聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第十八話、不和の誘惑」




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 グラード財団科学研究所コンピュータ管理官にして鋼鉄聖闘士スチールセイントの一人であるマリンクロスの潮は、外部からのアクセスログの解析結果を見て考え込んでいた。
 ここはコンピュータ管理域の一角にある、筆頭管理者たる潮の専用ルームである。
 外部のハッカーが侵入を試みているのはいつものことなのだが、最近、巧みに防御をくぐり抜けて正規ユーザーのように振る舞っている人物がいる。
 破壊活動をしているというわけではない。
 グラード財団が蓄えている文献を参照している程度だ。
 権限の低いレベルで活動しているために、あえて泳がせていた。

 星闘士スタインの根拠地はわかっていない。
 聖域サンクチュアリがアステリオンの指示の下で小宇宙コスモをたどろうとしているが、聖域同様なんらかの結界に包まれているらしく、成功していない。
 ならば聖闘士セイントに出来ないことをやるのが鋼鉄聖闘士の務めである。
 星闘士との戦いが始まってすぐにネットワーク経由で宣戦布告をしてきたエリダヌス座の白輝星闘士スノースタインシェインのことは、このところ常に潮の頭の中にあった。
 自分よりもさらに若いと思われるその人物像を考えると、それ以後もちょくちょくこちらへアクセスしていることが考えられた。
 それをたどれば、星闘士の根拠地がわかるかもしれない。
 だが当然、そう簡単に居場所を突き止めさせてくれる相手ではなかった。
 発信元は巧みに偽装されており、調査は途中で途切れざるを得なかった。

 そこで、シェインと思われる相手が参照している文献に目を向けてみたのだ。
 奇妙な事実が浮かび上がってきた。
 それらは、学会から異端として排除された、遺伝子工学の文献だった。
 聖闘士と並んで神話の戦士たちであるはずの星闘士には、あまりにも似つかわしくない。
 むしろ考古学の文献だとばかり思っていたのだ。

 そう思ったとき、備え付けの電話がベルを叩く懐古趣味な音を鳴らした。
 内線電話ではなく、滅多に鳴ることのない外線電話だ。

「何?」

 この部屋の番号は公開されていない。
 間違い電話でなければ、エチオピアに行っている大地たちか、ジャミールに出向いている翔のどちらかだろうか。
 だが、発信先を見てみたところ、東欧の公衆電話だった。
 発信人の想像がつかない。
 アスガルドからは電話で連絡出来ないとはいえ、氷河からの連絡にしては妙だ。

「Hello, Who are you?」

 悩んだが、とりあえず受話器を取って英語で問いただす。
 グラード財団だということをいきなり喋るつもりはない。
 しかし、返ってきた言葉は、いささか訛りがあるもののよく訓練された日本語だった。

「夜分遅く失礼致します。
 私、青輝星闘士シアンスタイン、アルゴ座のイルピトアと申しますが、鋼鉄聖闘士、旗魚座の潮様でしょうか」

 潮は、危うく受話器を取り落としそうになった。

「はあ!?」








 そのグラード財団科学研究所からさほど遠くない孤児院、星の子学園。
 静まりかえった園内にただ一人立っているのは保母……と呼ぶにはまだうら若い少女絵梨衣。
 それだけならば、それほど奇異な光景ではない。
 むしろ、この孤児院という場所に比して視覚的に奇異な格好をしているのは、倒れながらその少女と相対している二人の方だった。

 一人は青銅聖闘士ブロンズセイントカメレオン座のジュネ。
 もう一人は、聖闘士の宿敵である星闘士の最上位、青輝星闘士射手座のマリク。
 かたや青い金属光沢のある聖衣クロスを纏い、もう一人は青白い小宇宙によって黒い星衣クエーサーを輝かせている。
 銀河戦争ギャラクシアンウォーズを覚えている者ならば、オリンピックをもしのぐ盛り上がりを見せたあのイベントの続きでもやっているのではないかと思ったかもしれない。

 だがおそらく、何の小宇宙も持たない一般人でも気づいただろう。
 聖衣や星衣を纏っているその二人よりもなお、使い古しのワンピースの上にエプロンを纏った少女の方が、遙かに現実離れした存在であることを。

「私を迎えに来たにしては騒々しいわ、人間ども」

 長く美しい金髪を流れるように舞わせ、平凡なエプロンを法衣のようにはためかせているのは、彼女が発している優雅にして強大な小宇宙なのだから。
 そして、人間を称して人間どもと言うからには、その言葉を発している彼女は人間ではないということになる。

「絵梨衣……ちゃんじゃ、ないの……?」
「気安く呼ぶな、娘。
 私は、エリス」

 ギリシア神話は語る。
 神々全てが招待された結婚式にただ一人招かれなかった不和の女神エリスは、その場に黄金のリンゴを投げ入れたという。
 最も美しい女神へと書かれたそれを手中にすべく、三人の女神が相争い、最高神ゼウスすらも仲裁しかねてトロイアの王子パリスにその決定を任せた。
 パリスに対して壮絶な賄賂が提示されたあげく、自分に渡せば世界一の美女を妻にしてやると告げた美の女神アフロディテにその黄金のリンゴは渡ったという。
 その賄賂となった世界一の美女は、スパルタの王妃ヘレネ。
 彼女を取り返すべくギリシアの英雄たちが総結集してトロイアへ向かい、神々を両陣営に割く争いが十年に渡って続いた。
 世に言う、そして神話に言う、トロイア戦争である。

 むろん、これには異説異論が絶えない。
 特に、三人の女神の中にアテナが含まれていることから、この話は後生の創作に過ぎないというのが聖域の公式見解である。
 もしかしたら、エリスと聖闘士たちとの聖戦を目の当たりにしたホメロスが、エリスの恐ろしさを誇張して伝えたのかもしれない。。
 そもそも神話の時代と人間の時代とを分かつ明確な境界線がいつであるのか、聖域の文献もグラード財団考古学研究所も掴みかねているのだ。
 だが、膨大な数の英雄たちが倒れた大戦の発端に据えられたエリスが、神々の中でも屈指の恐怖と忌避を受けていたことは想像に難くない。
 そのエリスは当然、かつての聖戦でアテナに封じられていた。

 そのエリスが近年、偶然と呼ぶには奇妙な事情で蘇った。
 不吉の彗星レパルスの力により、アテナの封印を解くことなく、彼女の力を結集した黄金のリンゴを現代に出現させることに成功したのだ。
 レパルスが出現したのは、まさに最終聖戦の時代だからということかもしれない。
 だが、出身地も両親もわからない絵梨衣が、その黄金のリンゴに呼び寄せられる範囲にいたのは、どこか偶然と呼ぶには都合が良すぎる事態である。

 絵梨衣の身体を奪い取ったエリスは、アテナをさらい、さらには過去の聖闘士たちを蘇らせて配下として、アテナに付き従っていた星矢たち五人をも亡き者にしようとした。
 オリオン座のジャガー。
 楯座のヤン。
 矢座の魔矢。
 南十字座のクライスト。
 琴座のオルフェウス。
 いずれも過去に英雄と呼ばれた聖闘士たちであり、特にジャガーはかつて星闘士との戦いで最強とまで謳われた聖闘士だった。

 この聖闘士たちの復活にも謎が多い。
 最高神ゼウスに匹敵すると言わしめた太陽神アベルや、冥王ハーデスならばいざ知らず、なぜ不和の女神たるエリスが復活などという所行をなしえたのか。
 それらについて復活した聖闘士たちは何一つ語ることなく、星矢たちの前に倒れていった。
 数々の謎を残したまま、エリス自身もまた、星矢の放った黄金の矢によって黄金のリンゴ共々貫かれ、消え去った。
 今にして思えばエリスは、後に伝説となる神聖闘士ゴッドセイントペガサス星矢が初めて倒した神となった。

 その不和の女神エリスが、こうしてここにいる。

「どうして……!?」

 既に倒されていると聞いていたジュネは、天を呪うかのように叫んだ。
 だが、マリクの反応はジュネとはまた違っていた。

「そんな、早すぎる……!封印はまだ全て解けていないのに……」
「星闘士よ、何を驚く?
 先にレパルスで一度、ルシファーを焚きつけてさらに一度動いているのだから、
 これだけたがが緩めば、この程度動くのに何の問題もない」
「!!」

 そう、レパルスの力によって一度復活し、倒されたはずのエリスは、その後で魔王ルシファーの尖兵として地上に猛威を振るったことがあった。
 ルシファーともどもそのときに再び滅ぼされたものと思われていたが、それすらも封印から漏れ出た仮の姿でしか無かったということになる。

