聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第二十話、星々見参」




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「これより四日後、我らは青輝星闘士シアンスタインを擁した軍団を以て、聖域サンクチュアリ十二宮を攻め落とす!!」
『何イィッッッッ!!!』

 青輝星闘士となったバイコーンのアクシアスの叫びは、城戸邸から電話回線を通じてジャミール、エチオピア、聖域までを震撼させた。
 これ以上ない、というくらい明確な挑戦である。

「十二宮を攻め落とすだと!
 寝ぼけたことぬかしてんじゃねえ!!」
「俺は至って正気だぞ、邪武。
 もはや黄金聖闘士ゴールドセイントが一人も生き残っていない十二宮、本来なら攻め落とすことなど、俺たちにとって造作もない」
『言ってくれるねえ……』

 電話回線越しの聖域で、シャイナが舌打ちする。
 それは今さら星闘士スタインに言われずとも、聖域を守る者全てが嫌と言うほど解っている状況であった。

「だが、それでは伝説となった十二宮を攻め落としたとは言えん。
 不意打ちで突破した聖魔天使どものごとく、この時代に汚名を刻んでしまってはたまらんからな。
 俺たち星闘士が求めているのは、お前たち聖闘士との完全な決着だ。
 だからこうして俺が予告に来た」
「てめえ、まさか……」
「そうだ。
 この四日間で、生き残った聖闘士セイントを聖域にかき集められるだけかき集めろ!
 黄金聖闘士が全て揃った伝説の十二宮に少しでも近づいたと言えるだけの鉄壁の守りを敷いて、俺たち星闘士を迎え撃て!
 その聖闘士全てを打ち砕き、全滅させて、俺たち星闘士が勝つ!!」

 その言葉にすら、聞く聖闘士全てを打ち倒そうとするアクシアスの小宇宙が感じられて、ジャミールとエチオピアと聖域で同時に舌打ちがした。

「どうやら、お前が突き止めた場所は正真正銘星闘士の根拠地だったらしいな」

 邪武はアクシアスから目を逸らさずに、横にいる潮に声を掛けた。
 邪武としては賞賛のつもりだったのだが、潮としてはわずかに後悔の念がある。

 この時期に決戦を宣言してくるというのは偶然ではないだろう。
 潮が、白輝星闘士スノースタインエリダヌス座のシェインとの遠距離戦で、その発信地を突き止めたことが影響していることは想像に難くない。
 星闘士たちは、自分たちの根拠地を隠しておけなくなったからこそ、打って出てきたのだろう。
 現在聖闘士側はアテナが自失状態で、正統な教皇も黄金聖闘士もいないため強力な意志決定機関が存在していない。
 現に今も合議体で根拠地を攻めるか否かを討議をしていたところだった。
 四日間で聖闘士の総力をまとめて敵根拠地を攻めるのは不可能に近い。
 つまるところ、このタイミングでは挑戦を受けるしかない。

「それから、もう一つ。
 受け取れ!邪武!!」

 アクシアスは星衣の腰部から何かを取り出し、邪武に向かって思い切りぶん投げた。
 衝撃波を伴って顔面を狙ってきたそれを、邪武は眼前で摘み止める。
 右手人差し指と中指の間で甲高い音を立てたそれは、塊ではなく金属製のカードだった。
 何も描かれておらず、鏡面のようなそれをひっくり返してみると、そこには、二本のねじれた角を持つ馬が森林を暴れ回り木々をなぎ倒す様が、浮き彫りにされていた。
 その絵の下には、BICORNの文字。

「これは、聖闘士カード……!?」

 聖闘士カードとは、聖闘士が戦いの際に倒した敵の傍に、自分が倒したことを示すために使われるものである。
 何が発祥でこんな物が使われるようになったのかは不明だが、聖闘士の黎明期において黄金聖闘士の名と恐ろしさを知らしめるために用いられたものかもしれない。
 ほとんど廃れていた風習ではあるが、グラード財団は銀河戦争ギャラクシアンウォーズの折に、聖闘士一人一人をアピールすることを狙い、この古い伝説の物体を復元して十人の聖闘士に持たせることにした。
 そのまた複製品を会場等で販売して、これが結構な販売枚数になったという一幕もある。
 各聖闘士に持たされたものは、意匠化された星座のイメージと、星座名が刻まれた金属製のカードで、いざというときには投擲にも用いることができるよう、見た目より重量のある造りをしている。
 星矢が白銀聖闘士シルバーセイントとの戦いで、自分が生きていることを示すために用いたこともあり、今は一応生きている聖闘士全員に配布されている。

「星闘士カードだ。
 意味は、わかるな」

 アクシアスが律儀に訂正したのは単に星闘士としての矜持であって、意味そのものは同じということらしい。
 自分が倒したということを示す物体を、まだ倒していない敵に投げつけるということの意味するところは明確だ。
 そう、すなわち、

 貴様を必ず打ち倒す。

 まだ倒していないのであれば、倒せばよいということである。
 カードを投げつけるというその行為は、後に引けぬ挑戦状の証であることくらい、邪武も知っていた。
 投げつけられた方は、投げた相手を倒してからそのカードを引き裂いて返すことで、相手の身の程知らずを知らしめることが出来るのだ。
 邪武の手の中でカードが軋んだが、アクシアスの小宇宙が込められているためか、折れもしなかった。

「いいだろう……、この場でこのカード返してやる!!」
「急く心境は俺も同じだが、慌てるな、邪武。
 こんな伝令役での前哨戦などでお前との決着を付けるなどとつまらない真似はしたくない。
 俺がわざわざ伝令役を仰せつかったのは、お前を何が何でも引きずり出してくるため。
 星闘士と聖闘士の決戦の舞台でこそ、お前との決着を付ける意味がある!
 いいか、邪武。必ずだ。
 必ず聖域に来い、いいな!」
「断るっ!」

 どちらが待ち受けているのだかわからないようなアクシアスの要求を、邪武は一分の隙も無い明確な声で一蹴した。

「おい……邪武、本当にそれでいいのか」

 横にいた潮が思わず呆れるくらいである。
 アクシアスはつんのめっているのではないかと思いきや、意外にも苦い顔一つでそのまま立っていた。

「俺はお嬢様を守る聖闘士だ。
 決戦と言って、てめえらがその間にお嬢様を襲わない保証がどこにある。
 この場から動かれないお嬢様を置いて、ノコノコ聖域になんざ出向く理由はねえ」

 アテナの聖闘士ではない。
 星闘士の宿敵である聖闘士でもない。
 この場合、聖闘士と呼ぶのが適当なのかどうか。
 邪武にとってはそれらは二の次、三の次の事柄に過ぎない。
 沙織お嬢様を守るということの前では、アクシアスとの星座を賭けた決着など天秤に載せる前に却下する些事でしかなかった。

 優先順位を下に置かれたアクシアスだが、これまた意外なことに、激昂一つしなかった。

「まったく、イルピトア様の想定通りの台詞を吐いてくれやがる……」

 ため息混じりのそのつぶやきを聞き取れたのは、マイク越しではない潮、邪武、瞬の三人だけだった。
 青輝星闘士の長、アルゴ座のイルピトア。
 かつて聖域において、猟犬星座のアステリオンとオリオン座のエルドースの二人を一蹴した男。
 青輝星闘士に昇格したといえども、アクシアスが未だにイルピトアの指揮下にあるのは間違いないらしい。
 そういえば最初に、イルピトアからの伝言だと言っていた。

 それらの推測を肯定するかのように、アクシアスはもう一枚星闘士カードを取り出した。
 今度は投げつけずに、表を邪武たちに向かって見せつけた。
 海原を渡る雄大な船の絵と、その下にARGOの文字。
 あれは、イルピトアの星闘士カードだ。

「星闘士とその長イルピトア様の名に賭けて確約する。
 決戦に乗じて我ら星闘士がアテナを暗殺することは無いと!」
「なんだと!」
「わかりやすく言ってやる。
 今の腐抜けたアテナを抹殺することなど、お前たち聖闘士を全滅させてからで十分だということだ!」
「てめええっっ!お嬢様を愚弄しやがったな!!」
「落ち着け、邪武……!」

 挑発に続く高笑いに思いっきり乗せられた邪武を、潮は後ろから羽交い締めにして止めなければならなかった。
 そんな邪武の様子を見て、アクシアスはしてやったりとでも言うように唇を歪めて笑った。

「俺は一足先にギリシアに入っている。
 いいな、邪武!必ずお前も聖域に来い!!」





「と、いうようなことを今頃アクシアスが言ってくれているだろう」
「イルピトア!貴様はまた勝手に……」

 正規の青輝星闘士が全員揃った会議場で、イルピトアはいつもの調子で言ってのけた。
 苦り切った顔をしているのはもちろん最年長、獅子座のゼスティルムである。
 天秤座のアーケイン、牡牛座のグランドもあまりいい顔はしていない。

「実はこちらの失敗でこの場所が聖闘士側にばれてしまったらしくてな。
 のんびり座して待っていると攻め込まれそうなんだ。
 独断専行は認めるが、こうなってはそろそろ決着を付けに行ってもいいだろう」
「何をやっていた」
「神話の遺伝子の最適合者が見つかった」
『何!』

