聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第二十四話、星無き者たち」




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 しばし、瞑目していた。
 小宇宙コスモを持たない自分には、五感の一つを閉ざすことによる小宇宙の増大など望むべくもない。
 それでも時折、瞼を閉じ、視覚を閉ざしてみることがある。

 小宇宙とは何なのか。
 感じることができるようになった今でも、小宇宙を燃やすという行為も概念もわからない。
 星矢達が言うことが正しければ……もちろん、間違っているはずもないのだが……小宇宙とは誰もが持っているものだという。
 だがもちろん、誰もがそれに気付くわけでもないし、誰もが自分の中に宇宙を感じ取れるわけでもない。
 もし誰もがそれに気付くことができたなら、一般人が小宇宙を燃やして振る舞うことでこの地上はとんでもないことになってしまっているはずだ。
 自分の中にある小宇宙に気付き、それを燃やすことができた者だけが、聖闘士セイントとして戦うことができる。
 それがこの地上の理ということなのだろう。
 それは理解できなくもない。

 だがそれと、納得して受け容れられることとは別だ。
 小宇宙とは何なのか、どうすれば小宇宙を感じ取ることができるのか、どうすれば小宇宙を燃やすことができるのか。
 諦められるものではなかった。
 小宇宙を燃やし、神々とさえ戦う仲間の姿を見ていれば、なおのこと。

 まず、感じ取れるようになるまでが苦行と苦難の連続であった。
 小宇宙の究極が第七感セブンセンシズであるということは、そもそもの小宇宙は人間が普通に持つ六感の中にもあるはずだと考えた。
 最強の黄金聖闘士ゴールドセイントの一人、乙女座バルゴのシャカが、釈迦の生まれ変わりであると聞いてからは、三人揃って仏教に答を求めてすがっていた。
 日本で手近に接することができる仏教のうち、釈迦の時代の仏教に一番近いと判断したのは禅である。
 グラード財団の施設で肉体的なトレーニングを重ねる一方で、精神修養をも重ねていった。
 その結果、ようやくにして強大な小宇宙、又は小宇宙が燃焼しているという事象を感じ取ることはできるようになった。

 方向性は間違っていなかったとは思う。
 そういえば双子座ジェミニのサガが双子座の迷宮を作り上げるときには、教皇の間に籠もって瞑想していたとも聞いた。

 その癖で、何もないときには座禅でも組みたくなる。
 もちろん今は無理だ。
 座禅など組んでいては敵を迎え撃つことができない。

 十二宮に配されることはできなかったが、アステリオンの読みでは必ず星闘士スタインはここを攻めてくるはずだ。
 現教皇代行の慧眼を疑うつもりは無い。

 だが、先ほどから十二宮の方向より感じられる幾重にも激突する小宇宙に、時折ここを放り出して駆けつけたくなる気持ちは否定できなかった。
 駄目だ。
 動けばアステリオンの采配を狂わせることになる。
 そう己に言い聞かせ、己を押さえるために、己を高める為に、瞑目していた。

 自分がここを任された理由は大きく二つある。
 一つには、自分でもここならば力を存分に発揮できるということ。
 もう一つは、ここに備えた機器の扱いに、聖域サンクチュアリで最も長けているということ。
 いずれも十二分に納得できるものだ。

「……来たか」

 つぶやいたのではなく、告げる為の言葉とともに目を開く。
 その声を聞く者が二人、周囲を取り囲む木々の間から姿を現した。
 纏っているものは紛う事なき星衣クエーサー
 一人は何らかの鳥の星座、もう一人は……無生物を冠した星座のようだがよくわからない。
 放っている小宇宙は、二人とも赤かった。

「本当にあったか。
 なるほど、レイニィ様はあれで馬鹿なだけはないということか」
「でなければ、あれほど馬鹿なのに、ゼスティルム様が指揮権を預けたりはすまいよ」

 なんだかよくわからないがどこぞの上官を馬鹿にして気心が通じているらしい。
 だが彼らが、今自分が背にしている宮殿を目標としてここまで来たことは疑いようがなかった。

「ずいぶんと気軽だな。
 聖域を観光しにでも来たつもりか」
「いや、済まないなそこの警備員さん。
 ちょっと道に迷ってしまったんだが、ここは、女神の泉で間違いないか?」

 鳥を模した星衣の方が、冗談めかした表情で尋ねてきた。

 女神の泉。

 神話の時代、聖戦で傷つき今にも死を迎えようとしていた聖闘士たちが、せめて最期を第二の故郷というべき聖域で迎えるために、聖域の外れにある宮殿に運ばれてきた。
 そのとき十二宮の果てにあるアテナ神殿のアテナ像……すなわち、アテナの神聖衣ゴッドクロスから一筋の涙が流れ落ち、宮殿全体を暖かい小宇宙が包んだ。
 それによって、そこにいた瀕死の聖闘士たちは皆一命を取り留めたという。

 その伝説が今もなお生きるのがこの宮殿であった。
 サガの乱が終わった後、瀕死の重傷を負っていた星矢達五人は、この宮殿に運び込まれたのである。
 伝説に謳われた力と、日本のグラード財団から持ち込んだ現代医学の数々とを結集して、星矢達は驚異的な復活を遂げた。

 星闘士との決戦にあたり、多くの重傷者が出ることは当然に予想された。
 だからこそアステリオンは、この女神の泉を死守すべき重要拠点として位置づけた。
 この決戦を終わらせても、戦いはまだ終わりではない。
 星闘士筆頭のイルピトアを始めとして、まだ少なくとも数人の青輝星闘士シアンスタインが残っており、さらにその上には神々の誰かが君臨しているかも知れないのだ。
 一人でも多くの聖闘士を生き残らせ、少しでも早く傷を癒して、次なる戦いに備えなければならない。
 そのためにこの女神の泉は絶対に必要なのだった。

 だが、裏返せばそれは、星闘士側にとっても攻め落とすべき重要拠点ということになる。
 女神の泉の存在は、知る人ぞ知るというものだったが、かつて神闘士との戦いが始まる直前に、ζ星アルコルのバドがここを強襲したことがあるくらいなので、聖闘士と対立する勢力にとっては常識なのかもしれない。
 この二人に指示を出したレイニィという星闘士も、女神の泉のことを知った上でこの二人をここに派遣したのだろう。
 一人ではなく二人というのは、この場所を探り当てたというよりも、最初からここを攻めるつもりであったことが伺える。
 虚言を弄したところで、ごまかせるものではなさそうだった。

「いかにも、ここは女神の泉だ。
 だから聖闘士でもない観光客は立ち入り禁止だ。とっとと帰るんだな」
「そうつれないことを言うな。
 遠路はるばるここを制圧しに来たんだからよ」

 何を模したものか不明な方の星闘士が、右手に一瞬炎を灯し、挑発するようにその炎を握りつぶした。

「それに、見たところお前も青銅ブロンズ白銀シルバー黄金のいずれの聖闘士ではないようだが?
 私兵聖闘士一人で俺たち二人を相手にするつもりか」

 私兵聖闘士とは、炎熱聖闘士やドクラテスといった、88の星座を冠する正規の聖衣ではない鎧を与えられた面々を指す。
 なるほど、言われてみればそう的外れな区分というわけではない。
 だが、そうと括られるのはやはり癪だった。

 確かに88の星座を正式に冠したわけではない。
 それでも、同じ道を歩んで来た友とともに名乗った名前がある。
 その名前とともに、正規の聖闘士たちと拳を交え、正規の聖闘士たちと肩を並べてきた。
 青銅白銀黄金と分かれた正規の聖闘士のどれでもなく、だが、いかなる聖闘士にもできないことを積み重ねてきた称号だ。

「心配は無用だ。
 俺は、鋼鉄聖闘士スチールセイント、巨嘴鳥座スカイクロスの翔。
 相手にとって不足かどうか、その身で確かめるんだな……!」

 高らかに名乗りを上げる。
 翔は、誇りを声に載せ、ここから先へは通さないという意思表示とともに、翼を広げるかのように、両手を広く掲げた。

『!!』

 それを聞いた二人の反応は翔の予想を上回った。
 鋼鉄聖闘士という単語を聞いた瞬間、二人の顔から余裕が消し飛んだからだ。

「鋼鉄聖闘士……!
 それに翔といえば確か……」
「ジャミールでグランド様と戦ったという空の戦士か」
「知ってくれているとは光栄だな」
「知らんとでも思ったか。
 イルピトア様が仰るには、鋼鉄聖闘士というのは最大の不確定要素なのだそうだ。
 アテナの聖闘士の中にあって、聖闘士の範疇を逸脱した存在故、何をしでかすかわからんとな」
「……一応、誉められたと受け取っておこう」

 翔の声には、評価されたことへの喜びとともに、聖闘士外に追いやられたことへの微かな不満も滲み出ていた。
 だが、星闘士のトップがそこまで鋼鉄聖闘士を買っていたとは翔にとって意外だった。
 潮は以前イルピトアから直接国際電話を受け取ったことがあると言っていたが、鋼鉄聖闘士三人のことは十分に調べが付いているということらしい。

「もちろん誉めたんだよ。
 鋼鉄聖闘士の一人ならば、確かに相手にとって不足は無い。
 全力を以て撃破するのみ。
 俺は赤輝星闘士クリムゾンスタイン、隼座ファルコンのフュリウ」

 その星座通り、フュリウの星衣には背に大きく広がる翼があった。
 聖衣には無い星座である。

「同じく赤輝星闘士、炉座フォルナックスのルディークだ」

 ルディークは慣れた手つきで、右手に灯火を掲げ、散らばらせるようにそれを握りつぶした。
 一見にして何を得意とするか告げるものである。
 それを確認したフュリウは苦笑しながら言葉を続けた。

「ただし、断っておくがこっちのルディークをただの赤輝星闘士と思わない方がいいぞ。
 赤くない炎なぞ燃える気がしないというだけの理由で、未だに赤輝星闘士に留まってる馬鹿だからな」
「馬鹿とは心外だな。
 単にゼスティルム様らとは見解の相違があるだけだ」

 なるほど、と翔は納得した。
 こちらについての情報を握っている分、自分たちの情報も隠しておくつもりは無いらしい。

「百聞は一見に如かず、いくぞ……!
 レッドヒート・ファーネス!」

 ルディークの星衣が瞬時にして赤熱と呼ぶに相応しい赤に染まった。
 同時に、加熱されて膨張したルディークの周囲の大気が爆風となって翔に吹き付ける。
 翔はとっさに顔をガードしつつ、アームパーツを使うべきかどうか一瞬悩み、ここは温存しておくべきと判断した。
 だが、そのガードの間にフュリウの姿が眼前から消えていた。

「!?
 ……上かっっ!」
「その通り!さすがは貴様も俺と同じく空に舞う者よ!」

 見上げた翔がとっさに目を伏せたその先、的確に太陽を背にして、フュリウの気配があった。
 ルディークの生み出した爆風の上昇気流に乗って跳び上がったのだが、星衣の翼を広げて舞うだけに、その様は跳ぶというよりも飛ぶと言う方が適切だ。
 ルディークの手助けがあるとはいえ、人間にここまでの飛行がよくぞできるものだと思わされるほどの動き。
 さすがは隼といったところか。  それは、この翔に匹敵する……!