「もっとも、この娘がいなくてはさすがに動けなかったところだけど……。
 本当に役に立ってくれるわ」

 そう言うと絵梨衣は、いや、エリスは、絵梨衣の身体を確かめるかのようにゆらりとした動きで、右手の人差し指を左手で一撫ですると、その指先をジュネに向けた。

「何を!」

 電撃がエリスの指先から光速で放たれた直後、マリクはジュネの腕を引いて大きく跳んだ。
 ジュネを抱き上げて避けるだけの度胸は無かったが、ぎりぎりでジュネに当たらずに済んだ。
 廊下の片側が学園の運動場へ向かって壁無しに開けていたのが、今回は幸いした。
 神々の電撃は効果範囲が大きく、紙一重で避けようなどとすれば直撃を受ける。
 そんなことを教えてくれたのは、ゼスティルムではなく、イルピトアだったか。

「絵梨衣ちゃん……!正気に戻って!」
「無理です、ジュネさん。
 今は完全にエリスに取り憑かれています……」

 取り乱しつつ絵梨衣に近寄ろうとするジュネを、マリクは力づくで押し止めなければならなかった。
 エリスは完全にジュネを殺す気だった。
 先ほどのは戯れに近い一撃だったのが幸いしたが、次までかばえるかどうか自信はない。
 だが、エリスの視線は今度はマリクへと向いた。

「口の聞き方がなっていないわ、若き青輝星闘士」

 叱責代わりとでも言うように、エリスは今度は右手を一振りして電撃を一閃させた。
 マリクはとっさに両手から前面を覆うようにして炎を展開し、これを凌ごうとする。

「くっ!」
「甘いわ」

 電撃の直撃こそ防いだものの、ジュネを背にかばった無茶な体勢では、二つの小宇宙が激突した衝撃波をこらえきれず、グラウンドの端の道路に面した壁まで叩きつけられた。

「この私を呼び捨てるとは無礼であろう。
 お前たちの神と私との関係を知らぬのか」
「知っています……、でも、あなたは僕たちが守るべき神じゃない」

 マリクは壁から身体を引きはがしつつ、ほんの一瞬だけジュネに視線を向けて答えた。
 だが、それを見逃すエリスではなかった。

「私の封印をここまで解いてくれたのも、そなたらであろう?」

 嘲るようなその言葉は、疑問ではなく、確認でもなく、純然たる神経の逆撫でであった。
 同時に、その内容の重要さは混乱していたジュネにも十分に理解できるものであった。

「どういうこと、マリクくん!
 星闘士が不和の女神の封印を解いたって!」
「……ごめんなさい、お話しすることは出来ません」
「……!」

 マリクが逡巡したもののジュネの質問をはねのけたことに、エリスは薄く残酷な笑みを浮かべた。
 不和の女神である。

「ではどうするの?
 私を招きに来たわけでもないのに、私の枕元で騒ぎを起こし、私をわざわざ起こしてくれたお前は」

 癇に障る言い方の手本があるとしたらこれ以上は無いだろうと思われるような口調だった。
 エリスにとっては、ここでマリクを始末することにさほどの抵抗は無かった。
 星闘士たちが仕える神とは、文字通り神話の時代からの関係がある。
 その手駒である星闘士の一人が無礼な行いをしたので処分したとしても、その関係に大した影響もない。
 むしろ、蘇って間もない今の状態で、聖闘士と星闘士の生け贄を得る方が遙かに旨味がある。

「……」

 しかしマリクは、今にもエリスに向かってアークプロミネンスを叩きつけたいほどの怒りと同じくらい深い悩みの中に突き落とされていた。
 エリスと星闘士の間接的関係は、青輝星闘士となったときに教えられている。
 青輝星闘士は単に戦闘能力だけではなく、星闘士を統括する役割を持つ。
 戦えば単にマリク一人の暴走では済まされない。
 エリスと星闘士、ひいてはエリスと陛下との関係を絶つことにもなりかねない。
 だが、今ここでエリスに従うことは、間違いなくジュネを死なせることになる。
 見捨てることなど出来なかった。
 たとえ聖闘士でも、その寂しい心の内を垣間見てしまった女性を。

「私に逆らおうというの?星闘士が?」

 そんなマリクに対して、婉然とエリスは微笑んだ。
 常日頃ならば孤児たちの心を慰めるはずの笑顔を知っているジュネにとっては、それが同じ顔であることが信じられないほど邪悪で、嫌悪感を抱かせる笑顔だった。

 マリクの歯がギリリと音を立てた。
 星闘士の仲間を裏切ることになるとわかっていても、これ以上我慢することは難しかった。
 それすらも、不和の女神たるエリスの力ではないかという恐れが、辛うじてマリクの足を地に縛り付けていた。

「僕がイルピトアに任されたのは絵梨衣さんの奪取。
 ……神の貴方に従えとは、言われていない……!」
「アハハハハ!!
 身の程を知るがいいわ!!」

 大気とともに人の心まで裂きそうな高笑いとともに、高速で飛来した物体がエリスの右手に収まった。
 ポセイドンのものとは違い、細く冷たく研ぎ澄まされた刃が切り裂き貫くための武器としての禍々しさを漂わせる、三叉の鉾だった。
 わざわざ呼び寄せたからには、それはおそらく神話の時代からエリスが使用していた武器なのだろう。

 あの武器を持って帰ったら、天秤座の青輝星闘士アーケインだけは自分に味方してくれるのではないかという無茶な思いが、かすかにマリクの脳裏に浮かんだ。

「戦わぬとあらばそれでもよい。
 この場で速やかに生け贄にしてやるわ」

 鉾が金色に輝くとともに、エリスの小宇宙が増大していく。
 封印がまだ完全に解けていないとはいえ、その小宇宙はさすがに神々の一人である。
 むしろ、これで不完全ということが恐ろしかった。

「これが……エリス……!!」
「さらばだ」

 掲げていた鉾を、エリスは軽やかに草でも刈るかのような動きでマリクに向けた。
 その直後、先ほどのよりもさらに威力を増した電撃がマリクに襲いかかった。

「はああああっ!!」

 逆らうとまではいかずとも、むざむざと殺されるいわれはない。
 マリクは青白く輝く小宇宙を燃え上がらせ、これに対抗する。

「アークプロミネンス!!」

 今度は何がどう来るかわかっていたため、地面が沸騰するほどの灼気を前面に集中させて、空中で電撃を止めた。

「フフフフフ、少しはやるではないか。
 青輝星闘士というだけのことはあるようね。
 だが……!」

 くい、と鉾にエリスが力を込めると、電撃がじわじわと灼気を押し込み始めた。

「神の力を受け止められるなどと思ったのは賢くなかったわね」

 その言葉の意味は既にマリクにも十分に理解できた。
 力を抜いて避けようとすればその瞬間に押し切られる。
 電撃自体が光速で走るため、後ろに避けるのはまったく意味がない。
 横に避けるにしても、電撃の効果範囲が広すぎるのだ。
 自分の灼気によるものではないマリクの額に浮かぶ汗が、マリクの置かれた状況を雄弁に物語っていた。

「このエリス復活の最初の生け贄になれたことを誇るがいいわ」
「私を……忘れてもらっては困るわよ!!」

 エリスの言葉を遮るように叫びを上げて、半ば無視されていたジュネが斜め横からエリスに向かって鞭を繰り出した。
 厳密には、エリスが握っている鉾だ。
 武器ではなく、装身具の闘技としての正当な使い方である。
 奪えないまでも、鉾の向きを変えればマリクに向かっている電撃を弱めることが出来る。
 その狙いは辛うじて成功した。
 しかし、

「アハハハハ!愚かなことを!」
「あああああっっ!!」

 鞭が鉾に触れた瞬間、鞭を伝って電流がジュネを貫いた。
 単にエリスは電撃を塊として放っていただけではなく、その鉾自体から電流を流すことも自在に出来るのだ。
 エリス自身にはいささかもその電流が流れている気配がないので、ジュネはそこまで読み切れなかった。
 人間の物理法則はおろか、聖闘士としての常識すらも超える相手であることを。

「く……ああっ!」

 逃れようとしてもその電流に身体が縛られたように動けなかった。
 エリスの表情を見ると、ジュネが即死しないようにわざわざ電流を調節しているのではないかと思えるような、残酷な笑みを浮かべていた。
 その間に電撃を吹き飛ばしたマリクが、鞭だけに狙いをつけて光速拳を叩きつける。
 鉾にからみついてた鞭がその衝撃でほどけて電流が止まった。

「私に逆らうなら本気でやりなさい、サジタリアス。
 羊のように防戦だけの人間をいたぶっても面白くないわ」

 楽しそうな表情とは裏腹なことをエリスはつぶやきつつ、マリクをじっと見つめた。
 そしてしばらく見つめた後に、ほう、という顔をした。

「……何ですか……?」
「おまえには、何かあるわね」
「!!」

 瞬時にしてエリスが間を詰めてきたのを察して、マリクは捕まる前に大きく離れた。
 もっとも、狭い学園のグラウンド内では離れるにしても限界があるが、至近距離であの電撃を食らうことは避けねばならなかった。

