聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第十九話、神話の遺伝子」




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「ということは、ポセイドンが完全に復活したわけではないんだな」
『ああ。
 ソレントが言うには、辛うじて顔を出すことが出来るって程度らしいぜ』

 元来青銅聖闘士ブロンズセイントのサポート役として作られた鋼鉄聖衣スチールクロスは全て、衛星回線を通じて通信する機能を有している。
 聖域サンクチュアリの中核や海界などの、神話が色濃く残る場所では無理だが、それ以外の場所ならばほとんど問題はない。
 今、沙織警護の都合から沙織の部屋の隣に設置された衛星対応会議室で、一角獣座ユニコーンの邪武と旗魚座マリンクロスの潮の二人が通信している相手は、エチオピアのホテルから子狐座ランドクロスの機能を使っている大地である。
 ちなみに、壁に掛けられた120インチクリスタルボードの向こうもこちらも、全員包帯姿である。
 会議室にいる二人はエリスとの戦いでかなりの手傷を負い、大地とその横にいる狼星座ウルフの那智と子獅子座ライオネットの蛮も星闘士スタインとの戦いで浅くは無い傷を受けている。

「ソレントと話が出来たということは、彼は味方になってくれるのか?」
『あいにくとそこまでは無理だ。
 あいつも七将軍最後の一人として、ポセイドンとジュリアン・ソロを守らなければならんからな』
「それもそうか……」

 潮のささやかな期待は、大まじめな顔をした蛮の正論で否定されてしまった。

『ソレントが言うには、
 ジュリアン・ソロに危害が及ばぬ限り、聖闘士セイントと星闘士との戦いにこれ以上関与するつもりはないが、
 この地上を守るために出来ることがあれば、そのときはポセイドンとともに力になろう、
 ……ってことだ』
「好意的中立というところだな」
「アステリオンにもそう報告しておこう」
『念のため、ソレントにはうちの衛星携帯を一個持ってもらったぞ』

 三つの鋼鉄聖衣の中でも、最も載積容量の大きなランドクロスは、様々な備品を積んでいる。
 グラード財団が管理する携帯端末も、予備を兼ねて複数搭載していた。

「おい大地、衛星から向こうの居場所を突き止められるってことは伝えたか?」
『あとでばれて殺されたくないからな。先にちゃんと喋っておいたよ』
「なるほど。ならそれでいい」

 聖闘士と海闘士マリーナの会話手段として、それにふさわしく小宇宙コスモによる精神感応テレパシーなどが使えればいいのだが、あいにくと生き残った聖闘士にこれを使える者がほとんどいないので、結局これが現実的な手段となる。
 鋼鉄聖衣の開発を麻森博士に依頼した故城戸光政が、ここまで想定していたのかも知れないと考えると、邪武は複雑な心境に陥る。
 未だ活動もままならぬ沙織に代わってグラード財団に関する仕事をこなしていると、さすが光政翁のご子息だ、と言われることが多いのだ。
 すごいとはわかっても、尊敬することは難しい親である。
 それ以上考えたくないので、話題を切り替えることにした。

「主従逆転した感はあるが、問題の遺跡の方はどうなった?」

 元々、大地、那智、蛮の三人がエチオピアの向かったのは、そこにある星闘士関連らしい遺跡を調査するためであって、ポセイドンとの遭遇は想定外の事件だったのだ。

『それが……な』

 画面の向こうの三人の顔がとたんに暗くなったので、邪武と潮はただならぬことだと察した。

『ちょっと説明しづらいんだ。
 まあ、見ればわかると思う……』

 そう言って大地は、送信する映像を録画していたものに切り替えた。
 それからわずか数秒で、邪武と潮の表情はエチオピアの三人と同様に暗くなった。

「なるほど……」
「見ればわかるとは、こういうことか……」

 クリスタルボードに写し出された光景が、確かに筆舌に尽くしがたいものだったからだ。
 あえて無理矢理に表現するのならば、

「冥界が現出したとでもいうのか……」

 草花は全て枯れ、人も動物も骨と皮ばかりになり、大気には瘴気が満ちていることが映像越しにでもわかる。
 もし直に見ればさまよっている魂の欠片も見えるのではないだろうか。

『瞬に尋ねてみればわかりそうじゃないか?』

 映像はそのままで、無理矢理冗談を言おうとして失敗した大地の声だけが送られてきた。
 確かに神聖闘士ゴッドセイントたちは本物の冥界を見てきたわけだが、

「無理だ。
 さっきも言ったとおり、ジュネがエリスに攫われたんでな。あいつは今落ち込みまくっている」
『……そっちはそっちでえらいことになってんだな』
『あらかじめ警告されていたから俺たちは取り殺されずに済んだが、
 長時間いたら危なかっただろう』

 大地の横から口を入れたのは那智である。

「ジャミールで市たちが倒した星闘士たちが、次々と魂になって飲み込まれたのとは微妙に違う気もするが……。
 肝心の、遺跡の中の映像は撮れたか?」
『ああ、今送る』

 次に大地が送ってきた遺跡の映像は、ブルーグラードやジャミールにあった遺跡の姿とほぼ同様のものであった。
 アテナの封印が貼り付けられていることからも、ほぼ同じ役割を担っていることがわかる。

「まだ、封印は解かれていないんだな」
『紙一重というところだがな。
 封印の周辺を守っていた柱は全壊され……しているが、封印そのものは残っている』

 那智は一瞬言いよどんだ。
 状況から見て、この封印を解きに来たのが旧友でもある白輝星闘士スノースタイン狼星座ルーパスのテリオスらであることはほぼ確実だ。
 だが、二つの点で解せない。
 一つは、何故あのテリオスがこんな非道に手を染めたのかということ。
 もう一つは、何故完全に封印を解かなかったのかということ。

 そこで、もう一つ思い出した。
 星闘士が何をしようとしていたのか、そのヒントを貰っていたのだった。

『一つ、星闘士の活動について解いて欲しい謎があるんだ』
「謎?」
『俺の旧友が教えてくれたんだが、
 M、TH、OGI、Al、GEN……これは何を意味すると思う?』

 潮は言われたアルファベットを手元の端末に打ち込んで一瞬考えた後、

「Mythological……だな、途中までは」

 神話の、あるいは、神話に関する、の意味である。

「GEN……geniusか、generationか……」

 キーを押す手がそこではたと止まった。

「……Genome?」

 ある意味では、神話の対極に位置する学術単語、遺伝子、である。

「神話の……遺伝子?」






 青輝星闘士シアンスタイン獅子座レオのゼスティルムは今の根拠地が嫌いであった。
 表の顔はヨーロッパの裏社会で活躍する占星術師である。
 この地の気候は、星闘士としては高齢の部類に入る身体にはいいのかもしれないが、性に合わないということはあるのだ。
 これがせめて地中海沿岸であれば、神話の闘士星闘士として、もう少し気の持ちようがあるのだが。
 それが顔にはっきりと出たのだろう。