 いい顔をしていなかった三人が、思わず椅子から腰を浮かしかけた。
 問い詰めようとするゼスティルムの機先を制して、イルピトアは話を続ける。

「だが、場所が日本なのが少々厄介でな。
 聖闘士たちに邪魔されたくないから、できるだけ聖域に釘付けにしておきたい。
 決戦を布告しておけば、奴らとしても戦力を聖域に集中させざるを得ないだろう」
「つまり決戦は囮というわけだな」

 さりとて、簡単に翻弄されるゼスティルムではない。
 イルピトアの話の区切りにすかさず切り返した。

「否定はしない。一石二鳥というのは私の好きな言葉だ」
「謙虚な物言いだな。お前なら三鳥くらい狙っていそうなものを」

 つまりはさらに何か企んでいるだろう、という意味のことを言ったのはアーケインである。
 もっとも、彼自身も一石二鳥という言葉が好きな人間だ。
 またイルピトアに乗せられるのはやや気に入らないが、任務ついでにコレクションが増えるのであれば大変喜ばしい。
 聖域には、どうしても手に入れておきたい武器があるのだ。

「では役割分担を発表する。
 聖域への突入は、約30名ほどで行ってもらう。
 指揮はゼスティルム、アーケイン、マリクと……」

 アーケインの揶揄を無視して、イルピトアはさっさと解説の続きを始めた。
 30名というのは多い。
 現在この城にいる星闘士の三分の二ほどになる。
 囮の役割があるとはいえ、この聖域への侵攻が単なる陽動ではなく、本気で聖域十二宮を陥落させるつもりであることは解った。
 それに続く出陣メンバーの名前は、呼ばれる方には予想通りだった。
 星闘士を二派に分けた場合に、イルピトアと対立することになる側、いわばゼスティルム派の面々である。
 射手座サジタリアスのマリクはゼスティルムの養子であり、天秤座ライブラのアーケインもおちゃらけてはいるが立場はゼスティルム寄りである。
 三面作戦の現場に当たったこの三人と、生真面目と誠実さに星衣を着せたといわれる牡牛座タウラスのグランドが行くことになると思われた。
 だが、

「リッツ、お前も聖域に行ってもらう」
「はい」
『何!?』

 これにはゼスティルムたちだけではなく、イルピトア派に属する蠍座スコーピオンのユリウスすら仰天した。
 リッツこと乙女座バルゴのイルリツアはイルピトアの実妹であり、この兄による溺愛っぷりは星闘士全員のよく知るところである。
 それ故にここまでの戦いでも、青輝星闘士に数えられる実力を持ちながら彼女は一切派遣されることが無かったのだ。
 その彼女を聖域に派遣するということは、

「……おい、イルピトア。とうとう気が狂ったか」

 アーケインが極めて直接的な質問をした。

「至って正気だ。
 ここで留守番をさせていても、のんびり構えていては聖闘士たちが攻めてくるというのは既に説明した通りだ。
 それから、生き残った聖闘士にどれほどの実力者がいるかは解らないが、リッツの能力が必要になる可能性が捨てきれん」
「少しは真面目に聖域攻めを考えたようだな」

 褒め言葉の代わりに、ゼスティルムは冷ややかな言葉を投げつけておいた。

「それで、真面目なイルリツアの不良兄は何をするつもりだ?」
「テリオスと一緒に最後の封印を解きに行く。
 ただし、私とテリオスとではお前たちに信用してもらえんだろうから、グランドにも来て貰う。
 仮に私が陛下に害を為すようなことをすれば、その場でグランドに私を始末して貰うというわけだ。
 グランドの忠誠心に、異論はあるまい?」
「物は言い様だな」

 アーケインが呟いた一言は、グランドの忠誠心に対する異論ではない。
 陛下に対するグランドの忠誠心は誰しも疑うところがない。
 しかし、あの生真面目なグランドが、一度仲間であると認めたイルピトアを、もし仮に本当に裏切ったとしても、討てるとは思えなかった。
 まして、背後からの不意打ちなど毛嫌いし、正々堂々を旨とする男だ。
 監視役にはなり得ても、イルピトアを始末するということにはなりようがない。
 だが、グランドが監視に就くことそのものにはさほど反対する理由はない。

「それで、神話の遺伝子の適合者を確保するのはユリウスがやるの?」
「いや、ユリウスには研究もあるし、ここで城の守りをしてもらう。
 確保しにいくのは、カイとリザリオンにやってもらう」
「あの二人か」

 イルピトアが招聘した中でも、この二人は未だに得体が知れない。
 だが、二人とも青輝星闘士級の実力者であることはうすうす感じられる。
 イルピトアにとっては切り札とも言えるこの二人を送り込むということは、その適合者の確保が容易ではないことがわかる。
 いや、それとも……

「日本だと言ったな」

 ゼスティルムが念を押した言葉は、言葉通りの意味ではない。
 アテナ暗殺は無いと言っておいてだまし討ちをするつもりかと聞いているのだ。
 策を弄することは厭わないゼスティルムでも、星闘士の名に賭けて行われた誓約を違えるのは許し難い行いであった。

「さすがに約束を違えるつもりは無いぞ。
 二人にもアテナを暗殺するなとは厳命しておくさ。
 もっとも、アテナ自身が首を突っ込んできた場合は知らんがな」
「いやはや、まったくもって卑怯で結構なことだ」

 賞賛が1パーセント弱ほど含まれる口調でアーケインが拍手した。

「それは、ないと思う……。アテナは動かないよ」
「マリクに賛成だな。アテナが動くとはさすがに思えんぞ」

 マリクとユリウスの二人は、わずかだがアテナ自身を直に見ている。
 自分を狙って刺客が来ようとも、自分のすぐ隣で戦いが起こっても、何一つ反応を示さなかったくらいなのだ。

「ということだ。安心してくれ、ゼス小父」
「……よかろう」

 このゼスティルムの承認で、作戦決行が決まった。

「アテネへの飛行機とホテルは一流のを確保しているから、聖域に攻め込む当日まではギリシア見物と洒落込んでくれ」

 早速ファーストクラスの飛行機チケットの束を手渡されて、飛行機嫌いのゼスティルムはまた機嫌が悪くなった。





「そんな顔をなさらないで下さい、兄様」

 それとは対照的に、見る者をほっとさせる笑顔でイルリツアは兄の頬に手を当てた。
 イルリツアの私室であるので、二人とも星衣は纏っておらず、着慣れた私服姿である。
 その姿で、イルピトアははっきりと不安を顔に出していた。
 ゼスティルムやアーケインを相手に飄々とやり合ったときとは、まるで別人のようである。

「心配なものは仕方がない……」

 この妹と親友のテリオスくらいにしか見せることのない拗ねた顔は、実年齢よりずっと若く見える。
 妹を聖域に送ることに、イルピトアは心から納得出来ていたわけではなかったのだ。
 ただ、イルリツア自身が行くと主張して譲らなかった。
 事実、イルリツアが行くということでアーケインやゼスティルムらを納得させることが出来たのだが、出来れば妹はそっとしておきたかった。
 これ以上、家族を失いたくなかったのだ。

「いいか、アーケインの奴はあれで義理堅いところがあるからいざとなったらあいつを上手く使え。
 ゼス小父もお前には甘いから適当におだててしまえ。
 マリクは女に対しては律儀だから放っておいてもお前をちゃんと守るだろう。
 問題は先に送り込んだアクシアスだ。あいつには甘いところを見せるな。色々危険だ。
 それから……」
「兄様は妹を、男を弄ぶ悪女に仕立て上げるつもりですか」
「……いや、そういうつもりは無いが」

 妹にこう言われては、イルピトアも言葉に詰まる。
 頬を掻き、観念したようにため息をついた。

「俺は、お前を星闘士になどさせたくなかった」

 もう何百回聞いたかわからない兄の愚痴を、イルリツアは心地よく聴いた。
 自分のことを心配してくれているのは十二分に解っている。
 それでも、だ。

「それは酷いですわ、兄様。
 一人で勝手に進めてしまうつもりでしたの」

 きゅっ、と兄の両手を握りしめる。

「二人で、約束したはずでしょう」

 そう、二人で約束した。

「お父様とお母様の仇を、必ず討つと」
「ああ、そして、叔父上と叔母上と、あの子の仇……」

 イルピトアの目が、一瞬だけ兄馬鹿のそれから飛躍した。
 青輝星闘士の目ですら、無い。

「そうだ。約束した。
 だから、リッツ……無事に聖域から帰ってくるんだぞ」

 十四年前の約束のときにそうして慰めたように、イルピトアはそっと妹の髪を梳いた。

「ええ。必ず……」






 教皇代行を務める猟犬星座ハウンドの白銀聖闘士アステリオンは、このところ機嫌が良かった覚えがない。
 先日イルピトアに叩きのめされた傷が癒えたと思ったら、早速、山積している教皇代行の活動をさせられる羽目になっていた。
 マスクをしていないから、心中とは対照的に、いつでも笑顔でいなければならない。
 最近、営業スマイルというものを覚えたのだが、横にいる中年があれやこれやとうるさい。

