半千年の終わりに 前編
巴里SS




「……、マール公子、出たまえ」

 なんとか敬語の形をとろうとしたが、恐怖が先に出てうまくいかなかったらしい。
 そんな印象を受ける声が、銀の十字架を打ち付けた扉の向こうからかけられた。
 聞き慣れた牢番の老人の声じゃない。
 珍しいことだけど、それよりも声の告げる内容の方が重要だった。

「出る?僕が?ここから?」

 ありえないことだった。
 形だけは豪勢だが、シーツを替えられたことのないベッド。
 扉の下の隙間から差し入れられる食事を摂るための木のテーブルと、脚のぐらついた椅子。
 眼下の小川まで塔を貫いている穴だけのトイレ。
 顔がやっと入る程度の、周りにいくつもの十字架の打ち付けられた一応の窓。
 それと、聖書が一冊。
 三十歩ほどで一周できる、埃の積もった絨毯の部屋。

 そこだけが僕に許された世界だった時間が……冬が十五回。
 その世界を隔てていた扉が、七度錠が回る音の後でゆっくりと開いた。

 自分以外の人間の顔を見るのもやはり十五年ぶりだった。
 自分の顔だけは氷の鏡を作って見ることが出来たから。
 他人と顔を合わせるというのは、やけに奇妙なものだった。

 その場にいた人間は二人。
 一人は痩せて髪も髭も白くなった老人で、彼がこの十五年僕の食事を持ってきた牢番だろう。
 もう一人は騎士の位にあると思われる鎧を纏った男で、腰には剣を帯びて戦場にでも来たかのようだ。
 いや、彼にとっては戦場より恐ろしいのかもしれない。
 決して僕と目を合わせようとしない。
 呪い殺されるとでも思っているんだろう。

「シャルルが認めたのか?僕の解放を」

 十歳のときまでしか知らない双子の兄の今の顔を思い浮かべるのはさほど難しくなかった。
 多分、僕の顔とほとんど同じだろう。

「兄上様御自らのご命令であらせられます。
 公子殿下にはこれよりフランスのために戦う栄誉を授けると」
「なんだ、そんなに負けているのか」

 僕がこの塔に入れられる遙か以前から、フランスはイングランドとの戦いが断続的に続いていた。
 計算が正しければ来年の1429年で九十年になるはず。
 よくも飽きずに戦っているものだ。
 だが、僕をここから引っ張り出したということは相当戦況は悪いらしい。
 僕の力を使ってでも死にたくないということなのだろうから。

「シャルルは今どこに?」
「シノン城にいらっしゃいます……ですが、マール様はただちにオルレアンへと向かえとのご命令が!」

 とっさに答えてしまったのは不本意だったのだろうが、その言葉で今の情勢が大体わかった。
 相変わらずパリに入ることも出来ず、オルレアンあたりが最前線になっているんだろう。
 それもこちらの陣地ではなく、イングランドの陣地になっている可能性が高い。
 一人で行って死んでこいということか。

「シノンか」

 ロワール川に沿って歩けば行けるはずだ。
 詳しい方向は大地が教えてくれるだろう。

「なりません、マール公子。あなた様は……」

 止めようとした騎士はその場ですっ転んだ。
 金属製の靴は、凍った床の上では滑りやすいだろう。

「世話になったな、老人」

 その場で腰を抜かしている老人を横目に、倒れて床にへばりついた騎士から剣を取り上げて頂いておく。
 食事を運ぶのを欠かさないでくれたこの老人の名前すら知らないことに今さら気付いたが、これ以上一瞬たりとも塔の中に居たくなかったので、足早に塔の階段を駆け下りた。






「久しぶりだな、元気そうで何よりだ、マール」
「ああ、あいにくだが元気だ、シャルル」

 氷で作った鏡で何度か確認した自分の顔とほとんど同じ顔が、騎士たちが並ぶ先に据えられた仮の玉座の上に座っていた。
 双子の兄であるシャルルは、王となればシャルル七世と呼ばれることになるはずだった。
 だがこのシノンに来るまでに聞いた噂によれば、まだ王太子のまま戴冠していないらしい。
 まさか僕に遠慮したわけではないだろう。
 父シャルル六世が発狂し、イングランド軍に取り囲まれたパリで死んだものだから、正式な王位継承が出来ないだけだ。
 それが証拠に、玉座からかけられた声は言葉ばかりで誠意の欠片も感じられない。
 もっとも、声に誠意が無いのはお互い様だ。
 あまり憎悪らしいものが沸いてこないのが不思議だったが、考えてみると僕を閉じ込めたのは父であってシャルルではない。
 自分の寛大さにあきれて、思わず笑みが漏れたのを見咎めたのか、シャルルがぎょっとなり、慌てて言葉をつむいできた。

「それほど元気ならば、今すぐにでもオルレアンを奪還することもたやすいだろう」
「無茶を言うな。いくら僕でもそんな真似は出来ない」
「お前には余には無い素晴らしい力があるだろう。
 その力をもって兄である余を救ってくれはしないのか」

 そう、力だ。
 幽閉される前には悪魔の力と散々貶しめられた記憶がはっきりと残っているが、確かに僕には普通の人には無い力がある。
 そのために魔女が置いていった子供とされて、異端審問やら色々受けさせられた。
 でも、水に浮けば魔女の子と言われて半日水の中にいても平気だったし、
 焼けた鉄を手にして手が腐れば魔女の子と言われて火傷一つ負わなかったし、
 その他諸々色々あったが結局僕をいびり殺すことも魔女の子と宣言することも出来なかった異端審問官が最後に選んだのが塔への幽閉だったというわけだ。
 直接処刑を行わなかったのは、今日のような事態を予想していたからかもしれない。
 王族から除籍して公子としたものの、かつての王子ということで牢屋にしなかったのは温情のつもりだったらしい。