「不機嫌そうですな」
「分かりきったことを聞いてどうする」

 横から尋ねているのと揶揄しているのとどちらともとれる声がかけられて、ますます不機嫌になる。
 声を掛けてきたのは、白輝星闘士狼星座ルーパスのテリオス。
 元はジャーナリストだったという、異色の経歴を持つ星闘士だ。
 もっとも、今の星闘士には異色に過ぎる経歴を持つ者が多すぎる。
 それもまた、生粋の星闘士であるゼスティルムの不機嫌さに拍車を掛ける事実となっていた。

「Sorry,コメントを求めるのは身に染みついた習性でしてね」

 そのテリオスは、星座を同じくする青銅聖闘士狼星座ウルフの那智との戦いで受けた傷がまだ癒えておらず、赤輝星闘士クリムゾンスタイン大犬座メジャーカニスのアルレツオに肩を借りている。
 この状態でよくも口が減らないものだ。
 空港から途中までは、赤輝星闘士カイトスのピアードが自動車……これもゼスティルムは気にくわない……を運転して来たが、人里離れた山中にある以上、最後は徒歩になる。
 標高が上がって気温がやや下がってきたので、少しゼスティルムは機嫌を戻した。
 この地にはあまりふさわしくない、東欧風の居城が見えてきて、ゼスティルムはかすかに首をかしげた。

「イルピトアめ、どこをほっつき歩いている」

 青輝星闘士のナンバー1、アルゴ座のイルピトアの小宇宙が感じられなかったのだ。



「あら、おかえりなさいませ、ゼスティルム様」

 のんびりとした声でロビーに入ってきた四人を出迎えたのは、青輝星闘士乙女座のイルリツアである。
 星衣クエーサーは纏っていないが、不機嫌さを全面に漂わせているゼスティルムに平然と声を掛けられるのは、やはり並の胆力ではないなとテリオスは舌を巻いた。
 もっとも、イルリツアは幼少の頃からゼスティルムと知り合いであるので、話しかけやすいということはある。
 幼少のころから知っている彼女に清楚な笑顔を向けられては、ゼスティルムも多少は機嫌がよくなるというものだ。

「ご無事とは言い難いようですが、お疲れ様でした」
「人が疲れてきている間に、そなたの不良兄はどこへ遊びに行っているか知らぬか」

 不良兄とは、言わずと知れたイルピトアのことである。
 イルピトアとイルリツアの兄妹、そしてゼスティルムの三人が、星闘士の中でも最も正統な流れを受け継いだ者であり、特にイルピトアとゼスティルムの二人が今の星闘士組織の屋台骨を作ったと言ってもよい。
 だが、イルピトアとゼスティルムの関係は、このところあまり良好なものとは言えなかった。

 実はその原因の一つに、テリオスも絡んでいる。
 イルピトアが集めているのは、ジャンゴやユリウスといった、本来なら星闘士の正統からはかけ離れた面子が多いのだ。
 テリオスも、その正統からかけ離れた面子の一人である。

 星闘士の組織は、星闘士の双璧たるイルピトアとゼスティルムの関係を取り持っているこのイルリツアが支えていると言っても過言ではない。
 などと、ジャーナリストめいた思考でテリオスは考えていた。

「兄様は里帰りついでに陛下のご様子を見てくると言っておりましたわ」

 そう、星闘士の上に立つべき者が不在である今はなおさら。

「ついでとはいい身分だな、あやつは」
「ところでゼスティルム様、作戦の首尾は?」
「髪の毛をピアードが持っているので彼から受け取ってくれ。
 私は少し休む」
「わかりました」

 ゼスティルムが子獅子座ライオネットの蛮から受けた傷もそう浅くない。
 彼を恭しく見送ってから、イルリツアは残る三人に向き直った。

「怪我の割には、ずいぶんと機嫌が良さそうね、テリオスさん」
「古いFriendに会えたんでね。
 まあ、またジジイの不興を買うことになったが」
「ゼスティルム様をとりなすのは私なのですけれど」
「よろしく頼むよ、Miss Lits」

 星闘士としての格はイルリツアの方が上なのだが、テリオスは彼女の兄イルピトアと友人づきあいしているので、こういう話し方で落ち着いている。
 元々、あまり権力には頓着しないテリオスであった。

「ユリウスに診てもらってくるから、ピアード、それpass」

 かなり色々と苦労して手に入れることになったジュリアン・ソロの髪の毛は、殺菌消毒した布で丁寧に包んである。
 遺伝子工学で博士号を取っているというユリウスは、本来、医療と遺伝子工学はかなり分野が違うにも関わらず、周囲の遺伝子工学に対する全面的な誤解によって医者を兼任させられていた。
 テリオスはその辺の事情は知っていたが、ユリウスの目が確かなので任せることにしていた。
 押しつける、とも言う。
 アルレツオに肩を借りっぱなしというのも情けないので、一人で歩いてユリウスのところに行こうかとしたときに、別の小宇宙が帰ってきた。

「マリクか」

 入ってきたのは、確かに射手座の青輝星闘士である少年だったが、表情にいつもの快活さがまるで見えなかった。
 マリクが出向いたのは、聖闘士たちの本拠の一つ日本であるため、任務に失敗したのではないかと誰もが考えた。
 だが、マリクの星衣にはそれほど傷んだ様子が無く、この少年が戦いもせずに逃亡したとも考えづらかった。
 そうなると、

「何が起こった、マリク」
「イルピトアから聞いていないの……?」
「What?あいつなら今ここにいないぞ」
「……そう。
 エリスが復活した」
『!!』

 アルレツオとピアード、それにイルリツアは驚いたようだったが、テリオスはあまり驚かなかった。

「それで、奴はどうなった」
「一角獣座ユニコーンの邪武に撃退されて逃げた。
 ジュ……、聖闘士の一人を配下に引き込んで」
「!!……アクシアスが喜びそうだな」

 今度はテリオスも驚愕させられた。
 最初の交戦で邪武に撃退されて以来、奴を倒すとの一念で修行に明け暮れている白輝星闘士バイコーンのアクシアスがこの話を聞けば、さらに修行に熱が入るだろう。

「マリクくん、そんなに落ち込まないで。
 やるべきことはちゃんとやってきたんでしょう?」
「はい。絵梨衣さんの髪の毛はここに」

 イルリツアはマリクから布包みを受け取ると、離れていたテリオスの近くまでわざわざ来て手渡す。

「じゃあ、テリオスさん。これも一緒にお願いします」
「OK」
「……テリオス」

 出て行こうとしたテリオスを、青輝星闘士の声をしたマリクが呼び止めた

「テリオス。エリスの復活を予想していたの?」
「この最終聖戦の時代に、もう何が復活しても驚かないね」
「……」

 冗談で済まそうとしたテリオスに、静かな視線が突き刺さる。

「わかったわかった。
 実は、解くことはできなかったがエチオピアの封印を少しだが調べられてな。
 ……あれが陛下の封印以外にも色々封じていることは知ってるな。」
「それぐらいはゼスティルムから大まかに聞いて知っている」
「そのうち、エリスに関する封印だけがえらく弱まっていた。
 エリスは先日二度も動き回っていたくらいだからな。
 そのせいだろうが、目覚める可能性はあると思っていた」
「そう……」

