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聖闘士星矢 夢の二十九巻「第十六話、コレクター」
聖闘士星矢
夢の二十九巻
「第十六話、コレクター」
墓石が立ち並ぶまっただ中で、墓参りとはほど遠い雰囲気を漂わせて二人は睨み合っていた。
一人は天秤座ライブラの青輝星闘士アーケイン。
もう一人はゼータ星アルコルの神闘士バド。
お互いいつでも拳が振るえる体勢にある時点で、既に一触即発という段階を通り越している。
先ほどまでのやりとりでバドは怒り心頭に発していた。
端正な容貌ながら、その瞳は神闘衣の姿同様サーベルタイガーさながらの殺気を湛えている。
それでもバドが一息に踏み込まないのは、先ほど人質に捕らわれていたフレアを救出し、今も左腕で彼女を保護しているためだ。
しばし待っていれば巡回の兵が駆けつけるだろうが、それまでは下手に動けない。
無論、アーケインはそれを見越して散々挑発したのである。
「どうした。
私の口を閉ざさせてくれるのでは無かったのか。
かかってきたまえ」
「く……」
抑えきれない小宇宙がブリザードとなってアーケインに叩きつけられていたが、アーケインは時折まばたきをする程度でさほど堪えた様子は無い。
アーケインの周囲で燃えさかる小宇宙がブリザードを平然と受け流していた。
そのことからも、アーケインが単に口だけの相手でないことは解る。
フレアをかばいながらでは、勝てない。
「バド様!」
実際は大した長さではなかったのだろうが、巡回の兵がこちらを見つけるまでにバドは焦りを覚えるほどの時間を感じていた。
正直言って、兵達が駆けつける足音にほっとする。
「こちらだ!フレア様を頼む!」
「はっ!」
それでもバドは兵達が近づいてくる間、気を抜くことが出来なかった。
ここまで問答したアーケインの性格の悪さから見て、先に兵たちを狙って片づけることも考えられたからだ。
だが意外なことにアーケインは、バドがフレアを兵達に預けるまで動かなかった。
兵たちがフレアの身を丁重に受け取り、バドが自由になったまさにその瞬間、
「いくぞ!!」
驚くほど真っ正面からアーケインはバドに襲いかかった。
しかしそのときのバドは、弦がちぎれる寸前まで引き絞られた弓のようなものだった。
自由になったそのときにアーケインが来たのだから、たぎらせていた怒りを爆発的に振るうことになった。
「シャドウバイキングタイガークロウッ!!!」
シドをも凌ぐ速さを誇るバドの全力の光速拳である。
避けられるはずがなかった。
あらかじめその動きを予想しているのでも無い限り。
アーケインは、その動きを完璧に先読みしていた。
「何ッ!!」
喉元を目がけて一直線に迫ったバドの右手が一瞬前までアーケインがいた場所を貫いたときには、既にバドの左側に回り込んでいた。
バドの小宇宙の余波に触れたのは、アーケインが意図的に残した左手のみ。
先読みしていたとはいえ、相当の速さが無ければ出来ない芸当だ。
青輝星闘士の称号は伊達ではない。
一撃に全力を注ぎ込むようし向けたバドを相手に、さらに念には念を入れて利き腕と逆の方向に回り込んで、必勝の確信と共に拳を振るう。
「タクティカル・アサレイション!!」
バドの小宇宙の反動を利用して本来よりもさらに速度を増した光速拳が、純白の神闘衣の中で雄弁な深緑の輝きを有した左肩へと命中……する寸前、
「バイキング・タイガークロウ!!」
反応できるはずが無いと思われた深緑の左腕が、壮絶な凍気を伴ってアーケインの必殺技と激突した。
「バカなっ!!」
「こいつっ!!」
反応された方は、反応されたこと自体が予想外であり、
反応した方は、受け止めた必殺技の威力が予想外だった。
大気をズタズタに引き裂く様な音がアスガルドの暗雲に跳ね返されて来るのに合わせて、二人は再び距離を取っていた。
「……信じられんな。よくも反応できたものだ」
この交錯でバドを仕留めるつもりだったアーケインは驚愕の色を隠さずに呟いた。
しかもバドは冷静さを取り戻して、目の前での光速拳の激突に足がすくんでいた兵士達を急ぎ去らせている。
先ほどのような大きな隙を生じさせるのはもはや難しかった。
「オレを怒らせてその隙に倒すつもりだったらしいが、残念だったな。
このバドの命はもはやオレ一人のものではない」
「ほう、死んでいった神闘士たちの魂を背負っているというわけか。
大変泣かせる話だ」
「貴様ごときが勝手に納得するな……!」
バドは小さく舌打ちして、うっすらと雪に覆われている石畳を駆けた。
まだここはハーゲンやトールが眠る墓地の中だ。
あっさりと仕留めることが出来るほどアーケインが容易な敵でないことは確認できたので、とにかくこの墓地から叩き出すことを狙い、接近しつつ無数の光速拳を繰り出す。
速い!