 そういう力に限らずとも、手を触れずに物を動かしたり、何もないところから水を作り出したり、他にもそれなりに色々出来るので、応用すれば人を殺すのもそう難しくはない。
 今でもそれくらいは出来るはずだ。
 だけどさすがに、相手が複数だとどこまで出来るかわからない。
 やってみたらそれなりに戦えるかもしれないが、一軍に戦争をふっかけて勝てるとはさすがに思えなかった。

「弟の僕を十五年も幽閉して置いてよくそんな言葉が言える」
「マール公子、貴君を閉じこめたのは御兄君ではありません。
 むしろ御兄君はわざわざ異端審問官に働きかけてあなた様を解放して差し上げられたのですぞ。
 どうかお言葉を慎まれよ」

 十五年前に見たような覚えがある顔をさらに老けさせた騎士隊長が、丁寧と無礼を一緒くたにしたような態度で余計な解説を入れてきた。

「そんなに戦況は悪いのか」
「……良いとはとても言えないな」

 本来なら捨て置かれるはずだった魔女の子を引っ張り出してくるなどという決断が出来るのは、相当に追い詰められている証拠だろう。
 それでいきなりオルレアンに向かえという指令を出したことから、策らしい策も無いことが伺えた。
 本気で殺すつもりならば餓死させるなり他の方法を採っているだろう。
 そう考えていたら、一人の騎士が伝令役を伴って謁見の間に駆け込んできた。

「失礼します!イングランドの一軍がこの城を目指して進軍中との報告が入りました!」

 それは深刻だ。
 聞いて思わず苦笑してしまった。
 一応フランス領と公言している範囲であってもイングランド軍が平気で闊歩しているということになる。
 謁見の間が深刻なざわめきで満ちた。

「……マール」
「僕に兵をよこせ。王弟自らの出陣とでも銘打ってな」
「そうか、やってくれるか」
「言っておくが、戦えるかどうかは知らないぞ。
 十五年も閉じこめられていたんだからな」

 あからさまに安堵した表情を見せたシャルルに、皮肉混じりに釘を差しておく。
 別にシャルルを助けたいとも思わなかったが、イングランド軍をのさばらせておくのは不快だったし、とりあえず憂さ晴らしをしたかった。
 もし死んだら死んだで、別に現世に未練も無い。
 どうせ、地獄と大差は無いのだろうから。






 フランス国内に深く入り込んだイングランド軍は略奪を重ねる野盗の集団と化しているのだ、と一人の騎士が怒り混じりに教えてくれた。
 人の五倍は視力がいいので、遠くから彼らの姿を観察してみるとなるほどと思う格好だった。
 騎士は少ないが歩兵がぞろぞろ集まっており、その服装にまったく統一感が無い。
 野盗に襲われる城というのも笑える話だ。

「行くぞ」

 お優しい兄君が哀れな弟に与えてくれたそれなりに立派な白馬を促した。
 身につけているのはこれまた立派な甲冑だから嫌でも目立つ。
 命令する気にもならなかったが、一応の王弟がさっさと先に行けばついてくるだろうと思った。
 敵に弓兵が少なかったため、そのままなし崩しに戦いが始まった。

「こんなところか」

 飛んできた矢を目前で逸らして敵兵に当てる。
 馬上の騎士に横から力を加えて落馬させる。
 空中につり上げて頭から落とす。
 近づいてくる兵は動きを止めて剣で切るか、見えない力で叩きのめす。
 どれもそう難しくはない。
 同時に十人までなら相手に出来た。

 それでも、僕はここにいるのだ。
 喧噪の中で壊し殺すことで、やっと自分が生きているのだと実感できる。
 他人の人生を終わらせる、僕がいる。

 ただ、周りはそうもいかなかった。
 元々第一陣ということでシャルルが割いた兵も少なかったこともあるが、気がつけば数が減っている。

 やってみるか。

 すぐ手近なところの馬上でがくりと力を失った騎士の鎧と槍に力を込める。
 うまく動いてその眼前の敵兵を貫いた。
 取り囲まれているので槍から剣に持ち替えさせ、周囲を切り払わせるのも成功した。
 慣れてくると、頭の隅で捉えているだけで操れるようになってきた。
 近くでまた一人やられたので二つ目も操ってみる。
 僕と不死身になった騎士二人で戦場を駆け回っていると、気がつけば周りは敵味方とも全滅していた。

 上々だろう。



 そんな戦いが何度かあった。
 イングランド軍の攻勢を食い止めるのにはひとまず成功している。
 一度に十数体までの騎士を操れるようになってきたが、死神と呼ばれるようになってきた僕に同行しようという兵がいなくなってしまった。
 同行すれば活躍する代わりに死ぬと解っていれば当然かもしれないが、意気地の無いことだ。
 僕が一人で現状を支えているようなものだから、シャルルたちも恐々としながら協力しようとはするが、命令しても兵が恐れて引っ込んでしまうのだ。

「お前も戦場に出てみないか、シャルル」

 皮肉を込めてこうも言ってやったが、返答は無かった。
 誰かと相談しようにも、僕と目を合わせるのも会話するのも恐れるような者たちばかりではどうしようもない。
 心は戦場に立ちたいと逸るのに。
 そんなときに意外な申し出をしてきたのが、シャトーブリアン伯アンリだった。