 音に出た声は決して納得したものではなかったが、マリクはそこで鉾先を収めた。

「マリクくん、ゼスティルム様は先ほどお休みになられたから、
 報告を聞くのはあの方が起きられてからでいい?」
「わかりました。……ありがとうございます」

 そう、陛下への言い訳はイルピトアがやると言ってくれたが、ゼスティルムへの申し開きは自分でしなければならない。
 一対一でゼスティルムに報告せずに済むことを安堵している自分を、マリクは否定できなかった。





「どっちも髪の毛だけか」

 絵梨衣とジュリアンの髪の毛を受け取ったユリウスの開口一番がこれである。
 正直と言えば正直だが、これにはさすがにテリオスも脱力させられた。

「そう言うな。こっちもかなり苦労したんだぜ」
「確かに遺伝子配列を調べるにはこれでもなんとかなるがな。
 こちらの常識を裏切ってくれる血の特殊性を調べてみたかったものだ」
「アーケインに期待してろ」
「そうしよう」

 アスガルドに向かったアーケインたちが帰ってくるのはかなり遅れることだろう。

「では早速解析するか。シェイン、始めるぞ」
「りょーかい」

 白輝星闘士エリダヌス座のシェインが、ユリウスに呼ばれてひょいと現れた。
 もっとも、星衣を纏っていないので場違いなお子様にしか見えない。
 呼んだユリウスにしても白衣姿の研究者そのもので、これまた蠍座の青輝星闘士には見えない。
 そしてまたこの部屋も、分析機器と解析用のコンピュータとが主な住人だ。
 シェインが慣れた手つきで次々と機器を立ち上げる。

「Hey, オレの手当は?」
「後だ。ひとまず隣で寝てろ」
「これだから学術野郎ってのは……」

 テリオスがあえて聞こえるようにぼやくがユリウスはまったくこたえなかった。

「私とシェインが星闘士となってまで求めた答が、ようやく出るやも知れぬのだからな……」

 あまりに神話からかけ離れた光景の中で、静かに神話への挑戦が始まった。





 外観が東欧風である城の中でありながら、あえて室内の内装としてギリシア風の列柱を壁の前に並べたこの部屋は、暗黙のうちに青輝星闘士専用の会議室となっている。
 要するにゼスティルムの趣味に合っているらしい。
 そのゼスティルムは、マリクからの報告を聞き終え、元々皺の目立ってきた顔にさらに皺を刻んで考え込んでいた。
 この部屋にはさらにイルリツアと、ジャミールでの傷が癒えた牡牛座の青輝星闘士グランドが列席している。
 イルリツアが、目覚めたゼスティルムに言われてマリクへ取り次ぐついでに、グランドを引き連れて参加を求めたといういきさつである。
 本心はと言えば、マリクの処刑を二人がかりで止めることになるかもしれないと考えていたイルリツアである。

 神話から外れたユリウスの居室とは対照的に、こちらは全員星衣を纏い、星衣の鋭角に削られぬように表面を磨き上げた大理石の椅子に座っている。
 星衣に当たると破れてしまうので、クッションに相当するものは無い。
 そのため、あまり座り心地がよいものではなかった。
 くつろぐことが目的の会議室ではない。
 そして、机も無しに椅子だけが向かい合っているため、資料を眺めるための会議室でもない。

「……マリク」

 その腰の痛くなりそうな椅子の上でほぼ静止したまま十数分は考え込んだ後、ゼスティルムは重々しく口を開いた。

「そなたは、それが正しいと思ったのだな」
「はい」

 イルピトア以外の全星闘士を圧倒する小宇宙を湛えた視線であり、十年近く前にマリクを拾い上げた視線であり、マリクに星闘士としての全てを教えた視線でもある。
 その視線をこらえるために、マリクはわずか一単語に気力を振り絞って返答した。
 ゼスティルムは、その声よりも小宇宙を見ていたのかも知れない。

「……よかろう。今度だけは許す」

 その言葉に、マリクよりも左右にいる二人がほっと息をついた。

 陛下との繋がりの深いエリスと一戦交えたという事実にどう対処するか、ゼスティルムにも妙案があったわけではない。
 だが、このことで星闘士全体がエリスの不興を買うことになるとは思わなかった。
 マリクの報告を聞く限り、エリスは間違いなく聖闘士たちに狙いを定めている。
 それに、もし不興を買ったとしても、それはやむを得まい。

 人間は所詮、神々の道具なのだ。

 そう心中で呟いて、ゼスティルムは会議室を後にした。

「ずいぶんと、思い切ったことをしたな。マリク」

 ゼスティルムの小宇宙が遠ざかってから、グランドは万感を込めつつ声を掛けた。
 非難しているのではなく、どちらかといえば賞賛の色が濃い。

「グランド、あなたは自分の意志で神々に従うのと、操られるのとどちらがいいと思うんです?」
「そう言われてはな。
 我はゼスティルム殿ほどには達観も諦観もできんよ」
「それより、エリスがあなたに何を見たのかが気になるわ。
 あれから何か思い出せそうにないの?」

 マリクが記憶を失った状態でゼスティルムに拾われたことは多くの星闘士の知るところである。
 しかし、当のマリク自身はその問いに肩を落とした。
 それは、思い出せないからではなく、

「……怖いんです。何か思い出してしまうのが。
 思い出したら、僕は星闘士でいられなくなってしまうような気がして」
「律儀だのう、おぬしは。
 そう思えているうちは、おぬしが星闘士でいられなくなることなどあるまいて」
「……ありがとう、グランド」

 身長で遙かに勝るグランドに、子供扱いされるように頭を撫でられたことを不快に思うよりも、今はその言葉が嬉しかった。





 イルリツアの不良兄ことイルピトアが帰ってきたのは二日後のことである。

「手厚い出迎え痛み入る」

 正面玄関で立ちはだかるように出迎えたゼスティルムの姿を見つけて、イルピトアは苦笑した。

「陛下に首を刎ねられて帰ってくると思っていたぞ、イルピトア」
「あいにくと陛下からの信には自信があってな」

 この不真面目な男がどうやって陛下の信を得ているのか、ゼスティルムですら理解に苦しむところであった。
 確かに現在星闘士となっている者の数を多く集め、また、アテナの聖闘士たちの動向を事細かに調べ尽くしたその活動は認めるところである。
 だが、違和感が拭いきれないどころか、疑念に確信を帯びてさえくるのだ。
 イルピトアという男は、まるであの双子座ジェミニの黄金聖闘士ゴールドセイントサガのごとく、二つの心を持っているのではないかと思うほどに。