アーケインも避けきれずに星衣が幾度と無く衝撃に震える。
青輝星闘士の星衣はそう簡単に打ち破られるものではないが、頼りきるのは危険だった。
「……どれ」
かわす動きが大きくなった、とバドが気づいたときには、アーケインは斜め後方へと跳んでいた。
そこには、ガンマ星フェクダの称号が刻まれた墓石がある。
「この武器を試させてもらうとしよう!」
「貴様ァッ!!」
墓の前で交差して立っていた斧……ミョルニルハンマーの一つを、アーケインは無造作に手に取った。
「……やはり、すばらしい」
手に掛かる重量感と、絶妙に作られたバランスがすぐに解る。
だがアーケインが感嘆させられたのは、それ以上に伝説めいた小宇宙の感触だった。
黄金の槍や炎の剣に匹敵する武器だと確信した。
「威力はどうかな!」
「!!」
埋葬にあたって屈強の兵が六人がかりで運んだミョルニルハンマーを、アーケインは片手で振り上げた。
ゆっくりとした動作に見えるのに、それだけで大気が唸りを上げる。
ニヤリと笑ったアーケインは延長線上にバドを見据えた軌道で振り下ろす。
「行けえっ!!」
「させるか!!」
鋭い衝撃波に続いて鈍い音が響く。
バドは躊躇なく踏み込んで、振り下ろされる寸前のミョルニルハンマーの柄を両手で受け止めていた。
それでもバドの背後の石畳が何枚も真っ二つになっている。
トールが用いれば一撃で永久氷壁を粉々にすることもできるミョルニルハンマーだ。
バドが受け止めていなければこの墓地がボロボロにされていたかもしれない。
「フッ、よく受け止めたものだ」
冷笑を浮かべながら、アーケインはミョルニルハンマーを持つ手にさらなる小宇宙を込める。
受け止めるバドの小宇宙と衝突して、ミョルニルが火花を発した。
「調子に乗るな。ミョルニルを使いこなせたとでも思ったのか」
「何?」
バドは嘲るように笑った。
元々の顔が端正だけに、その冷笑は嫌味だけではない凄味がある。
「今のは振り下ろしたとは言わぬ。
単にミョルニルを支えきれずに落としたに過ぎんわ。
これがトールならば受け止めるより先にオレは避けることを考えるだろう」
「小癪な」
「貴様ごときが、いつまでも触れていることは許さん!!」
バドは小宇宙をさらに高め、アーケインを押し戻そうとする。
アーケインもミョルニルに両手をかけて、重量とともにバドを両断せんと対抗する。
互いの小宇宙が生む反発力が、時ならぬ嵐を生み出した。
だが、バドの方が徐々に押され始めた。
「受け止めた体勢が悪かったな。
それでは貴様のシャドウバイキングタイガークローとやらは撃てまい。
盟友の武器で真っ二つになるがいい!」
「……フッ、ならば受けろ!
偉大なる北極海の怒りをな!」
バドのたぎらせる小宇宙が一気に凍気を帯び、周囲が瞬時にして凍てついた。
アーケインの足下が星衣ごと氷に覆われて大地に接着させられる。
「これは……!」
「オレの弟シド、最大の拳……」
バドはアーケインが驚愕した隙にミョルニルの重量を左手の掌だけでこらえて、右腕を大きく開いた。
両腕の中央点に凍気の集合体が青い光とともに幾重にも折り重なる。
ミョルニル越しに避けようもない至近距離で、バドの小宇宙が爆発した。
「ブルーインパルス!!」
「うおおおおおっっっっっっ!!!」
直撃を受けたアーケインの周囲を十重二十重に凍気が吹き荒れた。
星衣全体が霜に覆われ、吹き荒れる凍気の公転が極限まで速くなった瞬間、凍気が上昇へと転じてアーケインは足下の石畳ごと空高く吹き飛ばされた。
飛ばされる方向が垂直ではなく、墓地から吹き飛ばすように斜めになっていたのはバドの応用である。
だが、そのまま素直に地面に叩きつけられるアーケインではなかった。
「ハアッッ!!」
小宇宙を燃え上がらせて全身を取り巻く霜を完璧に吹き飛ばすと、空中で縦に一回転半して近くの木の幹を蹴り体勢を整え、林の中にしっかと着地する。
「やってくれる……!」
舌打ちしてから、左手で星衣の左肩から伸びる柄を手に取り引き抜いた。
棍かと思われたそれは、白い象牙のような質感の柄と片刃を持った戦斧だった。
「ブルーインパルスの直撃を受けてもまだ……」
口だけの男でないことはわかっていたが、アーケインの想像以上のしぶとさにバドは唇を噛んだ。
「……しばし借りるぞ、トール」
奪い返したミョルニルを握り直し、林の中へとアーケインを追いかけた。
中には樹齢が百年を超えるものもある針葉樹林だ。
人の手はほとんど入っていないが、葉が雪を受け止めているせいか地面にそれほどの積雪はない。
木々を傷つけることに若干の抵抗はあるが、墓地で戦うよりはましだ。
「言っておくがこのアーケイン、武器を手にすれば星闘士最強のイルピトアにさえ引けは取らん」
「知らんな!」
アーケインの台詞を一蹴して、バドはミョルニルを振るう。
バドもその気になれば片手で持ち上げるのは不可能ではないが、思うように扱うとなると両手を使わねばならなかった。
トールのように自由自在とはさすがにいかない。
それでも、アスガルドの者が振るうのは他国の者が使うのとは訳が違う。
光速拳さながらの凄まじい速度で軌道の延長線上にあった木々をへし折りつつ、アーケインに刃が迫った。
「食らえ!ミョルニルハンマーの威力を!」
「確かめてみよう!」
アーケインが振るった斧は、バドの闘気さながらの白い虎を思わせる巨大なオーラを放ちつつミョルニルハンマーと真っ正面から激突した。
当然アーケインがコレクションしているだけあって、この斧も単なる装飾品ではない。
激突点を中心に大地が裂け、木々がへし折れているというのに、刃同士が激突した双方の斧には刃こぼれひとつ無かった。
さらに激突が二度、三度。
威力も、込められた小宇宙もほぼ互角。
アーケインが自分の武器に慣れていることと、バドがアスガルドの武器を手にしていることで技量も拮抗していた。