「グライディング・フェザー!」

 翼を広げ、足先のパーツを爪のように広げ、翔目掛けて急降下して来る。
 だが、貴様も、と言われて地上に留まる理由も無い!

「いいだろう!」

 聖衣を展開している時間はないと判断した翔は、装着形態のまま鋼鉄聖衣スチールクロスの能力を全開にして飛び上がった。
 上昇と降下が激突すれば、当然にして降下する方が有利だが、翔はその分の不利を、地を蹴る瞬間の狙いで補った。
 空中ではどうしても動きが制限される分、撃ち落とす方としては、軌道を瞬時に計算することで正確な対空の一撃を加えることができる。

「スチール・ワールウィンド!」

 拳の一撃というよりも、ねじりこむその動きは体当たりに近い。
 しかしその狙いが正確であることは、フュリウにもすぐに察せられた。
 翼を操るためにガードが甘くなった胸元を狙っている。

「さすがよなっ!」

 フュリウは、激突の寸前にわずかに翼をよじって軌道を変え、翔の顔面へ向けて脚の爪を繰り出した。
 交錯はわずかに翔が上回ったが、脚と腕ではやはり長さの分だけ脚を繰り出した方が強い。
 実質、激突は互角。

「ぐあっっ!」
「ぐおっっ!」

 互いに激突した方向と反対方向に吹っ飛ばされる。
 翔の落下点には、当然のようにルディークが詰めていた。

「食らいなっ!!レッドヒート・ブランディング!」

 落下する前の身動きが取れない瞬間を狙ってきたのは、赤熱した拳……ではなく、掌底でもなく、あえて言えば掌握とも言える攻撃だっだ。
 翔が辛うじてガードしたかと思った左腕に、沸騰するかのごとき右手が叩きつけられる。

「がああっっ!!」

 さらに衝突の瞬間に、ルディークは右手の指でスカイクロスを握りつぶしかねないほどの握力で掴み上げた。
 足が宙に浮いては踏みとどまることもできずに、熱圧拳の威力を受けて吹っ飛ばされた。
 飛ばされた先には女神の泉の建物がある。
 このまま吹っ飛ばされて自分で女神の泉を壊すわけにはいかなかった。
 スカイクロスの飛行能力を最大にして逆制動をかけ、辛うじて壁の前で停止する。
 さすがに着地までは制御できず、その場に顔面から倒れ込んだ。

「さすがだな、ルディーク」
「……そうでもない」

 こちらは吹っ飛んだものの悠々と着地したフュリウがかけた声に、ルディークは苦い声で答えた。
 さきほど片手で翔を吹っ飛ばしたその右手の具合を確かめるように二度三度と握り直す。

「どうした?」
「少し筋を傷めたらしい。
 俺が掴み上げた瞬間に、逆の腕で捻り上げられたようだ」
「あの交錯でか……」
「こんな関節技は聖闘士の戦い方には無いはずだ。
 お前たち鋼鉄聖闘士ならではの技と見たが、どうだ」

 ルディークの問いかけに、起きあがった翔は、微かに唇を上げただけの笑みで答えた。
 鋼鉄聖闘士は小宇宙を燃やすことができないため、聖闘士の基本である原子を破壊するということができない。
 その代わりを求めて、この地上に存在する格闘技を片っ端から検討し、使えると判断したものはとにかく習熟した。
 空中戦を得意とする翔でも、投げ技極め技は大地に教えられて修めている。
 ギガントマキアにおける巨人たちでも無い限り、相手するのが人間ならば聖闘士でも何でも適用可能だと考えたのだ。
 あるいは、人体と形を同じくする神々が相手でも。

「なるほど、これが現代の聖闘士か」

 臆してはいないぞと告げる代わりに、ルディークは再び手のひらに炎を灯らせて握りつぶした。

「ならば悠長なことはやめだ。
 二対一、悪く思うなよ!」

 フュリウの言葉を合図にして、二人同時に地を蹴って翔に襲いかかった。
 左右から同時に拳が繰り出される。
 だが、タイミングを計っている為、動きはさきほどよりも読みやすい。
 予め言われたように、食らうとまずいのはルディークの拳の方だと判断した。
 読み切った動きに合わせてルディークの方に踏み込んで、タイミングをわずかにずらす。
 鼻先スレスレでその拳をかわし、身をかがめつつ足をさばいて、そのボディに拳を叩き込む。

「隼を舐めるなっっ!」」

 だが、ずらしたはずの動きより、フュリウの対応が速かった。
 拳では間に合わないと見るや、限界まで伸ばしたような足の爪先を、翔の拳がルディークにヒットする寸前に、翔の右脇腹に叩き込んだ。

「ファルコン・ストライク!」
「がっっ!……飛ばされて、なるかあっっ!」

 翔は血反吐を吐きながらも、蹴飛ばされる前にその脚を抱え込んだ。
 予想外の動きにバランスを崩したフュリウを、両脚で蹴り上げる。
 狙いは先ほどの逆で、フュリウをルディークに向けるつもりだ。
 直後に空に跳び上がり、フュリウがルディークに激突するように角度を狙って、フュリウの胸部に全体重を載せた蹴りを叩き込む。

「……くっ!」
「スカイ・ハイ・ウインド!」

 星衣の破片を撒き散らせつつ、フュリウはルディークにぶち当たった。
 さすがにこれを叩き落とすわけにはいかず、ルディークは倒れながらもなんとかフュリウを受け止めた。

「……生きているか?フュリウ」
「ああ、なんとかな……」

 ふらついてはいるものの、フュリウはなんとか立ち上がることができた。
 衝突の瞬間に、翼を羽ばたかせることで、空中にいながらわずかに身体を引いたためである。
 でなければ今の一撃で倒されていただろう。

「……惜しいな。
 お前ほどの男が、正規の聖闘士として扱われぬとは……」

 星衣を砕かれてアンダースーツまで破れた自分の胸部を確認し、フュリウはしみじみと呟いた。

「まったくだ。
 自分の境遇に疑問を持ち、アテナを恨んだことはないのかお前は」
「アテナを裏切って星闘士にでもなれというのか。戯れ言を」

 相槌を打ったルディークの言葉が勧誘じみたものだったので、翔は先手を打ってきっぱり断ることにした。
 それを聞いた二人は、見合わせた顔に苦笑を浮かべた。

「戯れ言だと、どうして言える?」
「真の聖闘士ならば、たとえ死しても敵の走狗になどなりはしない。
 それは偉大な黄金聖闘士たちが、名誉も名も命さえも捨てて、俺たちに残してくれた魂なのだからな」
「アテナの恩寵深き黄金聖闘士ならばそうだろうが、あいにくと、戯れ言ではない」

 そこでルディークの声から笑みが消えた。

「現にイルピトア様は、かつて聖闘士であった者を召し抱えていらっしゃる」

 翔は、何を言われたのか理解するのに数秒を要した。
 イルピトアの名前はわかる。
 以前アステリオンらを一蹴した、星闘士のナンバー1、アルゴ座の青輝星闘士。
 エリス復活直後に、潮を通じて青輝星闘士のマリクに命令を下していたところを見ると、実質的に星闘士を束ねているのはイルピトアであるらしい。
 その男が、聖闘士であった者を、召し抱えた……?

 にわかには信じがたいその内容だが、茫然自失となったその数秒にフュリウもルディークも不意打ちを仕掛けてこなかったことが、否定しきれないだけの信憑性を与えていた。

「……馬鹿な」

 辛うじて絞り出した声は、ずいぶんと月並みな言葉になった。
 冷静に考えてみて、あり得ないことだ。

 今この聖域には生き残った聖闘士のほとんどが集結している。
 エチオピアとジャミールに派遣された新人の青銅聖闘士を除けば、ここにいないのは日本で沙織さんを守っている瞬と、アスガルドに行っている氷河、相変わらずどこにいるのかまったく不明な一輝ぐらいか。
 一輝たちが裏切るなど、天地が逆さまになってもあり得ない。
 誰も裏切ってなどいないはずだ。
 それとも、アステリオンが把握していない聖闘士がいるのか。
 いや待て、エリスに拐かされたジュネがいる。
 だが、イルピトアはエリス復活直後にわざわざ潮に連絡を入れているくらいだから、エリスと結びついているとは考えにくい。
 あり得ない……どう考えてもあり得ない……。

「信じるも信じないもお前の勝手だ。
 俺もそいつが元聖闘士だと聞いているが、証拠を見せられたわけではないんでね」

 そこで悩み込んだ翔に肩すかしを食らわせるように、ルディークは話を切り替えて、言葉で一息に踏み込んだ。

「で、質問に答えて欲しいものなんだがな。
 お前は、アテナを恨んだことはないのか?」

 その一撃をはぐらかすことは難しかった。
 二人は本気で翔を勧誘するつもりらしい。
 真面目に答えなければ失礼であろうし、あるいは、真面目に答えなければつけこまれるかもしれない。
 翔はその一撃を受け止め、しばし考えた後、