「逃げずともよいものを」

 冗談ではない。
 近づいたら何をされるかわかったものではないではないか。
 エリスはかつて、聖闘士の中で英雄と呼ばれた者たちをいかなる手段によるものか、一時的に手駒にしているのだ。

「おまえの心には、確かな不和の種が見えるわ」
「……不和の女神ともあろう神が、人間相手に戯れ言ですか?」
「フフフ、わかっているではないか。
 戯れ言などではないわ。
 おまえは遅かれ早かれ、星闘士を裏切ることになるでしょうよ。
 不和の女神エリスの名に賭けて、保証してやるわ」

 マリクはその言葉に抗いがたい魅力を覚えている自分を否定できなかった。
 エリスが言っていることは、自分が失った、幼い頃の記憶に直結しているのでは……

「マリクくん!」
「!」

 マリクの様子がおかしいと思ったジュネはとっさに叫んでいた。
 彼が星闘士であり、先ほどまで戦っていたとはいえ、何度も助けてくれた彼を助け返すことには不思議なほど抵抗が無かった。

「……ありがとうございます、ジュネさん」

 その先を考えそうになっていたことに、マリクは戦慄せざるを得なかった。
 これこそがエリスなのだ。
 小宇宙では及ばぬのに、オリンポスの神々全てを手玉に取った、不和の女神!!

「僕は、ゼスティルムを裏切るくらいなら、
 記憶なんて欲しくないぃっ!!」

 エリスに飲み込まれまいと、自らに言い聞かせるようにして小宇宙を燃え上がらせる。
 しかし、エリスに攻撃を仕掛けることは、すなわち……

「気が変わったわ」

 鉾を上に向けて持っていたエリスは、突如として鉾先を下に向けてグラウンドに突き刺した。
 地を裂いて攻撃するつもりかと思われたが、単に鉾から手を離したかっただけらしい。
 ……なんのために?

「どうせ私の配下たちを目覚めさせるまでしばらくかかるのだし、
 丁度いいわ」

 エリスの身体から異様な小宇宙が立ち上る。
 掲げた両手の間にオーラが結集して形を為していくそれは、伝説に謳われし黄金のリンゴ。

「今すぐその種を実らせて、私のしもべにしてやるわ!!」

 神話の再臨に刮目せよとばかりに、そのオーラでつくられたリンゴをマリクに向けて投げつけた。
 音速ですらないその動きに、しかし、それを避けるどころか、意識に反して吸い寄せられる!!
 気がついたときには、マリクはそのリンゴを手にしていた。

 エリスの強烈な小宇宙がマリクの心の中に流れ込み、マリク自身さえ知らない奥底まで入り込もうとし始める。

「うわあああああああっ!!」
「エリス!これ以上絵梨衣ちゃんを好き勝手に……」

 かけがえのない友人である絵梨衣を傷つけることは出来るだけ避けたかった。
 しかし、意志を奪われてエリスに身体を弄ばれるくらいなら、たとえ傷つけることになっても気絶させるべきかと決心し、鞭を振ろうとしたジュネを、
 ギラリと向けられたエリスの視線が貫いた。

「雉も鳴かずば撃たれまいに。
 お前にも見えているのよ、確かな不和の種が」

 エリスは冷ややかに笑うと、右手をマリクに向けて小宇宙を放ちつつ、左手を翻す。
 その左手にも手品のように黄金のリンゴが現れた。
 無論、文字通りタネも仕掛けもない。
 このリンゴも先ほどマリクに投げつけたのと同じ小宇宙の結集体だ。

「ついでに現役の聖闘士をアテナから奪ってやるのも一興ね」

 こともなげに言うと、エリスは左手から軽やかに黄金のリンゴを投げつけた。
 マリク同様、吸い寄せられるような気配を察したジュネは、とっさに鞭で迎撃しようとした。
 だが、打ち落とすどころか、鞭がリンゴに触れたと同時にエリスの精神攻撃がジュネに襲いかかった。

 心の底に澱のようにたまっていたものが、かき乱されて沸騰しているのを感じて、ジュネは慄然となった。
 これは、この想いは……、
 思い当たるところは十二分にある。
 自分に不和の種があるとすれば、それは、先ほどマリクに指摘された……

「さあ、どちらが早いかしら」
「うわあああああっ!!」
「あああああああっ!!」

 両腕を直角よりやや開けつつ、二人に向かって真っ直ぐに伸ばしながら、エリスは二人の上げる悲鳴を堪能するかのように、うっとりと微笑んだ。
 絵梨衣の美貌はそのままであるはずなのに、確かに美しいのに、
 あまりにも邪悪な、ほほえみだった。

「どうやら、お前の方が早そうね。
 ここまで持ちこたえられただけでも十分に私のしもべになる資格はあるわ」

 マリクの脳裏に、星闘士となってからのことが次々と浮かび上がる。
 青輝星闘士になったときのこと。
 聖闘士たちの闘いの跡を調べたときのこと。
 星闘士としての修行。
 星闘士となるべくゼスティルムに願い出た日のこと。
 どことも知れぬ地で途方に暮れていた時間……ゼスティルムに拾われた日のこと。

 その前は……。
 僕の、その前は……
 空白。
 その真っ白で真っ黒な記憶の底に、何かが見える。
 あれは……あの人は……!

「ま…………、ね…………!!」
「まずは青輝星闘士を一人……」

 仕上げとばかりに、エリスが右手を引こうとしたその瞬間、

 キイイイィィィィィィィィンンッッッ!!

「何イィッ!!!!」

 何かが接近してきているとエリスが察知した直後、エリスの目を驚愕に見開かせる事態が起きた。
 二人に対して彼女が繰り出している小宇宙が、断ち切られた。
 正面から霧散させたのでも、真っ向から受け止めたのでもない。
 彼女の小宇宙を打ち破る……これは何者かの拳によるものだ。

「何奴!」
「俺だ!」

 孤児院の屋根の上から声がしたので、エリスは怒りの形相で顔を振り上げた。

「……人間、だと!?」

 エリスの舌打ちには文字通りではない意味がある。
 聖闘士でも星闘士でも、ましてや海闘士でも冥闘士でもありえない。
 小宇宙を持たない、ただの人間だという意味だ。

「ハッ!!」

 その声が、屋根から飛び降り、エリスとジュネとの間を遮るように降り立った。
 聖衣のような鎧を纏っている男だが、その楕円体を基本とした形状は青銅聖衣ブロンズクロス白銀聖衣シルバークロスとも明らかに違うものだった。

「鋼鉄聖闘士、旗魚座マリンクロスの潮!!」
「スチール……だと?」

 そんな聖闘士などエリスの記憶にはない。
 青銅、白銀、黄金ゴールドの三階位に、番号外の光冠コロナ
 それ以外の階級の聖闘士がいたというのか!?

「瞬、もういいぞ!」

 かすかに苦く笑いつつ潮が叫ぶと、
 低く鳴るチェーンの金属音とともに、風がジュネに駆け寄り、力尽きて倒れ込もうとするジュネを支えた。

「しっかりして、ジュネさん……」

 こちらからは小宇宙を感じる、と、エリスは忌々しげに見つめた。
 まず目につくのは両腕に巻かれた黄金に近い金属光沢を持つ鎖だ。
 それに銀か何かで細かい装飾が施されている。
 ただ、装飾と言うには美しくなく、まるで歯車のような印象を受ける飾りだった。
 それ以外には聖衣らしいものは纏っておらず、ズボンを肩ひもで吊っているのが特徴と言えば特徴だった。
 だが、その鎖だけで何よりも雄弁だ。
 先に戦ったときには直接顔を合わせることはなかったが、あの五人の一人、アンドロメダ!!
 先の敗北を思い出し、エリスは唇を噛んだ。

「聖闘士どもが……」
「青輝星闘士、射手座サジタリアスのマリクだな」
「え?」

 あえて聞こえるように呟いたであろうエリスの声をまるっきり無視して、潮はマリクの近くまで歩いていった。
 念のためエリスに背を向けずに注意を払って歩いているので、かなりあからさまにわざとらしい無視の仕方である。

 驚いたのはなんとか呼吸を整えながらも膝立ちになっていたマリクだ。
 なぜこの潮という男は、自分の名を知っているのか。
 それに、彼の纏っているものは聖衣にしてはあまりに異質だ。
 ……というところまで考えたとき、ようやくにして、この男が以前エリダヌス座の星闘士シェインのハッキングを撃退した男ではないかと思い至った。