「殿下のお力は、中に人が入っていなくてもよろしいのでは無いですかな」

 言われてみればそうかもしれない。
 両手両足と武器を握る籠手まで揃った全身甲冑があれば、中に死体が入っていなくても戦闘に支障は無いだろう。
 しかし、よほど僕の力をよく解っていないと気付かないはずだ。
 僕を注視しているとは、珍しい奴だ。

「そうだな。試したことは無いが、多分鎧と武器だけでもなんとかなるとは思う」
「では私が殿下の兵となるべき甲冑を用意させましょう」

 貴族のくせに商才に長けている彼に体よく使われた気もするが、これで当面の問題は解決した。
 何故彼が僕を恐れないのか、何故僕の力を見極めることが出来たのか不思議だったが、大勝利を収めた折の酒の席でこっそりと教えてもらえた。

「我が一族も殿下と同じなのですよ」

 殿下ほどではありませんが、と断りつつ彼は、僕にしか見えないようにワイングラスをほんの少しだけ宙に浮かせて見せた。
 抜け目の無い彼のことだから、僕の味方が彼しかいないことを踏まえた上でさらに秘密を教えることによって、僕との関係を良好にする利益を何やら企んでいるのだろう。
 だがひとまず、それに乗ることにした。



 僕が操る甲冑の兵は敵軍を蹴散らし、倒した敵兵の魂を吸収してさらに強固になっていく。
 やがて死神の群れと呼ばれるようになった僕の軍は向かってくるイングランド軍を撃退するには十分だった。
 しかし攻勢に転じるには不十分だった。
 堅固なオルレアンを攻め落とすには単純な戦闘能力ではない、人数の裏付けがされた戦力が必要だったが、僕に従って戦おうという兵はいない。

 もどかしい日々が続いた。
 力を使えば使うほど身近に感じるようになったものがあった。
 緑の姿をして脳裏に浮かぶそれが告げる声が、僕を衝動のように突き動かそうとするのだ。

 オルレアンを解放し、パリへ向かえ……
 パリを解放せよ……
 パリへ……
 パリへ……!

 その声に応えることが出来ないまま、しばしの時が過ぎた。






「聖女?」

 聞いた瞬間、天使や救世主と同じくらい都合のいいそんな存在がいるものかと思った。
 話を持ってきたのは例によってアンリだ。

「農村出身の娘らしいのですが、神の声を聞いたと主張して民衆の強烈な支持を集めているそうです」
「教皇庁から派遣されてきたのではないのか」

 アビニョンに封じられている教皇は、密かに魔術士や特殊能力者を集めているという噂があった。
 その教皇から派遣されてきたのならば詐欺師で間違いないが、民衆の中から現れたのなら少なくとも本人は本気でそう思っているのかもしれない。

 その聖女が、シャルルに会うためにこのシノン城に向かっているという。
 それを聞いたシャルルが妙なことを言い出した。

「本当に聖女かどうか試してみないか?」
「どうやって?」
「謁見の時、お前と私が入れ替わってみるのだ。
 本当に聖女ならばそれくらい見抜けるだろう」

 僕とシャルルは双子だから顔はほぼ同じだ。
 服装と髪型を一緒にすればおそらく側近たちでさえ見抜けないだろう。
 僕さえその気になったらシャルルと入れ替わることもできるかもしれない。
 王太子になんかなりたくもないからやらないが。

「一度この椅子に座ってみるのもいいだろう、弟よ」

 いつになく親切なシャルルの考えは大体読める。
 その聖女が暗殺者の可能性もあるわけだ。
 シャルルは僕の力を知っているから、僕と同様の力を持った暗殺者が来たらほとんど防ぎようが無いことも承知している。
 つまり僕なら身代わりとして申し分無いというわけだ。
 そこまでわかっていたが、

「……面白いな。やってみよう」

 その聖女に会ってみたいという興味の方が上回った。



 その少女の名前を、ジャンヌといった。



 座り心地は悪いし居心地も悪い。
 王太子の玉座と王太子の服装への感想はそんなものだった。
 シャルルは居並ぶ側近たちの間に隠れているが、ここにいる人間のほとんどが僕らが入れ替わっていることに気付いていない。
 これでわかったら確かに大したものだ。

 何かが近づいてくる気配があった。
 これほどはっきりと感じたことはかつて一度もない。
 そしてシャルルと再会したときにさえ、これほど胸が高鳴ることはなかった。
 この謁見の間に入る扉が、外側へざわめきを伴って開いた。

 太陽が入ってきた。
 他の者にどう見えたかはわからないが、少なくとも僕にはそう見えた。
 入ってきた少女の背中には、太陽のように白く輝く翼が見えた。
 その彼女の姿を見たとたんに、僕の身体の中から懐かしいと思えるような力がわき上がってきた。
 パリへ向かえと呼びかけるあの緑の姿と同じように、懐かしいと感じた。

 あなたは、誰……。

 彼女に陶然と見入っていたために、呼びかけられたことにしばし気付かなかった。
 それも耳を振るわせる声ではなく、心に直接染み渡るような意志そのものだった。

 君は、僕と同じ……?
 あなたは、王太子様じゃなくて、わたしと同じ……。
 僕はマール。王太子シャルルの弟である、魔女の子だよ。
 いいえ、魔女の力じゃありません。それは、神様が与えてくれた力です。

 僕は何一つ疑問に思うことなく、彼女と意志を交わしていた。
 彼女の言葉にひっかかるところはあったが、故郷に帰ってきたようなあふれるほどの懐かしさに満たされていた。
 もっとゆっくり話したかったが、傍目からはにらみ合っているように見える状況に周りが騒ぎ始めた。