「無い、な。
 思い返してみたが、あいにくと一度もない」

 自分でも意外なほどすっぱりとした声で、そう答えた。

「どうにも不可解に思えてならん。
 理由を聞かせて貰いたいな」

 フュリウの言い方は丁寧だったが、納得できないものなら論破してやるぞという気配が言外にあった。

「実のところ俺たち鋼鉄聖闘士はな、沙織お嬢さんとの付き合いは、時間だけなら星矢たちより長いんだ」
「ほう?」
「星矢達が沙織お嬢さんをアテナであると知る前、いや、沙織お嬢さんご自身がアテナであるということを自覚される前からだ。
 グラード財団に勤めていた多くの警備員の子供のうち、星矢達と同世代になる子供を選び、その中からさらにいくつもの試験を突破して、俺たちは鋼鉄聖闘士の立場を自らの意志で勝ち取った。
 それから、城戸光政翁の命を受けた麻森博士の指示の下、俺たちはアテナのために戦うことを目的として修行を積み重ねてきた。
 そうだ。
 俺たちは今代の聖闘士の誰よりも長く、アテナに忠誠を誓ってきたんだ。
 聖闘士の座に就けないことなど、この道を選んだときからわかりきっていたこと。
 それでもいいと、俺は友たちと誓った。
 同じ鋼鉄の聖衣を纏い、仮初めの星座を背負い、それでも守るべき価値があると自分たちで判断した」
「アテナはペガサス星矢の死から立ち直れず腑抜けたままと聞いているぞ。
 それでもいいとでも言うのか」
「必ず戻られるさ。
 光政翁が亡くなられたときも、あの方は立ち上がって来られたんだから。
 ああ、……極論すればな、俺たちが忠誠を誓ったのはアテナだったが、俺たちが信じたいと思ったのは沙織お嬢さんなんだ。
 アテナであろうが無かろうが、あの方の本質は変わらない。
 地上の愛と正義の為に、グラード財団の総帥として陰に陽に世界を支えてこられたあの魂を、いつまでも失っていられるようなお嬢さんじゃない……!」
『……!』

 フュリウとルディークは一瞬我を忘れて見入った。
 翔の背後に、見えるはずのないアテナの姿を見たような気がしたのだ。
 ただしそれは、絶大な小宇宙を湛えた女神の姿ではなく、真っ直ぐに強固な意志を瞳に湛えた少女の姿だった。
 アテナの小宇宙が憑依したわけでも、スチールクロスが生み出した幻影でも無いだろう。
 ただひたすらに、翔が信じているものの姿を、感じ取らずにはいられなかったのだ。

「……大した、信頼だな」

 ルディークは辛うじてそれだけを口にした。
 この男にこれ以上の説得など非礼だと悟った。
 話はこれで終わりだと告げるように、一度消した炎を再び拳に灯す。
 フュリウも大きな溜息を一つついて両の拳を構える。
 翔も言うべきことは終えたと判断し、精神を研ぎ澄まして二人の動きに応える。
 星闘士二人は今度の一撃で打ち倒すという決意の下で小宇宙を燃え上がらせる。
 赤輝星闘士の小宇宙とはいえ、二人とも、特にルディークの小宇宙は赤輝離れしている。

 それでも、翔は負けるつもりは無かった。
 お嬢様を信じるという思いは、同時にそれを見届けたいという思いでもあった。
 そのためには今、迫り来るこの二人を撃破しなければならない。

「いくぞ翔!我ら星闘士の力、受けてみろ!」
「!!」

 フュリウがルディークのはるか上空に飛び上がり、翔に向かって降りてくるかと思いきや、伸ばした両腕を斜めに傾けて、高速で螺旋を描く。
 内側に向いた翼を立てて、螺旋の回転が大気をねじ曲げていく。

 これは、竜巻か……!?

 そのフュリウの上昇速度が0に到達する寸前に、ルディークは全身から一息に炎を放った。
 フュリウが作り出した竜巻が、一息に紅蓮に染まる。
 その紅蓮の螺旋が、高温で上昇気流を生み、停止し掛けていたフュリウの身体をさらに爆発的に上昇させた。

「何っ!?」

 翔は一瞬ならずとまどった。
 絶対に捉えておけると踏んだはずが、フュリウの姿が竜巻もろとも一瞬で見えなくなったのだ。
 鷹の目というほどでも無いが視力にも自信があったし、スカイクロスは飛行能力の関係から、光学的な遠距離把握能力にも優れている。
 その両方を駆使しても、フュリウの姿が見えないということは、少なく見積もっても数千メートルは飛び上がったということに……!

 その彼方から、光が瞬いた。
 纏った紅蓮の炎が青方変位するのではないかと思わされるほどの猛烈な勢いで、竜巻とともにフュリウが降り落ちて来る……!

「猛きその魂に相応しく、燃え尽きるがいい!」

 数千メートル以上離れていて、フュリウのその言葉が聞こえたわけではない。
 だがその気迫や小宇宙だけで雄弁であった。
 そしてもちろん、その意志に打ち倒されるわけには、

「……いくかあッッ!!」

 スカイクロスの両腕が唸りを上げた。
 ここまで使わずにいたスカイクロスの奥の手だ。
 フュリウの前方、すなわち翔の方向にドリルのように延びていた炎の竜巻が、スカイクロスの両腕に開いたアブソープホールに吸い寄せられ、いや、それだけではなく飲み込まれていく。

「何イィィッ!?」

 止めようとしたルディークが突っ込もうとするが、天空と地上とを繋ぐ竜巻の余波で近づくこともできない。
 元来フュリウが纏っていた炎の竜巻の威力だけではなく、吸い込もうとするスカイクロスの回転力が加わっているのだ。
 当然、支えようとする翔の身体にも、重力加速度を遙かに凌駕する凄まじい圧力がかかる。
 飲み込んでいるはずなのに、捉えきれない回転力が翔をねじ切らんとして叩きつけられ、必死に堪える翔の両脚の背後の地面が幾重にも亀裂を生じて吹き飛び、逃げ切れなかった砂粒が周囲を砂嵐と化した。

「ブラックホールかっ!これは……!!」

 毒づくルディークの目には、翔の姿はさながら星間ガスを飲み込むブラックホールにさえ見えた。
 その畏怖すべき姿のせいか、小宇宙を持たないはずの翔から小宇宙を感じずにはいられないほどに。
 それは、落下しつつ翔に肉迫していたフュリウには、間違いなく畏怖の対象に見えた。

「そんな……バカなっ!!」

 翔に激突する寸前までに、フュリウの纏っていた炎は全てスカイクロスの中に吸い込まれた。
 その竜巻が有していた回転力とともに。
 驚愕の表情のまま、それでもフュリウは翔目掛けて落下してくる。

「食らえ……、スチール・ハリケーン……!!」

 両の脚で思い切り地面を蹴って、そのフュリウを迎撃せんと跳び上がった。
 既に亀裂が生じていた地面は耐えきれずに崩壊する。
 それだけでは足りないと、スカイクロスの飛行能力をフルに作動させた。
 本来ならば潮とともに相手を囲む円の動きを、今は自らの回転にのみ転化して、地上から天へと突撃する。
 さらにスカイクロスに蓄えたエネルギーのうち、回転力だけを開放して、本来の動きを倍増させた。

 逃げる余裕などなく、そして、あっても避けなかっただろう。

「ガアアアアアアァァァッッッッ!!!」

 相対速度で威力を四倍にしたスチールハリケーンの直撃を受け、フュリウは星衣をことごとく破壊されて吹っ飛んだ。
 岩陰の向こうに姿が消え、数秒して岩が砕ける音が響いてきた。
 確認しつつ、翔はルディークの元に降りる。

「次はおまえだ、ルディーク」
「……どうかな」

 フュリウの落下した方向を睨み、気配が感じられなくなったのを確認してなお、ルディークは臆した様子もなく翔に向き直った。

「ずいぶんと余裕だな。既に一対一だというのに」
「ああ、既に詰んでいる」
「……何?」

 そのルディークの声をトリガーにしたかのように、スカイクロスのサンバイザー部分に赤字の警告が表示された。
 同時に耳元に警告音が生じる。
 表示は……、高熱警報!

「バカなっ!」

 スカイクロスはあらゆるエネルギーを吸収できる。
 もちろん、炎の熱エネルギーを吸収する実験は何度もやってきている。
 この程度の熱量で限界に達するほど柔ではないはずなのに……!

「たかが炎と甘く見たな、翔。
 この炉座フォルナックスのルディークの作り出す炎は、そう容易く消えるものではない。
 わずかな火種さえあれば、燃焼物など無くてもこの俺の燃えさかる小宇宙によって再び燃え盛らせることができるのだ」
「まさか……スカイクロスの中で……!」

 スカイクロスの冷却能力をフル回転させても到底追いつかない。
 纏っている皮膚の表面が焦がされてチリチリと煙を上げ始めた。

「この俺のたぎる小宇宙を吸収してただで済むと思ったのが大間違いだ。
 いかに聖闘士や星闘士との戦いを想定して作られたとはいえ、その聖衣、所詮は人間の世界のもの。
 無限に近い熱容量を持つオリハルコンのようにはいくまい。
 内側から高温に熱せられたその聖衣、もはや纏っていることもできまい!」
「むううぅっ!!」

 確かにこのままでは、高温になったスカイクロスによって焼き焦がされてしまう。
 いやそれ以前に、たて続く警報が示すように、機能の大半が高熱で麻痺していては、纏っていてもどうにもならない……!

「くそおおおっっ!!」

 やむなしと判断した翔はスカイクロスを身体から離脱させた。
 同時に、内部に蓄えていた熱エネルギーを放出させつつ、独立飛行形態で上空へとすっ飛ばした。
 冷却媒体を搭載していない以上、空冷でなんとかスカイクロスの機能を生き残らせるための緊急冷却を試みたのだ。
 だが、そう容易くは冷えないだろう。
 その間待っていてくれる相手ではない。

「終わりだな。
 機械の力を以て戦うお前たち鋼鉄聖闘士にとって、聖衣を脱ぐことは防御力だけではなく攻撃力においても致命的なはず。
 今度こそとどめを与えてやるぞ!」

 身体の前で向かい合わせにしたルディークの両手の間に炎が灯り、彼の小宇宙の増大とともに輝きを増していく。
 この一撃で勝負を決するつもりなのは、文字通り火を見るより明らかだ。
 そして、ルディークの指摘は正しい。
 聖闘士は本来、己の小宇宙を燃やして原子を砕くことを闘法の基本としている。
 小宇宙を持たない鋼鉄聖闘士は、それができない分、鋼鉄聖衣の能力でその攻撃面での不利を補っているのだ。
 鋼鉄聖衣が無い今、翔の攻撃力は言ってみれば通常の格闘家のそれとさして変わらない。
 並の人間にオリハルコンを砕くことができるかと問われれば、翔とて迷うことなく無理だと答えるだろう。
 だが、

「ほう、まだ諦めぬか」

 翔は腰を落とし、ルディークを見据えて拳を繰り出すべく構えを取った。

「まだだ。
 クロスの助けを失ったとしても、俺のこの拳はまだ死んでいない……!