「僕は確かにマリクだけど、君は、グラード財団のセキュリティリーダー、ギャラクシアか」
「そうとも言う。
 不本意だが、お前に伝言だ」
「伝言?」

 潮がクロスに搭載されているボタンを二三操作すると、電話越しなのか、いささか劣化したものながら、マリクのよく知っている声が流れてきた。

『状況が変わった。陛下への弁解は私がやる。
 好きなように動いて、適当なところで帰ってこい』
「……な、何やってるのさ!イルピトア!!」

 思わず音声に向かって叫んだマリクを確認して、潮は再生を止めた。

「残念だがお前の伝言は受けられんぞ。
 こいつは先ほど公衆電話から掛けられてきた声を録音したものだからな」
「話が見えてこないんだけど」
「奴が言うには、ウチの若いのに連絡がとれなくなったので伝言を頼みたい、だそうだ」

 言われてマリクは、一応携帯電話を持たされていたことを思い出した。
 しかし、最初にエリスの電撃を食らったときに間違いなく故障しているだろう。
 そうすると、千キロ単位のテレパシーを行える者がいない以上、連絡を取るのに一番確実な方法は、
……固定されている敵陣に伝言を頼むということになる。

 連絡が取れないと言うことは……イルピトアはマリクが攻撃を受けた直後に連絡を取ろうとしたということであり、つまり、イルピトアはエリスの覚醒を察知していたことになる。
 おそらく、聖闘士側にエリスの復活を伝えることで、聖闘士側が伝言を断れないようにしたのだろう。
 さらに、星闘士側の情報を欲している聖闘士側には、この情報を確かめる必要がある。
 一見デタラメな方法だが、よく考えてみると、確実に伝わる方法だ。

 包囲網は厳しくなるが、突破して帰ってこれると期待されたのだろうか。

「貴様ら……!神を目の前に無視するとは、無礼極まりないわ!!」

 完璧に無視された格好になったエリスが、激怒の形相で再び鉾を手に取った。
 会話中に不意打ちをしてこなかったのは、さすがに神のプライドが咎めたのだろう。

「ああ、悪い。忘れてたぜ」

 しれっとわざとらしく言ってのけてから、潮はエリスに向き直った。

「伝言の分、とりあえずこの場は協力してもらうぞ、青輝星闘士マリク」
「ああ、そのつもりだよ。
 絵梨衣さんを助けなきゃ」
「いい答えだ。
 瞬、ジュネさんはどうだ!」
「気を失っている。
 でも呼吸や脈拍には異常なかったよ」

 マリクと潮が会話している間に、瞬はジュネを学園内に運び込んでいた。
 エリスが激怒するわけである。
 二人のところまで駆けて来た瞬は、一瞬足を止め、目をこすった。
 気のせいか、……、いや、射手座の星衣のせいだろう、まるで似ていないこの星闘士を、一瞬星矢と見間違えたのは。

「どうした、瞬?」
「いや、何でもないよ」

 そう思い直すと、エリスに対抗するように両腕のチェーンを展開する。
 完全に修復されているわけではない。
 先日青銅聖衣五体の修復を終えた貴鬼でも、さすがに神聖衣ゴッドクロスの修復となると現段階では無理だった。
 ヒビの入った部分を銀星砂スターダストサンドで繋ぎ、辛うじて形を保っているが、実質はほとんど死んでいると言える。
 アンドロメダの聖衣本体のように完全に死んでいないのがせめてもの救いだが。
 今は、その辛うじて生きている部分を、鋼鉄聖衣の技術を応用して作った補助パーツによって補っている。
 それでもなお自在に動かすには足りず、別の力も使っている。
 これらを合わせて実戦で使うのは初めてだった。

「でもどうするの、潮。
 前の時は星矢が黄金の矢で打ち抜いて倒したけど……」

 そのときには、エリスの魂だけが絵梨衣から分離して実体化していたので心おきなく倒せたのだ。
 今のエリスには実体化するほどの力は無いのだろうが、そのために逆に倒しづらくなっている。

「兄さんがいてくれたら……」

 幻魔拳でエリスの精神のみを攻撃することも出来るだろうに。

「一輝ほどではないが、打つ手がない訳じゃない。
 だが、少なくともエリスを追い込む必要がある」

 潮は、以前装着されていた頭から新生マリンクロスでは両腕に移した機能を確認する。

「絵梨衣には悪いが、無傷というのは諦めた方がいい」
『何だって!?』

 これには瞬だけでなく、マリクも反対の声を上げた。

「俺はおまえたちと違って小宇宙を持っていないからな、現実主義なんだよ。
 瞬、おまえたちがポセイドンと戦ったときの話を聞く限り、肉体のダメージは神の精神に届く!」

 そう言われて瞬も思い出した。
 星矢の放った黄金の矢で、結果としてポセイドンが真の覚醒を果たすことになったとはいえ、一瞬ならずポセイドンをたじろかせたことを。
 そしてまた、自分の肉体がハーデスに支配されていたとき、ハーデスは借り物に過ぎないはずの自分の身体に傷を付けないように鳳翼天翔を完全にガードしてみせた。
 そのあとアテナの血を受けたとき、自分の身体が拒絶反応を起こしてハーデスの精神を追い出したとき、ハーデスの精神は確かにダメージを受けていた。

「少なくとも、このままエリスに身体をいいように使われるよりましだろう」

 潮の言葉には言外に、お前もそう思ったんじゃないか、と問いかける気配があったので瞬は反論できなかった。

 自分の身体ならどうなってもいいと思っていた。
 ……そうか、僕はあのとき兄さんに、これよりももっとつらいことをさせようとしていたんだ……。

「助ける手は、あるんだね」
「ある。頼むぞ」

 潮の言葉に二人が頷く。
 三対一の間を、風が吹き上がっていく。

「死出の打ち合わせは終わったか!
 ならば速やかに死ぬがいいわ!!」
「ウォールディフェンス!!」

 エリスが鉾の先端から、三人まとめて葬ってくれると言わんばかりの電撃が発せられた直後、いや、動きの開始ならばそれよりも早く、鎖の壁が出現していた。
 キャスティングネットよりもさらに目の細かい、まさしく壁となった鎖を突き通せず、電撃は地面へ流し落とされた。
 エリスの電撃を見るのは初めてだったが、ポセイドンやタナトスを見ているので、神々が電撃を用いることはある程度予想できたのだ。

 先読みしていたとはいえ、瞬はひとまずほっとしていた。
 実戦で対処できるという保証は無かったが、細かな動きを鋼鉄スチール技術のパーツを操ることで実現し、全体的な動きはネビュラストリームを使って実現していたのだ。
 これならいける。

「こしゃくな!」

 先の闘いでは早々に倒れたはずのアンドロメダが刃向かってきたことに、エリスはいらだたされる。

「借りるよ、アンドロメダ!」

 その間にマリクは、出現した鎖の壁をその隙間に足の爪先を入れるだけで、手も使わず立ったまま駆け上がった。
 これには瞬も驚かされたが、人間一人くらいは十分に支えられるネビュラストリームである。
 マリクの素早い動きにも壁はほとんど揺るがなかった。
 登り切ったところで、エリスへの見下ろす角度は六十度以上。
 これならばエリスがかわしても、学園のグラウンドに穴を空けるだけで、建物を傷つけることはない。
 この期に及んでもまだマリクは、子供たちのことを気に掛けていたのだった。

「好きなように、させてもらう……!
 シューティングスター・サジタリアス!!」
「あれは、流星拳!?」

 瞬は思わず声を上げていた。
 マリクの右腕から光速で放たれる拳は、瞬が幾度と無く見てきた流星に、よく似ていた。
 地上に降りてきた流星がそうなるように、エリスの周辺に着弾する拳は隕石が降り注ぐようにも思えた。
 その拳を、エリスは恐るべき身のこなしでかわしていく。

 瞬にはその動きが見えたが、潮は悔しいかな、さすがにその速さを見切ることは出来なかった。
 だがそれで落ち込んでいるようでは、鋼鉄聖闘士はやっていられないのだ。
 目で見える範囲の情報でも、そこから推測することは出来る。
 エリスは、アベル、ポセイドン、ハーデスらが有していたという、天に唾するものを跳ね返す力は持っていない。
 少なくとも、今は、まだ。

「畳みかけろ、瞬!!」
「うん!飛べよ、サンダーウェーブ!!」

 壁を形作る鎖の一つ、スクエアチェーンを解いてエリスに向かって放つ。
 防御から攻撃に移る感覚が、さすがに以前のようにはいかない。
 だが、逆にこれが幸いした。

「これしきの技、通用すると思ったか!」

 マリクの拳をかわしながら、サンダーウェーブの先端にピンポイントで鉾先を合わせ、エリスは電流を送り込んできた。
 まだ壁が解けきっていないため、スクエアチェーンを伝ってきた電流の大半は瞬に届く前に壁から地面に落ちる。
 それでもチェーンを握り続けるのにかなりの苦痛を伴った。
 まともに食らえば一撃で倒されかねない。