「アテナを守る勤勉なる少年よ。
 もっと若々しく、もっと朗らかに、もっと誠実に。
 それ笑え」

 笑えるかこの野郎。

 今日の巡業が終わったというのに色々と注文が多いのは、中年ことオリオン座の白銀聖闘士エルドースである。
 既に三十代であり、現役の聖闘士としては最年長に近い。

「いかんぞそんなことでは。
 そもそも教皇にふさわしい者とは、仁智勇を兼ね備え……」
「いい加減やかましいぞ!アテナを守る中年!!」
「フッ、心配するな。
 俺はいつでも、人間がもっとも美しく光り輝く、十八歳という絶頂の精神年齢を持つ男だ」

 サトリの法で感じるところ、この言葉は本気で言っているらしい。
 アステリオンは、今日何度目か数える努力すら放棄した脱力感を覚えた。

「あんたたち、何をまた程度の低い会話をしてるんだい」

 近くに小宇宙を感じていたので驚かなかったが、緊張感をそのまま音にしたような声と共にシャイナが姿を現した。
 いつも二人の口喧嘩をたしなめるときの、姉御らしい軽快さがない。

「……こっちでも何か起こったのかよ」
「こっちでも……?
 まあいい、そっちの話は後で聞くよ。
 とにかく今は急ぐんだ」

 やっぱりお前が教皇代行をやってくれ、という台詞を、アステリオンは今度も飲み込んだ。
 エルドースと一緒にいるときにそんなことを口にすれば、連合軍を相手にすることになってしまう。
 ……という、いつもの理由だけではない。
 シャイナの心層の表に、あのイルピトアの姿が写っていた。
 容易な事態ではない。

「わかった。そっちから話せ」
「電話小屋に行きながら話すよ。まだ終わってないからね」

 聖域には最近まで電話線がなかったが、あまりに不便だということで、ハーデスとの戦いが終わった後に、アテナの小宇宙による影響が小さい聖域入り口近くに電話線を引いて、専用の建物を造った。
 これが現在、電話小屋と呼ばれている。
 主に日本との連絡や、鋼鉄聖闘士スチールセイントからの報告用として使われている。
 結果として重要事項が飛び交うことが多いため、白銀聖闘士たちがよく使うようになり、いつの間にか会議室を兼任するようになりつつあった。

「……イルピトアの脚本書きか」

 シャイナから、先ほどアクシアスによってもたらされた挑戦状の内容を聞き終わると、エルドースはギシリと奥歯を鳴らした。
 アステリオンと二人がかりでも一蹴されたあの男の名は忘れられるものではない。

「聖域決戦か……」

 一方、アステリオンは思案顔で呟く。
 どうやって星闘士たちを迎え撃つべきか、しっかり教皇代行の仕事をしている。
 ともあれ、電話小屋に着いた。

「もしもし、こちら聖域。
 アステリオンとエルドースを連れてきたよ」

 シャイナはスイッチを入れると、受話器を使わずに言った。
 多人数で使うことが多いので、この部屋の会話が丸ごと送信されるようにしてあるのだ。

『げ、師匠』
「げ、たあ何だ。馬鹿弟子」

 珍しいことに明らかな恐怖を帯びた邪武の声が日本から届くと、即座にエルドースの叱責が飛んだ。

『イエ、オゲンキソウデナニヨリデス』

 何やら、発音が言語の体を為していない。

「おう、ひとまず元気になった。覚悟しておけ」
「おい、お前の弟子教育は後だ、あと」

 電話越しではサトリの法は無効のはずだが、なぜだか手に取るように邪武の心境がわかってしまったアステリオンは、思わず助けの手を入れていた。

「ち。まあいいだろう。本題が深刻だったな」
「翔、大地。どっちも聞こえてるね」
『聞こえてます、シャイナさん』
『こちらもOKです』
「よし、大体揃っているな」

 アステリオンとしては、小熊座アールサのクリュスと、麒麟座キャメロディオのバルチウスという二人の白銀聖闘士も加えておきたかったが、まさか白銀聖闘士全員を電話小屋に集めて、十二宮を空にするわけにもいかない。
 仕方がないので、二人には後で話すことにし、話を始めることにした。

「まず前提から言おう。
 この挑戦は、受ける。
 いいな」

 アステリオンにとっても、受けざるを得ない挑戦状であることは十二分に理解できた。
 そもそも仕掛け人があのイルピトアならば、そうそう穴を残してくれているとは思えなかった。
 ここで、「いいな」と念押しで尋ねるあたりは、代行として一歩引いている意識がにじみ出ている。
 独断で決定などと、正式に就任したような真似はやりたくない。

『だけど、お嬢さまの周囲をがら空きにはできねえ。
 俺はここに残らせて貰う』

 アステリオンにとって期待違わず、などとと言うといささか語弊があるかもしれないが、反対意見が出てきたことに、アステリオンはわずかに安堵を覚えた。
 しかし、邪武が言い張った内容は確かに問題である。

「おいコラ、カード投げつけられておいて、尻尾を丸めて逃げるような腑抜けに育てた覚えはねえぞ」
『寝ぼけてんじゃねえ師匠。。
 お嬢様と聖域とどっちが大切だってんだ!!』
「比較したいんなら、アテナと聖域、と言え」

 相変わらず、「お嬢様」が絡むとムキになる弟子に苦笑しつつ、エルドースは冷静に続けた。

「俺の考えではな、星闘士の名に賭けて誓った以上は、イルピトアの奴は約束を違えることはない。
 少なくともこの隙に星闘士がアテナを暗殺することは絶対に無い。
 気になるのは、アテナが自ら動かれた場合はこの約束が当てはまらないってことだが、
 今のアテナはおそらく動かれようがない」
『うぐ……』

 邪武があまり考えたくないところを容赦なく突いている。
 時間が解決してくれるかも知れないが、少なくとも今の沙織は、自分が殺されそうになってさえ、まるで反応を示さないのだ。

『だけど師匠……エリスが蘇ってるんだぜ。
 あの野郎は星闘士とは別だろうが』

 反論する声が苦しくなってきているが、それでも沙織に関わる危機を見逃さないのはさすがである。
 もっとも邪武本人としては、お嬢様のそばから離れたくないという気持ちが第一にあって、反論の理由は後から思い付いたものかもしれないが。

「心配するな。
 お前、エリスから散々恨みを買ったそうじゃないか。
 ギリシア神話を見る限り、エリスは復讐の女神でもある。
 おまえがアテナから離れている方が、アテナには安全だということだ」
『お、おい……邪武、しっかりしろっ』

 潮が慌てたように駆け寄る音が聞こえる。
 自分が傍にいることで沙織に危険が及ぶという事実は、どうやらかなりこたえたらしい。

「エルドース、お前、愛弟子相手にそこまで言わなくても……」
「あたしも、今のはどうかと思うね」
「弟子だから言ってるんだ。
 まあ、いつものことだから気にするな」

 エルドースもエルドースなりに反論がある。
 師匠として、「お嬢様」が絡んだときの邪武の強さとひたむきさは知っていたし、そのことには好感を持っていた。
 だが、そうなったときの邪武は見境が無く、しかも短期間に爆発するタイプなので、安定した拠点防御にはさっぱり向かないのだ。
 そして、邪武自身がもっと強くなるためには、星座を賭けた戦いを必ず乗り越えなければならない。
 というようなことをかなり真面目に考えていたのだが、しかし、口には出さなかった。

 弟子と同年代の若者がずらりと聞いている中で、教育方針など大声で語りたくないのである。
 とりあえずは横にいるアステリオンがこちらの考えを読んでくれればそれでいい。
 そういった配慮は出来る男だ。

「……わかった。その件はエルドースの提案を採用することでいいな、邪武。
 ただ、アテナの周囲をがら空きに出来ないというお前の意見には俺も賛成する。
 潮は当然日本にいてもらいたいが、もうあと何人か……」
『アステリオンさん、僕が残ったらいけませんか」

 まだ元気の無い声で意外なことを言い出したのは瞬だ。

「おまえがか?」
『おい、瞬……』

 ざわめきが広がる。
 少なくとも、瞬が決戦を怖がって逃げるような臆病者でないことは、もはや全員がよく解っている。
 だからこそなおさら意外だったのだ。

 しかし、アステリオンにとっては有り難い提案となった。
 正直、星闘士との戦力差を考えると、神聖闘士ゴッドセイントの一人が駒落ちするのはかなり痛い。
 しかし、アテナの身辺警護としては彼くらいの実力者を配しておきたいところである。
 青輝星闘士にその配下が数人というくらいの構成の部隊くらいなら、直接アテナを狙うのでなくても、グラード財団そのものをつぶすために、聖域攻めの片手間でも送ってくる可能性はある。

『もしかしたら、ジュネさんが戻ってくるかもしれませんから……』

 それでアステリオンは瞬の心中を察した。
 エリスとの戦いの折に何が起こったのかは聞いている。

「わかった、お前にはアテナの警護を頼む。
 あと、大地か翔、おまえたちのどちらかが日本に行ってくれないか。
 もう一人は聖域に詰めてもらう」

 鋼鉄聖闘士たちについて特に決めるのは訳がある。
 本来、聖域は一般人の侵入を受け付けない場所だ。
 幾重にも張り巡らされた結界は、ハーデス城のように敵の力を奪う効果こそ無いものの、小宇宙を持たない人間や力の弱いものを去らせたり、宮を飛び越えてのテレポーティションを無効にしたりする。
 結界なのか、アテナの小宇宙によるものなのか、実はアステリオンも確信があるわけではない。
 はっきりしているのは、鋼鉄聖闘士たちがその働きと実力にも関わらず、十二宮に入ることが出来ないという事実であった。
 かろうじて聖域の外苑には入ることが出来るが、十二宮に入るところから聖域の結界は威力が跳ね上がる。
 障害になっているのは彼らの纏うクロスそのものである可能性が高く、おそらくクロスを脱げば、辛うじて十二宮に入ることは出来るだろう。
 しかしそれでは、決戦において自殺行為となる。