 原子は砕けない。
 エネルギーを吸い取る力も無い。
 所詮は青銅聖闘士のサポート役で、そもそも敵を倒すことを期待されていたわけでもない。
 それでも、神話から遠く離れた科学の世界にあっても、ただひたすらに鍛え続けた拳だった。
 人間の世界で、人間の限界に挑み続けた拳だった。
 クロスが無いからといって、この拳が無力になるなどと、自分が決めつけるわけにはいかなかった。
 共に己を鍛え続けてきた仲間との誇りのためにも。

 それらの思いを載せた瞳は、語らずとも雄弁だった。
 その眼差しを受け止めたルディークはフッと笑い、浮かべていた光輝く炎を地面スレスレまで下げた。

「その不屈の闘志、まさしくアテナの聖闘士と呼ぶに相応しい。
 ならばこそ告げておこう。
 この拳は、アーケイン様が星衣を修復される際に、不要な部分を砕き、新たなオリハルコンのパーツを鍛える為の熱を担うものだ」

 炎がルディークの右腕を炙るように加熱する。
 握りしめたその拳に、先ほどの竜巻をも凌ぐ高熱が集中する。

「そうだ、星衣を鍛えるこの拳をもって、おまえへの最後の餞としよう!」

 アンダースーツだけとなった翔に対して遠距離から炎を打ち続ければ苦もなく勝利を収めることができることは承知の上で、なおルディークは、振るう拳に全力を載せるべく構えた。
 彼我の距離は十五メートルほど。
 星闘士であるルディークにとっては本来ゼロに等しい距離だ。
 この距離から衝撃波を伴う拳を繰り出せば、アンダースーツだけの翔にはもはや為す術はない。

 だが、そうはならないことを翔は確信していた。
 このわずかのひとときで、既にルディークの人格はよくわかった。
 そう言うからには、必ずや彼は生身の拳で決着を付けに来る。

 その確信を証明するように、ルディークの右足の下で砂利が微かな音を立てた。
 その場に立ったままではなく、踏み込むために姿勢を整えていたのだ。

 来る。
 ならば迎え撃つのではなく、こちらも全力で飛び込もう。

 最後にもう一度、視線が交錯する。
 それがお互いにとっての合図となった。

 刹那の差も無く互いの片足が地面を蹴る。
 一蹴、二蹴、三蹴……!
 そこで肉迫し、至近距離で全力を載せた二つの右拳が、完璧なまでに同時に唸る。

 ルディークは勝てると踏んだ。
 たとえ相討ちでも、高熱を帯びた自分の拳の攻撃力は生身の拳の翔とは比べものにならない。
 そして、その拳を受けることになるアンダースーツと星衣との防御力の差も決定的だ。

 翔も無論、そのことをわかっていた。

 ガシャアァァンンッッ!!

 金属が砕け散る音がして、互いの動きが止まった。

「バ、バカ……な……」

 口から溢れる血とともに呟いたのはルディークだった。
 彼の拳は翔に当たっていたが、それが十分に威力を発揮しなかったことはよくわかっていた。
 彼の拳が当たるより早く、翔の拳が彼の首もとに突き刺さっていたからだ。

 遠のく意識をつなぎ止めて、視線を首もとへと向ける。
 彼の星衣の襟元のパーツを粉々にして突き刺さっていたのは翔の拳ではなかった。

「これはまるで……巨嘴鳥のクチバシか……」

 握りしめた拳ではなく、指先まで鋭く伸ばしていたそれは、翔の仰ぐスカイクロスの星座を連想させずにはいられなかった。
 その指の長さだけ、翔の攻撃の方がわずかに早く、そのために、クチバシとなった翔の指先の一点に互いの攻撃の威力が集中し、生身の拳で星衣をも砕いたのだ。

「ビーク・ペネトレイション……。これが俺の、奥の手だ」

 頬に当たったルディークの拳に皮膚を焼かれながらも、翔はルディークを真っ直ぐに見据えて答えた。
 ルディークはフッと笑い、

「見事だ、翔……。
 お前こそまさに、巨嘴鳥座の聖闘士……」

 伝えるべき言葉を紡いで、その場に倒れ落ちた。

「そう、か……」

 続いて翔も、張りつめていたものが途切れ、その場に膝をついた。
 自分でもよくできたものだと思う。
 ルディークが正々堂々と戦ってくれなければ、いや、何か一つが足りないだけで終わっていただろう。
 それでも、生身で星衣を砕いた衝撃で右腕は肩から指先までまともに動かせる状態ではなかったし、全身全霊をつぎ込んだ一撃のために身体中が疲れ果てていた。
 それでも、倒れ落ちることだけは堪えた。

 勝ったのだ。
 星闘士二人を相手に、この女神の泉を守り通した。
 その誇りを、ルディークから贈られた言葉とともに噛みしめる。

 だが、鍛えられた感覚がすぐさま翔を現実に引き戻した。
 遠くからこちらに向けて近づいてくる足音が聞こえたのだ。
 新手だろうか。
 それではこのまま膝をついているわけにはいかない。
 なんとしてでも……

「あ、翔だ」
「……ちょっと待て。なんでお前がここにいるんだ貴鬼」

 現れた老人と子供の二人連れを見て、今度こそ翔は倒れそうになった。
 老人の方はともかく、もう一人はジャミールにいるはずの貴鬼だったからだ。

「まあいいじゃない、気にしない気にしない」
「まったく……。説教はお預けにしておいてやる。とっとと神殿の中に入れ」

 冗談めかして笑っているものの、貴鬼も老人もよく動けると思えるほどの重傷だった。
 とりあえず貴鬼に変わって老人に肩を貸すべく手をとり、そこで老人の顔を資料で見たことがあったことに気付いた。

「貴方は、ギガース参謀長……?」
「わしを知っておるとはな。いかにもわしはギガースじゃ。
 安心しろ、少なくとももう、わしにはお前たちへの遺恨はない」

 かつて星矢たちを狙って幾度も刺客を送り込んだ人物だけにとまどったが、貴鬼が信用しているところを見ると、その言葉を信用してもよいと思われた。

「わしのことより、そこに倒れている星闘士を手当せい。まだ小宇宙が途絶えておらぬ」
「へ?なんで?」
「ルディークを?」

 ギガースは妙なことを言い出した。
 まさかやはり敵と通じているのかと思ったが、それにしてはこんなにあからさまに言うはずは無かった。

 その翔の混乱を察し、ギガースは諭すように話を続けた。

「先ほど貴鬼から聞いておったのだが、我々は星闘士についてあまりにも無知すぎる。
 冥闘士スペクターについてはシオン様より多くのことを教わっておるわしでも、星闘士という名前すら聞いた覚えがないのじゃ。
 おそらくアステリオンも星闘士の何たるかをほとんど掴んでおるまい。
 上にいる者の正体も、彼らの目的もな。
 我々には何としても星闘士の情報が必要なのじゃ」
「それを、彼らから直接聞くと?」
「無論、素直に話すような奴らばかりではあるまい。
 だが、戦いを通じて分かり合えることもある。
 生き残った星闘士を一人でも多く確保し、たとえそのうちの一人でもいいから、協力的な者を得なければならぬのじゃ」

 確かにこうして戦い終えた後、もしかしたらルディークやフュリウとは話が通じるかもしれないという思いがあった。
 吹っ飛ばしたフュリウも、まだ生きているかもしれない。

「ショウと言ったな。
 おぬしは戦っている者たちの加勢とともに、星闘士の捕獲にあたれ」
「しかし、それではここの守りが……」

 ギガースの言っていることは十二分に理解できたが、この女神の泉を守ることを放棄するとアステリオンの戦略を崩すことになってしまう。
 さすがに躊躇われた。
 だが、ギガースの目に迷いは無かった。

「案ずるな、残りの星闘士どもの小宇宙はヨーゼフらが抑えておるのを感じておる。
 ならば、一人たりとて通しはせぬわ。
 奴らとて、儂が育てたアテナの聖闘士よ……!」





 筋肉の壁というべきなのか、それとも執念の壁というべきなのか。

 彼らが纏っているのはたかだか関節や急所を覆っている皮鎧のみ。
 聖域に板金加工技術がないわけではない。
 しかし、私兵聖闘士の纏うオリハルコンの鎧ならともかく、単なる鉄製の鎧などで全身を覆ったところで、聖闘士や星闘士の原子を砕く一撃を食らえば無いも同然である。
 むしろ重みで動きが損なわれてしまい、倒れたときに自分の身体を傷つける恐れさえある。
 しかし、岩盤や壁に激突した際に皮膚が裂けることに対しては、革鎧は金属鎧よりも遙かに効果がある。
 そのため、聖域の雑兵の標準装備は、神話の時代から変わらない皮鎧なのだった。

 だから、その皮鎧が特殊なわけではない。
 鎧のおかげで持ちこたえているわけでもない。
 だが。

「倒れぬ……!何故倒れぬ!
 裸同然の身体に私の拳を受けながら!」

 赤輝星闘士蜘蛛座スパイダーのアドラーが発した絶叫は、その場にいる星闘士一同の心境を端的に表していた。
 まったく効いていないというわけではない。
 確かに少しずつ倒れてはいる。
 大地に倒れ伏す雑兵どもの数は少しずつ増えてはいる。
 それでも、数百はいるであろう彼らは、数が減ったようには到底見えなかった。
 本来生身の身体に星闘士の攻撃など受ければ、一撃で、下手をすればかするだけでも致命傷になりうるはずなのだ。
 聖闘士や星闘士の攻撃力はそれほどまでに高く、そして、防御力はそれに遙かに追いつかないのが神話の時代からの必定であり、ゆえにこそ聖衣や星衣が必須なのだ。
 これは雑兵であっても変わらない事実である……はずだった。

 それが、どいつもこいつも一撃や二撃では倒れることなく向かってくる。
 それどころか、不死身のように倒れない者までいるではないか。
 噂に聞くドラゴンの神聖闘士ゴッドセイントでもあるまいに。
 特に隊長格と思われる数人の耐久力は、星闘士一同の常識を凌駕していた。
 頭を潰すつもりで集中させた攻撃を、ここまで幾度凌いでいるのか、もはや数えるのも諦めた。