 だがその間にマリクは壁から飛び降りつつエリスとの間を一気に詰めた。
 近づくのは危険だとわかっているが、鉾を攻撃に使った瞬間を見逃すほど甘くない。

「アークプロミネンス!」

 至近距離で炎の直撃……を食らわすのはさすがにためらわれた。
 エリスの周辺を囲むように青白い炎を発生させて、

「そう来ると思ったわ」
「!!」

 その動きを見透かすように、エリスはマリクに鉾を突きつけていた。

「お前の心には、女を傷つけることへの恐れがこびりついている。
 今のお前自身が知っているよりも、遙かに強く」
「なんだって……!?」
「だから素直に私に従えば、教えてやると言っている」

 今度は黄金のリンゴも使わない。
 至近距離でマリクの瞳に向けてエリスの瞳が妖しく輝きを放った。

「ぐあああっ!!」
「よくわからんが、そいつはこの俺の前では通用しないぜ!」

 壁がほどけた絶妙のタイミングで、潮が放った拳から波動が放たれ、エリスの放つ小宇宙を相殺する。

「貴様、何者……!」
「言っただろうが!鋼鉄聖闘士、旗魚座マリンクロスの潮だと!」
「ごめんなさい、絵梨衣さん!!
 シューティングスター・サジタリアス!!」

 エリスの注意が潮に向いた隙に、至近距離でマリクの光速拳が炸裂する。
 いくらなんでもこれを避けられるはずはない!

「効かぬわ!」
「何!?」

 跳ね返しはしなかったが、エリスの小宇宙によって拳の威力がそらされていく。

「そんな……」
「決意したつもりだったのかしら?
 お前は無意識のうちに絵梨衣の身体を傷つけぬよう手加減しているわ。
 そんな拳が通用するものか!」

 罵倒とともにエリスが左手を一振りすると、衝撃波がマリクを吹き飛ばそうとする。
 だが、これは両手で真っ向から受け止め、両足が少々地面に溝を作る程度でこらえた。

「あなたこそ、これで不和の女神などとよく名乗れますね」
「フン、言うではないか!」

 エリスがいきり立って二発目を繰り出そうとしたところで、

「グレートキャプチュアー!!」

 機をうかがっていた二本のネビュラチェーンが、ストリームとともにエリスの身体をとりまいた。

「これは……!」
「よくやった、瞬!!」

 これが好機だとばかり、潮は飛び出した。
 マリクの光速拳をも避けるエリスを、マッハに届かない自分が捉えるには今しかない。

「食らえエリス!!」

 マリンクロスの右腕が強烈な唸りを上げてエリスの頭を掴んだ。

「この……無礼も……なっ!!?」
「スピリチュアル・インターフェレンス!!」

 青銅聖闘士のサポートのために作られた鋼鉄聖衣には、それぞれ特化した能力がある。
 このマリンクロスに搭載されている能力は、相手の念動力や思念など、あらゆる波動を打ち消すものであった。
 現時点で精神体となっているエリスに対してこれを用いれば、絵梨衣の身体を傷つけることなく、エリスにダメージを与えることが出来ると潮は考えたのだ。

「ガアアアアッッッッッ!!!
 に……人間ごときがあああっ!!」
「邪神ごときが、人間様を舐めるんじゃねえぜ!!」

 エリスは押されていた。
 確かに、マリンクロスの発する干渉波はエリスの精神を揺るがしていた。
 だが、単に科学兵器だけならば、神であるエリスはここまで押されることはなかっただろう。
 その意味では、潮の読みは外れていたことになる。
 しかし、潮自身気づいていなかったことがある。

 この男……、小宇宙も無しに魂を燃やしている……!!

 怒濤のような海流のごとくエリスに押し寄せているのは、マリンクロスから発せられる干渉波だけではない。
 潮自身が意図せずに叩きつけている強烈な思念を伴った魂が、エリスを押さえ込んでいた。

「ぐ……お……おのれ……ぇっ」

 エリスの発する小宇宙が徐々に弱まっていくのが、小宇宙を感知する能力の低い潮にもはっきりとわかった。
 身体の自由すら効かなくなっているのか、潮の放つ波動に対して抵抗しようとはしたのだろうが、手を伸ばす途中でその手から力ががくりと抜けた。

「いける!」

 瞬も、マリクも、確信に近いものを覚えた。
 これで、絵梨衣を助け出せる。
 そう思った。
 だが、

 ゾク…………ッ

 凍気も無いのに、三人は同時に寒気を覚えた。
 まるで、一瞬のうちに誰かの宇宙に突き落とされたような気がした。
 蛇に睨まれた蛙、などというような生やさしいものではない。
 瞬だけは同じような経験があった。
 黄金の矢でマスクを吹き飛ばされたポセイドンが覚醒したときの、あの感覚!

「このエリスを……」

 今にもくずおれそうだったエリスの……絵梨衣の姿勢がピンと張った。
 力無く垂れ下がっていた腕が、絵梨衣の頭を掴んでいた潮の右腕をマリンクロスの上から掴み返す。
 そして、絵梨衣の豊かな金髪が、徐々に変色していく。
 人間にはあらざる青い輝きを持った髪が、金髪の中に混ざる。

「ここまで追い込んだことは誉めてやるわ!!!」
「!!!」

 潮の右腕から右肩にかけて、マリンクロスのパーツが一瞬にして粉々に吹っ飛んだ。
 同時に、全身のパーツが稲妻を吹く。
 火花でも煙でもなく、稲妻だった。

「エ、エリス!?」

 いかに聖衣を目指してつくられているとはいえ、鋼鉄聖衣の内部中枢は電子配線だ。
 今の一撃で、全て焼き切れたことは考えるまでもない。
 その、浮遊力すら失ったはずの潮の身体が、絵梨衣の身体から引きはがされて、ゆらりと宙に浮かび上がる。
 潮の手の下から現れた絵梨衣の瞳は……いや、エリスの瞳は、右半分が青くなっていた。

「死ぬがいいぃっ!!」

 呼び寄せられるようにエリスの手に収まった鉾が、星の爆発のごとく一閃した。
 不和の女神の名に賭けて、全てを分かつとでもいうように、
 大地を裂き、壁を裂き、道路を裂き、大気を裂き、雲を裂き、
 その途中にあった潮の身体を直撃していった。

「潮!!」

 鮮血をほとばしらせながら落下する潮の身体が二つに分かたれていないことを確認して、瞬は落下地点に駆け寄ろうとしたが、その前に、

 ガカカアッ!!

「!!ローリングディフェンス!!」

 とっさに反応して、最も使い慣れた防御形に鎖を展開する。
 しかし、受け止めた鉾の威力が先ほどまでとは桁違いだった。
 元々が神聖衣の鎖だけに、砕かれはしなかったが、細部の運動を司るパーツが耐えきれずに破損した。
 鎖の制御を半ば失ったところへ、天を裂くような鉾の第二撃が振り下ろされた。

「うわああああっっ!!」

 ローリングディフェンスをはじき飛ばして、それを取り巻くストリームを引き裂いて、衝撃波が瞬をグラウンドに叩き伏せた。
 それだけではなく、地面に土砂を巻き上げつつ深さ十メートル近い溝が刻まれ、瞬はその底まで転げ落ちた。
 直後に、反応のない潮の身体がその溝の縁に落下して、溝に転げ落ちる寸前で止まる。

「これが、本当の……エリス……!」
「無礼な、まだ不完全よ」

 金と青とが一本一本複雑に混じり合う、そのものの正体さえ知らなければえもいわれぬ美しさを漂わせる髪をなびかせつつ、叱責代わりとでも言わんばかりの貫くような一撃をマリクに見舞った。

「アークプロミネンス!!」

 マリクが両手で繰り出した青白い炎と、鉾の衝撃とが空中で激突して互いに押し合う……が、

「一度見た技が二度も通用すると思わないことね」
「!!」

 ひらりと、学園の屋根の一番上にある十字架の上に移動していたエリスが、落雷のような電撃を放った。

「がああぁっっ!!」

 鉾の攻撃を受け止めるのに力の大半を注ぎ込んでいたマリクは、避けることも受け止めることも出来なかった。
 さらに、電撃を食らったことで集中が途切れ、先に放った鉾の一撃まで食らう羽目になった。
 それでも、マリクは倒れずに踏みとどまった。

「ほう、まだ立っていられるか」

 電撃に対しては効果が薄くても、鉾の攻撃に対しては星衣は有効に働いてくれたため、瞬ほどのダメージは受けずに済んだ。
 そして、同時に、エリスへの怒りが倒れることを許さなかった。

「絵梨衣さんに何をした、エリス!!」

 ゼスティルムから聞いたことがある。
 髪の毛が変色するのは、神々によって完全に肉体を囚われた者の証だと。
 近年では、すぐそこに倒れている瞬がハーデスに肉体を奪われたときそうなったと聞いている。