 君と、あとで話せるかい。
 それが神様の御意志なら。
 じゃあ、この茶番はさっさと終わらせようか。
 はい、わかりました。

 名残惜しげに絡み合う視線をほどくと、彼女はあっさりとシャルルの居場所をつきとめてしまった。
 紛れもなく聖女だと崇め出す一同を余所に、僕は動悸を抑えるだけで精一杯だった。
 お祭り騒ぎのような雰囲気の中で、彼女を中心としてオルレアン奪還のための軍が結成されてしまった。
 僕は同行しないで、独自に動くことになった。
 聖女の軍にケチを付けるなというシャルルの配慮らしい。
 独自ということは勝手に動けということだから、裏から彼女を助けても構わないだろう。


 次に彼女とまともに話す機会を得たのは出陣も間近に迫った二十日後だった。

「わたしと同じ加護を得た人がいてくれたんですね」
「加護なのかな。
 みんながみんな僕の力を悪魔の力と呼んだけど」
「悪魔の力ではありません。
 わたしと同じく、神様がパリを解放するために与えてくれた加護です」

 ずっと年下のはずの彼女の言葉に、僕は素直に頷きそうになっていた。
 彼女の力は僕のように物を動かす力ではなく、人を動かす力なのだと思う。

「その神様は、オルレアンを解放してパリへ向かえと?
 パリへ行けと言っている?」
「ああ、やっぱりあなたはわたしと同じ加護を受けています。
 あなたには、わたしと同じ神様の声が聞こえているんですから」

 神なのだろうか。
 あれは、神なのだろうか。
 そっと僕の手をとる彼女の瞳を見ていると、それを信じたくなってきた。





 大したものだ。
 僕の力に頼るだけで完全に腰が引けていた兵たちが、ジャンヌの下では別人のように果敢に戦った。
 ジャンヌの声を聞き、ジャンヌの姿を目にする度に、兵たちは力を増している。
 単に士気が高くなるというだけではなく、力がわき上がってくるのだ。
 僕すらも、例外ではなく。

 立ちふさがる砦を麦でも倒すかのように次々と攻め落とし、オルレアンの城壁が見えたときには、僕は死神ではなく確かにジャンヌの仲間の一人となっていた。
 ジャンヌは勝つことを信じて疑わず、僕も勝つことを信じて疑わなかった。
 ただ万が一に備えて僕はジャンヌの傍にいるようにした。
 前日の戦いでジャンヌが流れ矢に当たったためだ。
 僕の力をこっそりと使って、ジャンヌに矢なんか当てさせないように。
 もし彼女に剣が迫ったら、瞬時にそれをかばえるように。

 そして、オルレアンは解放された。





 その後も勝利を重ねイングランドからかなりの領土を奪還したことで、シャルルが正式にフランス王として戴冠式を行うことになった。
 場所はランス大聖堂。
 僕も公子から公爵位に叙せられることになっていたが、なんとパリ公爵という位置づけだ。
 僕に何か与えないわけにはいかないが、出来れば何も与えたくないという心境が透けて見える。
 最大級の恩賞の形をしているが、未だ敵の手にある都だから実質は何も与えないで済むという寸法だ。

 僕は、面倒だから参加しない、と告げておいた。
 シャルルにしても、僕がいると邪魔だろうから特に咎められもしなかった。

 だが、参加しなかった理由は他にもある。
 最近シャルルの周辺が怪しい動きを見せているのだ。
 ジャンヌが主張するパリ攻略にも、国力増強が先決と反対している者が一人や二人ではない。
 何かを企んでいるような気がする。
 何人かの貴族が戴冠式の一週間ほど前から姿をくらませているのに、シャルルは平静を保っていた。
 その中に、あのアンリの名もあった。




 敗北した。
 信じたくはなかったが、ある意味当然の結果だった。
 パリ攻略を主張する僕とジャンヌに対して、シャルルが与えた兵は無かった。
 国王の座についたシャルルは、これまでの戦いで疲弊した国力を増強することを第一に掲げたのだ。
 一応の筋は通っている。
 ジャンヌの指揮の下で奇跡的な勝利を重ねてきたといっても、間違いなくこちらの戦力も削られていたから。
 しかし、それだけではない何か意図的なものを感じずにはいられなかった。

 それでも僕とジャンヌは、内なる呼び声に従ってパリへ向かおうとした。
 義勇軍数百が集まったものの、これでパリを攻略するのはさすがに無理だった。
 はっきりと解る形での、初めての敗北。
 僕は自分の操る霊騎士を限界まで動かして、なんとかジャンヌとともに脱出した。

 命からがら帰ってきたジャンヌに対してシャルルの側近らは冷ややかだった。
 それとは対照的にシャルルは今さらのようにジャンヌに爵位を与えると言い出した。
 構図がある程度読めてきた。
 シャルルはジャンヌの人望を恐れているのだ。
 ジャンヌの神のごとき名声を押さえ込み、自分の下につけようとしている。

 しかし、本当にそれだけなのだろうか。
 悔しいが当面の出兵は無理だと判断した僕は、教皇庁の周辺に探りを入れることにした。
 人の心を読む力があれば楽だったのに。
 部下のいない一人の活動では限界があったが、それでも幾つか解ったことがある。
 教皇庁のさらに裏に、力ある者らが集まる組織があるという。
 以前アンリに聞いたときには単なる噂に過ぎないと思っていたが、それがどうやら実在するようだ。