「聖衣を持たぬ我らには、この鍛え上げた身体こそが鎧。
 こと生身の耐久力ならば、我ら一人一人は、黄金聖闘士をも上回るのだ!」

 その隊長格の一人、第三雑兵百人隊長ヨーゼフは、アドラーの絶叫を真っ向から受け止めて吼えた。

「その傷でよくそこまでのことが言えるものよ。
 だが、無傷なわけではなく、効かないわけでもあるまいに」

 赤輝星闘士飛魚座ヴォランズのロスカデスは、歯ぎしりを堪えつつ冷静さを保って指摘する。
 隊長格の一人として幾度も攻撃を受けたヨーゼフの全身には既に無数の傷が刻み込まれており、皮鎧も半ば千切れ飛んでいた。
 蜘蛛を模したアドラーの星衣によって付けられた幾つもの裂傷など、半ば拷問じみた傷であり、激痛で立っていることすら難しいはずなのだ。
 それでもなお、彼は倒れない。
 黄金聖闘士をも上回るというその言葉が、自惚れやはったりでないことを証明するかのように。
 遠い何かを思い出すように、自分の血に濡れた右拳を見つめた後で、握り直す。

「フッ、この程度の痛み、ミロのスカーレットニードルに比べれば、どうということはない」
「ほざけ!どう見ても満身創痍としか思えんわ!」

 アドラーは今度こそヨーゼフの息の根を止めんと、肩から延びる蜘蛛の脚たる星衣を展開する。
 美を愛する白輝星闘士蜥蜴座リザドのレイニィの一党だけあって、その動きは迅速でありながら優美であった。
 だが、その動きを見てなおヨーゼフは言い放つ。

「聖闘士に、一度見た技は二度とは通用しない」
「貴様が聖闘士だとでもほざくつもりか!
 くらえ!オクタゴン・シェイバー!」

 アドラーの星衣から延びる八本の脚のそれぞれには、四つの自在関節を経た先端に鉤爪めいた刃を備えており、変幻自在の動きで敵を切り刻むものであった。
 先ほどヨーゼフはこの攻撃を八本全て食らっている。
 ただし、全て急所を外して。
 二度目は食らうはずもない。

「バーミリオン・シザース!」

 胸の前で交差させた両腕を解きほどきながら伸ばしていくのに合わせて、鋭利な小宇宙が交錯していく。
 その動きは、ある種の節足動物の鋏を連想させた。
 アドラーの自在脚のうち四本がこの鋏に囚われ、捻り上げられた。

「く……だが、この程度の小宇宙でこのアドラーの星衣を破壊できると思うな!」
「アドラー!油断するな!」
「!!」

 赤輝星闘士ケフェウス座のフィデックが警告の声を上げる。
 アドラーは逆上のあまり忘れている。
 今自分たち星闘士は、数百からなる雑兵たちを相手にしているということを。

「食らえい!マッスルボマー!」

 ヨーゼフの攻撃でバランスを崩したところを見逃さず、四人の兵がアドラーに肉迫していた。
 指示の一つも無いのに、完璧とも言える連携であった。
 文字通りの肉弾攻撃で、アドラーは避けることすらできなかった。

「貴様もだ、ケフェウスの星闘士よ!」

 一方のフィデックも余裕は無かった。
 彼と正面から対峙しているのは、第二雑兵百人隊長アントニスである。
 アドラーに注意を向けた一瞬に間を詰めて、至近距離で渾身のストレートをフィデックの頬に叩き込んだ。

「兄者!」
「全員、突撃ィッ!」

 四人の星闘士のうちの二人の体勢が崩れたのを好機と見た第一雑兵百人隊長アレクサンドロスは、弟であるアントニスの声に応じて、ここぞとばかりに一斉攻撃の指示を出した。
 連なる皮鎧が、褐色の波濤のごとく星闘士たちに押し寄せる。
 その波濤から、飛沫の如く無数の拳が繰り出される。
 マッハに届かない拳など、本来星闘士にとって避けるのは造作もないが、それら拳の数々のうち、幾つかは明らかにマッハを超えている。
 かわし損ねて体勢が崩れると、そこへ幾百の拳が集中し、果ては味方の拳に巻き込まれるのも厭わずにタックルを仕掛けてくる者もいた。
 必死どころか、決死の覚悟が無くてはこのような戦い方などできはしまい。
 だがその戦術は、確かな効果を上げつつあった。

「ぬううっっっ!!」

 最初に肉迫した四人をどうにか吹っ飛ばしたアドラーだったが、続きを迎え撃とうと繰り出した蜘蛛の脚の残り四本が、直接脚にすがりついた八人の雑兵によって動きを封じられる。

「まずい……、ハルアート!」
「調子に乗るな……雑兵ども!」

 この場にいる星闘士の中では一応のリーダー格である飛魚座のロスカデスはこれを危機と察した。  指示を出された赤輝星闘士琴座ライラのハルアートが、手にした竪琴の弦に指を一閃させる。

「サラウンド・スプラッシュ!!」

 弾かれた弦が大気を弾いて、空域全てに幾重にも反響する旋律を紡いだ。
 その旋律を増幅させるハルアートの小宇宙が変光星の放つ光の如く激しく増減し、周囲全ての人間を共振させる。

『うああああああああああああっっっっ!!』

 全方向敵味方全く容赦しない攻撃だが、星闘士たちはハルアートのこの攻撃に慣れていた。
 そして、やはり、星衣のフル装備と皮鎧では、根本的に防御力が違いすぎる。
 星闘士たちは即座に体勢を立て直したが、聖域側の兵たちのほとんどはこの攻撃で一時的に麻痺状態になった。

「ガーネットスター・アラベスク!」

 その隙を逃さず、フィデックが無数の拳を放つ。
 ケフェウス座が有する著名な変光星の名を冠した拳は、マッハ未満からマッハ5まで緩急差が著しく、単純に高速であるよりも回避を困難なものにしていた。
 彼と至近距離で交戦していたアントニスは、驚異的な反射神経でこれを見切るより先に避ける。
 だが、フィデックの目的はアドラーの八本脚に取り付いている雑兵たちを引き剥がすことだった。
 マッハ未満の拳が当たったところで星衣は破損しようがないが、大きく揺らすことはできる。
 それによって体勢が揺らいだ者たちを、本命ともいうべき最速の拳で叩き落としていった。

「散々、好き勝手をしてくれたな……」

 自由を取り戻したアドラーは、残虐な笑みを浮かべて蜘蛛の八本脚を展開する。

「私の美しい脚にまとわりついた報いを受けさせてやるぞ!」
「させるかあっっ!!」

 ヨーゼフへ向けたアドラーの殺気に危険なものを感じたアレクサンドロスは、横からカットに入ろうとする。
 ヨーゼフも隊長格だが、第一隊長であるアレクサンドロスの方が経験上も格上であり、フォローも彼の役目だった。
 が、その前に影が入り込んだ。

「行かさんよ。
 どうやらこの中ではお前が最強と見た……!」

 空中で一回転し、華麗に両脚を伸ばして着地するロスカデスの動きは、おそらくは水面に戻る飛魚を模したものなのだろうが、身長2メートルを超える巨躯だけに、シャチの突撃にしか見えなかった。
 着地に振り下ろされた両脚は、叩きつけられる尾びれさながらで、アレクサンドロスはスレスレで地を蹴って横に避けざるを得なかった。
 それだけあれば、星闘士には十分な時間であった。
 ヨーゼフらを狙ったアドラーの星衣が満を持して閃く。

「オクタゴン・バスティール!!」

 拳ではなく、刃の嵐がヨーゼフを中心とした一帯を襲った。、

『うああああああっっ!!』

 切り裂く攻撃に対しても皮鎧は効果が薄い。
 周囲にいた面々はプロテクターを撒き散らされながら派手に吹っ飛ばされることになった。
 足下に盛大な轍を作りながら堪えたヨーゼフも、全身のプロテクターがほとんど用を為さなくなっている。
 それでも、堪えられたことにアドラーは不満げであった。

「しぶといな、貴様。
 名を聞いておいてやろうではないか。
「第三雑兵百人隊長ヨーゼフ。
 蠍座の聖闘士のなり損ないよ」
「なり損ないの死に損ないか。
 ならば大人しくやられておればよいものを。
 だが、次でとどめだ。
 聖衣の無い身では、いかな貴様自身の身体が頑強といえど、もはや耐えきることはできん!」
「そうだな……やはり星衣の差は大きいか。
 生半可な技では倒しきれないな」

 そうつぶやいたヨーゼフの声に、必殺技を繰り出そうとしたアドラーの動きが止まった。
 言いしれぬ戦慄を覚えたのだ。
 そして、死に損ないの男からとは思えないほどの小宇宙が。

「アレクサンドロス……許可を」

 キッと持ち上げられた眼差しが、第一隊長たるアレクサンドロスに向けられる。
 その意味は、言わずとも知れたことだった。
 一瞬、逡巡した後、アレクサンドロスは弟にして第二隊長たるアントニスと頷き合い、答えた。

「ならば、私もいくぞ!」
「心得た!いくぞ星闘士ども!」

 ヨーゼフがさっと手を上げると、その場に展開していた雑兵たちは、二人一組となり、一人が組んだ両手に、もう一人が足を掛けた。
 アレクサンドロスも、アントニスに向かって突進する。
 その場全域が、まるで生まれ始める銀河の中のように、盛大に高まる小宇宙に満たされていく。

「なんだ、これは……!」
「我ら全員、流星となって敵を撃つ!」

 瞬時にして、足を掛けていた者たちが遥か上空へ跳び上がった。

「オオオオッッッ!!?」
「これは……星天か!?」

 天高くなっていた太陽を背に、その太陽さえかき消すほどの盛大な小宇宙の煌めきが全天に満ちる。
 星座を背負う星闘士たちにさえ、それは星座に見えた。
 その星座たちが、天そのものの落下のように落ちてくる。
 星になれなかった男たちが眩しい光を纏い、流星雨となって降り注いでくる!