「陛下のご様子は如何様であったのか」
「エチオピアの封印が七割方解かれたことで、聴覚を取り戻されつつあったな」
「まだカノン島から動かれること叶わぬのか?
 陛下がブルーグラードに赴かれてから何週間になる」
「カノン島の伝説くらい私も知っている」

 地中海カノン島の噴煙の中に七日七晩身を置けば、あらゆる凍気凍傷から解放されるというのは、神話の時代から伝承として聖闘士海闘士冥闘士スペクターを問わず伝えられている話だ。
 だが、星闘士の奉じる神がブルーグラードの白銀聖闘士シルバーセイントアレクサーによって受けた凍傷を癒すためにカノン島に入って、十日やそこらではない。

「それが伝承通りにいかぬのは、仕掛けた聖闘士の執念の賜物としか思えん。
 そもそもこういう話は、低温と高温の違いこそあれ、お前の方が得意分野だろう?」
「凍気について知りたければ神聖闘士のキグナスでも生け捕りにするのだな。
 それとも、今度は凍気の使い手でも探してくるか」

 ゼスティルムの言葉は、そこら中から素性も問わずに人員をかき集めたイルピトアへの皮肉が約八割を占めていた。
 しかし、言われた方はへこたれるどころか、表情が上向いた。

「そうだな。そういえば、リザリオンが凍気を使えたはずなのであとで聞いておこう」
「……ジャンゴの件で問い詰め忘れておったが、まさか奴は水瓶座のカミュの一党だというのではあるまいな」
「まさか。海将軍ジェネラルクラーケンのアイザックの死は複数の海闘士が確認しているだろう」

 貴様なら本気でやりかねん、という小宇宙が喉元に突きつけられているのに、イルピトアは平然と答えた。
 海界崩壊の折に、七将軍ではない数人の海闘士を保護しているので、海界における戦いの大まかな顛末と、何人かの七将軍の死亡は確認されているのだった。
 おそらく現時点で生きている海闘士は海魔女のソレントただ一人であろうとゼスティルムは考えている。
 ただ、今わざわざここでソレントと痛み分けたことをイルピトアに話すのは癪だった。

「で、わざわざこの時期に里帰りなぞしていた理由を聞かせてもらおうか。
 マリクが言うには、実家でエリスの復活を察知していたらしいではないか」
「お前の嫌いな話になるがいいか?」
「何?」
「先日、グラード財団の技術をいくつか拝借して、人工衛星を一つ打ち上げてな。
 これで環太平洋の小宇宙の動きはあらかた察知可能になったというわけだ」

 とたんに渋面を作るゼスティルムである。
 メカ話は苦手であり嫌いであった。
 しかし、それでごまかされるような浅い人生経験ではない。

「そんなことをしに、誰もいない実家に戻っていたというのか?」
「……」

 ゼスティルムが、誰もいない、ということをことさら強調して告げると、イルピトアの顔から感情がすっと消えた。

「お前が、それを言うのか、ゼス小父」

 読みとれる感情こそ消えたが、笑っていた目が鋭利に研ぎ澄まされ、ゼスティルムを除く他の星闘士を圧倒する小宇宙がゆらりと立ちのぼる。

「言わねばお前は決して明かさぬ。昔からそうであったであろうが」

 彼我の距離は1メートルも無い。
 親子ほど年の離れた二人だが、身長はほぼ同じ。
 目線の高さもほぼ同じ。

 光速拳はおろか、あと一歩の踏み込みで肉体そのものが直接激突し得るその中点で、青輝星闘士の双璧たる青い小宇宙が触れあうことによる燐光が、徐々に徐々に強さを増していく。
 特に、視線のぶつかり合う顔にはまばゆい影が幾度も差した。
 その向こうにあるイルピトアの瞳を読もうとしたゼスティルムだが、しかし、目的を果たせなかった。
 占星術師として、マリクの師でもあるゼスティルムでも。

 クワッ!!
 カカアッ!!

 威圧だけで済ますつもりだったとしても、双方共にそれで済む実力ではない。
 二人の両目がカッと見開かれたその直後、いや、ほとんど同時に、

 ギイィンッ!

 数十センチにまで縮まっていた二人の間を、斜め上空から黒い物が光速ですり抜けて、床の大理石に突き刺さった。
 片手で扱うことを前提とする細身の槍だが、二人の小宇宙が激突する間を貫くからには生半可な武器ではないことは明白だ。
 星闘士の中で、こんな物を持っている者といえばただ一人。

「アーケインか……」

 二人同時に、激突する視線を外して上空を見やれば、そこには燃えるようなたてがみをなびかせる鬼面の天馬と、それに牽引される馬車が地上十数メートルほどの高度を保って浮かんでいた。
 星衣を馬車として御者を務めているのは白輝星闘士御者座アウリガのザカンであり、馬車の後ろで今し方槍をぶん投げた姿勢で二人を見下ろしているのが、青輝星闘士天秤座ライブラのアーケインであった。
 どうやらアスガルドからようやく帰還してきたらしい。

「オレにこれ以上面倒な葬礼をさせるな」

 見覚えのない武器を手に入れてきて、さぞかし機嫌がよいだろうとイルピトアもゼスティルムも思ったのだが、意外にもアーケインはとことん機嫌が悪かった。
 そしてまた、手綱を取るザカンの表情も、アーケインに勝るとも劣らぬ険しさだった。

 その理由は、馬車の搭乗員を確認してすぐに判明した。
 赤輝星闘士とはいえ、女性の星闘士はやはり数が少ないため目立つ。
 同行していたはずの髪の毛座コーマのティアムの姿が、並ぶ赤輝星闘士の中に無い。

 アーケインの言葉を信じるのならば、何が起こったのかは明白だ。

 ザカンが無言のままで天馬を繰り、馬車を地上に降ろしたが、ザカンとアーケインとの間で張りつめた空気が重すぎて、同行していた赤輝星闘士たちは顔を見合わせるばかりでイルピトアらに報告することも出来なかった。
 イルピトアはその張りつめた空気を緩めるかのように一度嘆息してから、単刀直入に尋ねた。

「首尾は?」
「これがヒルダの血液。こちらがキグナス氷河の血液だ」
「……、ご苦労」

 差し出された二枚のハンカチとともに告げられた二つ目の名前が意外だったために、イルピトアの手はそれらを受け取る前に一瞬だけ止まった。
 用は済んだとでも言うように歩き出したアーケインは、先ほど投げつけた槍を床からしっかり引き抜いて、城内へ入っていった。
 後ろ姿を見たところ、見慣れない武器があと二つほど増えているので、戦利品は十二分のようであったが。

 続いてザカンは無言のままでイルピトアとゼスティルムに向かって一礼し、天馬から鞍を外して外庭の厩舎へと連れて行った。
 その動作の間中、にじみ出る純白の小宇宙が、もう少しで白輝星闘士と青輝星闘士の間を分ける壁を突き破るかもしれないと思わせるほどの気迫をたたえていた。