 一人でも強者が欲しい現状では、この結界の存在はいっそ恨めしいと言えるものだったが、解除や変更の仕方が知られていないので、アステリオンにもどうしようも無かった。
 それでも鋼鉄聖闘士たちには気の毒と思うので、聖域に詰めてもらう、という配慮を見せた。
 十二宮周辺でも、きっと戦いがあるとアステリオンは予想している。

『翔、お前が聖域にいけ。
 いざというときにはお前の方が速い』

 大地はアステリオンの配慮を理解しつつも、やはり不機嫌さを押さえきれない声で提案に応じた。

『わかった。
 アステリオン、オレが行かせてもらう』
「よし。
 それから、ジャミールとエチオピアにいる青銅聖闘士ブロンズセイントは全員聖域に集合してもらいたいが、いいな」
『ちょっと待った!
 日本ほどじゃないが、ここの封印をがら空きにしておくのは危険だと思うぜ』

 檄は牡牛座の青輝星闘士グランドらとの戦いの後、聖衣の墓場を始めとするジャミール一帯の封印について調べるだけ調べてみた。
 星闘士たちが狙ってきたこともあり、それらについての報告は翔を通してアステリオンにも届いている。

『それを言うならこっちの封印も放っておけるシロモノじゃないぜ』

 エチオピアの那智も賛同する。
 旧友のテリオスに、近づくと死にかねないとまで言われた封印である。

「わかっている。
 聖域から早急に聖闘士を送るから彼らと交代で聖域に来て欲しい」
『聖域の聖闘士を少なくしてどうするざんすか』

 市の意見がもっともだと思ったのは、聖域以外の面々である。
 これにはシャイナが解説を入れた。

「そちらに行ってもらうのは、最近アステリオンが聖闘士の資格を与えた新たな青銅聖闘士たちさ。
 聖闘士としての最低限の実力はあるが、初戦が星闘士との決戦では無駄死にさせかねないからね。
 代わりに星闘士との戦闘経験のあるあんたたちに来て貰う。
 悪くないだろ」

 聖域は常に聖闘士候補生たちが修行を続ける場でもある。
 立て続けの聖戦で聖闘士の数が激減したこともあり、アステリオンは新たな聖闘士の任命も行っていた。
 威厳を持たないといけないため、実は一番苦手な仕事であるが、それはさておく。

「星闘士側も、決戦の横で各所にそこまでの戦力は割けないはずだ。
 赤輝星闘士クリムゾンスタイン程度が相手なら負けることはないだけの修行は積ませている」

 いかにも聖域を代表する教皇らしい台詞だとエルドースは感嘆したが、口にはしなかった。
 どうせ口にしなくてもアステリオンには聞こえている。

『よし、それならオイラも聖域に戻れるね』
「まて貴鬼、おまえは別だ」

 聞き捨てならないその言葉にアステリオンはすかさず釘を刺す。

『なんでさ!?』
「説明しないと解らないか?
 この決戦は受け手に回ってしまったんだ。
 勝った後でさらに残存戦力を倒さなければならない。
 つまりこの決戦が終わってすぐに聖衣を修復して貰わなければならん。
 しかし、ジャミール以外で聖衣の修復が行える自信があるか?」
『むうぅぅぅぅーー、
 だからって、白羊宮を守るのはムウ様の弟子のオイラの役目だ!』
「そういう台詞は黄金聖闘士になってから言え!
 裸同然の身で最前線となる白羊宮を任せられるか!」
『じゃあ今すぐ黄金聖闘士にしてくれよ!教皇代行!』
「白銀聖闘士のオレの一存で黄金聖闘士を決められるか!
 お前が牡羊座の黄金聖衣ゴールドクロスに認められてからだ!」
「ええい、静まれ小僧ども!!」

 たまりかねたエルドースが一喝した。
 エルドースがからかって怒ることはあっても、ここまでムキになるアステリオンは珍しい。
 電話越しで相手の心が読めないというのはアステリオンにとってかなり不慣れな状態らしい。
 教皇選挙のプレ討論会としては面白いが、笑って済ませられる話ではない。

「次期教皇候補の二人が対決している以上、ここは多数決だな」
「そうだね。貴鬼がジャミールにいるべきだと思う奴、
 全員、声をあげな」

 シャイナが脅しつけるように、全員、と念押しして呼びかけると、逆らえるものではない。

『はい』

 当事者以外の全員一致した声が響いた。

「そういうことだ。わかったね、貴鬼。
 逆らったらサンダークロウだよ」

 怖い。
 誰もがそう思った。
 さすがに貴鬼も黙り込む。

「この件については以上だが、ついでに聞いておきたいことがある」

 少し声を落ち着かせ、同時に、声を潜めつつ、アステリオンは忘れそうになっていたもう一つの懸案を切り出した。

「おまえたち、ここ数日の間に、幽霊を見なかったか?」
『!!』

 本来なら一笑に付されるような質問だったが、ジャミール組とエチオピア組からは声にならない叫びが上がった。

『見た……ざんす』
『こっちでも見たぜ。幽霊だけじゃなく、冥界そのものを見たって気がしたけどな』
「そうか。日本ではまだ確認出来ていないか?」
『いや、そういうニュースは聞こえてきていないが……?何があったんだ?』

 どうやら師に叩きのめされたショックから立ち直ったらしい邪武の返答は、世界に情報網を張り巡らせたグラード財団としての返答になる。

「ということは、まだ限定された状況で起こっているだけか。
 まず俺が見た事実から言おう。
 先日俺が死を看取ったロドリオ村のテオファノという老女が、幽霊となって現れた。
 カシモドという老人の幽霊と一緒にな」

 先ほどまでエルドースとともに聖域を留守にしていたのは、この事件のために急遽ロドリオ村に出向く羽目に陥っていたからである。

「デマじゃなかったのかい、あの騒ぎは」
「残念ながらな。会話したところ、幻影ではなく本人そのものであることが確認できた」
「アステリオンだけではなく俺も確認した。幽霊か亡霊か、呼称はともかく、死者の霊魂だ」
『こちらは封印の周辺がまるごと冥界のようになっていたんだ。
 そこに住んでいたらしい住人が、まるごと幽霊になってさまよっていた』

 背筋に冷たいものを感じているのだろう。
 那智の声はかすかに震えているようであった。
 実体のある相手ならばそうたやすく敗れるつもりはないが、実体のない幽霊にはハーデス復活の折に大苦戦を強いられたことがある。

「冥界のように……か。
 その喩えはかなり的を射てるかもしれんぞ」
『そうか……今は』

 死者が本来行くべきところとして、神話の時代より定められていた冥界が、崩壊しているのだ。
 星闘士たちの纏う星衣と、冥闘士スペクターたちの纏う冥衣サープリスとが酷似していることを考えても、
 星闘士たちの活動には、どこか冥界の気配が感じられる。

『冥界に行けなくなった死者がこの世界に溢れて来ているってことかい』

 大地の言葉に頷きかけたアステリオンは、まてよ、と首を傾げた。

「……いや、それだけだとおかしい。
 カシモドという老人はもう一年近く前に亡くなったという話だった。
 それなら冥界が滅ぶ前だ」
「いやそもそも、冥界が滅んだことで、死者たちはどこへ行ったんだい?」

 深刻かつ真相に迫っているシャイナの質問に答えられる者はいない。
 少なくともここにいる面々は死んだ経験がないのだから。
 だが、カシモドという老人が現世に戻ってきた以上、完全に消滅したわけではないと推測される。

「わからん。カシモドは岩山の山中に戻ったとか言ったが」
『紫龍か一輝に聞いてみたらわかるかもな』

 邪武の言葉は冗談にも聞こえるが、かなり本気である。
 何回死の淵から蘇ってきたのかわからない二人だ。

「現時点ではどうすればいいのかわからんな……。
 仕方がない、今はとりあえずこの話は棚上げだ。
 翔と青銅聖闘士たちはこちらへの移動準備を頼む。
 まずは、四日後の決戦に勝たねばならん」






 ギリシアの大地はオリーブに祝福されているという。
 事実、現在でもギリシアの大地に生えている木の大半がオリーブであり、次がオレンジといったところだ。
 かつてアテナとポセイドンがアッティカの土地を巡って争ったとき、アテナが大地より生やした植物がオリーブだとも言われている。
 もっとも、アテナは豊穣神ではないため、この伝説は多少の脚色を含んでいるとも言われている。

 現実はどうか。
 実のところ、オリーブ以外の木が生えるには乾燥しすぎていただけなのを、前向きに脚色したんじゃないだろうかと、上空からギリシアの大地を見ると考えてしまう。