 だが、エリスの返答は平然としたものだった。

「話し合っただけよ。
 絵梨衣は私にこの身体を貸してくれることを快く納得してくれたわ。
 だからこの身体の支配力が増しただけのこと。
 あとは残りの封印さえ解ければ完全に支配できるのだけどね」
「……そんな……」

 嘘だ、と言いたかったが、先ほどエリスの精神攻撃を受けてその恐ろしさは実感している。
 絵梨衣の心にあった何らかの不和の種につけこんだのだ。

「気づいたようね。
 褒美に一つ教えてやるわ。
 お前の中にもある、私が最も好きな不和の種の名を」

 エリスは自分の唇をなぞり、まるでそれを味わうかのように、

「愛、よ」

 と、言った。

「え……?」

 マリクがあっけにとられたその隙に、エリスは電撃を伴って鉾を一閃させた。
 避けようのない、完璧な間の取り方だった。

「うわああああっっ!!」

 一瞬でグラウンドにクレーターが出現した。
 それでも、クレーターの一番底でマリクは倒れなかったが、それは、倒れるよりも先に周囲の地面が抉られたからに過ぎない。
 だが、まだ屈するつもりはなかった。
 底に崩落してくる土砂をはねのけて、なんとかクレーターの中からはい上がる。

 瞬も、潮がまだ呼吸していることを確かめつつ、溝の底からはい上ってきた。
 土まみれの無惨な姿ではあるが、二人はなお、見下ろしてくるエリスに向き直る。

「まだ刃向かおうというの?
 あの男がいない今、さっさと私の手駒にしてやってもよいのだけど」

 あの男、というのは潮のことだろう。
 元々小宇宙を持っていない彼の生死を遠目から確認することは難しいので、エリスは潮が死んだものと思っているのかもしれない。
 既に潮に対しては注意を向けておらず、自分を見上げてくる二対の視線を交互に見つめ返し、本来なら整った曲線を描く眉を険しく寄せた。

「……そもそも。聖闘士と星闘士が仲良くしているというのが気に入らないわ。
 このまま手駒にするより……」

 エリスは何かを思い付いたらしく、二人からすっと視線を外した。
 高低差があることもあるが、マリクも瞬も、既にその隙を狙って攻撃するのは難しい状態だった。
 ならば、小宇宙を限界まで燃やした一撃に賭けるしかないのだが、しかしそんなことをすればもしエリスを倒せたとしても、絵梨衣が死ぬのは避けられない。
 完全に手詰まりだった。
 エリスもそれをわかっているからこそ、平然と隙を作ったのだと大体想像がつく。

「サジタリアス、アンドロメダ、よく聞くがいい。
 私はこれから……」

 エリスはもったいぶった仕草で鉾を改めて持ち直し、その先端が光輝くほどの小宇宙を注ぎ込み始めた。
 おそらく、二人のうちどちらかを殺しどちらかを生かしてやるからこの場で戦え、とでも言い出すのだろうと、マリクも瞬も考えた。
 だが、残酷な笑みとともにエリスが告げた言葉は全く予想だにしていないものであった。

「アテナを、殺すわ」
『!?』

 瞬だけはわかったが、よくよく見ればエリスが見つめていた方向は、城戸邸の本邸の方向だ。
 距離はこの星の子学園から……測ったことはないが、直線距離で数キロ程度のはず。
 今のエリスなら、十二分にねらえる距離だ。

「何を腐抜けているのか知らないけれど、今のアテナにはじわじわと精気を吸い取るだけの価値も無さそうだもの。
 その命だけもらってそこら中の封印を弱めてやるのも一興だわ」
「そんなことを……!」

 させるものかと、怒りの表情で鎖を構え直す瞬を見て、エリスは心底楽しそうに笑った。

「そう、それが聖闘士として実に立派な反応ね。
 さて、星闘士、おまえはどうするの?」

 マリクはようやくエリスの狙いが何か察しがついた。
 この日本に来る前に、首尾良くいけばアテナを抹殺しておくべきだろうとイルピトアに話したところ、リスクが高すぎるからやめておけという返事が返ってきていた。
 先に青輝星闘士蠍座のユリウスが白輝星闘士のアクシアス、クライシュらを引き連れながらもアテナ抹殺には失敗しているのだ。
 アテナを守る聖闘士の中に尋常ならざる男がいる。
 それと正面きって戦うことは避けろということだった。

 だが、アテナ抹殺は出来れば果たしておきたいというのが、星闘士の多くの偽らざる心境だろう。
 エリスがそれを実行するというのならば、

「何を!?」

 瞬は、見当違いだとはわかっていても、裏切られたという思いを否定できなかった。
 星闘士との最初の交戦で、瞬は星闘士に最初の黒星を与えている。
 彼らがアテナ沙織を狙ってきたこともあり、星闘士を敵だとはっきり認識しているはずだった。
 それでも、
 ここまで肩を並べて戦ってきたこの射手座の星闘士が立ちふさがるのを見て、裏切られたと思わずにはいられなかったのだ。
 似ているわけでもないのに、あまりにも、今は亡き兄弟を思い出させるのだ。
 まるで、彼が蘇ってきてくれたような、そんな気さえしていたのに……

「君も、所詮は星闘士なのか……」

 あなた、ではなくて、君、と呼びかけたところに、瞬の未練があった。

「城戸沙織は絵梨衣さんとは違うと聞いている。
 もとよりアテナとして地上に生を受けた存在であり、人間ではないと。
 ならば、僕が彼女を守る理由は無いよ、アンドロメダ」

 アンドロメダ、と呼んだその言葉が、瞬を思い切らせた。

「沙織さんは殺させない……、星矢のためにも……!!」

 自ら禁じ手としているネビュラストームを使うべく、瞬は小宇宙を高めていく。
 マリクが星闘士であるのと同様に、瞬も聖闘士だった。
 アテナを守るためならば、
 ……天秤の片方に沙織を乗せて、それと釣り合う相手は一人しかいない。
 一人しか。

「そう、それでいいのよ。
 聖闘士と星闘士は!!」

 心底嬉しそうなエリスの声に二人が振り仰ぐと、エリスが構えていた鉾の放つ光が異様なほど鋭く目に突き刺さるほどに研ぎ澄まされている。
 これは、尋常な小宇宙ではない。

「く……!ネビュラ……」
「遅いわ!!」

 勝ち誇ったように、瞬がネビュラストームを繰り出すより早く、エリスは鉾を投げ放った。

「さあ、じっくりと味わうがいいわ。
 アテナの最期を!!」

 光速で投げられるはずなのに、それが常人の目にも映りそうなほどの速度でしかないのは、無論、マリクと瞬を争わせようとするために決まっている。
 それがわかっていても、瞬は動かざるを得なかった。
 鉾は重力を完全に無視して、一直線に城戸邸を目指している。

「爆発しろ、ネビュラよ……!」
「爆発しろ、星々よ……!」

 全力で星の子学園の敷地を飛び出して、城戸邸へと続く森へ飛び込んで鉾を追う瞬に、
 ほとんど遅れることなくマリクが追いすがる。
 走りながら、二人ともに小宇宙を全開に高めていた。

「ネビュラストーム!!!」
「シャイニング・フレア!!!」

 一直線に鉾を吹き飛ばすべく放たれた嵐と、それを食い止めようとする太陽風とが激突した。
 森の一角が、燃え尽きるよりも先に蒸発する。
 残りの高熱が周囲を燃やし尽くそうとする前に、嵐がその熱を運び去り、超高熱の嵐となって鉾へと肉薄する。

「しまった!!」

 技の威力はほぼ互角でも、瞬の技は一点に集中していた分、太陽風を突っ切ることができたのだ。

「止まれえええぇぇっっ!!」

 鉾をストームが取り巻き、吹き飛ばそうとして、
 逆に、かき消された。

「そんな!!」
「面白い余興だったわ!!」

 嘲るエリスの声に後押しされるように、鉾は視界の向こう、城戸邸の壁に、狙い違わず突き刺さった。

「沙織さーーーーーーんっ!!」
「アハハハハハハハ!!!!」

 先にバイコーンの白輝星闘士アクシアスによって破壊された後、さらに強化して修復した偏光強化ガラスが、窓枠とともに粉々に破壊される耳障りな二重奏が、エリスの目的達成を祝うように響き渡った。

「ハハハハ……、……な、何……」

 エリスの満面の笑みが、半ばで凍り付いたように止まった。

 ゴオオオオオオオォォォォォッッッッッ!!!