双方を砕くことの出来ない威力があっという間に周囲をなぎ倒していく。
このままでは林が一つまるごと消えかねない。
アーケインはこの打ち合いを楽しんでいるらしいが、バドはアスガルドを守る者として悠長に遊んでいるわけにはいかなかった。
十何度目かに打ち合ったところで反動を利用して大きく離れる。
これだけ強烈な打ち合いをしてもミョルニルには傷一つなかった。
「何ッ!?」
「頼む、トール!」
思い切り振りかぶった横薙の動きから、ミョルニルをアーケイン目がけて投げつけた。
これほどの重量武器をこのように使ったのは初めてだったが、バドには確信めいたものがあった。
まるで意志があるかのようにミョルニルはアーケインを完璧に捉える。
「さすがだ!!」
バドを誉めたのか、ミョルニルを誉めたのか、おそらく後者だろう。
アーケインは感嘆の声を上げつつミョルニルに斧を叩きつけてこれを辛うじて弾く。
だが、そのときには既にバドは地を蹴っていた。
光速で駆けるサーベルタイガーが猛然と牙を剥く。
「シャドウバイキングタイガークロウッ!!」
だが、バランスの悪い斧を振り切った直後にさえアーケインはバドの動きに寸前で対処した。
「アルバタイガークラッシャー!!」
虎の牙と爪が交錯する。
二人の立ち位置が入れ替わるのと同時に、高い音が二つ響いた。
一撃必殺を狙った二人の技は、互いのマスクを吹き飛ばしていたのだ。
「武器を手にした私とここまで渡り合うとは誉めてやる!」
「自惚れるのもここまでだ!」
バドは身を翻し、再度アーケインに突進する。
その瞳は、残された木々の間を抜いて再びアーケインに迫るミョルニルを捉えていた。
だがどうやら、アーケインも大気を引き裂く威圧感には気づいているらしい。
「フ……ハハハハハ!素晴らしい!素晴らしい武器だ!」
同時攻撃を受けるのは得策で無いと判断したか、アーケインは斧をミョルニルに投げつけて迎撃し、右手で背中に収納していた黄金の槍を取り出す。
アーケインは二度のシャドウバイキングタイガークロウでほぼその動きを掴んでいた。
完全に見切るとまではいかないものの、この交錯で仕留められると確信する。
「クリティカル・グリスン!!」
カウンター気味に無数の槍閃が走る。
だがバドの動きはアーケインの予想とは異なっていた。
「シャドウバイキングタイガークロウ……そして、バイキングタイガークロウ!!」
それまで右拳からの純然たる光速拳のみであったところに、左の拳から繰り出される凍結拳が重なった。
拳の衝撃が届くよりも早く凍気がアーケインの動きを鈍らせ、凍気と重なった光速拳が槍先を凍結させつつその衝撃のことごとくを打ち返す。
その爪は鋭さにおいても、オリハルコンの黄金の槍にひけをとるものではなかった。
まして黄金の槍が凍結していればなおさら。
「くっ!」
「死ねっ!アスガルドに仇為す輩よ!」
アーケインはとっさに両腕を交差させて、星衣に付属の盾で防御するが、防ぎきれない。
バドの両腕の爪が光となってその防御をも吹き飛ばさんとする。
「ぐ……ガアアアアッッ!!」
右腕の盾と、星衣の左胸にいくつもの亀裂が入った。
青輝星闘士最大の屈辱である。
だが、これで倒れるようでは青輝星闘士は名乗れないのだ。
雪を巻き上げ、大地を削って木々の根をへし折りながらも、アーケインの両足は崩れなかった。
「この男っっ!」
「覚えておけ!天秤座のアーケインだ!」
いつまで経ってもバドが名前でも星座でも呼んでこないので、アーケインはいらだちとともに名前を叩きつける。
「ここで死ぬ男の名を覚えるつもりはないっっ!!」
「タクティカル・アサレイション!!」
言葉以上に拒絶することが雄弁なバドの振り足が凍気とともにアーケインの亀裂の入った胸部に叩き込まれるのと交差して、アーケインの光速拳がバドの胸に命中した。
衝撃を受けた箇所の神闘衣と星衣が激しくも美しい音を立てて砕け散る。
「ぐあっ!」
「がっっ!」
双方とも後方に吹き飛ばされるが、バドは長い脚で攻撃した分、カウンターで攻撃を仕掛けたアーケイン以上に深い一撃を叩き込むことが出来た。
最初の交錯でアーケインがカウンターを狙ってくることがあるのはわかっていたため、追いこんだこの局面でもう一度来ると判断しての攻撃だった。
アーケインが苦悶にあえぎ空中を舞っている間に、バドは先に体勢を整えた。
「これで最後だ……!」
両腕を大きく開いた間には、先ほどのブルーインパルスと同様に凍気の集結核と……それを取り巻く超高温の衛星が発生する。
かつて憎しみを糧に拳を鍛え上げたバドならではの、火の技だった。
絶対零度に近い凍気と、それとまったく相反する熱気が極めて接近した空間に併存して高まり行く。
「……!!」
アーケインは飛ばされながらそれを視界に捉えて背筋が凍り付いた。
眼力には自信がある。
あれを食らえば、いかに自分でも、星衣ごと粉々にされかねない!!
星衣の奥の隠しから矢を取りだしてバドを撃とうとするが、わずかに間に合わない……!
殺られる……!!
「ブルーレッド・インパ……、!?」
バドが最後の一撃を放とうとしたそのまさに寸前、バドの眼前をよぎったものがあった。
それは、この季節のアスガルドにはあり得ないもの。
美しい蝶だった。
だが、ただの蝶ならば季節外れとはいえ、非情な戦士として己を鍛え上げたバドの動きが鈍ることなどなかっただろう。
その蝶は、異常だった。
白……というよりもその羽はあらゆる色が抜け落ちたような虚ろな透明感を持っていた。
そして何より、およそ生物ではありえないほどの死の気配……バドの全身が警告を発するほどの死気を漂わせていた。
アーケインは、その躊躇の一瞬で辛うじてバドの動きを追い抜くことが出来た。
振りかぶる時間すら惜しく、右肘から先の動きだけで手裏剣のように矢を放つ。