 ほとんど同時にそんな思いを抱いて、まったく違う地方からギリシアに到着した二機の飛行機には、顔見知り同士が乗っていた。

「よお、奇遇だな」

 アテネ空港のロビーで観光客のような顔を装い、聖衣クロスを収めたスーツケースをゴロゴロ引いていた那智と蛮は、横からいきなり声を掛けられた。
 ギリシアに来たからには聖域関係者かとおもったが、正反対であった。

「あんたは、確か、ピアード……それに、アルレツオ」

 鯨座カイトスのピアード。
 大犬座メジャーカニスのアルレツオ。
 二人とも、聖闘士ではなく、星闘士である。
 那智がエチオピアで再会した旧友、狼星座ルーパスのテリオスの部下兼監視役を務めていたのだが、諸々の事情から直接拳を交えることはなく、わずかだが肩を並べて戦うことになった妙な間柄である。
 さすがに星衣クエーサーは纏っておらず、私服姿だ。

「お前たちは、Natchと、Bangだったか?」
「テリオスの変な発音を真似しないでくれ。那智と蛮だ。
 それより、なんでここにいるのかって……聞くまでも無かったな」
「まあ、そういうことだ」

 苦笑顔のピアードが軽く後ろを振り向き、親指でそちらを指し示す。
 そこには、

「ゼスティルム……!!」

 一般人が集まるところのため、極限まで小宇宙を抑えて目立たぬようにしていたのだろう。
 見忘れもしない壮年の男が、不機嫌極まりない表情でこちらを睨み付けていた。
 獅子座レオのゼスティルム。
 青輝星闘士のナンバー2だ。

 いや、彼だけでない。
 その周囲には男女合わせて30名近い集団が、ある者は興味津々で、ある者はゼスティルム同様の敵意を湛え、こちらへと遠慮のない視線を叩きつけていた。
 小宇宙を抑え込んでいても、並の観光客のように見えるものではない。
 そこに銀河が集っているのかと思えるほどの凄まじい存在感だ。

 ゼスティルムの背中を押さえている、自分たちと同年代の少年が、おそらく日本で瞬とやりあったという射手座サジタリアスのマリクだろう。
 さらに後方に控えている荷物がやけに多い男もおそらく青輝星闘士だ。
 しかし、どちらもゼスティルムに比べるといささか格で劣るように見える。

 青輝星闘士の長と言われるイルピトアが、いない……?

「久しいというほどではないが、少しは我らの宿命の敵にふさわしくなったか」

 星闘士たちを見渡して、わずかに気をとられた間に、ゼスティルムは間近に来ていた。
 ただ、マリクと思われる星闘士がゼスティルムを後ろから支えているように見える。

「言ってくれるな。
 あんたこそ、顔色が優れないようだが、大丈夫なのかい」

 那智は気圧されそうな足腰を踏ん張って、とりあえず精一杯言い返してやる。
 蛮はこのところ特に無口になっているが、別に闘争心が萎えたというわけではなく、那智の横に並んでゼスティルムに相対した。

「青銅聖闘士のヒヨコどもが、私の心配をしようなど百年早いわ。
 決戦の時には十二分に今の発言を後悔させてくれよう」
「ということは、今は本気で具合が悪いようだな」

 ゼスティルムの瞳がギラリと光った。
 しかし、光速の動きを持つはずのゼスティルムが、それ以上何もしなかった。
 まさか、この青輝星闘士ナンバー2が病にでも冒されているのではないかと那智は考えてしまった。

「正直に語った方が、かえって見くびられずに済みそうだと思いますがね、ゼスティルム様」

 他の人間の十倍ほどの荷物を引っ張っているあの男が横から割り込んできた。

「余計な口は挟まなくてよいわ、アーケイン」
「聞けませんな。
 我々は、ここで一蹴してもいっこうに構わないということくらいは、彼らにも解って貰わなければ」

 アーケインという名前は初めて聞くものだが、その態度はやはり青輝星闘士であると確信させるに十分なものだった。

「簡単なことだよ。
 ゼスティルム様は生粋の星闘士でいらっしゃるから、飛行機などという俗なものは身体に合わないのだ」

 などと言ったアーケインの態度はいかにも俗っぽいので、にわかには信じがたかったが、横から口を挟まれたゼスティルムの顔が底無しに不機嫌になったので、どうやら本当らしい。
 要するに飛行機酔いだ。

「というわけで……、ここで君らを一蹴しておいて、決戦前から聖域の諸君に恐怖して貰うという選択もあるわけなんだがな」

 アーケインはお世辞にも友好的とは言えない笑みをしつつ、右人差し指をくいくいと手前に向かって折り曲げて見せた。
 さらにどこから取り出したのか、えらく豪奢な扇子を手に左団扇なポーズをとる。
 那智はアーケインとの実力差を感じ取ってはいたが、このアーケインという男に生理的に反発するものを覚えた。

「ほう、おまえは飛行機酔いしなかったのか」
「試してみるか……?」
「待て待て待てい!!」

 アーケインと那智が一触即発の小宇宙を燃やし始めようとしたところで、双方の知らない声が割って入った。
 空港の警備員かと思ったが、顔に大きな傷痕のあるその声の主は明らかに小宇宙を発していた。
 男はアーケインと那智の間に割って入り、ゼスティルムに向かって一気にまくし立てた。

「星闘士たちよ、ずいぶんと気が早いではないか。
 教皇代行アステリオン様は、お前たちの使者アクシアスからの挑戦を正式に受諾された。
 焦らずとも、約束の期日には聖域の全戦力を以て迎え討ってくれる。
 しかし、それまでの間、アテネ市内において一切の破壊活動を行うことは、聖闘士の名に賭けて絶対に許さんと心得よ。
 それとも、星闘士は一般市民を巻き添えにしても意に掛けぬ邪悪の集団か?」
「ほー、ずいぶんと口が回る男が出てきたな。
 最初に挑発してきたのはそちらではないか」
「よかろう、この場でやり合うのは本意ではないわ。
 ここは収めろ、アーケイン」
「……仕方ありませんな」
「そちらの青銅二人の名は以前に聞いたが、お前の名を聞いておこうか」

 それは那智と蛮も気になっていたことだった。
 少なくともこの男と面識はない。

「現在、聖域の参謀を仰せつかっている、南冠座コロナストリアのパエトンだ」
「あんたがパエトン!」

 その名に覚えがあったので、那智は思わず声を上げていた。
 まだサガが聖域を掌握していた頃、青銅聖闘士……現在の神聖闘士たちを抹殺すべく、白銀聖闘士らを派遣するに当たって直接指揮を執っていた男の名が確かパエトンといった。
 サガの乱が終わった後、サガに荷担していた者の多くは、サガに騙されていただけに過ぎないということで、罪を問われることは無かったが、彼はあまりにも中枢近くにいたために、免職か謹慎かの処分を受けていたはずだった。
 それがこうして参謀を名乗っているところを見ると、アステリオンは本気で全戦力を結集させるつもりらしい。

 ともあれ、那智が驚いたのを星闘士たちは別の意味に受け取ったらしい。

「よかろう。覚えておくぞ、その名前を」

 アーケインとゼスティルムがわずかに顔を見合わせて頷き、星闘士たちは粛々と空港の外へ向かった。
 途中、ゼスティルムは一度足を止めて振り返り、蛮を睨み付けた。
 単に顔を向けただけかもしれないが、不機嫌な上にその迫力が睨み付けたというように見えた。

「今度は、みくびりはせぬぞ」

 静かに、だがはっきりと告げると、他の星闘士たちとは別の出口から出て行った。
 どうも、マリクが付き添って、他の星闘士たちとは別行動を取るようだ。
 ひょっとして、バスも苦手としていて、ホテルまで徒歩でいくのかもしれない。

「それじゃあ、三日後にな」

 ピアードは軽く那智の肩を叩いて、アルレツオともどもアーケインらの後を追った。
 それで那智は、旧友のテリオスがこの聖域決戦に参加しないことをほぼ確信した。

「済まない。助かったぜ、パエトン参謀」

 声を掛けたものの、彼はじっと星闘士たちの出て行った先を睨み付けたまま動かない。

「おい、この場はもう大丈夫なんじゃないか」

 聖域の参謀であるというパエトンとの関係を考えると、多少の敬語は使うべきなのかもしれないが、パエトンはかつて星矢たちを相手に色々と黒い噂のあった男である。
 那智はあまり敬語を使う気になれなかった。

「お前たち……」

 ぎこちない動きでパエトンは那智を振り返った。
 その顔にはずいぶんと汗が流れている。

「俺を聖域まで連れていけ……。腰が抜けて動けん」
「はあ……」

 聞いた二人は腰が砕けそうになった。

「なんなのだ、青輝星闘士というのは……。
 黄金聖闘士に匹敵するというのは誇張でもなんでもないではないか……。
 なんでこの世にはあんなに強い奴らがゴロゴロしているんだ……」

 どうやらパエトンは参謀を務めているが、あまり腕に自信があるわけではないようだ。
 しかし、頭が切れるのは間違いないらしい。

「あんた……、勇気あるな」

 那智が漏らした言葉は皮肉ではない。
 青輝星闘士四人を含む星闘士総勢約三十人を相手に、実力差をはっきりと認識しながらもあれほどの啖呵が切れるのは並大抵の度胸ではないのだ。