「この小宇宙は……!」

 そのまま戦闘を続ける気にもなれず、確認するつもりで森を抜けて城戸邸前の庭までたどり着いたマリクは、外壁を破壊された部屋の中から、自分を凌駕するとてつもない小宇宙を感じた。
 猛々しい怒りに満ちたその小宇宙は、アテナのものではない。
 これはおそらく聖闘士のものだ。
 しかし、この強大さは、

「まさか、あれが……」

 ユリウスを恐れさせ、イルピトアが避けろとまで言った……

「邪武!!」

 慌てたような驚いたようなそれでいて嬉しいような、それらがまぜこぜになった表情を浮かべつつ、それと同種の叫びを上げて、瞬も森から出てきた。
 お互い一瞬身構えたが、これはイルピトアから忠告されている事態だと考えてマリクの方から構えを解いた。

「あれも、君らの仲間の聖闘士なのか、アンドロメダ……」
「あ……、うん。……僕も信じられないけど」

 いきなり話しかけられて、とっさに答えとして出た言葉は瞬の本音だった。

 破壊された部屋は二階なので、下から見上げていては中を見ることが出来ない。
 マリクは手近の木の上に飛び乗って中をうかがった。

「!!」

 そこには、未だ威力を残してアテナに迫ろうとする鉾を、うつむいたまま反応の無いアテナを背に立ちはだかった聖闘士が、黄金聖闘士や青輝星闘士をも上回る小宇宙をたぎらせて受け止めている壮絶な光景があった。
 その聖闘士が纏っているのは……銀河戦争のときとは姿が変わっているが、間違いなく一角獣座の青銅聖衣!!

「彼が……一角獣座の、邪武……」
「ハアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!」

 さらに高まっていく小宇宙の前に、ついに、エリスが鉾に込めた小宇宙が、ネビュラストームすらかき消した小宇宙が、完璧に霧散した。
 邪武は、威力を失った鉾を握り直すと、

「てめええええっっっっっっ!!お嬢様に向かって、何をしやがるんだああああぁぁぁぁっっっっ!!!」

 彗星のように、鉾を投げ返してしまった。
 正真正銘の光速で、手加減など一切無い小宇宙が込められた一撃は、重力の影響など受けるよりも早くエリスに迫った。

「何イィッッッ!!!??」

 エリスは小宇宙を高めてこの鉾を受け止めようとしたが、容易に止まるような攻撃ではなかった。
 ほとんど威力を失うことなく目前まで迫っていた自分の鉾を受け止めるのに、エリスは直に手を使って、全力で小宇宙を注ぎ込まなければならなかった。

「な……なんなのだ……、あの、聖闘士は……」

 刃を握りしめた両手から、鮮血がしたたり落ちていることにさえ、しばし気づかなかった。
 胸元まで数ミリのところで辛うじて受け止めたことに、安堵すら覚えさせられていたのだ。

「この娘が死んでも構わぬというの……、いい度胸ね」

 この呟きが聞こえたわけではないが、邪武は一発攻撃を繰り出したので、ほんの少しだけ落ち着いて、無礼にして不遜にして万死に値する攻撃者を認識した。

「おい、瞬。
 なんだ、あれは」

 全力で鉾を投げ返す前に質問して欲しかったと思いつつ、

「エリスだよ。
 あいつが蘇って、絵梨衣さんの身体をのっとっているんだ」

 と、瞬は必要事項を手短に伝えた。

「……星矢にやられた邪神ふぜいが、性懲りもなくまたお嬢様の命を狙いに来るとは、いい度胸だな、あの野郎ッ」

 どうも肝心な後半を聞き流されたような気がする瞬は、野郎という単語の用法間違いを指摘する気にもなれなかった。
 ここまで火がついてしまった邪武は下手に刺激すると……いや、もはや刺激しなくても十二分に危険だ。

 だが、この言葉はしっかりエリスの耳に届いていた。
 まなじりがつり上がり、瞳に小宇宙が渦巻いて、怒髪が天をついて激しく波打つ。

「八つ裂きにしても飽きたらぬ無礼者がぁっっ!!!」

 掲げた両手の間に、幾重にも銀河が折り重なって、輝ける黄金のリンゴを形作った。

「見えるわ、貴様が抱くとてつもない不和の種が……。
 聖闘士がアテナに恋慕するなど笑わせるけど、今はそれが好都合!!」

 轟々と小宇宙が渦鳴り、突如として出現した嵐に、風と木々が呼応してざわめく。
 何かしているということは、数キロ離れた邪武にもわかった。

「なんだ……?」
「食らうがいいっっ!!」
「いけないユニコーン!避けるんだ!!それは……」

 先ほどのような遊びではなく、今度こそ光速で放たれた黄金のリンゴを邪武は、

「ユニコーンギャロップ!!」

 蹴飛ばしにかかった。
 光速の動きに完璧に対応したのは驚嘆すべきところだが、

「愚か者めが!!思い知るがいいわ!!!」

 さすがに蹴飛ばせる黄金のリンゴではなかった。
 爪先に触れた瞬間に、邪武の体内に入り込み、精神を侵そうとする。

「な……なんだ……こいつはあああっ!!」

 さらにエリスは畳みかけるように小宇宙を重ねて繰り出した。
 直撃を食らっているわけではないマリクと瞬にさえ、葛藤する感情の余波が押し寄せて立っていられない。
 エリスが絵梨衣の身体の支配力を強めているせいか、先ほどマリクとジュネに対して仕掛けたときよりも数段威力を増している。

「さあ、お前が心の奥底で抱き続けている思いを果たすがいいわ!
 自らが至高と思っているアテナを自らの手で汚し、自らの手で殺すのよ!!
 そして、自分のした行いへの永遠の後悔に囚われたまま、その肉体を万の欠片に切り刻んで大宇宙にばらまいてやるわ!!!
 アーッハッハッハッハッハッハッハ!!!!」
「い……いけない……邪武……!!」

 邪武が沙織に対して幼い頃から憧れを抱き続けているのは、9人の兄弟が……いや、別れる前の99人の兄弟全てがあまりにもよく知っていることだった。
 そして、その想いがかつても今も、破れ続けていることも。
 星矢が生きていたときは常に星矢に立場を奪われ、星矢が死してからもなお、沙織が邪武に対して振り向くことは決してなかった。
 それでもなお、邪武はひたすらに沙織に忠義を尽くし続けてきた。
 自らの想いを閉ざし続けて。
 エリスが狙うのに、これ以上の隙は無い。
 潮が倒れている今、エリスの不和の誘惑から逃れる術は無い……!!

「お……お嬢……さま……オレは……オレは……」

 エリスを睨んでいたその身体が180度振り向き、この大混乱の中でさえ何の反応を示さない沙織へと向き合う。
 闇の中で、この数ヶ月でさらに細く白くなった肩と腕が白く月の光を反射していた。
 引き寄せられるように……いや、惹き寄せられるように、一歩一歩邪武の足が沙織へと向かう。
 七年以上にも渡って邪武の前に広がっていた距離を縮めるかのように。

「じゃ……邪武……よせ……」

 騒ぎを聞いて邸内から部屋にたどりついた辰巳も、エリスの小宇宙の余波で声を上げるのが精一杯だった。
 一般人である警備員たちなど、もはや声すらあげられず、部屋にたどり着くことも出来なかった。
 何一つ、誰一人、遮るものはない。

「聖闘士によってアテナの神話が終わりを告げる……。
 さあ!やるがいいわ!!」
「お嬢……様ああああああああああぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!」

 ついに、邪武の手が沙織の肩にかかった。
 わずかに力を掛けられただけで、沙織の身体は何ら抵抗無く動く。
 うつぶせになっていた顔が、あらわになった。
 邪武が崇拝し、仰ぎ見て止まなかったその顔は、ギリシア彫刻のように、ギリシアの彫刻たちでさえ及ばぬほどの美しいのに、
 瞳から頬を伝う涙の跡がくっきりと刻まれて、それと引き替えに、何の表情も刻まれていなかった。
 力無くわずかに開いた瞼の間から覗く瞳は、何も映してはいなかった。
 目の前にいる邪武すらも。
 目の前に、いるのに。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォッッッッッッッッッッッッッッ!!!!」

 慟哭が大地と天とを貫いた。
 絶叫が、残されていたガラスを一瞬にして砕ききり、元より黄金聖闘士を凌駕していたやもしれぬ小宇宙が、さらに爆発的に増大していく。
 人間にかなわぬ想いを抱き続けてきた男が、人間を超える小宇宙を持って己の内なる衝動と外なる神の力に対抗する。