「まずいッ!!止めろォッ!!」

 その威力の程を察したロスカデスの号令以下、星闘士たちは天に向けて星々を迎え撃った。
 畏怖と共に眉間を伝う汗があったことは否定できない。

「スパイダーウェブ!」
「エチオピア・キングダム!」
「ストリンガー・サラウンド!」
「ブリリアント・タイド!!」

 だが、その畏怖ゆえに忘れていることがあった。
 跳び上がったのは雑兵たちの半分に過ぎない。
 彼らを天に舞わせた残りの面々は、未だ地上にいるのだ。
 第二隊長アントニスは、星闘士たちの隙を逃さなかった。

「撃ち落とさせはしない!俺たちの星を!」
「天を仰いで地を忘れるか、星闘士たちよ!」
「何ィッッ!?」

 流星たちを援護するように、地上からも幾多の拳が殺到する。
 聖闘士になり損なったとはいえ、敗北以来決して修行を怠りはしなかった拳だ。

『ウオオォォォッッッッ!!?』

 体勢が揺らいだところへ、星闘士たちの拳を耐えきったアレクサンドロスを先頭に、流星たちが着弾する。
 アレクサンドロスは星闘士四人のリーダー格と見たロスカデスを狙っていた。

「バカな……どうやって!」

 自分たちの拳を切り抜けた流星たちの先頭にアレクサンドロスを見たロスカデスは目を見張った。
 アレクサンドロスは誰よりも高く跳び上がっていたはずだった。
 それが、誰よりも早く速く落ちて来るはずがないのだ。
 まるで天空そのものを蹴ってきたかのようだ。
 だが驚愕している間もなく彼らが迫る。

「ぬうううっ!」

 必殺技ブリリアント・タイドを放った直後で硬直した身体を叱咤し、ロスカデスはスレスレのところで華麗にステップを踏み、アレクサンドロスの体当たりを回避した。

「残念だったな!」
「…いいや、残念だったな!」
「!?」

 流星が地上に着弾すればどうなるか知れたこと。
 スレスレでかわしても意味がないのだ。
 隕石と化したアレクサンドロスによって、ロスカデスの足下で大地を砕く巨大な爆発が起きた。
 それに続く雑兵たちが、ところ構わず次々と隕石となって炸裂する。

「何だ、これはあああああああっっっ!!」
「砕け散るか……ッ!星々…!」

 爆発が爆発を呼び、重なり合った爆発が一つの巨大な爆発となって星闘士全員を飲み込んだ。
 重なり合ったクレーターの生成に岩盤が耐えきれなくなり、地の底さえ見えない地割れを作り出していく。
 爆発を形作った聖域の兵たちは、その爆発の光の中で新たに生じた渓谷の彼方に次々と消え入った。

 だが、爆風に巻き込まれた星闘士たちは、それでも地割れに落とされるのを辛うじて堪えていた。
 それぞれが何カ所か星衣を砕かれ、全員が例外なく吐血しながらも、それでも四人全員がなお倒れることなく立っていた。

「凌いだぞ……!」
「これで、終わり……何!?」

 体勢を立て直し、地上に向き直ろうとした彼らは、上空から感じる小宇宙を無視できず、再び天を仰ぐことになった。
 そこには、満身創痍の身体に、燃え尽きる寸前の小宇宙を全力で燃え上がらせたヨーゼフが、星闘士たちを見下ろしていた。
 アレクサンドロスたちのように頭から落ちてくるのではなく、地面に対して真っ直ぐに相対し、太陽を背にしたその姿勢は、彼の最大の必殺技の構えだった。
 十四年前は未熟極まりなく、ミロに打ち砕かれた必殺技だ。
 その無念と悔しさを、一日たりとて忘れることなく、磨き上げ、鍛え上げ続けていた技だった。
 万感の思いを込め、全力を以て、その技を放つ!

「バーミリオン・テイル!!」

 真紅に燃え立つ小宇宙を纏った右腕が、蠍の尾のようにしなりながら、星闘士四人全員を捉える曲線を描いた。

『ガアアアアアアーーーーーッッッッ!!』

 アドラーが残っていた二本の脚を星衣本体もろとも粉々に破壊され、
 ハルアートが竪琴をかばった左腕をボロボロにされたあげく、弦を12本中7本まで断ち切られ、
 フィデックはケフェウスのマスクと右肩のパーツを真っ二つにされたあげく膝をつき、
 ロスカデスは飛魚の左右の羽パーツを砕かれて前のめりに倒された。

「見たか……ミロ……」

 そう呟いて、ヨーゼフはぐらりと、空中で体勢を崩した。

「ヨーゼフ!」

 アントニスが助けようとするが、大地に開いた巨大な地割れの反対側では届きようがなかった。
 それでも執念か、ヨーゼフは落下途中の崖際で手を伸ばし、ズタボロになったアドラーの頭を掴んで抱え込んだ。

「きさ……まぁっっ!」
「一緒に来て貰うぞ、アドラー!」
「やめ……ろォォォォッッ!」

 振り払うことができなかったアドラーも崖から脚を踏み外し、二人揃って渓谷に吸い込まれるように消えていく。

「ヨーゼフゥゥゥゥゥゥッ!!」

 アントニスの絶叫が、生じたばかりの渓谷に木霊していくが、答えは無かった。
 そのアントニスに、背後から声が掛けられる。

「恐るべき男たちだった……」
「うむ、とても雑兵とは思えぬ。
 聖衣さえ身に纏っていれば、我らは今頃とうに全滅させられていたであろうな……」
「く……!」

 フィデックとロスカデスの二人であった。
 既に星衣は星座の型を止めぬほど破壊されているが、それでもさすがに正規の星闘士の纏う星衣だけあって、あの爆発の中でも持ち主の身体を守りきったらしい。
 急所を含む胸部の主パーツはまだ原型を止めていた。
 あと一人、地割れの対岸にいたハルアートは、竪琴を使って最大限に防御を展開したのか、こちらはまだ星衣が星座の原型を止めていた。

「貴様等の執念、とくと見せて貰った。
 だがこれで最後だ。
 このハルアートの音楽は、五弦もあればまだ死んではいない!」

 回りに味方がいなくなったことで、一切の遠慮は不要となったハルアートの指が、驚異的な数の音符を激しく奏でていく。
 地上に残っていた聖域の兵たちは地割れで二手に分けられていたが、ハルアートは此岸にいる兵たちの残り全てを一息に片づけるつもりでいた。
 既に二人の隊長はいなくなり、残りの隊長格であるアントニスは対岸となれば、残る面々など一人で片づけられると踏んだのだ。

「聴け、このハルアートの最強の調べを!エクセレント・メロス!」

 五弦から紡がれる旋律とは思えないほどの威力がハルアートの周囲全方向に繰り出される。
 だが、周囲にいた聖域の兵たちはそれから逃れようとするのではなく、ハルアートに向かって一斉に殺到した。

「バカな!この旋律の中で!!」
「あいにくと俺たちは、音楽を聴くような風流な耳ではなく、拳の風音を聞き分ける耳しか鍛えていなくてな!」
「そんなバカな理屈でこの私の旋律をかわそうなどと!!」

 音圧に最後まで耐えきった六人が、ハルアートに肉迫する。
 ハルアートは五弦の先端を伸ばしてそれぞれを迎撃しようとする。
 一弦、足りなかった。

「ウイング・アンギュレイション!!」

 弦をかいくぐった一人が繰り出した爪先が、ハルアートの竪琴本体を真っ二つに砕き、胸部の星衣までも砕いた。

「ガハアッッ!」
「やった……!俺でも星闘士を……」
「喜ぶのは、早い……っ!」

 吐血し、ぐらりと傾きかけたハルアートだったが、執念で踏みとどまり、自分の心臓の間際に突き刺さった兵の脚を掴んだ。
 殊勲の一撃を放ったと思った男は、離脱しそこねた。

「名を……聞いておいてやろう……このハルアートを殺した男の名を……」
「エーリッヒ……、俺の名は、エーリッヒだ……!」
「エーリッヒか……墓に刻むにはよい名だ!」
「!!」

 一瞬、エーリッヒは何が起こったのかわからなかった。
 ハルアートの右手の爪が束ねられて伸び、その先端が自分の胸に突き刺さっていた。

「約束しよう……、新たな冥界でも、貴様の名は忘れぬと……な」

 瞳から光が失われ、エーリッヒに突き刺さした爪を半ばから折りながら、ハルアートは今度こそ力尽きた。

「ちく……しょう、星矢、お前みたいには……」

 エーリッヒは虚空に手を伸ばそうとして果たせず、ハルアートに折り重なるようにしてその場に倒れ落ちた。

「……まさか、ハルアートまで倒されるとは」
「決して手を抜いてなどいなかったが、雑兵などと侮ったのが我らの不覚か」

 ハルアートと合流しようとしたところを、アントニスらに阻まれていたロスカデスとフィデックは歯ぎしりして悔やんだ。

「だが、その執念もここまでだな。
 もはやお前たちに我ら二人を倒しきる力は残っておるまい」

 アントニスを含めても、此岸に立っている者は既に30名に満たない。
 その誰もが無傷とはほど遠い有様だった。

「残る手練れは、アントニスとか言ったな、貴様一人と見た。
 我が最強の一撃でその命、吹き飛ばしてくれる……!」

 ロスカデスがその巨躯に小宇宙を燃え上がらせる。
 その星座たる飛魚さながらに、全力で飛び込んでくることは明かだった。
 だが、

「まだ私は終わっていないぞ、ロスカデス!」
「何!?」

 今にも地を蹴ろうとしたロスカデスの右足首を捕まえたものがあった。

「貴様、頭から落ちる自滅当然の技を仕掛けておいて……まだ!」
「元よりこの皮鎧は大地から身を守るためのものに過ぎない。
 だが最後の一線で我らを守る鎧となる……それゆえに、我らはこの鎧を手放さないのだ」

 血にまみれ、ボロ布と化したヘッドギアをなお被ったその人物は、谷底から這い上がってきたアレクサンドロスだった。

「無様な……その身体で何ができる!」

 頭だけではなく、アレクサンドロスの全身は爆風に焼かれ、左腕は明らかに折れていた。
 皮鎧はヘッドギアの端と、ベルト程度しか残っていない。
 だが、その瞳も小宇宙も、決して死んではいなかった。

「何でもできるとも。
 たとえわずかでも小宇宙が燃えている限り、どんな逆境からでも立ち上がることができるのだ!」

 ロスカデスの右足を引き寄せるようにして、アレクサンドロスはゆっくりとだが立ち上がろうとする。

「見苦しいぞ、素直にあのまま死んでおれば美しかったものを!」

 中腰になったアレクサンドロスの顎に、ロスカデスの左膝が叩き込まれて吹っ飛ばされた。
 だが、まだ動く右腕で受け身を取り、距離を取ったのを幸いにして身体を起こす。

「恐るべき覚悟と執念よ。
 だが、……解せぬな。
 聖衣を授けるのは教皇の役割と聞いた。
 何故あの男やお前たちは聖衣を与えられていない?」

 問われたアレクサンドロスは、ロスカデスが何を尋ねているのか判断に窮した。

「倒しておく前に私も聞きたいくらいだな。
 貴様も然り、ヨーゼフとか言ったあの男も決して雑兵などと軽視してよい男ではなかった。
 ややもすれば、なりたての青銅聖闘士よりは遙かに強いのではないか。
 それが何故、雑兵如き立場に甘んじているのか」