「アステリオン様、エチオピアから狼星座ウルフ那智と、子獅子座ライオネット蛮の二名が到着致しました。
 また、アテネ空港に到着した星闘士どもと偶然に面会し、アステリオン様のご意志を伝えました。
 なお、到着した星闘士の中にアルゴ座のイルピトア以下何名かが確認出来ないようであります」
「……そうか、ご苦労だった」

 教皇の間の玉座の横に仮置きした粗末な木の椅子に座りつつ、アステリオンは盛大に居心地の悪さを感じていた。
 パエトンは元々、白銀聖闘士らへの指揮権をも有していた男である。
 かつてはこの男に、頭ごなしに命令されたこともある。
 その男から、段の下に這いつくばるように深々と頭を下げての報告を受けるというのは、普通なら優越感を覚えるものなのかも知れないが、あいにくアステリオンはこれ以上偉くなりたくなかった。
 この男の再登用を決めたのはアステリオンであり、確かに跪かれるだけの事情はある。
 実際、決戦前の膨大な事務処理について、この男は大した才覚を見せていた。
 もちろん、そうでなければ双子座のサガに取り入ることなど出来なかっただろう。
 おかげでアステリオンは、忙しい中でも修行が出来る。

 しかし、シャイナやクリュスたちが、パエトンに対して向ける目はかなり厳しかった。
 サガに騙されていたというだけではなく、彼個人がかなりの権力志向者であり、いくつか好ましからざることを彼自身の判断で行っていたという観測がある。
 かくてシャイナたちは、パエトン再登用の条件として、アステリオンへの絶対服従を要求した。
 そしてアステリオンにも、馴れ合わないように教皇代行として上位の態度を取るようにと約束させた。

 アステリオンとしては、どうも着実に教皇の座に固定され始めているような気がしてならない。

 ともあれ、周りの心配ぶりに比べると、アステリオン自身はパエトンについてあまり心配していなかった。
 パエトンが権力志向なのは間違いないが、彼の考えや野心は、地上とアテナを守る聖闘士としての立場に立脚したものだからだ。
 かつてのサガやカノンのように、アテナを廃してでも覇者になろうという野望を持っているわけではない。
 あくまで彼自身はアテナの聖闘士のつもりであり、自分自身が望む形で聖域を運営したいというのが目下の目標らしい。
 仮に彼が教皇になったら、案外、身を粉にしてでも働きそうである。
 もっとも、現時点では人望が地に落ちてしまっているので、それにはかなり長い下積みが必要ではあるが。

 そんなわけで、彼を第三の教皇候補として擁立するという陰謀は、未だアステリオンの胸の中にしまわれたまま、誰にも知られていない。

「ところで、氷河と一輝にはまだ連絡が取れないか?」
「はっ。
 まず、キグナス氷河についてですが、シベリアにおける彼の保護者であるヤコフという少年に連絡をとったところ、どうやらアスガルドから帰還していない模様です」

 ブルーグラードが音信不通となり、その件についてポラリスのヒルダに尋ねるために、最適と思われる人材を派遣したのだが、どうも様子がおかしい。
 決戦を前に神聖闘士の一人を欠いているというのはあまりにも大きい損失だ。
 もしかしたら、アスガルドで星闘士と激突したのではないかという考えが頭をよぎる。
 何しろポセイドンの身体となったジュリアン・ソロを狙っていたくらいなのだ。
 それはそうと、神聖闘士キグナス氷河の保護者というのはどういう少年か、一度会ってみたい気もする。

「フェニックス一輝については、どこへ消えたやらさっぱり解らぬ状況が続いております」
「……どこかで助けになるかもしれんと思っておくか」

 こちらに関しては期待もしていなかった。
 しかし、最悪の場面で出てきてくれるのではないだろうかと、過去の記録から期待しておくことも出来る状況である。
 どうせ鳳凰を繋いでおくことなど出来そうにないのだから、放っておくしかなさそうだ。

「教皇代行、パエトン様、失礼致します!」

 取り次ぎの雑兵があわただしく駆け込んできた。

「お探しの者が一名見つかったとの知らせがただいま入りました。
 今……」
「俺を呼んだか、アステリオン」

 半開きになった扉にもたれかかるようにして、白銀の聖衣を着た男が斜に構えて立っていた。
 頬がこけ、少しやせたような気がするが、相変わらずの若白髪と、皮肉っぽいが憎めない笑顔は、確かにアステリオンが会いたかった男の一人だった。

「来てくれたか!スパルタン!!」

 喜びを満面にしたアステリオンは思わず椅子を蹴って立ち上がり、段を駆け下りてスパルタンに近寄った。

「おいおい、教皇代行がそれじゃあ、あまりに軽々しいぞ」

 ひょいとスパルタンが視線を向けると、今にもひっくり返りそうだった椅子がバランスを取り戻し、元通りの場所に収まった。
 スパルタン。
 念動力においては聖域屈指の実力を持つと言われた男で、おそらく牡羊座のムウ、乙女座のシャカに次ぐだろうとの定評が根強い。
 だが、サガの乱の折に星矢たちの抹殺を狙うシャイナらの後方支援を行ったものの、鋼鉄聖闘士たちに敗れ、行方不明になっていた。
 きっと生きていると信じて、アステリオンはパエトンらに命じて捜索させていたのだ。

「よく……生きていてくれた……!」

 しかしスパルタンは、アステリオンが差し出した手を前に、しばし、沈黙した。
 だが、アステリオンは手を引っ込めずに、まっすぐにスパルタンを見つめる。
 念動力ほど得意ではないが、スパルタンは多少のテレパシー能力もあるため、その心中は霞が懸かったようにアステリオンにも読めない。
 だが、解っているとでもいうように、真っ直ぐにスパルタンの瞳を見た。
 根負けして、スパルタンは口を開く。

「アステリオン……。
 俺はかつてアテナに弓を引き、何の禊ぎも果たしてない男だぞ。
 そんな俺に、再びアテナの聖闘士として戦えというつもりか」

 普段の調子からは信じられないほど義理堅いこの男のことだ。
 おそらく自分が許せなくて、ひたすらに禁欲的で自虐的な修行とすら言えない苦行を続けていたのだろう。
 間近で見ると、身体中に小さな傷が増えている。
 その苦しみあえぐ気持ちを、アステリオンはサトリの法も使わずに、心底よく理解できた。
 なぜならアステリオンも、かつてまったく同じ気持ちだったからだ。

「何も償いを出来ていないのは俺も同じだ。
 だが、黄金聖闘士たちが全て逝き、それでも続くこの最終聖戦の時代にあって、
 悲しむべきことに、いくらでも償う機会はあると思って、こんな服を着ている」

 教皇の仕事を代行するときには着るようにしている簡易法衣を示して、アステリオンはかすかに笑った。
 装飾の無い簡素なもので、最初はエルドースに無理矢理着せられたものだ。
 装飾のある正式な法衣は絶対に着ないという主張との妥協点である。
 だが、これを着ていると周りの雑兵たちも気の入り方が違うらしく、実を取って着るようにしている。

「一緒に、戦ってくれ。
 地上の愛と正義のために」

 星闘士との戦いは、主に守護星座をめぐる争いだと思っていたが、イルピトアはどうやら、世界に関わるとんでもないことをしようとしている。
 ならばこの戦いは、勝たなければならない。
 かつての幾多の聖戦において、そうであったように。
 それらの決意を込めて、アステリオンは言った。
 聖闘士となる者が必ず教えられる言葉であり、信条であり、信念を。

 魂を失っていない聖闘士ならば、その言葉をはねのけられるわけが無いではないか。
 スパルタンは、もたれかかっていた扉から一歩踏み出して、教皇の間に入り、がっちりとアステリオンの手をとった。

「我は牛飼い座ボーテスのスパルタン。
 この身命全て、地上の愛と正義のために!」





 次の一陣が到着したのは翌日である。
 そのときアステリオンはシャイナと深刻な話をしていた。

「……いいだろう。
 この戦いで果たしてくれるであろう功績を以て、聖域への帰還を認めよう」
「済まない、感謝するよ……!アステリオン」
「二度と悪さをしないように、おまえが首根っこひっつかまえておいてくれ」

 サガの行った善政部分にまで逆らうのは心苦しかったが、悩んだ末に書類にサインした。
 なりふり構っていないなと自分でも思う。
 非常時ゆえの判断だが、後になって非難される可能性は高い。
 だが、自分一人が罰を受けて済むことなら、今は何でもやるつもりだった。
 それでは済まないことも、多かったが。

「あと二日だ。間に合うか?」
「死んでも来い、って伝えるよ」
「それでは駄目だ。即座に戦えるように来いと伝えろ」
「……フッ、そいつはそうだね。五体満足で全力で来いって伝えるよ」

 大真面目なアステリオンの忠告に苦笑しつつ……もちろん仮面はつけたままだが、アステリオンには心理の方が見えている……シャイナは言い直した。
 アステリオンの実直な仕事ぶりは、シャイナにとって頼もしいと思えるようになってきていた。
 だが、さすがに次の瞬間、その気分に一陣の恐怖が差した。