アーケインが最後の切り札にしたその矢には、精緻な竜の浮き彫りがされており、さきほどの斧が発した虎のオーラに似た巨大な青い竜のオーラとなって、狙い違わずバドの前にあった凍気と熱気の集合体を打ち抜いた。
「しまった!!」
アーケインが食らうはずだった二つの相克がバドの眼前で爆発した。
「ガハアッッッ!!」
さらにそれだけでは済まなかった。
矢が纏っていたオーラは若干勢いが衰えたものの、その爆発波に乗ってバドを遙か彼方まで吹き飛ばした。
だがその直後にアーケインも、体勢を整えることが出来ないまま雪原に頭から落ちた。
落下した高さはかなりのものだったが、幸か不幸かバドの蹴りで大きく吹き飛ばされていたために林を抜けた雪の深い丘に落ちて、落下によるダメージはさほど無かった。
それでも、アーケインはしばし雪原から立ち上がることが出来なかった。
「く……か……」
直接的には肺を強打されたことによって呼吸困難に陥っていたのだが、そうでなくてもバドの攻撃は星衣を通して確実にダメージを与えていた。
もう無理に余裕を見せる必要はない。
あえぎながら内服薬……これもコレクションの一部だが、さすがに使いどころだと判断した……を取りだして、少量の強い酒と一緒に流し込んだ。
「……ふぅ。
あんな連中を八人もか……」
伝説のニーベルンゲンリングを単に地上侵攻の尖兵を作るために用いたと聞いたときには、道具の無駄遣いだと嘆いたものだった。
しかし、こんな奴らを八人も配下に出来るのならばニーベルンゲンリングでも十分にお釣りが来るだろう。
ひとしきり自分の不見識を反省してから、徐々に薬が効いてきたのを確認して立ち上がる。
やや離れたところに、さきほどバドの視界をよぎった蝶がふわりと飛んでいた。
「……そんなにこの私が信用ならんか。
イルピトアめ」
自分に黙って彼につけさせてきたのは加勢というよりも監視する狙いだったのだろう。
確かにアーケインは仕事より趣味を優先することがままあり、アーケイン自身多少は自覚しているが、
「フッ、私に言わせれば奴の方がよほど信用ならんのだがな……。
まあいい、予想以上にアスガルドの守りが強固だったからお前の助力は有り難い。
礼を言うぞ」
アーケインの言葉を解したのか、頷くかのように蝶はかすかに上下した。
その蝶がついてくるのを確認もせずに、アーケインはまず先ほどバドに投げつけた矢を回収する。
オーラを食らって吹っ飛んだバドの姿は見えなくなっていたが、矢は比較的近くに落ちていた。
次にミョルニルハンマーと、迎撃に使った斧を直感で探し出す。
この異常な捜索能力は、他の青輝星闘士が人間業ではないと評するところだ。
近くでマスクも見つけたのでかぶり直す。
さらにもう一振りのミョルニルハンマーの気配を辿って、最初にバドとやり合った墓地まで戻ってきた。
だが彼にしては珍しく、ミョルニルを回収するより先に墓地の外へ出た。
赤輝星闘士髪の毛座コーマのティアムが、すぐそこに倒れていた。
バドの一閃が炸裂したと見たときには既に小宇宙が途絶えていたから、ほぼ即死だったはずだ。
何が起こったのかわからず驚愕の表情のまま見開かれている瞼をそっと閉ざさせてから、その身体を念動力で持ち上げた。
後ろからついてきている蝶には到底及ばないが、少々持ち上げる程度のことは出来る。
長く伸びたままの髪の先端が石畳から離れるところまで持ち上げると、祭壇に捧げられる生贄のようにも見えた。
「安らかに眠れ、とはまだしばらく言えんが……少し待っていろ」
一瞬祈るような仕草をした後、アーケインは自身の青白い小宇宙をティアムの星衣へ送り込んだ。
星衣が光り輝くとともにティアムの身体が赤い光に包まれ、その輝きが急激に膨らんでいき……
「しばしの別れだ」
爆発したかと思うような光が炸裂した後には、組み上がった星衣だけが残されていた。
アーケインが手を軽く揚げると、星衣は指示を受けたかのように空の彼方へと飛び去った。
「……さて、任務に失敗するわけにはいかなくなったか」
無理矢理口に出したような独り言と共に頭を掻いてから、それでも一度墓地に戻る。
もう一つのミョルニルハンマーを回収しようとしたが、さすがにこれを二本担ぐと凄まじく重い。
散々悩んだが、一本は断念することにした。
未練がましく、宮殿への道のりを歩く間何度か振り返ったが。
改めて目指すワルハラ宮殿は墓地からそう遠くない。
いくつもの尖塔と、何より巨大なオーディーン像が断崖絶壁を背にして建っており、その足下に質実剛健な外観の宮殿がある。
宮殿までの道の両側には、扉を固く閉ざした家々が立ち並んでいた。
事実上一本道の通路で迷うことはない。
だが、その通路を塞ぐように数十人の兵士が立ちはだかっていた。
「何がやりたい?」
いずれも手に斧や槌などをしてこちらを向いているからには、何が目的かは問うまでもない。
槍以上に鋭い眼光とともに発せられたアーケインの声は疑問のそれではなく、純然たる脅迫に近かった。
「……知れたこと。貴様のような侵入者をみすみすヒルダ様の下へ通すものか」
先頭に立った兵が、気圧されながらも律儀に返答する。
いや、呑まれないようになんとか声を出したという方が正しいかも知れない。
「わざわざオレの八つ当たりにつきあってくれるのなら話は早い」
轟と小宇宙を燃え上がらせ、腰が引けた彼らを蹴散らすべく拳を固める。
しかし、
『お待ちなさい』
「!?」
空から声が振ってきたような気配に、アーケインは今しも振るおうとした拳を止めた。
第六感によるテレパシーではなく、強大な小宇宙によって意志を伝達したような声だった。
「……誰かな?」
と問いかけてみたが、その「声」が女性のものだったのでアーケインにも大方想像がついた。
その想像は目の前の兵士がすぐに肯定してくれた。
どうやらこの場の全員に聞こえたらしい。
「ヒルダ様、どうかお止めにならないで下さい!