「さて、何が起こったのか説明してもらえるか」

 二人が去ってから、アスガルドに同行した赤輝星闘士のうち、ティアムに次ぐ実力者であった楯座スキュータムのリーガンに声をかけたイルピトアだったが、

「申し訳ございません……。
 私たちはオーディーンローブとやらに遮られてアスガルドに入ることが出来ず、アーケイン様に同行出来たのはザカン様とティアムだけだったのです……」
「北の聖域未だ健在か……。ご苦労だった」

 アーケインとザカンに挟まれて胃を痛めたであろう三人の労をねぎらって、彼らを先に城内へ向かわせた。
 そして、

「どうだった?」

 イルピトアの声に応えるように、その場に残されていた馬車の中から、ふわりと一羽の蝶が姿を現したのでゼスティルムは仰天した。
 色と呼べるものが全て抜け落ちた蝶……いや、今はうっすらと虹めいた光彩を纏い始めている。

「イルピトア、貴様、彼にアーケインを監視させていたのか!」
「アーケインはあの通りの性格だからな。
 それでもティアムの戦死を防げなかったのは私の目算が甘かったようだ」
「……」

 蝶が二人の周囲をゆらりと舞い、アスガルドにおける顛末を映像を伴ったテレパシーで伝える。
 神闘士最後の一人、ゼータ星アルコルのバドの生存は、二人にとっても衝撃的な事実であった。
 海将軍セイレーンのソレントと並んで、おそらく現在生き残っている面子の中では最強クラスの実力者だろう。
 彼がいるところに赤輝星闘士を引き連れて行かせたのは、管理者であるアーケインが不真面目だったとはいえ、確かに失策と言える。
 神聖闘士の一人、白鳥座キグナスの氷河もいたのではなおさらだ。

 しかし何よりも、ポラリスのヒルダがオーディーンローブを纏った光景は、さしもの二人も絶句させられるものであった。
 青輝星闘士が総出で挑んだとしても、果たして勝てたかどうか。
 イルピトアの歯がギリリと重く軋んだ。

「これが、オーディーンか……っ!」
「一時的なものらしいのが幸いと言うべきだな。
 ポセイドンの勢力下に甘んじていたとはいえ、さすがは世界の氷を統括する神だけのことはある。
 ヒルダを殺さずに済んだのだから、当面は良しとすべきだろう」

 予想以上のイルピトアの激情を見て、逆にゼスティルムは冷静になった。
 ギロリとイルピトアの瞳がゼスティルムを向いたが、二呼吸ほどして、ようやく冷静になったらしい。

「ティアムの葬礼は終わったのだな……」
「ジャミールでの犠牲に続いて、さらにこちらの敗北が続いたわけだ。
 これ以上の敗北を重ねることは陛下への申し訳が立たぬぞ」
「言われずとも」

 忠誠心の強いイルピトアに追い打ちを掛けるような一言はどうやら効いたらしい。
 若さに似合う不機嫌さを滲ませて城内へ足早に入るイルピトアをひとまず見送ることにしたゼスティルムは、しかし、やはりどこか違和感を覚えずにはいられなかった。




 ユリウスの研究室……私室と言うよりはこの方が適切だ……では、テリオスとシェインも共に待っていた。
 ゼスティルムと話している間に、帰還したということは城中に伝わっているのだろう。

「アーケインに聞いたらお前に渡したと言うから、えらく待たされたぞ」
「済まん、こちらがポラリスのヒルダ、こちらがキグナス氷河だそうだ」
「神聖闘士のサンプルも得られたのは興味深いな。
 早速分析にかけるぞ、シェイン」
「うん」

 準備は既に終えてあったのだろう。
 手早く凝固した血液を採取して分析機にかける。

「ところで、未だにピンと来ないんだがな、神話の遺伝子とは具体的に何なんだ?」

 作業が一段落して分析機と並列コンピュータに任せるところまで進んだのを見計らって、テリオスが取材根性を発揮する。

「何、と改めて聞かれても困るな。現時点では我々が立てた仮説に過ぎない」
「遺伝子を構成するシトシンとグアニン、チミンとアデニンの塩基組み合わせは、少なくともジュリアン・ソロも絵梨衣も普通の人間と同じだったよ。
 もちろん、本数や個数もね」

 人体……というよりも、生物の遺伝子を形作るDNAは、シェインの言った四つの物質が組み合わさることで構成されている。
 その組み合わせの一つ一つが、生物を構成する様々な要素を決定づけるデータとなっているのだ。
 人間の遺伝子は23対46本の染色体から成っており、その中に約3万個の遺伝子があるというのが、一般的な学説の論じるところである。
 この数は生物によって異なっており、必ずしも人間が一番多いというわけではなく、植物の中には10万個もの遺伝子を有しているものもある。
 一方で、人間とチンパンジーでは9割5分以上が共通しているとも言われている。

 さらに人間の遺伝子の大半は、表面上は何の役にも立っていないジャンクDNAとも言われているのだ。
 もっとも、これについてはシェインとユリウスは盛大に異議を唱えるが。
 いずれにせよ、個人個人を分ける要素というのは遺伝子の中のごくごく一部に過ぎないということになる。
 その違いも、構成する物質が違うというものではなく、単に配列が違うというものに過ぎない。
 だが、その配列の違いが、人間の顔付きや体付きから、性別、血液型、そして……小宇宙を感じる素養をも決定づけている。
 少なくとも、兄弟で聖闘士や星闘士の素質を持っている例が多い以上、小宇宙を持つかどうかも遺伝子により決定づけられるというのがユリウスの自説だった。
 そして、

「少なくとも外見上は、人間と神々との間にほとんど違いは無い。
 神話の時代に神々と人間との間に子供が生まれたという伝承が残っていることを考えると、神々と人間との遺伝子配列はほとんど共通しているはずだ。
 だが、どこかに必ず、ほんの小さなものかもしれないが、違いが存在するはず。
 その違いを、私とシェインは神話の遺伝子と呼んでいる」
「……なるほど」

 全星闘士のデータは既に解析済みであり、通常の人間より神々に近い星闘士の遺伝子データの中にも神話の遺伝子は確実に存在しているはずだが、これと絞り込むことが難しい。
 だからこそ、神々に最も近いということが確実な人間のデータが必要だったのだ。
 この戦いの最初に、ユリウスがアテナを狙いに行ったのもそのためである。

「いわば、神々固有の遺伝子配列というわけだな」
「そうだ。
 そしてそれに出来るだけ適合する肉体が……」
「最良の器となるはずだ、……というのもあくまで仮説だがな。
 おそらく間違ってはいないだろうよ」

 ユリウスから話を振られたイルピトアが締めくくった言葉で、テリオスはこれまでに調べあげた事実をほぼ納得した。
 話している間に、徐々に解析結果がディスプレイに表示されはじめる。