「アステリオン様、到着しましたぞ!」

 はっきりと喜んでいることがわかるパエトンの声に振り返ると、そこにいるはずのない、いていいはずのない男の姿があったからだ。

「…………紫龍」

 五老峰で春麗とともに暮らしているこのドラゴンの神聖闘士だけはそっとしておこうと、星闘士との戦いが始まった折に言い交わしていたはずだった。
 なぜなら、この男はこれまでの戦いで、あまりにも傷つきすぎたのだ。
 光を失うことだけでも二回。
 今もその両目は閉ざされたままだ。

 死の淵を垣間見たことは幾度に及ぶか、本人も周りも数え切れない。
 おそらく、歴戦の戦士という点では、当代アテナの聖闘士の中でも随一であろう。
 それも、己の命をも燃やし尽くすような戦いばかりだ。
 これ以上戦わせれば、彼は必ず星矢の後を追うことになってしまう。
 それは誰の目にも明らかだった。

「アステリオン……あんた」

 その紫龍を引っ張り出してきた。
 あの春麗を再び泣かしたことは疑う余地が無い。
 もちろん、決定を下したのはアステリオンに他ならないだろう。
 教皇代行として、聖域を守るために全身全霊を賭けている彼としては当然の判断だ。
 だがそれでも、シャイナはわずかばかりの非難をわざわざ口にせずにはいられなかった。

「非難は受ける」

 アステリオンはそれだけを口にして、一切弁解しなかった。
 アステリオンは、きっと教皇にふさわしい。
 シャイナはこのときほどそう思ったことはなかった。

「……」
「シャイナさん。それ以上は、止めてください」

 紫龍とともに先ほど到着したはずが、何故か全身汚れてアザだらけになっている邪武が教皇の間に入ってきた。
 直接紫龍を説得してここまで連れてきたのは邪武なのだ。
 シャイナは彼にも何か言ってやりたくなったが、その顔を見て何も言えなくなってしまった。

「俺には解るんです。兄弟ですからね。
 戦えないつらさよりも、傷ついた方がずっといいって、気持ちが」
「決戦に呼んでくれたことを心から感謝する。アステリオン教皇代行」

 邪武のひそやかなささやきを肯定するように、紫龍はアステリオンに向かって深々と一礼した。
 聖闘士としての格は、明らかに紫龍の方が上なのだが、驕るところのない男だ。

「早速だが、報告しておかなければならないことがある。
 冥闘士が一人、生きている可能性があるようだ」
「何!?」

 余計な修飾を省いた紫龍らしい報告は、アステリオンの想像だにしない内容だった。
 名目上、紫龍の五老峰待機は老師と同様であり、ハーデス軍108の魔星を閉じこめた塔の監視だ。
 ハーデスの肉体が滅び、108の魔星も全て倒されて力を失っており、アテナの封印無しでも塔から動くことは不可能になっているはずだった。

「108の星の中で、一つだけ力を残しているものがあったのだ。
 おそらく三巨頭では無いと思うが、俺が戦った冥闘士のものではない」
「……」

 一輝がいつものように失踪する直前に言い残したところによれば、108の冥闘士に対応するシャカの数珠は、一輝がジュデッカを離れる際に全て色が変えておいたそうだ。
 その数珠は冥界崩壊とともに失われているが、あの男が見栄で嘘を言うとは断じて思えない。
 しかし、紫龍がそこまで言うのであれば事実だろう。

 冥闘士が生きている。
 もしくは、蘇ってきている。
 アステリオンはそれを事実と考えることにした。

 ではどこにいるのか。
 何をしているのか。
 真っ先に考えられるのは、やはり星闘士たちに身を寄せているという順当な仮説だった。
 思えば、星闘士たちの行動は的確にすぎる。
 そもそも、宣戦布告をしてきたエリダヌス座のシェインとかいう星闘士は、冥界での戦いの結果をほぼ正確に知っていたと聞いている。
 どうやってそんな情報を手に入れたのかはこれまで解らなかったが、冥闘士が一人でも生きているのなら、かなりはっきりとした情報源となる。
 イルピトアがその冥闘士を抱えている可能性はかなり高い。

 そういえば、冥界で思い出した。

「紫龍、その話についてはパエトンに改めて調査させよう。
 だが、その件とも関連して聞いておきたいことがある。
 冥界で、巨大な岩山を見なかったか?」
「岩山?」

 冥界の基本的な地盤は、植物一つ無い堆積岩か火山岩のようなものが延々と続いていたが、岩山というと、血の大瀑布の周辺くらいだろうか。

「信じてもらえんかもしれんが、この聖域の近くで最近死者が幽霊となって蘇ってきている。
 その死者から辛うじて聞き出したところによると、最初は濠にいたが、後に長大な稜線が続く巨大な岩山に来て……」
「……黄泉平良坂よもつひらさかだ」

 紫龍はアステリオンの言葉に、半ば無意識に返答していた。
 長大な稜線が続く巨大な岩山。
 それは、紫龍が過去何度も見た死の国の入り口、黄泉平良坂に他ならない。

「濠というのは、おそらく第七プリズンのマルポルジェだろう。
 しかし、順番が逆のはずだ。人は黄泉平良坂から冥界に行くはず」
「そうか……本来なら、逆なんだな」

 アステリオンは紫龍の説明で状況がほぼ飲み込めた。
 本来なら黄泉平良坂から冥界に向かっていた死者が、冥界の崩壊によって、逆戻りしている。

「紫龍、お前の私見で構わないから聞きたい。
 黄泉平良坂は、ハーデスの領域だと思うか?」

 難しい質問だった。
 冥界と黄泉平良坂では、どちらにおいても、失ったはずの視力が戻っていた。
 これは厳密に言えば目でものを見ているのでは無いためらしいが、環境はかなり近いといえる。
 しかし、阿頼耶識に目覚めなければならず、本来ならハーデスの戒律に従わされる冥界に比べると、
 デスマスクによって送り込まれた黄泉平良坂では、未熟な自分でも自在に動くことが出来たといえる。

 それに、以前太陽神アベルが沙織さんを死なせたとき、黄泉平良坂に干渉していた。
 同時に、その状況から黄泉平良坂に落ちる寸前の沙織さんを、星矢が救いもした。
 どちらも、ハーデスのお膝元ならば不可能だろう。

「違うと思う。ハーデスは黄泉平良坂を支配してはいなかっただろう」
「だとすれば、冥界が崩壊した今でも、黄泉平良坂は残っている可能性が高い」
「うむ」

 冥界はハーデスが作り出したものであり、ハーデスの肉体が崩壊するとともに崩壊していったが、黄泉平良坂はハーデスが作り出したものではないということになる。
 ならば、死者たちは今、黄泉平良坂にひしめき合っていることになるのではないだろうか。
 そこから溢れた死者が、現世にさまよい出てきているのでは無いだろうか。
 しかもそれはまだ限定的な現象で、星闘士たちが解こうとしている封印はそれに関わりがある。

「だとしたら……、星闘士たちの目的は、なんだ?」

 思わず口をついて出たアステリオンの疑問に答えられる者は、その場にはいなかった。

「出来れば、直接星闘士に聞いておきたいところだな」
「連中を生け捕りにしろってのかい」

 邪武の漏らした感想に対して、無茶を言うねとシャイナがため息をつく。
 元々戦力では圧倒的に劣るこちらが、そんな手加減など出来るわけがない。
 それに、星闘士の中には虜囚となることを極端に嫌う者もいるようだ。
 最初にアテナ抹殺を試みた一団で、瞬に倒された星闘士は、こちらがものを尋ねる前に自害している。

「確かにシャイナの言う通り、今は勝つことが優先だな。
 この数日は冥界にまで構ってはいられん。
 旅の疲れもあるだろうが、二日後には万全の状態に……邪武、なんだその格好は」

 体調を整えろと言おうとしたところで、今さらながらアステリオンは、戦闘直後のような邪武の姿に気がついた。

「バカ師匠と殴り合ってきた」
「聖闘士同士の私闘は禁止だ!!」





 アステリオンが手を尽くして探させている人物がスパルタンの他に三人いる。
 そのうちの一人を発見したという報告は決戦前日の午前に届いた。
 しかし、

「今さら老いぼれた身体で戻る気はない、とのことです」
「弟子二人を失って落ち込む気持ちは察するがな……」

 パエトンから報告を受けたアステリオンは落胆させられることになった。

「パエトン、お前は自分で会ったのか?」
「はい。ほとんど世捨て人のようになっておりました。
 私が説得しようとしても、頑固に首を横に振るばかりで」
「ふむ……少し待て。
 手紙を書くから届けてくれ」
「は?」

 アステリオンの真骨頂は、直接顔を合わせてサトリの法によって相手の心理を読み畳みかけることではないのだろうかと、パエトンは疑問に思わずにはいられなかった。

「元は俺たちを束ねていたお人だ。
 紆余曲折あってその座から転げ落ち、直接の弟子たちも失ったその人に、偉くなった私やお前が偉そうに会いに行ってどうする」
「はあ……」

 その辺の心理がわかるほどにはパエトンは歳を取っていない。
 だがアステリオンは、そのパエトンよりさらに若いが、そういった心の機微はわかるようになっていた。
 教皇代行をしている間に、速記は慣れてきたので、悩みつつも手早く書き上げる。

「出来れば信頼できる雑兵に託してくれ。
 それから……魔鈴はまだ見つからないか」
「はっ、申し訳ございません。
 まったくあの女、いったいどこをほっつき歩いているのやら」