聖闘士ならばともかく、このような男を通したとあっては我らの名折れ!」
「こんな男で悪かったな」
挑発気味に茶々を入れてみるが、その兵はキッとアーケインを睨んだもののすぐにはかかってこなかった。
どうやらよほどヒルダの言葉は重みがあるらしいのだと、アーケインは納得させられた。
『その者とは私が直に話します。通して下さい』
「しかし、危険です!」
「そーだそーだ」
と、またも茶々を入れる。
『私自ら聞いておかねばならないことがあるのです。お願いします。
あなた達は氷河とバドを助けて下さい』
「……わかりました」
命令では無いあたりが性格を偲ばせるなとアーケインは思った。
それに敬意を表して八つ当たりは止めておくことにする。
数十を二倍した敵意の視線のまっただ中を突っ切り、アーケインは悠然とワルハラ宮殿に足を踏み入れた。
その後ろに色の無い蝶を一羽、連れつつ。
バドに救助されたフレアを別室に寝かせてから、ヒルダは二度と着るまいと思っていた戦装束に袖を通していた。
神闘衣と同じ金属素材で出来た黒い胸当て肩当てに額冠、さらに足下まである紅色のスカートに隠れて見えないがロングブーツのような足当てが大腿まで被っている。
腕部分は肘から先を被う金色の腕輪のみとやや軽装だが、肩から羽織る藍色のマントはアスガルドの毛皮加工技術の粋を集めて作られたもので、並の金属以上の防御力を持ち小宇宙にも呼応して強固になる。
ニーベルンゲンリングに操られ、ジークフリートたちを死地に駆り立て、アテナの聖闘士達と戦った忌まわしき思い出が染みついた装束だ。
それでも、オーディーンは勇士たちの神という側面を持つ。
オーディーン像が剣と盾を持っているのがその証だ。
ヒルダがいかに平和を願おうとも、地上代行者として戦わねばならぬことを期してこの装束は作られた。
本当の意味で使うべき時が来たのかも知れないと思いながら、オーディーン像の前に立つ。
百人でも同時に昇ることが出来るほど幅広い階段と、一つ一つに天幕が何十も張れそうな踊り場との繰り返しが何度も続くこの場所は、ジークフリートとヒルダが、神聖闘士達と戦った場所でもある。
床はあらかた修復が終わっているが、倒壊した柱などはそのまま手つかずになっているものがほとんどだ。
元々豊かではないアスガルドにそこまでの余裕は無い。
ニーベルンゲンリングの無い手には、戦装束とともに作られた槍を握る。
ヒルダの腕力に合わせた細く軽い槍だが、ヒルダの小宇宙によって極めて強力な武器になる。
使い方は、身体が覚えていた。
足音が近づいてくる。
特に焦った様子はなく、悠然と歩いてくるようだ。
足音は一人……だが、小宇宙は二人。
一人は、先ほど遠見の炎で確認した天秤座の星闘士。
もう一人は、そのすぐ後ろで舞う蝶。
星闘士の方は、どうやら予備のマントをわざわざ羽織直したようだ。
「好意的なご招待痛み入ります、ヒルダ様。
私は天の星座を守護せし星の戦士、星闘士の最上位に位置する青輝星闘士が一人、天秤座ライブラのアーケインと申します」
優雅な動きでその場に片膝をついたアーケインの礼は少なくとも形式において文句の付け所のないものだった。
無論、小宇宙はそうではない。
八つ当たり出来なかった分も含めて、剣呑極まる気配を漂わせている。
「地上代行者たる御命とオーディーンローブを頂戴しに参上いたしました」
オーディーンローブについては本気だが、命をもらいに来たというのははったりである。
アスガルドのヒルダを殺すわけにはいかないというのは、星闘士トップのイルピトアやゼスティルムにも共通した見解であった。
ヒルダを殺せば、支えを失った両極の氷が大きく崩壊し、わずか数時間で地上の大半が壊滅する。
それは望むところではないのだ。
少なくとも今は。
必要なのは神話の遺伝子のサンプルとなるヒルダの血。
髪の毛でも代用は効くが、やはりアテナの血に代表されるように、血には単に遺伝子以上の意味がある。
出来れば身柄も確保してこいというのがイルピトアの指示だった。
だが、ヒルダの問いはアーケインの心臓を一瞬跳ね上げさせた。
「死者の使いが、何を求めてこの地に来たのです」
「……騙せませんか。困りましたな。
器の鍵を頂きに来た、とでも申しましょうか」
死者の使い、という言葉は、多少なりとも星闘士のことを知っていなければ出てこない言葉だ。
ヒルダは氷河から話を聞いた後、文献の中から星闘士に関する記述を見つけていた。
アスガルドには海界の影響を受けていたこともあり、神話時代の記録が多少残されている。
「……話す気は、無いのですね」
「それよりもご自身の身を案じられた方がよろしい」
武器をどうするか悩んだが、ヒルダが槍を持っているのでアーケインも槍を使うことにした。
バドの凍気が抜けて元の切れ味を取り戻した黄金の槍を取りだして構える。
当てどころを誤るわけにはいかないが、ほぼ同じ長さの武器を手にしていれば間合いを上手くとれる自信があった。
「仕方がありません……」
ヒルダは両手で横に持っていた槍を右手だけに移して、アーケインに向かって刃を向けた。
その刃に、白い稲妻に囲まれた小宇宙が凝縮する。
「ハッ!」
「!!」
予想外の攻撃に、高速で放たれた電撃球をアーケインはかわし損ねた。
槍で受け止めようとしても防げるものではない。
アーケインの全身を稲妻が取り巻いて一瞬後に爆発が起こった。
爆発を食らったというよりも、身体の内部が沸騰したかのような衝撃に、アーケインは血を吐きつつ吹っ飛ばされた。
「ガッッ!!