 賢人機関というらしい。

 そこまでつきとめたところで、僕は調査を打ち切らざるを得なくなった。
 僕がいない間に、シャルルは手のひらを返したようにジャンヌに兵を与えてパリ攻撃を命じたのだ。

 一旦分かれる前に、僕はジャンヌに単独行動は避けるようにと伝えて置いた。
 しかし、ジャンヌは僕よりもずっと強く声に惹かれていた。
 僕よりも、パリに惹かれていた。

 ジャンヌは、僕のいないあいだに戦場へ向かってしまったのだ。
 ランスへとって返すまでに、ジャンヌがイングランド軍の手に落ちたという噂が伝わってきた。



「何故ジャンヌを一人で行かせた!!」
「余はあれに兵を与えた。一人ではない」

 ジャンヌをあれと呼んだシャルルの冷え切った口調は、僕のシャルルへの疑念を確信に変えるに十分な響きを持っていた。
 ジャンヌを引き渡すことを条件にして、イングランドと有利な講和を結んだのだ。

「シャルル!貴様!!」

 激昂した僕は立ちふさがる騎士たちを蹴散らすべく忠実な霊騎士たちを呼び寄せる。
 多くの魂をすすった甲冑には、もはや並大抵の攻撃は効かなくなっている。
 対する騎士団員がたかだか三十名ほど。
 全員を蹴散らすのも難しくない、はずだった。

「そんな……」

 今まで僕が操ってきた霊騎士たちが、僕の全身を捕らえていた。
 よく見れば霊騎士たちの甲冑には銀の十字架が刻まれていて、中に封じていたイングランド兵の魂も霧散していた。
 僕がこう出ることを予測して、僕のいない間にありったけの細工をしておいたに違いない。

「マール、お前の役目ももう終わった。
 せめて最期はそなたの懐かしき家で迎えるがいい」

 シャルルは僕を殺すのが難しいことも承知していた。
 身動きのとれなくなった僕を再びあの塔へ、十五年の歳月を無駄に費やさせたあの塔へ閉じこめ、今度は一切の食事をよこさなかった。
 確実な方法だ。
 それまでの僕が相手だったら。

 シャルルに初めてはっきりとした憎しみを覚えたあのときから、僕の身体はおかしくなっていた。
 近くに寄る虫から、空を飛ぶ鳥から、川を泳ぐ魚から、遠くを歩く旅人から、
 あらゆるものから、力を吸い取ることで、僕は辛うじて生き延びた。
 まるで、大地から水と養分を吸い取る樹のように。


 どれくらいの月日が過ぎたのだろう。
 ある日、塔の周囲が騒がしくなった。
 何をしているのだろう。
 薪を塔の周囲に積み上げている人間どもがいる。

 念入りなことに、さらに火で焼いてくれるつもりらしい。
 死にかかっていて、もはや考える気力すら湧いてこない。
 だが奴らが話している中で、断じて聞き逃せない一言があった。

「急げよ、ルーアンでの火刑に間に合わせなければならん」

 ルーアンでの、火刑。

 錆び付いた脳裏を恐怖と危機感が駆けめぐって辛うじて思考を作り上げた。
 ルーアンはイングランド軍の占領下だったはずだ。
 僕とジャンヌがいない状態で、フランスがそこまで奪還出来たとは考えにくい。
 そして、わざわざ僕と同時に火刑にしようとするからには、
 ルーアンで処刑されようとしているのは……!!

 怒りで全身が燃え上がった。
 部屋が、塔が、周囲を囲む薪が、集まっていた人間どもが、一瞬で燃え尽きた。
 まだジャンヌが生きているのなら、僕が守る。

 だが走って間に合う距離じゃない。
 空を飛ぶ翼が欲しいと心底願った。
 今し方殺した者たちの怨念をかき集めて空へ送り込む。
 出来た。
 ジャンヌの翼のように美しくはない、むしろ醜悪といえる顔を持った球体だが、空に浮いた。

 ルーアンへ。




 空からフランスの大地を見下ろすのは初めてだったし、方角もはっきりわかっていたわけではなかった。
 それでも、胸を引き裂くような不安と恐怖が駆り立てる方向へと急いだ。
 合っているという確信があった。
 その方角からは、腐りきった人間どもの熱狂したような思いが放たれていたから。
 急いで、力の限り、燃え尽きるほど急いで、

 僕は、間に合わなかったことを知った。

 たどりついた街の広場で天を焦がすような火柱が立っていた。
 その火柱から、目映かったジャンヌの力の残り香が肉が焼ける臭いに混じって漂ってくる。
 その周囲を十重二十重に司教や騎士や市民が取り巻いて歓喜の声をあげていた。

 声にならない叫びをあげて、その火柱へ飛び降りる。
 身体が焼けるのを無視して、半時前までは輝いていたはずの身体を、初めて胸に抱こうとして、
 僕の腕の中で、灰となって崩れ落ちた。

 叫んだ。
 喉が裂けて吹き出す血と共に、吐くように、叫んだ。

 人間ども……!

 イングランド人も、フランス人も関係ない。
 こんなことをして、ジャンヌを死なせる奴らが人間だというのなら……
 僕はもう、人間でいたくない!!

 その瞬間、全てに水が落ちた。

 僕は、意識せずにセーヌ川を逆流させて周囲に大波を呼び込んでいた。
 背丈よりも、家屋よりも高い波に飲み込まれてもがく人間たちと違って、いつの間にか白く変色した僕の身体は溺れることもなく流れをつっきり、壊滅していくルーアンの街を薄暗い喜びとともに眺めていた。

 忌々しい炎を、街を、人間どもを、全て押し流してしまえ……!