「そろそろ解析が終わるか?」
「そんなに簡単に終わってたまるか。
 茶の一杯くらいは入れてやるからのんびりと待て」
「……入れるのは僕なんだけど」

 ユリウスに言われる前に、シェインがやれやれという顔で立ち上がった。
 ビーカーやフラスコで茶を入れられるのではないかとテリオスは一瞬危惧したが、幸い真っ当な茶器が出てきた。
 ちなみに中国茶器だ。
 前の組織にいたころからのユリウスたちの趣味らしい。

「コーヒーは入れてくれないのか?」
「前にも言ったが、そんな邪道なものは置いておらん」

 コーヒー党のイルピトアは軽く舌打ちする。
 ギリシアを発祥とする星闘士にとって邪道というのなら、茶も邪道ではないかと思ったが、どうせこの部屋がまるごと邪道だ。

 各方面の報告をやりとりしながら、待つこと一時間ほどで、解析結果が出た。

「……ふぅん。なるほど」

 画面をざっと眺めて、シェインが面白そうな表情を見せた。

「手短に解説してもらえるか?」
「ほぼ絞り込めたよ。
 ヒルダ、絵梨衣、ジュリアン・ソロに共通で、一般人類にはほとんど検出されない配列というのが確かに複数存在する。
 星闘士の多くはそれらのいくつかに適合するね」
「一番適合しているのは?」
「えーっと……キグナス氷河と、リザリオンと、マリク、カイあたりかな?」
「一番適合しているのは?」
「キグナス氷河で47%。だけどあとの三人とは数ポイントの差」

 イルピトアの質問にシェインは次々と答えていく。

「キグナス氷河は、さすがは神聖闘士ということか」
「こうなると彼らの父親の遺伝子とやらを調べてみたくなるな」

 ユリウスの感想に、テリオスは妙な相づちを打った。
 銀河戦争に参戦した十人の青銅聖闘士が……いや、その候補となった百人全員が兄弟であったという事実を、テリオスはごく最近に掴んでいた。

「……そうだな、テリオス。調べてみようか」

 それを聞いたイルピトアがさらに妙なことを言い出した。

「How? 城戸光政は六年前に死んでいるぞ」
「俺としたことが、最良のサンプルがあるのを失念していた。
 シェイン、仕事だ。
 ギャラクシアとやらの聖衣クロスが砕かれた今なら出来るだろう」

 ギャラクシアとは、グラード財団を守護するガーディアンのハンドルネーム……すなわち、鋼鉄聖闘士スチールセイントマリンクロスの潮のことである。
 すなわち、イルピトアが言った最良のサンプルというのが何を意味するか、仕事とやらの内容が何か、シェインは即座に理解した。
 だが、その顔は冴えない。

「……イルピトア。彼を甘く見ない方がいい。
 クロス無しだからといって、小宇宙が無いからといって諦める男じゃないからね」
「少々の代償は構わん。
 今はあそこにあるデータが欲しい」
「……わかったよ。知らないからね」






 星闘士の目的の一つが、神話の遺伝子と呼ばれるものだとすると、最初に沙織お嬢さんを狙ったのも、アテナ抹殺以上の目的があったと考えられる。
 その考えに基づいて、潮はグラード財団が管轄するデータベースのセキュリティ能力を必死で鍛えにかかった。

 グラード財団科学研究所には、いざという場合を考えて、星矢たち百人や潮たち鋼鉄聖闘士、そして沙織自身のDNA情報が蓄積されている。
 負傷時の際に輸血の参考にするというだけではなく、彼らが戦いで四肢を失ったときのために、将来的にはそれらを再生する医療の確立を目指していた。
 もっとも、眼球がつぶれても小宇宙と祈りで再生してしまうことすらあるのが聖闘士の世界だが。

 最大の問題は、エリスに砕かれたマリンクロスの修復であった。
 聖衣のように生きているわけではないが、鋼鉄聖衣はそれぞれが膨大な量の技術の結晶である。
 一つ作るだけでもとてつもない手間がかかっている。
 個々の部品の一部ならともかく、それそのものの予備は無かった。

 修復が完了するまでは、手足ともいうべきサーバーとなるこのクロス無しで対処しなければならない。
 グラード財団のセキュリティシステムと不可分な連携を取っていた、このクロスが無いということは、それだけでセキュリティ能力が著しく低下していることを意味する。
 グラード財団のコンピュータシステムの堅牢さは伝説になっており、そんじょそこらのハッカーは既に手を出すのを諦めているから、そちらはまだいい。
 しかし、このクロスがエリスに壊されたことは、既に青輝星闘士射手座のマリクを通じて星闘士側に知られているはずだった。
 今あのシェインに来られると、前回のように撃退することは不可能に近い。

 そうなると逆に、ほぼ確実に攻めてくることが予想された。
 当座の対策として、沙織の遺伝子データをはじめとする健康管理データに偽装を施して見つけにくくする。
 しばらく使いにくくなるが、マリンクロスが回復するまでの措置だと割り切った。
 今、沙織の健康状態は良くも悪くもなっていない。
 邪武の奮闘もあって、先のエリスとの戦いで沙織に深刻な影響は無かった。

 作業が一段落したところで、マリンクロスの修復のために麻森博士のところへ向かう。
 鋼鉄聖衣は聖衣のように生きているわけではないため、なおさら装着者との調整が欠かせないのだ。

 まさかこちらのその行動まで読んだわけではないだろうが、

 ビーーッ!ビーーッ!

 丁度麻森博士の研究室に着いたそのときに、警報が鳴り響いた。
 神経を研ぎ澄ませても、近くに接近してくる小宇宙は感じられない。
 ということは、予想通りネットワークへの攻撃だ。
 攻めてくることを予想して、極力席を外さぬように食事すら管理人室で摂っていたというのに!

「博士!戻ります!」
「うむ!」

 マリンクロスがあれば研究所内どこからでも遠隔操作できるのだが、今は無理だった。
 管理人室に駆け戻るまでの数十秒が絶望的なまでに長い。

>遅いよ。

 ディスプレイには、誰から送られて来たのか明白なメッセージが表示されていた。
 キーボードから打っていたのでは到底間に合わないので、マリンクロスに準じたヘルメット型の端末で神経系から直接コンピュータを操る。
 現状のイメージが脳裏に飛び込んできた。
 四段階に設定しているセキュリティのうち、今まさに二つめが破られようとするところだった。

 マリンクロスを欠いたことで、グラード財団全体の防御力がそこまで低下しているとは。
 いや、これは以前、曲がりなりにもここを攻めたあの男の経験が活きているのだろう。
 濁流に呑み込まれ、打ち砕かれた第一のセキュリティウォールの上に立っている、あの少年は間違いなく、白輝星闘士エリダヌス座のシェイン!!
 とっさにセキュリティウォールを組み直そうとするが、間に合わない。

「くっっっ!!」

 セキュリティウォールに洪水のように膨大なデータと攻撃とが叩きつけられる。
 そして、紛う事なき小宇宙も!