……こいつは……、下がっていろ、危険だっ!」
なんとか着地しつつ、背後に飛んでいた蝶へ向けて叫んだ。
今の彼ならこの一撃で葬り去られてしまうほどの威力だ。
ヒルダはその蝶を仕留めることが出来たが、あえて矛先を向けるだけに留めた。
「仲間とともに、ただちにこのアスガルドから去りなさい。
そうすれば、命まで取ることはしません」
「兵たちを殺し、キグナス氷河とバドを殺した者を?」
「憎しみに駆られて戦えば、もっと多くのものを失うことを私は教えられました」
「お優しいことだ!」
拒絶の返答代わりに繰り出した槍は、ヒルダが繰り出した槍の先端をかすめて軌道をそらされる。
いかにアーケインがバドとの戦いで疲弊しているとはいえ、ヒルダ自身がここまでの使い手だというのはアーケインの想像を超えていた。
「手加減どころではないな、これは」
殺さぬように、などという考えではこちらがやられかねない。
槍を持つ手に力がこもる。
「クリティカル・グリスン!!」
ヒルダが二度目の電撃球を放つのに合わせて、無数の槍閃を繰り出した。
槍では止められない電撃球を、アーケインは左腕の盾に小宇宙を込めて辛うじて受け止めた。
色こそ星衣と同じ黒だが、岩石のような質感を持ち、亀の甲羅を思わせる盾だ。
衝撃がゼロとはいかなかったが、この盾の鉄壁のオーラで電撃は霧散する。
一方ヒルダはマントやスカートを切り裂かれたものの、ほぼ紙一重のところで槍をかわしていた。
長い青銀の髪も幾筋か切られて舞っているが、気にしてはいられない。
だがアーケインにとってはこれが最初の目標だ。
槍に絡まった一筋の髪を、刃を拭うふりをして回収する。
一安心したくなるが、出来れば血の一滴でも奪っておきたいところだし、それ以上にオーディーンローブとバルムングの剣を手に入れたいところだ。
「少々、苦しんでいただきましょうか」
それでも正面から戦うと、今の疲弊したアーケインでは互角以下だろう。
それなら正面から戦わないのがアーケインの信条である。
使い慣れた斧を背中から取り外す。
ミョルニルハンマーの威力を試してみたかったが、アスガルドの結束を考えると宮殿に対して効果が薄いことも考えられた。
「……何を!?」
「戦い方にも色々ありましてね!」
アーケインの動きに不穏なものを感じたヒルダが槍を横に防御姿勢をとったが、アーケインはそれを無視して足下の床に思い切り斧を叩きつけた。
白い象牙のような刃が床に触れると同時に、発生した虎のオーラが石造りの床を激しく引き裂いた。
あっという間にヒルダの足下周辺まで完全に足場が崩壊した。
「くっ!!」
アーケインとしてはこれでヒルダを地割れに飲み込ませて動きを封じるつもりだったが、ヒルダは落下寸前の岩塊を蹴って宙に舞った。
さながら、オーディーンに仕え勇士たちを天に招聘する乙女のようだった。
「勇ましいことだ!」
一瞬見とれそうになったが、すぐに気を取り直して光速拳を放つ。
空中で自在に避けるわけにはいかないヒルダは、槍から放射状に稲妻を発して光速拳を相殺した。
だが相殺しきった次の瞬間には、アーケインはヒルダの着地地点へ突進していた。
光速の動きに対処出来るだけの能力は持っていても、戦闘巧者では無いヒルダは重力を受ける瞬間にわずかに反応が遅れた。
無数に閃く黄金の槍がヒルダの四肢をついに捉えた。
特に左足は直撃に近く、脛当てが打ち砕かれて華奢な足に浅くない傷が走った。
「……ッ」
それでもヒルダは槍を支えにして倒れなかった。
このような相手を前に膝を屈しては、ジークフリートたちに申し訳が立たないと己を叱咤する。
続けざまに電撃球を放ち、アーケインを接近させまいとするが、やはり狙いが先ほどよりも甘い。
今度はアーケインも大半を避けることが出来た。
かわしきれない分は盾でなんとか防ぎ、接近して駆け抜け様の一撃でヒルダの手から槍を吹き飛ばした。
宙を舞わせたその槍を自分の近くに落とすのは、執念のたまものである。
「口が利けなくなる前に、あなたには教えてもらわねばならないことがあります」
ヒルダを傷つけたことで槍についた血を、用意した清潔な布で拭ってしまう。
もっとも、無駄になりそうだった。
どうやらヒルダの身柄を確保して帰還することが出来そうだ。
だがこれは帰還前にどうしても訊いておかねばならない。
「オーディーンローブとバルムングの剣は、どこにしまっていらっしゃいますか」
「……」
ヒルダが無言で視線を返すので、アーケインは肩をすくめつつ近くに落ちた槍を拾ってヒルダにその矛先を向けた。
やはりこれも細身の造りには到底似合わぬ強力な武器であることが実感出来て、内心小躍りしながら詰問する。
「この宮殿にあるのはおそらく間違いない。
私はこれでも名剣の類に対する感覚は確かでしてね。
だがあまりにも気配が強すぎてアスガルドに入ってからずっと感じているため、逆に正確な場所がわからないのですよ」
「お教えするつもりはありません」
「いざとなれば拷問にかけてでもお聞きすることになりますよ」
「お教えするつもりはありません」
このままではこの男に勝てないということは、ヒルダにも実感出来た。
なりふり構わない戦いぶりといい、実力差以上に戦闘経験の差が大きい。
ヒルダ自身の過去の実戦経験はかつて神聖闘士たちと戦ったときのみであり、ジークフリートたちと戦闘訓練をしたわけでも無い。
ジークフリートもハーゲンも、いざ戦うのは自分たちの役目だと言い張って聞かなかった。
その彼らに、どれほど励まされ、どれほど支えられていたか。
彼らがいてくれたらということを、彼らを死なせた自分が考えてはいけないと思う。
彼らが守ってくれたアスガルドを敗北させることは、ヒルダにとってもどうしても我慢ならなかった。
最後まで戦う。
神闘士たちが、神聖闘士たちがそうしたように。
ヒルダは傷ついた足をかばうのをやめ、改めて背筋を正してアーケインを正面から見据えた。
その全身から小宇宙が燃え上がる。
小宇宙だけに限って言えば、ヒルダはジークフリートすらも上回るのだ。
「その気高きお心に、感動ばかりしているわけにはいきませんのでね。
なるべく早く口を割って頂きましょう!」
あなたたちの、勇気を……!
予告を果たそうとするアーケインの槍が迫る。
「オーディーンよ……、我に力を……!」
「……何イィッッッ!?」
突進するアーケインの身体に青い稲妻が落ちた。
ヒルダから発せられたものではない。
星衣でも防ぎきれないダメージを受けながら、アーケインは攻撃者の正体を求めて天を見上げた。
曇天ではあるが、稲妻が落ちてくるほどの天候ではない。
では、何が……と、そこでアーケインは気づいた。
オーディーン像の額にある北斗七星の刻印のうち、デルタ星を除く六つが青く光り輝いている。
よく見ればデルタ星もわずかに光っていたのだが、アーケインがそこまで気づく前に次の異変が起きた。
オーディーン像が鳴動し、その眼前に何重にも稲妻が交錯する。
やがて稲妻は収斂していき、その中心ににじみ出るように何か均整の取れた姿が現れる。
「……あれは……!」
アーケインの顔は驚愕と歓喜に満ちていた。
その詳細な姿を伝え聞いたことがなくても、それを目にして別のものと間違えるはずもない。
凍てつく空を永久氷壁に映し込んだような、明るく、深く、美しい青。
アクアマリンとサファイアの輝きを共に秘め、そのどちらでもない輝きを放っている。
知識のない者には宝石で造られた芸術品にしか見えないかもしれないが、その中央に刺さるように突き立っているのは、鋭利な銀色の両刃を持った剣に他ならない。
その突き立っているひときわ高い物体は胸当てであり、四方へ伸びているのは四肢の防具であった。
「これが、オーディーンローブか……!」
神話の時代、オーディーン自らが纏ったと言われる神闘衣だ。
アテナの神聖衣と比較してもひけは取らないだろう。
もしかしたら神衣に次ぐかもしれないそれは、地上に現存する最強の鎧と言っていい。
武器マニアのアーケインにとっても、是非とも手に入れておきたい一品であった。
そしてそれ以上に、アーケインの目を憧憬に輝かせずにはいられないのが、その剣。
ニーベルンゲンリング級の呪いさえ一撃で断ち切るという、バルムングの剣だ。
「いただきだ!」
実に率直な本音を叫んで、アーケインはオーディーンローブへ向けて駆けだした。
おそらくはヒルダを救うために現れたそれを彼女に纏わせると厄介なことになる……という推測は二の次三の次であった。
衝動に駆られて動いても、ヒルダはほとんど動けないので問題無いはずであった。
だが、
アーケイン!