 水が引き、壊滅した街に無数の屍体が転がっている。
 だが、こんなものでは足りない。
 ジャンヌを殺させた者を、ジャンヌを死に追いやった者を殺さねばならない。

「シャルル……お前を、殺す……」

 今なお頭に響くパリへ向かえという声をかき消すほどの衝動が、僕の身体の中で荒れ狂っていた。

「お前を、殺す……!」




 夜闇の中に、たいまつの明かりによって照らし出されたランス大聖堂が見える。
 こうして見下ろせばちっぽけな建物だ。

 寝静まっているころを見計らって上空に来たが、当てが外れた。
 そのちっぽけな建物の周囲を、少なく見積もっても数百からの兵が手に手に灯りを持って巡回している。
 既に僕が脱走したという情報が届いているんだろう。
 まあいい。
 それなら立ちはだかる者全てを殺せばいいだけだ。
 役立たずどもに何が出来る。

 そう決めると、僕は自分が乗る球体から眼下へ飛び降りた。
 丁度足下に十数人からなる騎士の一団。
 六回呼吸する間に、全て屍にした。

 鐘が鳴る。
 叫びが上がる。
 群がってくる人間を、無我夢中で打ちのめしていく。
 気がつけば僕の武器は二本の腕だけではなくなっていた。
 四方八方へ自在に繰り出せる八本の手をもって周囲の敵を薙払っていた。
 異様に白くなった身体と、敵をぶちのめすのに適した合計十本の手足。

 おそらくどこから見ても、もはや人間じゃない。
 僕はもう、人間なんかじゃない。
 お前たちのような、人間じゃない。

 周辺をほぼ一掃してから、大聖堂への門へ突入しようとする。
 かなわないことくらい、かつて僕の姿におののいていた連中ならわかりそうなものだが、頑強に抵抗する。
 まるで何かを待っているように。

 ……小賢しい!

 激昂した僕の心に、上空に浮かんでいた球体が反応した。
 火の玉が兵たちの壁を直撃し、その直後に彼らが凍結する。
 おまえたちは、火刑だけでなど、終わらせない。
 焼け落ちる寸前の苦悶のままで凍てつくがいい。
 その苦痛と絶叫が、僕の力になる。

 大聖堂の中も兵たちがひしめいていた。
 しかしこの警戒ぶりは、シャルルがこの聖堂から逃げるつもりがなく、立てこもるつもりであることも示していた。
 ここの奥にいることは、あいつと血を分けたこの身体が教えてくれていた。
 既に人間でなくなった身体だというのに。

「シャルル……、待っていろ……!」

 ざわめくような血を振り払うように、人間ではあり得ない白い手を巻き付けて、立ちはだかる兵どもの首を絞め飛ばしていく。
 吹き上がる鮮血を浴びて、僕は自分が人間じゃないことを改めて確認する。

 そんな僕の姿を見て、頑強に抵抗していた兵たちがついに恐慌状態におちいった。
 だが、お前たちも逃がさない。

 全員、滅べ!



 聖堂内を血の匂いと静寂が満たしている。
 心地よい場所になった。
 その心地よい場所で、動くものはたった二つ。
 僕と、シャルルだけだ。

「シャルル、やっと二人きりになれたな」

 何故ジャンヌを死なせたとか、言うべきことは色々あったのかもしれない。
 だが、僕の意識はそんな理由をもう飛び越えていた。

「お前を、殺すよ……」
「余を殺すか、我が弟マールよ」
「黙れ、僕はもう、お前の弟じゃない……」
「確かにその姿の化け物を余の弟と呼ぶには無理があるな」

 側近の貴族たちの屍体に囲まれて、不思議なくらいにシャルルは落ち着いていた。
 仮ごしらえのままの玉座に座ったまま、満足したような表情で周囲を見渡した。

「だが、お前は本当にこの兄のためによくやってくれた」

 以前あれほど僕に怯えていたはずなのに、側近の貴族どもが全滅しているというのに、シャルルは笑った。

「最後の任務を与えよう」
「!!?」

 シャルルが指を鳴らすと同時に、僕の全身を激痛が貫いた。
 十本ある手足の全てに、杭でも打たれたかのような感触だった。

「何……が……」

 全身が……首や舌はおろか念じる力さえも、自由に動かせなくなっていた。
 それでもなんとか首と目を動かすと、僕の十肢を銀の鎖が貫いているのが解った。
 無理矢理に首を動かしてその鎖の端を見ると、いつの間にか現れた黒いローブを纏った一団が各鎖一本に数人ずつ、呪文を唱えつつ握りしめていた。
 その彼らを指揮するように佇んでいた男の顔を見て、僕は愕然となった。

「アンリ!!」
「ご苦労様でした、マール殿下。
 やって下さるとは思っておりましたが、まさかここまでとは思いませんでしたよ」

 商才を見せるときと同じ顔で、シャトーブリアン伯が恭しく一礼した。
 気が付くべきだった。
 あのとき霊騎士たちが僕の意志に背いたのは、何か細工を施されていたからじゃない。
 あらかじめ、彼がそのように造っておいたのだ……。

「あなた様が塔から脱出されたと聞きまして、シャルル陛下の権力を妨げる可能性がある貴族たちを片づけて戴けないかと思ったのです」
「……お前も、貴族の一員……だろう」
「私は少々違いましてね。
 賢人機関、という名前を耳にされたことはありませんかな?」

 知っているとも。
 教皇庁が作ったという、魔術士などの力ある者らの組織。
 いや、そんな噂があると最初に僕に教えたのも……アンリだった!