>エリダヌス・ストリーム Type/Overflow!

 ネットワークに直接繋がった神経系に、氾濫するエリダヌス河の姿が映った。

「シェインッ!!」

 感覚的に潮の背後にあった、第二のセキュリティウォールが粉々に打ち砕かれた。
 ここから先は、グラード財団の存亡に関わるデータが収められている。
 第三段階には、例えば聖域の存在や、サガの乱などにおける星矢たちの証言が収められている。
 世界中の宗教を崩壊させ得る冥界に関する記述や、沙織の身体データ、あるいは星矢たちと城戸光政の関係を収めた記録は最大のセキュリティを施した第四段階に収めてあった。
 これ以上は破られるわけにはいかない!

>やっぱり、エリスに砕かれたのが予想以上に効いているようだね。
>だからといって、そうそう思い通りにさせると思うか!

 シェインの居場所がわからないので、こちらはテキストを送らずに表示するだけだが、おそらくシェインはそれを読める状態だろうと判断した。

 ……待てよ。
 シェインがここまで本気で攻めて来ているということは……。
 試してみる価値はある。

 サーバに余裕があるわけではなかったが、いくつかのサーバに別作業を平行して行わせる。
 同時に、残りのサーバ内を走り回って、利便性をほとんど無視したセキュリティを構築する。

>甘いよ。
「!?」

 既に破られた第二段階に設定されていたサーバのいくつかが、潮の指示をまったく受け付けなくなった。
 エリダヌスから派生した河から、新たなる攻撃が迫る。
 電子世界での動きは電子の速度……すなわち、事実上の光速に近い。
 異質な世界でありながら、その戦闘速度はまさしく聖闘士と星闘士のそれであった。
 攻撃的に変化したエリダヌスストリームを、潮はマリンクロス無しで辛うじて迎撃していく。
 だが、迎撃していく間に妙なことに気がついた。

 これは、攻撃ではなく検索だ。
 目標とするデータを、こちらの内部で探し当てる気だ!
 撃ち落としたはずのエリダヌスストリームが、周囲を巡回している。
 検索しているキーワードは……この対処も準光速だ……沙織のデータでは、ない!?

 ……だとしたら、シェインは、何を探しに来た!?

 その一瞬の逡巡が隙を作った。

>ここに無いなら、そこだね!
>エリダヌス・ストリーム・Type/Thunder!
「ガアッ!!」

 擬似的な衝撃ながら、吹き飛ばされたと感じた。
 同時に、第三のセキュリティウォールがシェインの放った稲妻によって粉々に打ち砕かれる。

 勝てんっ、このままでは……!

 そして、この空間には起死回生の黄金聖衣が飛んでくることなどない。
 現実空間ではないのだ。
 だが、とにかくこの場は、シェインに目的のものを奪われなければそれでよいのだ。
 この場でシェインを打ち砕く必要はないし、現在の装備ではそもそもそれは不可能だ。
 サーバの電源を落とせるなら落としたいが、それはこちらの受けるダメージが大きすぎた。

 残ったサーバで仕掛けた罠は、まだもう少し時間がかかりそうだった。
 終わるまで、凌ぎきれるか。
 シェインの狙っているデータが何かわかればまだ対処のしようがある。
 沙織のデータではない。
 もっと広範囲に検索をしかけている。
 星闘士たちは既に海界や冥界での情報も掴んでいたから、わざわざ星矢たちの証言を狙いに来たというのは考えにくい。
 そうなると、この第四階層に保存している聖闘士に関する大量の機密データというと……

 星矢たちの遺伝子情報しかない!!

 思い至るとともに、現実空間で行動に出た。
 複数のサーバを並列して動作させているもののうち、星矢たちの遺伝子情報を収めているサーバへ繋がる光ケーブルを、手刀で発生させた衝撃波で断ち切った。
 セキュリティについて絶対の法則がある。
 ネットワークに繋がないこと。
 これでシェインは目的のデータを入手しようがない。
 勝った!

>笑止だね。それでエリダヌスの大河を遮ったつもりかい!
「何!?」
>エリダヌス・ストリーム Type/Connect!

 潮は目を見張った。
 今し方断ち切った光ケーブルの先端から、小宇宙が感じられたかと思うと、次の瞬間、断ち切られた光ケーブルのもう一つの端へと向かって光り輝く小宇宙が糸のように繋がったのだ。

「そんなっっ、馬鹿なっっっ!!」

 黄金聖闘士級の小宇宙をもってすれば、テレパシーを駆使して会話することも、あるいは異次元空間への入り口を開けて繋げることさえも可能ではある。
 そう、理論上はありえなくはない。
 しかし、だからといって小宇宙を媒介にして、信号を伝えるケーブルを作るとは!

「いくらなんでも非常識だっ!!」

 あまりの理不尽さ……それは同時に、小宇宙を持たず現代科学の中でしか対抗できない自分への恨みでもあったが……に絶叫しつつ、だがしかし潮は、なお冷静さを失ってはいなかった。
 小宇宙を以てデータをかっさらおうとするのならば、さきほどから狙っている、シェインの居場所を……すなわち、星闘士たちの居場所を突き止める最大のチャンスだった。

>君は!
「どいつもこいつも、鋼鉄聖闘士を舐めるなあっ!!」

 ここは自分たちの領域だ。
 例え自分たちに小宇宙が無く、星闘士たちにだけあるとしても、ここで負けるわけにはいかないのだ!

「ここだぁっ!」
>!

 先ほどから裏で工作していたサーバが、ついにシェインの居場所を突き止めた。
 当然これには多重に偽装がしかけられていたが、星矢たちの遺伝子情報が収められたサーバからシェインがそれらを抜き出そうとするその瞬間、潮はシェインの居場所に掛けられていた四重の偽装工作を一瞬で打ち破った。

「捉えたぞ!!」
>だけど、これは貰っていく!!
「スチール・ハリケーン!!」

 データを伝達しようとする小宇宙の糸へ向かって、絞りに絞り込んだ必殺技を打ち込む。
 データの約半分を転送されたが、残りを伝達する前にその糸をも断ち切った。

>今度も引き分けだけど、目的は果たしたよ!