警告の念と敵意の念は同時だった。
「!!」
「シャドウバイキングタイガークロウッッ!!」
後方から後頭部を狙った爪の来襲を、アーケインは辛うじて身をよじって直撃を免れた。
マスクの丸みに沿って爪が反らされるが、そのマスクは亀裂が入るとともに吹っ飛んだ。
かつてアルデバランを一撃で倒したバドの必殺中の必殺技である。
警告があと数千分の一秒でも遅れていれば、アーケインはその場で絶命していたかもしれない。
「バド!貴様、生きていたのか!!」
振り返ったアーケインの前に立っていたバドは神闘衣のそこかしこにヒビが入り、満身創痍であった。
どうやってここまで来たのかと思ったが、離れたところに何人かの兵士が固まっていた。
彼らがバドを発見してここまで連れてきたらしい。
「今の一撃で私を倒せなかったのは残念だったな。もはや動く力など……」
「神闘士をなめるなアッ!!アーケイン!!」
全身から血を噴き出させながらも、オーディーンローブの下へは行かさぬとバドは左腕でバイキングタイガークロウを仕掛ける。
さすがに先ほどの鋭さは無いが、無視出来るものではなかった。
「チィッ、頼む!」
アーケインはたまらず振り返って同行者を呼んだが、そこには氷で出来た蜘蛛の巣のような網が張り巡らされて蝶を絡め取っていた。
その網を作りだしているのは、橙色の神闘衣を着た男。
「キグナスか……、貴様まで!」
神闘衣の防御力を甘く見ていたせいか、神聖闘士のしぶとさを見誤ったせいか。
首を刎ねておかなかったことを悔やんだが、逡巡している暇は無かった。
バドの攻撃をかいくぐり、ミョルニルハンマーで網を砕いて蝶を救出しようとするが、見た目よりはるかに堅固な氷の網はミョルニルハンマーをもってしても一発では破壊しきれず、手間取らされた。
その間に、
「!」
「ヒルダ様……!」
「しまった!」
ヒルダの身体が、オーディーンローブに呼び寄せられるように宙に浮かび上がっていた。
彼女を包み込むように稲妻が輪を為してきて、オーディーンローブとの間をつないでいく。
やがて、ヒルダの纏っていた戦装束が、まるでそれ自体が命令されたかのように身体から離れた。
ヒルダは鎧の下の青い薄衣だけを纏い、長く美しい青銀の髪を無秩序に踊らせ、どこかこの世のものとは思えない幻想的な姿でオーディーン像を……その額に埋め込まれた七つのオーディーンサファイアを見つめた。
答えるように、応えるように、七つの守護石が光る。
同時に、オーディーンローブが分解した。
翼を思わせる冠が、四重に重なる肩当てが、氷山のような胸当てが、次々とヒルダの身体に装着されていく。
それとともに、ヒルダから放たれる小宇宙がさらに増大していくのが、その場の全員に嫌というほど解った。
ここまで氷河とバドに肩を貸して連れてきた兵たちは、そのあまりの神々しさに我知らず膝を突いていた。
氷で全身を飾ったような青い輝きがヒルダの身体を覆い尽くし、最後にバルムングの剣がヒルダの手に収まる。
周囲を走っていた稲妻が剣に収斂していき、ヒルダはまるで神々が降臨するかのように悠然と降り立った。
「あれが……本当にオーディーンローブか……」
気力を使い果たしてその場に膝をついた氷河は、かつて星矢が纏ったときとは違う、圧倒的な小宇宙を感じていた。
まるで、アベルやポセイドン、ハーデスと向き合っているときのような畏れさえ感じさせた。
「オーディーン……」
バドすらも、兵達と同様に膝を突き、頭を垂れずにはいられなかった。
地上代行者であるヒルダがオーディーンローブを纏っているということは、アスガルドの民にとってはオーディーン自らが降臨したに近い意味を持つ。
神闘士最後の一人として、この場に参じることが出来たのは僥倖であったが、他の神闘士たちに辛うじて会わす顔が出来た。
そう思い、無礼を承知で微かに顔をあげてオーディーン像を見上げる。
そこには、彼の弟の守護石も確かに輝いていた。
「は……ははは……っ、素晴らしい……っ」
アーケインは、畏怖に顔を引きつらせながらも、予想を遙かに上回るオーディーンローブの凄さに思わず笑みが漏れた。
やはりこれは神聖衣どころではない。
神衣に次ぐ有史以来の至宝だ。
何としても手に入れたかった。
だが、その笑いは直後に凍り付いた。
「ぐあああっっっ!!」
ヒルダが、まったく重力を感じさせない軽やかな腕の振りでバルムングの剣を一閃させたのだ。
それだけで、アーケインの纏う星衣の右肩から右腕にかけて縦切りにされて石畳に転がった。
青輝星闘士の小宇宙を受けた星衣が、紙のように切り裂かれたのだ。
当然アーケインの右腕もただではすまなかった。
鮮血がほとばしり、激痛が走る。
当然ヒルダの槍を持っているどころではない。
腕が落ちなかったのが不思議なくらいだ。
痛みをこらえながらもアーケインは、ゆっくりと近づいてくるヒルダを観察した。
先ほどまでの強い意志を秘めた瞳ともまた違う、人間離れした輝きを湛えた瞳だった。
二閃目が翻る。
アーケインはとっさに左腕の盾で受け止めようとしたが、瞬く間に盾の表面に裂傷が入った。
ただの盾ではない。
アーケインのコレクションの中でも屈指の防御力を誇る盾が、一撃で真っ二つにされる寸前にまでされていた。
もう一度受け止めようとすれば腕ごと落とされるのは必至だ。
あまりにも圧倒的過ぎる。
最上位の星闘士が束になってかかっても、今のヒルダを倒せるとは思えなかった。