「こ……こ……こんな……っっ!!バカなぁっっ!!」

 怒りに燃え上がる視線が振り返り、エリスが繰り出していた小宇宙を跡形もなく吹き飛ばしたのを目の当たりにして、エリスは誇りも何も忘れて絶叫した。

「てめえ……よくもこのオレの汚れた手を、お嬢様に触れさせたな…………っっ!」

 律儀にも沙織を元の体勢に戻させてから、邪武はエリスに向き直る。
 沙織の肌に触れてしまった手を忌々しく見つめてから、己の掌を突き破らんばかりに拳を握りしめた。

「じゃ……邪武、落ち着いて!
 あの身体は絵梨衣さんの……」
「エリスだけをぶちのめせばいいんだろう……!」

 慌てた瞬に対して、当然のことのように答えた邪武は、一旦後ろを振り返った。

「辰巳さん……、済まないがほんのわずかの間だけ、お嬢様を頼むぜ」

 邪武は瞬の近くにいるのが星闘士であることをしっかりと察していた。
 見境が無いように見えても、沙織の害となることに対する感覚は誰にも負けないのだ。
 しかし、彼がこの混乱の中で沙織の傍から離れることがどれほどの決断であることか、おそらくマリクにもエリスにも理解出来なかっただろう。
 その、頼むという言葉に込められた想いも。

「わかった」

 そう言うと辰巳は肩に背負った剣を鞘から取り外した。
 いわゆるグレートソードと呼ばれるタイプの剣で、その巨大な両手持ちの両刃も鞘も至る所に継ぎ目が入っている。
 エリスらを威嚇するようにその剣を一振りすると、鞘と刀身がその継ぎ目から分解して十を超えるパーツとなり、瞬時にして辰巳の全身に装着される。
 右手にギラリと光る日本刀を残し、彼の全身を剣道の防具と聖衣とを連想させる鎧となって覆った。

「この剣道四段辰巳徳丸、ひとときだけこの場を預かろう」

 信頼に満ちた顔で辰巳に向かって頷くと、邪武はタンッと床を蹴り駆けだした。
 真っ直ぐにエリスへ向かうその足が、徐々に速くなっていく。

 マリクは、邪武の背を見送った後に沙織の方を伺い、アテナ抹殺を諦めざるを得なかった。
 自分へ向けて警戒の視線を向けている辰巳と呼ばれた男からは、潮と同様に小宇宙を感じない。
 だが、それが弱いということに繋がらないと先ほど見せつけられていた。
 まして、彼の纏う聖衣は潮のそれと同種のものに見えた。
 瞬を出し抜いて彼を一瞬で倒す……それは、光速を以てしても不可能に見えた。
 少なくとも、彼の視線はそう語っていた。

 その間に、邪武は急速に速度を上げつつあった。

「来るな……来るなあぁっっ!!」

 不和の女神が、得体の知れない恐怖に囚われて、鉾から何発、何十発と電撃を放つが、ユニコーンは止まらない。
 ダメージが無いはずがないのに、それらの一切を無視して突き進む。
 彼我の距離が五百メートルを切ったところで、ユニコーンは大地を蹴って天に舞い上がった。
 まるで、翼など無くとも永遠のライバルであるペガサスと同じことは出来るとでも言うかのように。

 その身体が空中で回り始め、エリスの放った電撃を弾き返す竜巻と化す。
 ただし、90度以上角度が倒れた竜巻だ。
 その渦は、ドリルのようにエリスに迫る。
 いや、ドリルではない。

「スパイラル・ピュリフィケーション!!!!」

 それは、あらゆるものを浄化すると云われるユニコーンの角だ。
 清らかなる乙女を傷つけることなく、邪悪のみを滅する螺旋が、邪神に囚われた少女の身体を貫いた。

 ガアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッッッッッッッ!!!

 絵梨衣の喉ではなく、エリスの小宇宙が絶叫を上げた。
 半分が青く染まっていた髪が、螺旋の回転に従って徐々に金色に戻っていく。

「神話もろとも、消えてなくなれえええええええええええええっっっっっ!!」

 邪武も、瞬も、辰巳も、マリクも、エリスでさえも、勝負あったと思った。
 今まさに、絵梨衣の髪が全て元に戻ろうとして……

 ズガアアアァァァンンンッッ!!

 大地に、叩きつけられた。
 何が。

 見ていた者だけではなく、叩きつけられた者も、九死に一生を得た者も、何が起こったのか理解するのにしばしの時間が必要だった。
 雄大なる螺旋が星の子学園の上空から消失し、そして、邪武の身体が星の子学園の庭に叩きつけられていた。
 その身体には、青い金属光沢を持った鞭が巻き付いていた。
 その鞭の柄を握っているのは、

「フ……フフフフフ、よく、よくやった……誉めてやるわ、ジュネ、と言ったわね」

 辛うじて三分の一ほどの髪を青く戻し、心底安堵した表情でエリスは、眼下にいるジュネに声をかけた。

「あ……あんたは……」

 グラード財団を代行として預かる立場上、邪武はジュネのことは一応知っていたが、何故こうなったのかはまるで想像がつかなかった。
 その表情は仮面に隠されて何の感情も考えも伺えない。
 そして、限界を超えた星が燃え尽きるように、限界を遙かに超えて戦っていた邪武は、今の一撃で力を使い果たし、もはや立ち上がることはおろか、動くことさえ容易ではなかった。

「どうやら……本来の実力をわきまえずに、小宇宙を燃やし尽くさせたようね」
「エリス……ッ」

 睨み上げる瞳だけは、まだ闘志を失っていないことが雄弁だったが、それ以上は何も出来なかった。
 エリスは、邪武の攻撃によって取り落としていた鉾を手元に呼び戻し、邪武に狙いを定めたが、しばしの逡巡の後、構えを解いた。

「今ここで殺してやるのは簡単だけど……それでは、私の気が収まらないわ。
 しかと覚えて置きなさい。
 一角獣座の邪武、お前には神話から今に至る人間どもの歴史の中で最も苦しく醜い死に様を与えてやるわ。
 そのために、今はその命を預けておいてやる……」

 そこへようやく、事態を確認しようとして瞬とマリクが駆けつけてきた。
 だが、最悪の想像を遙かに上回る光景に、二人ともに足が止まる。

「……ジュネさん!!!」
「まさか……さっきのエリスの攻撃で、既に……」
「察しがいいわね、サジタリアス。
 このジュネは晴れてこのエリスの配下となったわ。
 不和の種を実らせてね」
『!!!』

 エリスが軽く手招きすると、ジュネは邪武を鞭から放して星の子学園の屋根に飛び上がり、エリスの傍に侍る。

「だが、今は退いてやる……。
 お前たち二人を相手にするだけの力すら、今の私には残されていないのは認めてやるわ。
 そこに倒れている男に感謝することね」
「何!?」

 ひらりと、エリスはジュネを伴って屋根から舞い降りた。

「次に会うときには、全員私のしもべにしてやるわ……!!」
「待てエリス!ジュネさんを……」
「絵梨衣さんを、返せ……!!」

 目の前で逃げを打ったエリスをみすみす見逃す理由は無い。
 だがエリスは、周辺に電撃をばら撒きつつ逃げた。
 深夜の町中の至る所で人々を巻き込んで爆発が起きる。
 それをまったく無視して追いかけられる二人でないことを、計算しつくした逃走だった。
 振り切られる……!

「アンドロメダ、チェーンでエリスを捉えられないのか!?」
「ハーデスに破壊されていなければ出来ただろうけど……!」

 聖衣が無いためにダメージが蓄積していた瞬は、力尽きる前に祈るような気持ちでサークルチェーンを放った。
 願いを込めた鎖は、在りし日の力に及ぼうとしてエリスを辛うじて捉えようとする。
 だが、あろうことか、それはジュネの鞭によってはじき返された。

「そん……な……」

 その事実に打ちのめされ、瞬はその場に倒れた。
 そのわずかの間で、マリクはエリスに追いつきかけた。
 必死に伸ばした手が、エリスの青と絵梨衣の金が混ざり合った髪にかすかに絡む。
 だが、そのマリクに対してジュネの鞭が襲いかかってきた。
 容赦のない、武器として。

−−この後ジュネさんは……、遠ざかっていた星々ともう一度重なるときが来ると思います。でもそのときどうするかは、ジュネさん次第です−−

 僕は、見誤っていた。
 それはジュネさんの意志によるものでは、無かった……!!

 鞭を受けて片膝をつき、遠ざかる二つの背を為す術無く見送りながら、マリクは悔恨に打ちのめされていた。
 そのまま、やがて小宇宙すらも感じなくなり、静寂が耳を痛いほどに打った。

 こみ上げてくる怒りをぶつける先を求めて、地面に拳を叩きつけようとしたところで、先ほど絡んだ右手の指に四筋の髪が残されていることに気がついた。

 どうしようか……。
 疲れ切っていたが、まさか瞬や潮たちの安否を確認しに戻るわけにもいかない立場だった。
 手に残っていた絵梨衣のものともエリスのものとも言い難い髪を確認して、ようやく任務を思い出した。
 辛うじて、必要最低限のことはやったというべきなのだろうか。

「好きなように動いて、適当なところで帰ってこい……か」

 帰ろう。
 そう思った。

 イルピトアが、こうなることを予期していたのかという想像は、恐ろしくてする気にもなれなかった。




第十九話へ続く


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