「世界の安定のために、私たちはシャルル陛下に強力なフランス王となって戴きたいのですよ。
 聖女とひきかえにイングランドとの講和がなった今、貴族たちを排してしまえばそれも可能なのです」

 道理で貴族どもの死をにこやかに見ていたわけだ。
 確かにフランスはイングランドと違って王の権力は貴族どもと大差が無い。
 シャルルが長らく王の座につけなかった原因の一つがそれだった。
 今のシャルルの権力では奴らを排除することは出来ないが、徹底抗戦を叫んでここに釘付けにすることくらいは出来ただろう。

「お前が余を殺すのを最後にとっておこうとするのは解っていた。
 余も好きなものは一番最後まで残しておく癖があってな」

 シャルルが玉座から立ち上がり、見下すように親しさをこめて近づいてきた。

「お前には、パリ公爵の座にふさわしく、パリの礎になってもらう。
 お前とあの女が行きたがっていた都へ連れて行ってやろう」

 あの女。
 シャルルがさげすむように呟いたその一言が、僕の頭の中で沸騰した。
 パリへと……あんなにもパリへと行きたがっていた、
 ジャンヌを……お前は殺した……!!!

 僕とシャルルが同時に絶叫した。

 僕の声は怒り。
 シャルルの声は断末魔のそれだった。

 僕は十肢を貫いた鎖が身体を引き裂くのに構わずにシャルルに飛びかかっていた。
 十肢が使えず、念じる力も使えず、唯一使える武器だった口を限界以上に広げて、シャルルの身体を噛み砕いた。
 嚥下したシャルルの身体が僕の身体に溶け込んでいく。
 母親の胎内にいたときに分かれて欠落した身体がようやく満たされたかのように、僕の身体が……余の身体が膨れ上がった。

「アンリ……、次はお前だ!!」

 鎖に貫かれたままだが、先ほどまでよりも遙かに身体が軽くなっていた。
 怒りとともに、力が吹き出してくる。
 アンリの前に立ちふさがる黒い服の連中を石ころの様に蹴散らして、鎖に繋がれたままの右手を四本束ねてアンリの顔めがけて振り下ろす。

 避けられるはずがなかった。
 だが、肉片に変わるはずのアンリの姿はその場で煙のようにかき消えてしまった。
 虚しく宙を裂いた腕が床を砕く音が聖堂の天井に響く。

 その直後、天井へ向かって引き上げられるような感覚がした。
 十肢を貫いた鎖の先端がひとりでに天井へ向かって動いていく。
 その先には、アンリが何の支えもなく宙に浮いていた。

「やって下さいましたね、殿下。
 この鎖に囚われながらまだこれほど動けるとは。
 やはり、あなたはあまりにも危険だ!!」

 十本の鎖の先端が、ひとりでにアンリの掲げた右手に集まる。
 そう……アンリも力を持っていたのだった。
 しかし、これだけの力を隠し持っていたとは……!

 十本の鎖の端を握りしめ、アンリは稲妻のような衝撃を送り込んできた。
 何かが全身を駆けめぐるような感触がして、全身が派手に焼け焦げて、僕は……余はその場に倒れ伏した。

「シャルル陛下を死なせてしまったのはこのフランスにとってとてつもない損失です。
 この上はせめて、パリの礎となり、パリを繁栄させることで、その罪を償って戴きます」

 計画通りにいかなかったのがよほど悔しかったのか、アンリが歯ぎしりしながら鎖を引いて僕を……余を引きずり起こした。
 パリの礎……?





 ジャンヌを引き渡したことでイングランドとの講和が成立したことを示すように、占領下だったはずのパリにイングランド軍の姿はほとんど無い。
 アンリは正面から堂々と、僕を……余をパリへと引き連れてきた。
 
 目指していた都だった。
 一度も見たことがないはずのその場所は、何故かひどく懐かしく見えた。

 だが、深く遠いその記憶の中には、今見えている無駄に豪華な寺院など見あたらなかった。
 地面にこびりついた瓦礫のような家屋など見あたらなかった。
 死んだような目で徘徊する人間など見あたらなかった。

 そこは、緑に満ちて、動物たちと精霊たちが、司祭を通じて人々と交わっているはずだった。
 それが。

 そこはあまりにも懐かしかったのに、あまりにも思い描いていた場所と違っていた。

 ここがパリか。
 僕が……余が、ジャンヌと目指そうとした都か。
 こんな、こんなところが……!

 無性に憤りを感じた。
 ジャンヌは、こんなところに来たかったんじゃない……!

 目に付くもの全てを薙ぎ払いたいという思いに駆られて、全身に力の限りを込めて束縛を破ろうとする。
 だが、何重にも掛けられた銀の鎖はわずかにきしんだだけだった。
 そうやってもがいている間に、薄汚れて腐臭すら漂う街並みを抜けて、先ほどから見えていた寺院の全貌が見えた。

 川の名はセーヌ。
 そのただ中にある島はシテ。
 そこに立つ寺院はノートルダム。

 誰かが説明してくれている。
 まるで僕達が……余らが、あらかじめ知っていることのように。
 そして、その後にこう続けた。

 ……おかえり、待っていたよ。

 その声は、かつて幾度と無く聞こえていた声だった。

 お前が、神か。
 ジャンヌを呼んでいた、神か。
 そんなにも弱く細い声で、何故呼んだ。

 ……おかえり、パリシィの子……。

 はるかな、遙かな、懐かしい声は、そこで途切れた。

「どうぞこちらへ。
 このパリを千年の都たらしめるために、殿下のお力とお命を使わせていただきます」

 アンリは、余を……僕を、ノートルダム寺院の地下へと運び入れさせた。
 礼拝室の最奥を裏手に周り、壁のようにしか見えない扉を開けたその奥に続く階段は、おそらく、普通の礼拝者などが全く知らない場所なのだろう。
 三千段を超えたところで数えるのを止めた下り階段を、途中で六回変わった運び手らの担ぐ台に乗せられて下りていく。