喉から手が出るほど欲しいオーディーンローブとバルムングの剣を前にして、アーケインは死の恐怖にさらされていた。
このままでは、バルムングの剣の威力を自分の身体で実感することになる。
そう雄弁に語っていたヒルダの瞳が、しかし、わずかに和らいだ。
オーディーンローブを纏ってから無言だったヒルダの唇が静かに開く。
「……去りなさい、この地から」
「何……?」
死の宣告かと思えた言葉は、アーケインにとって全く予想外のものだった。
だが、それで納得もした。
先ほど腕を落とされなかったのは、ヒルダが手加減したのだ。
「ヒルダ様!そのような……」
バドは無礼を承知で声を上げずにはいられなかった。
ヒルダならばそう言うだろうとは思っても、アーケインのような男をこの場で始末しておかないのは後々に禍根を残すことになる。
そもそもアーケインは既にアスガルドの兵を幾人も殺害しているというのに。
「二度とアスガルドに足を踏み入れぬと誓うのならば、命を奪うことはしません」
「本気ですかな?」
「……早く決断して下さい。私が堪えていられる内に……」
その言葉の意味はおぼろげながらアーケインにも推測出来た。
今ヒルダが振るっているのは神の力なのだ。
オーディーンの怒りが、アーケインを殺そうとしているのだ。
ヒルダの意志をもってしても、それを抑えきれないのだろう。
そのヒルダの姿を、オーディーンローブを改めて見つめる。
諦めるにはあまりに惜しい。
惜しいが、しかし、
「やむを得ませんな」
「ヒルダ様が許しても、このオレが逃すと思うか!!」
踵を返そうとしたアーケインへ、バドは最後の気力を振り絞って飛びかかった。
アーケインの背にはまだミョルニルハンマーがある。
これだけは何としても取り返さなければ。
だがアーケインはそのバドをあざ笑うかのように、口元を歪めた。
「……撤退する」
自嘲の響きが含まれているように聞こえたのは、バドの気のせいだろうか。
バドの眼前でアーケインは空高く跳躍した。
そこには、
「な、何だあっ!?」
「引くぞ、ザカン!」
忽然と、馬車が出現していた。
無論、宙に浮いているそれはただの馬車ではない。
白輝星闘士御者座アウリガのザカンが駆る鬼面の天馬と、彼の星衣によって出来た馬車だった。
御者たるザカンすら目を白黒させているのは、待機場所からここまで蝶によってテレポーテーションさせられたからなのだが、それを理解できたのはアーケインと蝶のみである。
アーケインは馬車の後ろに乗り込み、炎の剣を持ってきていることを確認して一安心した。
すぐに蝶も追いついてきて馬車の後ろに止まる。
「引くって、何がどうなったんですか?」
「鍵は手に入れた。だがこれ以上戦えば確実に全滅する。撤退だ」
「ティアムは、ティアムはどうしました?」
不吉な予感に囚われて、同行していた赤輝星闘士のことを尋ねる。
アーケインはしばし躊躇ってから、どうせ言わねばならぬと口を開いた。
「殺された」
「!!
あなたがついていながらッ!!」
「相手はあそこにいるゼータ星アルコルのバドだ。
私自身ですら殺られる寸前まで追い込まれた。助ける余裕は無かった」
そう言って眼下から睨み上げてくるバドを示す。
「奴が……!」
「逃がすものかあぁっ!!」
ザカンが憎悪と共にバドの顔を頭に焼き付けるのと同時に、バドはヒルダの槍を拾って投げつけた。
槍は馬車の下部を貫いて、アーケインの背中に刺さる寸前で止まった。
怒りで膨れ上がったザカンの小宇宙が、星衣の防御力を跳ね上げたためだった。
「ヒルダ様とのお約束通り、私は二度とアスガルドには来ない。
だがこれらの武器は頂いていく。
取り戻したくば貴様が来るがいい」
「貴様アッ!!」
アーケインの挑発に猛るバドに向かって、別の声が放たれる。
「そのときは……この御者座アウリガのザカンが貴様を殺す!
覚えておけ、ティアムの仇、アルコルのバド!!」
「!!」
自分が向けた殺気にも引けを取らない殺気を返され、バドはヒルダの正しさを認めずにはいられなかった。
相手を殺せば、こうなるのだ。
「だが今は引いてやる……、いつか、必ず……!」
唇を血が出るほど噛みしめてバドを睨み付けてから、ザカンは天馬の手綱を操って駆け出させる。
地上からはどこかサンタクロースのようにも見えた馬車は、見る見るうちにその姿を小さくし、消えていった。
完全に星闘士たちが立ち去ったのを確認してヒルダがふっと大きなため息をつくと共に、オーディーンローブはヒルダの身体から外れて合体した。
気力を使い果たしたのか、ヒルダはその場に膝をつく。
「ヒルダ様!」
「お姉さま!」
宮殿からフレアが慌てた様子で駆けつけてきた。
宮殿の入口に兵達が固まっているところをみると、安全が確認されるまでフレアが飛び出さないように押しとどめていたらしい。
フレアはヒルダにコートを着せると、やはり気力が尽きて倒れたらしい氷河に駆け寄りつつ、兵たちに指示を出していった。
いざというときはフレアがヒルダの代行をすることは暗黙の了解となっているので、兵たちは担架の用意や街への連絡に動いていく。
ひとまずフレアが無事ということに安堵して、バドもその場にくずおれた。
遠のく意識の中で、ミョルニルと炎の剣、さらにはヒルダの槍を手にしたアーケインの顔が浮かんだ。
「必ず、取り返す……」
バドは、そう、心に誓った。
夢の二十九巻目次に戻る。
ギリシア聖域、聖闘士星矢の扉に戻る。
夢織時代の扉に戻る。