 魔鈴にはかつて散々苦汁をなめさせられた覚えがあるため、この話になるとパエトンはとたんに口が悪くなる。
 一輝と並んで神出鬼没の人間だ。
 彼女が弟を探していることは知っているし、出来ればその助けをしてやりたいとも思うが、今は聖域にいて貰いたい。
 何しろ、アステリオン自身を倒したこともあるのだから。
 あいつがいれば戦力になる。
 アステリオンは、無理矢理そう考えている自分に気づかないふりをし続けることにした。





 スターヒルに佇む男がいる。
 髭は伸び放題でずいぶんと老けて見えるが、肉体はそれに反して若々しい。
 だが、このスターヒルは、代々教皇が星の動きを見て大地の吉凶を占う場所。
 黄金聖闘士といえども入り込むことは難しいとされる。
 かつて白銀聖闘士の魔鈴が入り込むときも、死とスレスレの決死行となったほどなのだ。

 地上から入るのであれば。

 男の身体に刻まれた傷は、それほど新しいものではない。
 スターヒルの頂上まで来るのに、この男はほとんど苦労しなかったことになる。

 聖域の中心地から離れたこの場所から、聖域全域が騒然としていることは容易にうかがい知れた。
 もっとも、そんな忙しい時にこのスターヒルを気にする者もいないから、彼はここに居ていられる。

 本来ならば、こんなところにいられる立場ではないのだ。

「アステリオン……、俺は、おまえらとは犯した罪の深さが違いすぎるんだよ……」

 ならば何故こんなところにいるのか。
 どれほどの大罪を犯したとしても、矛盾した心境に陥っても、
 俺は聖闘士だと、魂が叫んでいたからに他ならない。
 ハーデスとの戦いの折にも、誰にも知られることなくこのスターヒルを守るべくここに来ていた。
 逃亡者であるが故に、表だって姿を現すこともできない身に出来たことはそれだけだったが、黄金聖闘士たち同士の戦いに、何が出来ただろうかとも思う。

 だが、今度の戦いはどうか。
 黄金聖闘士は全滅し、十二宮を守るのは白銀聖闘士と青銅聖闘士。
 この身にまだ、出来ることがあるのではないだろうか。

 夕闇がゆるやかに迫る十二宮では、聖闘士たちが聖衣を装着して続々と教皇の間に集まりつつあった。





「青輝星闘士が四人も五人もいるような集団を相手に、こちらが集団で向かっても一瞬で全滅させられる可能性が高い。
 ゆえに今言った通り、十二宮に散らばって守ってもらう。
 十二宮には神話の時代からの加護がある。
 極力その加護を受けて戦えるように配置した。
 ただし、当然わかっていると思うが、連中をまとめて相手しようとするな。
 俺たちは獅子座のアイオリアでも乙女座のシャカでもない。
 決着を着けようとして来た星闘士たちを対決の雰囲気に乗せて、極力少数での戦いに持ち込め」

 朗々と、というよりは丁寧にアステリオンは語る。
 今教皇の間に集っている聖闘士の名を並べてみよう。

 神聖闘士、
 龍星座ドラゴンの紫龍。

 白銀聖闘士、
 猟犬星座ハウンドのアステリオン。
 蛇遣い座オピュクスのシャイナ。
 牛飼い座ボーテスのスパルタン。
 オリオン座のエルドース。
 小熊座アールサのクリュス。
 麒麟座キャメロディオのバルチウス。

 青銅聖闘士、
 南冠座コロナストリアのパエトン。
 一角獣座ユニコーンの邪武。
 大熊座ベアーの檄。
 狼星座ウルフの那智。
 海ヘビ座ヒドラの市。
 子獅子座ライオネットの蛮。

 この他、雑兵たちの指揮官級の者らが呼ばれていた。

 鋼鉄聖闘士巨嘴鳥座スカイクロスの翔は、近代科学に関わるスチールクロスを纏っていなければ十二宮に入ることが出来るということをこの数日で確信していたが、聖域全体を手薄にしすぎないためにも、彼は今完全装備で十二宮下の闘技場で待機している。
 今度の戦いにおける彼の役割については、この会合より先に指令済みであった。
 すなわち、聖闘士たちの医療施設、女神の泉を守り、一人でも死者を減らすこと。
 それはおそらく、十二宮とは別に聖域全体を制圧しようとする星闘士との、直接対決となるだろう。
 最後の生命線を担うその指令は、青銅聖闘士のサポート役鋼鉄聖闘士として望みうる最上のものであった。

 アステリオンは、翔をも含めた対応策を練り上げていた。
 本心を言えば、もう数人いて欲しい聖闘士が、まだ欠けてはいたが……。

「そこでパエトン、おまえは星闘士たちが白羊宮に迫ってきたところで火時計に火を付けろ」
「火時計を?しかし今回は特に……」
「そう、確かに時間制限があるわけではない。
 だが、この時代に十二宮の戦いは火時計と共にあった。
 十二時間で突破しなければならないという伝説ができあがったと言っていい。
 火時計に点火することで、星闘士たちを伝説で縛る!
 そうすれば、星闘士たちは心理的に突破を急がなければならなくなる。
 一対一に持ち込みやすくもなる」

 辛辣とも言える策である。
 かつて星矢たちはアテナの命を救うために、十二時間で十二宮を突破しなければならなかった。
 教皇シオンに率いられた黄金聖闘士たちは、十二時間以内にアテナの下へたどり着かなければならなかった。
 その栄光と嘆きの伝説をすら、逆手に取るというのだ。
 もちろん、諸刃の刃であることをアステリオンは承知している。
 伝説に縛られる恐れがあるのは、こちらもなのだ。
 十二時間以内と区切って、突破された伝説があるのだから。
 だがそのことはあえて口にしない。

「兵たちは、青輝星闘士たちが十二宮に突入するまで手を出すな。
 おそらく聖域全域の制圧のために、白輝星闘士と赤輝星闘士からなる制圧部隊を編成してくると思われる。
 パエトンは翔と連携して、十二宮以外の聖域各所を守れ。
 制圧部隊を全滅させたら、後から十二宮に突入だ」
『はっ!』

 パエトンと、その後ろに控える雑兵たちが一斉に声を上げる。
 聖闘士だけで守れる戦いではない。
 雑兵たちにもまた、厳しい戦いを凌いでもらわなければならなかった。

「みんなもわかっていると思うが、今、この奥にアテナはいらっしゃらない」

 玉座の後ろを遮る幕を振り返って、アステリオンは寂しそうに言った。

「アテナを守る聖闘士としては、この戦いに何の意味があるのかと思うかもしれない。
 何を守るために戦うのかと悩む者もいるかもしれない」

 それは、アステリオンが自問し続けてきた命題でもある。

「だが、ポセイドンとの戦いを思い出して欲しい。
 あのとき紫龍たちが海底神殿でアテナのために戦っているとき、黄金聖闘士たちは聖域を動かなかった。
 老師がハーデス復活の危機が迫っていることを予見していらっしゃったからだ」

 そのとき、アイオリアたち黄金聖闘士でさえ悩んだ命題でもある。

「ここは聖域だ。
 アテナがいらっしゃるときも、いらっしゃらないときも、ときの聖闘士たちが神話の時代から地上の平和を守り続けた砦だ。
 そのために、地上を狙う者たちにとっては何よりも倒さなければならない場所になった。
 ここは、地上の平和のよりどころなのだ。
 この地上を守るために散っていった幾多の聖闘士たちの思いは常にこの聖域を中心にあった。
 この聖域が崩れれば、そうして受け継がれてきた地上の平和を守るという心が途絶えてしまう。
 この戦いは過去の聖闘士たちの思いを受け継いで、未来へと繋ぐ戦いだ。
 神話の時代から、そして、先の戦いで死んでいった黄金聖闘士たちに至るまで、全ての聖闘士たちの思いを受け継ごう。
 今も、確たる証拠はないが確かに地上に危機が迫っている。
 だから今度も、聖域を守り、地上の平和を守ろう」

 至誠である。
 ある意味ではわかりきったことを確認した。
 それでも、迷いを捨てる一助となれたのではないかと思う。

 だが、本当に言いたいことはそれではない。
 そこでアステリオンは教皇代行の法衣を脱ぎ捨てた。
 その下に着ているのは、言わずと知れた、猟犬星座の白銀聖衣。

「ここからは訓辞でも命令でもない。
 この同じ時代に、共に地上の平和を守るために肩を並べて戦う友たちにこれだけは言っておきたい」

 玉座のある段から降り、皆と同じ高さに立って、アステリオンは全員の顔を見渡し、約束のように叫んだ。

「必ずまた、生きて会おう!」
『おおおおおお!!』

 言葉にならない誓いが、教皇の間を一つに揺らした。







 翌朝、午前九時丁度。
 ギリシア各地の博物館や遺跡が開館になる時間である。

「……来たか。律儀な奴らだ」

 幾重にも聖域を守る結界の最外部で、二つの炎が吹き上がった。

『アーク・プロミネンス!!』

 青輝星闘士二人がかりの炎を受けてはさすがに持ちこたえられるわけがない。
 教皇の間の玉座横に座っていてさえ、銀河団が迫ってくるような威圧感と存在感とをはっきりと認識できる。
 決戦の始まりだ。



第二十一話へ続く


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