 どれほどの時間が経ったのか。
 ようやく着いた、地下とは思えないほど天井が高く広大な空間の底に、無数の樹の根や鎖が張り巡らされていた。

 何だ、ここは。

「パリを栄えさせるために都市の活力を循環させる機構です。
 ノートルダムと同時に造ったのですが、要となるものが無くてほとんど用を為していませんでした。
 ですが、パリシィの力を持ち、それだけの妖力を持つ殿下ならば申し分ありません」

 パリシィ。
 またその言葉だ。

「ご存じありませんでしたか?
 かつてこの地に住んでいた、人外の者たちのことです。
 野蛮な暮らしをしていたそうですが、動物たちの霊と交わる特殊な力を持っていたそうです。
 かのカエサルが来た折に滅びたとされていますが、少数が生き延びてローマ人と交わりました。
 そのために、時折普通の人間の中に魔女の子と呼ばれる力を有する子供が生まれてくるのですよ」

 久々に聞いた。
 魔女の子。
 昔はずいぶんとそう呼ばれたものだ。
 途中で称号が死神に変わったが。

「魔女なんかいない……聖女もいない……。
 そんなもの、最初から、何もありはしなかったということか……」

 魔女の子と呼ばれてやらされた異端審問という名の拷問の記憶以上に、
 ジャンヌを聖女とまつりあげて戦わせた連中への怒りがこみあげてきた。
 誰が、パリの礎になどなるものか。
 貴様らがパリの繁栄を望むのならば、このパリを破壊してくれる!
 醜い寺院も、薄汚れた街も、何もしない人間どもも、何一つ残さず消し去ってやる。
 そうだ、パリはそのために僕を……余を呼んだのだ!!

 声に応えろ、パリよ!!

 空洞に天地を揺るがすような鳴動が響いた。
 張り巡らされていた樹の根が、一本一本が数百年も生きている大樹のような根が、余の……僕の声に応えようとして、
 しかし、動けなかった。
 それら一つ一つが、鎖で縛られていたのだ。
 動こうとした根は、苦しげに身をよじるために鎖によって自らを傷つけていた。
 その光景に、ジャンヌを失ったときと同じ痛みを覚えた僕は……余は、パリへ叫ぶのを一瞬躊躇った。

「しかし、パリシィの力は人の世にあまりに危険過ぎるのですよ。
 あなたがそうであったように、並の人間など真のパリシィの力の前では為す術がありません。
 だがその力も、使いようはあります。このように」

 十肢を貫いて縛り上げられていた鎖が、何かに繋がれたような感触が伝わってきた。
 余の……僕の身体が、大地に根を張ったようにぴくりとも動かなくなる。
 まるで、今目の前で繋がれている根たちと同じように。

 やがてじわじわと物理的なものではない何かが、全身を締め上げてくる。
 それはまるで叫びのようでもあり、痛みそのもののようでもあった。
 誰かの痛みが聞こえてくるのか、それとも自分が痛みを感じているのか。
 それは、パリの痛みか。

「離せ……アンリ……!」
「私が憎いですか?
 パリが憎いですか?」

 表情の見えない顔で、アンリが言わずもがななことを言った。

「こうなればあなたは死ぬことはありません。
 あなたの妖力が、都の欲望を煽り、人々を突き動かし、都市を栄えさせるでしょう。
 これから先、千年に渡ってパリの守護者となり、パリを繁栄させるのです。
 それが、シャルル陛下を殺してこのフランスの未来を閉ざしたあなたの贖罪となるでしょう」

 笑わせる。
 しかもこのパリを守るだと。
 パリを繁栄させるだと。

「ふざけるなあっ!!」

 叫べども、今度は何も動かせなかった。
 パリそのものとともに、縛り付けられたような感触が、やがて定着する。
 身体を動かせない代わりに、心の中が狂いたくなるほどに猛ってくる。
 それでも、何もできなかった。

 アンリはそのことを確認すると、別れの言葉も侮蔑の言葉もないまま、部下達を引き連れてこの場を去った。
 明かりが無くなり、目の前に広がる暗い空洞に、耳が痛くなるほどの静寂が響き渡る。
 用を為さなくなった視界に、最も深く目に焼き付いた光景が、崩れ落ちていく灰の姿が、何度と無く蘇る。
 おそらくは地上に繋がっているのであろう全身を戒める鎖から、汚れた街の姿が脳裏に流れ込んでくる。

 ……憎い。
 ……パリが憎い

 いいだろう。
 豚も食べる前に太らせるという。
 千年、パリを太らせてやろうではないか。
 ……後悔させてやるぞ、余を殺さなかったことを。




パリよ








パリよ




パリよ



パリよ



パリよ


パリよ


パリよ
パリよ

パリよ

パリよ
パリよ
パリよ
パリよ
パリよ!
パリよ!
パリよ!
パリよ!
パリよ!
パリよ!!
パリよ!!
パリよ!!
パリよ!!
パリよ!!
パリよ!!!
パリよ!!!
パリよ!!!
パリよ!!!
パリよ!!!
パリよ!!!
パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
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パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!
パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!パリよ!!!

許すまじ!パリよ!!





1921年。






初出 平成十四年十二月八日 書き下ろし




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