なものだった。
五百年前、ランス大聖堂で殺した騎士の魂ではないか。
あのとき奴らを殺すとともに、その怨念や苦痛を取りこんでいたが、その魂の一部は余の身体の一部となっていたはずだ。
その一つが、五百年ぶりに余の身体から逃げ出したわけだ。
五百年経って、人の精神など欠片も残っておらぬようだが、
これは、使える。
幸い、新たな怨念はレオンが調達してくるので、古い魂を余から切り離してもそれほど不都合は無い。
もはやこうなっては霊騎士と呼ぶのも適切ではない。
なんと言おうか。
……蒸気獣。
そんな言葉をふっと思いついた。
蒸気で動く、元は人間であった獣。
この巴里を再び人間どもの手から、緑為す地に変える手駒にはふさわしいかもしれぬ。
巴里の街に恐怖で満たすために、存分に暴れるがよい。