 フィデックが構えを解いてまで尋ねてきたことで、ようやく彼らの意図を理解した。

「まさか、初めから望んで雑兵になった者など一人もおらんさ」
「フッ、なった後は望んで続けている酔狂な奴らばかりだがな」

 第一隊の副隊長であるウェインがいくばくかの溜息混じりに回答すると、その隣にいた第三隊の平隊員であるレンダイクが一同を見渡しつつ自嘲めいた口調で、しかし確かな誇りを滲ませて付け加えた。
 この中でレンダイクだけは、アテナが聖域に乗り込んできた折りにそれを害そうとした過去がある。
 その心を受け取るようにアレクサンドロスは一瞬瞑目してからロスカデスに向き直る。

「そうだ、ここにいる全ての男が、かつては聖闘士となることを夢みていたものよ」

 神話の大地たるギリシャに生を受け、聖闘士の伝説を聞かされて育ち、己が人生の全てを賭けて聖闘士候補生となった日々のことを振り返る。
 血の滲むような、などと呼べるような生やさしい日々ではなかった。
 同じく修行を続けていく中で、一体何人の同期生が命を落としていったことか。
 それでも、聖衣を手にし、聖闘士となるために、ひたすらに己を鍛え上げた日々だった。

「かつては、か。
 諦めたのか。
 それだけの気概を持つお前たちが」

 その無念さをまるで自身のことのように感じているのか、眉間に皺を寄せてロスカデスが重ねて問うてきた。

「仕方があるまい。
 同じ時代に一つの星座に聖闘士は一人だけ。
 それが神話の時代からの慣わしであり、それがために先人たちは聖衣を手に入れるために全身全霊をかけて競い上げてきた。
 ゆえにこそ、聖衣を手にしたただ一人の者はその時代にその守護星座を代表する聖闘士として、確かな力でアテナのお役に立てるようになって来たのだから」

 たった一人の聖闘士を選ぶために、数十人、あるいはそれ以上の数の候補生の無念を積み重ねた。
 その無念をくぐり抜けて聖闘士となった者は、確かに選ばれた者だった。

「俺たち全員、そんなことは最初から覚悟の上だった」

 アントニスの言葉に、一同は等しく頷く。
 悔しさも無念さも量りようがないほどであっても、聖闘士となった者を恨んで何になろう。
 最も相応しき者が聖闘士となって戦うことこそ最上の選択に他ならないのだから。

「そう、知れたこと。
 同じ守護星座を背負い、同じ聖衣を争った中に、我らより相応しい者たちがいただけのことだ」

 アレクサンドロスは自らの拳を見つめて、近くはない過去を振り返る。

「私は十六年前にアイオロスと射手座の聖衣を争った最後の一人。
 弟のアントニスは十四年前にアイオリアと獅子座の聖衣を最後まで争った四人のうちの一人だ」
「あの、黄金聖闘士たちとか……」

 星闘士たちは聖闘士の基本的な情報をほとんど把握している。
 その名だけで、ロスカデスもフィデックもその意味するところを察した。

「私だけではない。
 ここにいる皆が似たようなものだ。
 あのエーリッヒは、神聖闘士となる星矢と最初に戦って敗れた男だ」

 さすがに驚愕して、二人の星闘士は対岸に倒れたエーリッヒに目をやった。
 なるほど、ハルアートと差し違えたときに、奴は確かに星矢の名を呟いていた。
 その蹴り技も、ペガサスの聖闘士となることを夢見て編み出したものだったのだろう。

「最たるのがヨーゼフだろうな。
 あいつは、ミロと蠍座の聖衣を争った最後の戦いの折に、その後ミロがキグナス氷河と戦うまでただ一人となる、十四発のスカーレットニードルを受けた男よ」

 そう、ミロにアンタレスを打たせたのはキグナス氷河が最初の一人だが、それより以前にミロが最も多くのスカーレットニードルを打ったのは、聖衣を手にする際の戦いだった。
 8発も食らえば発狂すると言わしめたあの技をギリギリまで耐え抜き、勝っているはずのミロを戦慄せしめ、教皇シオン自らが止めた戦いを、アレクサンドロスはこの目で見た。
 第三隊長を務めたその実力は、最も聖衣に近かった男だと言える。

「俺は素性を隠していたカノンにやられた口さ」
「アルゴルの必殺技は俺との戦いで開眼したものだった」
「俺はオルフェに手も足も出なかったよ」

 まだ立っていた兵たちは、アレクサンドロスの言葉にしばし過去に想いを馳せる。
 ジャキのように、力がありながら聖闘士になれなかった者は例外中の例外だ。
 ここにいる誰もが、かつて一敗地にまみれたことがある。
 軽口のように紡がれるそれらの言葉の一つ一つに、どれほどの思いと年月が込められていたものか。
 それらを感じ取らずにはいられなかったロスカデスは、感嘆を込めて大きく溜息をついた。

「……もう、いいのではないか。
 お前たちは聖闘士になれなかった。
 それが動かしようの無い事実であるのに、何故この生き方にこだわるのか解らぬ」

 アレクサンドロスは再び首を傾げた。
 フィデックが自分たちを諦めさせて勝利を手にしようとしているのでないことはその小宇宙からわかる。

「その質問の意味がわからんな。
 これが私たちの生き方だからだ」
「我ら星闘士はイルピトア様らのような例外を除けば、生き方を求めた結果星闘士となった者がほとんどだ。
 人間の時代の醜さに耐えられなくなったこの私も然り」

 返礼のつもりなのか、ロスカデスはかすかに身の上らしいことを語った。

「聖闘士になれなかった時点で、お前たちには生き方を選び直す時間も機会も権利もあったろう。
 聖闘士になれず、雑兵などと扱われ、怒りを覚えたことはないのか」
「フッ、随分と肩入れをしてくれるではないか」

 呆れつつ話をかわそうとしたアレクサンドロスだったが、ロスカデスは大真面目に切り返してきた。

「不憫でならぬのさ。
 聖衣を纏っていれば我らよりも強いであろうお前たちが、雑兵呼ばわりされるのがな。
 お前たちはこのような泥にまみれた醜い生き様をしてよい存在ではない」

 倒すべき敵であり、ここまで多くの部下を倒されているのに、アレクサンドロスはロスカデスに妙な親近感を覚えてしまった。
 どうも世辞や牽制ではなく本気で言っているらしいことはわかる。
 美しさだの醜さだのと言っているあたり、この男の美意識に関わるのだろうと推測した。
 そうとなれば、冗談でかわすこともできなかった。
 ロスカデスが投げかけた問いは、この男の必殺技以上に軽視できないものだった。

 それはアレクサンドロスだけでなく、なお立っている雑兵たち全員にとってだった。
 誰もが次に口を開くことができず、睨み合っているわけでもないが、居心地の悪い沈黙が続いた。
 その沈黙を、深い深い溜息とともにアントニスが破った。

「そうさ、な」

 その声色には、どこか敗北を認めたような色さえあった。

「全く無かったとは言わぬよ。
 別の生き方を考えたことが無いわけではない」

 懺悔か、あるいは裏切りにも似たその言葉に、しかし、非難の声を上げることができる者はいなかった。
 ただその言葉の前に新たに沈黙せざるを得ないことが、誰もが否定できない事実であると雄弁に物語っていた。
 顔を見合わせるでもなく、視線を交わすわけでもなく、ただ、思いを同じくしていた。

 だが、その思いの中に、誰一人後悔は無かった。

「そう、地位や名誉や金や……あるいは女を手に入れた人生もあったかもしれん。
 だが今更、そんな人生は無理というものだ」

 弟であるアントニスをかばうように、アレクサンドロスが一同を代表して言葉を続けた。
 今目の前にいるロスカデスとフィデックに対してではなく、消え逝ってしまった者たちに対して。
 最後にあえて女と付け加えたのは、愛する女のために命を散らした同胞が一人いたことを思い出したからだ。
 ゆえに、今ひととき祈るように目を閉じる。
 その閉じた瞼の裏には、自分たちを凌いで聖闘士となった男たちの姿が焼き付いていた。
 目を閉じているというのに、なんと眩しいことか。

「命も名誉も、魂さえも捨てて戦った男たちを知ってしまった今では、聖闘士以外のどんな生き方も色褪せて見えてならんのだ」

 青銅の、白銀の、黄金の、輝かしき光を纏い、
 ある者は鬼畜の烙印さえ厭うことなく、
 ある者は人間にとって不可能な壁を越え、
 それに届かなかった者たちも、希望となった者たちに小宇宙を託して、
 その男たちは、自分たちの代わりに太陽の輝きを纏って戦ってくれたのだ。

「そう、しかも俺達は、その男達の背中を見送っただけの他人ではないのだ」
「俺達は皆、あの眩しい男たちと同じ時代に生まれ、同じ時を分かち合い、同じ聖衣を競い、拳を交えて戦ったのだ」
「その誇りをこの胸のうちに抱きながら、あの生き様に背を向けて生きることなどどうしてできようか!」

 誰に強制されたわけでもない。
 ただ、己が心に自ら刻んだ思いが口々にあふれ出てくる。
 決して忘れられないものに対して、交わしたわけでもない、しかし決して裏切ってはならない約束だった。

「そして今、我等はアステリオン様の下で死ねる」
「雑兵ではなく、ともに聖戦を戦う仲間と呼んで下さったあのお方の下で戦っている」
「聖闘士として戦いたかった夢の残滓が燃えずにいられぬ」
「ああ、そうとも、今こうしてお前たちと戦っていることこそが求めて止まなかった望みだ」
「そうだ、諦めることなくこうして生きて来た甲斐があった!」

 ロスカデスとフィデックは目を細めた。
 笑ったのではなく、目の前にした思いと小宇宙が直視するにはあまりにも眩しかったのだ。
 彼らが問うた疑念への答えは、これ以上無いほどに輝かしかった。
 これ以上の疑念など、非礼に等しい。
 拳を握り、一度は解いた構えを再び取る。