 短いながら悔しさを滲ませるメッセージをディスプレイに残し、シェインの小宇宙がこの場から消失した。

「ちっ……」

 一安心とも、反省とも言い難い心境で潮は舌打ちした。
 ログの調査もしたかったが、他のハッカーに攻め寄せられないよう、シェインに破られたセキュリティをひとまず回復させる。
 それから得られた……というよりは奪われたデータを解析した。
 第三第四階層の両方から、星矢たちが聖域や海界、冥界などで戦ってきた際の証言がまず奪われていた。
 だが、これは最終的にシェインが狙ったものではない。
 おそらくついでに奪えればよいというものだろう。
 シェインが最後に奪ったデータはやはり星矢たちの遺伝子データだったが、星矢たち十人だけではなく、百人の孤児と城戸光政翁のデータを丸ごと奪おうとしていた。
 転送されたデータは、そのうちの約半分。
 星矢たちはともかくとして、残りの九十人のデータを求める理由がよくわからなかった。

 そして、得られた肝心の情報が一つ。
 前回は突き止めることができなかったシェインの居場所は、意外に過ぎるところだった。

「……ニューギニア島?」

 フィリピンの南東、赤道のすぐ南の、インドネシアとパプワニューギニアの国境がある、日本列島より面積の広い島だ。
 まるで話が通らない。
 ギリシアを通じた文明が伝えられた中央アジアやヨーロッパ、アフリカならばまだしも、まったくギリシア神話と関係ないではないか。
 一方で、ハッカーとしてのシェインが根拠地とするのならばシンガポールなどの方が都合がいい。
 こんなところに本拠地を置いた理由は……、何だ!?






「……突き止められたよ、ここを」
「間違いないか?」
「四重に偽装を施しておいたんだけど、潮ならば多分解析しきったと思う」
「そうか」

 シェインの報告を聞いたイルピトアは、あまり落胆した様子は見せなかった。

「で、報告はそれだけではないのだろう?
 人を落胆させる話を先に話すからには、それを帳消しに出来るだけの成果を持ってきてくれたのだろう」
「嫌な性格をしているねえ、イルピトア」

 苦笑いをしながら、シェインはプリントアウトした一枚の上質紙を取り出した。

「見つかったよ。神話の遺伝子の最適合者が。
 適合率は99.3%。
 そして、他の神々の肉体となった経験も無い」
「もったいぶるな、誰だ」

 シェインはニヤリと笑って答えた。

「神聖闘士、ペガサス星矢さ」

 イルピトアは一瞬目を大きく見開いた後、

「フハハハハハハハ!!なるほど!それは納得だ!」

 腹を抱えて大笑いした。
 心底おかしくて仕方がないという顔で一通り笑った後、表情を引き締める。

「さて、しかしペガサス星矢はハーデスの一撃で死んだはずだ。
 これをどう処理するつもりで話を持ってきた?」
「ついでに色々向こうの内部資料も貰ってきたんだけどねえ、面白い話があったんだよ。
 ペガサス星矢の遺体は、グラード財団の霊安室で冷凍保存されているって。
 使えると思わない?」
「ふむ」

 イルピトアはしばし考え込んだ。
 眉間に皺を寄せ、呼吸すらほとんどせずに考え込み、それからふっと口を開いた。

「……シェイン。済まないがアクシアスを呼んできてくれないか」

 アクシアスとは、白輝星闘士バイコーンのアクシアスである。






 現在東京に残っている邪武と、落ち込みまくっている瞬とを呼び、さらにはエチオピアの大地たちと、ジャミールの翔たちとも連絡を取って、潮は会議を招集した。
 鋼鉄聖衣があれば、テレビ電話会議は衛星回線を使って可能である。
 場所は今度も沙織のいる部屋の隣で、何かあればすぐ駆けつけられるようにしている。
 さらに沙織の部屋の前には辰巳が待機しているという状態だ。

 また、教皇代行アステリオンのさらに代行として、ギリシアにいるシャイナが電話で参加している。
 聖域の外れに辛うじて引いた電話線は、ノイズだらけではあるがなんとか通話可能だった。

『星闘士の根拠地がわかったって?』

 ノイズの中でもよく通るシャイナの声が、会議の始まりの合図となった。

「ええ、グラード財団のコンピュータを攻撃してきた奴の居場所を突き止めることが出来たんです」
『……よくわからないけど、双子座の迷宮を作り出していたサガやカノンの居場所を突き止めたようなものかい?』
「えーと、まあ、そんなところです」

 青銅聖闘士と神聖闘士の全員が全員、まったく頭が上がらないシャイナに対しては、鋼鉄聖闘士の潮もまた同様に頭が上がらない。

「ところが、場所がニューギニア島なんですよ。
 環太平洋の……インドネシアの南……えーっと、日本から真南にいって赤道を超えたあたりですね」

 地図をどこでも呼び出せる鋼鉄聖闘士はいいが、ギリシア人のシャイナに環太平洋のことはピンとこないはずなので、潮は具体的なフォローを入れる。
 しばしの沈黙の後、皆の疑問を代表するような質問が返ってきた。

『それ、本当に根拠地なのかい?』
「少なくとも拠点の一つであることは間違いありません。
 全星闘士が揃っている総本山かどうかと言われると自信はありませんけど」
『まあ、とにかくだ。
 今まで攻められっぱなしだったのが、少なくともこっちから攻めることが出来るようになったってわけだろう』

 欲求不満がたまってそうなこの声は、ジャミールから翔のテレビ電話越しに檄である。

『確かに檄の言う通りかもね。
 星闘士たちの目的も何もわかっていない上に今までこっちは攻められっぱなしで気分が悪かった』
「しかし、青輝星闘士が何人いるかもわからないところですから、こちらも戦力を集中させないと……」

 沙織の傍を離れるということは極力考えたくないながらも、現実的な話を切り出そうとしたとき、邪武はキッと視線を外に向けた。
 通るはずのないその視線に応えるように、

「聞こえるかああぁぁぁぁっ!!ユニコーンの邪武ゥッッッ!!!」

 音響対策の施された部屋ごと揺るがすようなとんでもない大声が、その場の三人と電話越しの面々の鼓膜を貫いた。

「な、何だ!?」
「この声は、忘れもしねえっ!!」

 沙織の身辺を騒がせたことに唇を噛みつつ、邪武が勢いよくカーテンを開けて、飛行機の発着音すら遮る窓を開け放つと、エリスによる被害から修復が終わっていない森の真ん前に星衣を纏った人物が立っていた。
 驚くべきことには、その人物は拡声器の類を持っている様子は一切なかった。
 二つのねじれた角が特徴的なその星衣は、

「てめえは、バイコーンのアクシアス!」
「俺の名前を覚えていたか。嬉しいぞ、ユニコーンの邪武!」

 嬉しいぞといいつつ、闘志を満面に浮かべて笑ったその顔は、この戦いの火ぶたを切った城戸邸への襲撃で、邪武に撃退されたあの男に他ならなかった。
 その小宇宙は、以前よりも遙かに強さを増して、わずかに青み掛かっている!
 潮は城戸邸の外部マイクとカメラをその男に集中させた。
 これでジャミール、エチオピア、聖域に届くはずだ。
 それを待っていたかのように、アクシアスは再び大音響で叫び上げた。

「耳の穴をかっぽじってよおく聞け!
 まずは、星闘士が長、アルゴ座のイルピトア様からの伝言を伝える!
 これより四日後、我らは青輝星闘士を擁した軍団を以て、聖域十二宮を攻め落とす!!」
『何イィッッッッ!!!』



第二十話へ続く


夢の二十九巻目次に戻る。
ギリシア聖域、聖闘士星矢の扉に戻る。
夢織時代の扉に戻る。