「認めよう。汝らの容姿は醜いが、その生き様は気高いほどに美しい!
 その誇りを抱いたまま、美しく散り逝くがいい!」
「折角の賞賛だが、御免被る。どんなに不様でも構わないのだ。
 ただ、志だけはあいつらに負けぬよう、死力を尽くして戦うのみ」
「問おう、その志とは」

 その答えはただ一つ、一同の声が唱和する。

『地上の愛と正義の為に!』
「よかろう!紛れも無く、貴様たちは我等が星闘士の好敵手たる聖闘士だ!」
「同じく地上の愛と正義と美のために、しかし神々の時代の到来を願う星闘士として、偉大なる人間の時代の戦士たちよ、汝らを討つ!」

 フィデックとロスカデスの小宇宙が、決して負けぬとの覚悟に煽られてさらに燃え上がる。
 だが、それを取り囲む一同の小宇宙も劣るものではなかった。

「ハアアアアアアアッッッ!!」
「オオオオオオォォッッッ!!」

 相対する小宇宙の輝きがさらなる小宇宙の燃焼を導き、それがさらに相手の小宇宙を高まらせていく。
 その中で、赤みを帯びていた二人の星闘士が纏う星衣が、輝きを変えつつあった。

「もっとだ!もっと燃え上がれ……!私の小宇宙よ……!」
「ここにあるのは我らが宿敵……、己が限界など通り越して見せようぞ!」

 色を失いゆきながら、なお強く光る二人のその輝きは、

「おお……!」
白輝星闘士スノースタイン……!この土壇場で……!」

 星闘士たちには固有の位があるわけではなく、ただ小宇宙の優劣に応じた輝きで分類されているに過ぎないとは聞いていた。
 だがこうしてその昇格を目の当たりにすると、敵ながら称賛の声を禁じ得なかった。

「感謝するぞ、星座を争う宿敵が死んでしまった私には、ただ一人ではこの境地に至ることができなかったろう」

 フィデックが星座を争うべきであったケフェウスの聖闘士は、その徳を以て多くの聖闘士に慕われながらも、十二宮の戦いを待たずに世を去ったと聞いていた。
 直接拳を交えて己が誇りを示す機会を失ったことに、魚座のアフロディーテを恨みもした。
 だが今、その無念を打ち払うほどの敵たちに会えた喜びが、フィデックの顔に満ちていた。

 一方のロスカデスも、既に砕かれた羽など無くとも天に舞い上がりそうな喜びを満面に浮かべていた。

「そうだ、お前たちの美しい小宇宙によって、私たちは星闘士としての壁を乗り越えることができた。
 さあ、まだこんなものではないだろう!究極にまで高めたお前たちの小宇宙を見せてくれ!」
「言われずとも、見せてやる!」
「オオォォッッ!!これは……」

 今この一瞬だけでいいから、かつて拳を交えた男たちに届けと。
 オーラとなって立ちのぼるは、かつて背負うことを夢見た守護星座の姿たちだった。
 それが、今立っている者たちだけではなく、倒れ伏した者たちの小宇宙までもが幾重にも重なって燃え上がり立ち昇る。

「……ああ、美しい……っ!」

 この姿、この小宇宙を見て、誰に雑兵などと呼ばせるものか。
 ロスカデスは一切の世辞などなく、心底より称賛した。

 どちらも、相手にとって不足無し。
 先に仕掛けたのは星闘士たちだった。
 カッと見開かれた目とともに、圧倒的な小宇宙が爆発する。

「この飛魚座のロスカデス最大の拳、オーシャン・ハンマー!!」
「ノーザン・ネイバー・キングダム!!」

 ロスカデスの拳は、水面を砕く羽のように周囲全てへ向けて地を走り、フィデックの拳は空を制圧するかのように天を走る。
 対して、四方八方より渾身の拳が、銀河の中心へと落ち行く星のごとき輝きを纏いながら十重二十重に降り注ぐ。

「行けエエエエェェッッ!!」
「ぬううううううううっっ!!」

 小宇宙と小宇宙とが激突し、星々が生まれるかのような莫大な光が無秩序に飛び交う。
 方や、二つの白い輝きが、
 方や、幾つもの星座が重なった色とりどりの星座が。
 ほぼ互角の激突だったが、互いの拳撃をくぐり抜けて届く幾つかの拳では、星衣を破壊しきれない。
 しかし、防御力に劣る聖域の兵たちは一人、また一人と倒れていく。

 まずい……!

 アレクサンドロスは瞬時に形勢を判断した。
 このままでは、負ける。
 だが、負けられない。
 負けるわけにはいかない。

 アレクサンドロスとアントニスの兄弟には、なお語らなかった過去がある。

 十四年前、アレクサンドロスが聖衣を争ったアイオロスが、アテナに反逆したと思われた後、聖域に残されたアイオリアを糾弾したことがあったのだ。
 反逆者の弟に対して、我らこそが聖闘士に相応しかったのだとの自負とともに。
 今にして思えば何と言う浅はかさか。
 自害したくらいでは、あの黄金聖闘士の兄弟に対して到底詫びきれるものではない。
 せめて、戦って死なねばならぬ。
 アイオロスが命を賭けて守ったアテナが聖域に生還されてからずっと、二人の胸にはその思いが燻り続けていたのだ。

 せめて、せめて、ただこの戦いだけは……!

 無我夢中で、身体が動いた。

『何ッ!?』

 二人の星闘士は驚愕した。
 ほぼ互角の押し合いを演じていた相手であるはずのアレクサンドロスが、戦線を支えることを放棄して激突の中に突っ込んで来たからだ。
 聖衣も星衣もない彼には、どう控えめに見ても自殺行為に他ならない。
 そんなことは敵も味方も百も承知だった。

 だが、今しも押し切られようとするその最前線で、アレクサンドロスは今一度拳を放とうとする。
 吹き飛ばされそうになるその背中を、後押しする者たちがあった。
 心が引きずられるようにして、彼らもまた飛び込んだのだとわかる。

「兄者!」
「隊長!」
「総隊長!」

 星闘士たちの猛攻に耐えてなお立っていた全ての者たちの、想いを幾重にも重ねた渾身の右拳が一閃する。
 二人の星闘士は、避けられなかった。
 あるいは、見とれていたのかも知れない。

「見事……だ……!」
「お前たちのような男がいるなら、この地上はまだ、美しい……!」

 星衣を粉々に砕かれ、天高く舞い上げられた二人は、そのまま力無く頭から地に激突した。

 アレクサンドロスたちもまた全員まとめて吹き飛ばされながら、しかし、アントニスが声高らかに叫んだ。

「勝った……!俺たちは、勝ったぞ……!」






「これは……」

 翔は、目の前に広がっている光景に絶句させられた。
 平地であったはずの場所に、地割れが広がった渓谷と、隕石孔さながらの破壊跡が連なっており、現在位置を確認するだけでも困難だった。
 大人数が激突した壮絶な戦場の跡だった。

 確認できるだけでも、星衣を砕かれて倒れた星闘士が三人。
 生体反応を確認したが、全員息絶えていた。
 聖域の兵は何人倒れているのか、すぐには数えられない。
 だが、アステリオンの戦略を考えれば、数百からの兵が倒れているはずだった。
 まだ生きている者もいる。

 一人では全てに対処するのは無理だと判断し、緊急救命のセオリーを破って、まず比較的軽傷で気絶しているだけの者を探す。
 ひとまず四人見つけたので、常備している気付け薬で目覚めさせた。

「翔様……私たちは……?」
「星闘士たちは死んだ。
 済まないが話は後だ。
 緊急に救命活動が必要だと想われる者から、急いで女神の泉へ運んでくれ!」
「わ、わかりました……!」

 翔も急ぎ倒れた者たちを見回る。
 重傷でも命に別状無いと判断される者は後回しにするしかない。
 このような医療判断は、青銅聖闘士のサポート役として叩き込まれていた。

 その中に、明らかに瀕死とわかる者がいた。

 これは助からぬ。

 一目見てわかった。
 女神の泉の力を借りてもおそらく無理だ。
 本来なら、救助しても助かる見込みの無い者は見捨てるのが鉄則である。
 だが、見捨てることはできなかった。
 グラード財団のエージェントとして、人の顔を覚えることには自信がある。
 この人は、隊の総隊長たるアレクサンドロスだ。
 黄金聖闘士亡き今、数少ない年長者の一人として慕われていた人物だ。
 できれば死なせたくない。
 最後まで星闘士たちと拳を交えていたのだろう。
 彼が振り抜いたと思われる拳の延長線上に二人の星闘士が倒れていた。
 
「う……」

 意識を戻したというよりは、蝋燭の最後の輝きのごとき声をあげて、アレクサンドロスがかすかに目を開けた。

「アレクサンドロス殿、気を確かに持たれよ!
 女神の泉まで参ります」
「翔……様、我らは、聖闘士ですか……」

 かつてアイオロスと最後まで聖衣を争ったというこの人に、敬称で呼ばれる資格が自分にあるのだろうか。
 いや、そもそも、この質問に答える資格が自分にあるのだろうかと翔は自問せずにはいられなかった。
 自分も守護星座を手にした正規の聖闘士ではない。
 いや、聖闘士候補生であった彼らに比して、邪道な存在と言われても仕方がないくらいなのだ。
 その自分に、この問いは重すぎる。

 だが、アレクサンドロスは、我ら、と言った。

 見渡せば、聖衣も無しに星闘士たちを倒した勇士たちが累々と。
 この光景を前にして、誰に異論など挟ませるものか。

「ええ、聖闘士です……。
 傷ついた聖闘士には全て、女神の加護があるのです……!
 だから、気を確かに持たれよ!」

 固く握り絞られたままの彼の拳を握って声を強める。
 わかっている、わかっていた。

「……翔殿、私より、先に、仲間たちを……。
 皆……みんな、女神の聖闘士なのですから……」
「わかっています。今救助に当たっております。
 だが、貴方もです!」

 アレクサンドロスは、フッと笑った。

「ああ……良かった。
 アイオロスよ……やっと……」

 右拳が握られたまま、その手が緩やかに翔の手から滑り落ちる。
 小宇宙が完全に燃え尽きたのが、文字通り手に取るようにわかる。

 翔は、アレクサンドロスに、倒れ死した者たちに向かって、叫ばずにはいられなかった。

「貴方がたこそ、真の、女神の聖闘士だ……!」






第二十五話へ続く



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夢の二十九巻目次に戻る。
ギリシア聖域、聖闘士星矢の扉に戻る。
夢織時代の扉に戻る。