聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第十四話、氷都の来訪者」




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 海国アスガルドに吹く風に潮の匂いは無い。

「我が、アスガルドの神オーディーンよ」

 南国ならば潮の匂いを作るはずの生物たちのほとんどは、北極海では生きられない。

「我らは雪と氷に閉ざされしこの北の果て、アスガルドの地にありて」

 仮にあったとしても、吹きすさぶ凍気は匂いさえ凍りつかせる。

「暖かなる日の光も知らず、また豊かなる緑も知らず……」

 そのような国である。

「されど、この大地の平和と平穏を託されし者なり」

 吹雪になびく青銀の長い髪にかすかな日の光を映しながら、少女は祈る。
 少女というのは適切ではないかもしれない。
 年の頃は二十あたりに見えないこともないが、もっと若い様にも見える。
 だが幼さを微塵も感じさせない双眸は強い意志を宿しており、それが彼女を実年齢以上に大人びて見せていた。
 コートを纏っていてさえ、その身体の細さとそれ以上に揺るぎない姿勢はよく解る。

 そしてまた、小宇宙を感じる者にはまた別の姿として見えることだろう。
 神々しい、という言葉がよく似合う。
 そう、まるで彼女が今祈りを捧げている大神の像のように。

 オーディーンの地上代行者である少女の名をヒルダという。
 その祈りは単なる願いではない。
 この星の両極にある氷を支え、人間の生きる土地を守り続けているのだ。
 今ある大陸の形を維持し大いなる防波堤であり続けるため、海皇ポセイドンと海界の影響を受けざるを得なかった時代もある。
 彼女が、先代の代行者が、その先代が。
 辿れば神話の時代まで行き着く。

 だがその祈りは必然的に両極を凍えさせ、すなわち、北の果てにあるこの土地からさらに恵みを奪う力となる。
 祈りを止めれば大地を覆う凍気は和らぎ、居住地の標高も概ね高いアスガルドは海面の上昇による悪影響も受けず豊かになることは解っている。
 それでも、この地にある人々は祈り続ける。

「全てはこの地上の永久の平和と、愛のために……」



 ゆえに、神の国アスガルドと呼ばれる。
 氷河とフィヨルドの最たる大地ゆえに、ギリシア聖域と比べて観光客と呼ばれる人種が皆無なこともあり、俗世間との繋がりは聖域よりもさらに薄い。
 一例をあげるならば、アスガルドに電話線は無い。
 一番近い電話線の末端まで五十キロなどという世界の話である。
 そしてまた神話の色濃く残る大地の例に漏れず、衛星軌道からのあらゆる目も糸も届かない。

 それでもまったく繋がりが無いわけではない。
 アスガルドに生きる人々の糧を養うには、アスガルドの大地があまりにも貧しいからだ。
 アスガルドへの畏敬の念が深い周辺の民を通じてやりとりされる交易品のうち、輸入のほとんどは食料品であり、輸出は毛皮やその加工品、そして精緻を極める金属細工などである。
 ロシア・ロマノフ王朝に捧げられたイースターエッグの技術の一部はアスガルドからもたらされたものとの説もあるが、アスガルドの名が外世界では伝説なので風聞の域を出ない。
 ただ、神々の戦士たる神闘士ゴッドウォーリアーの纏う神闘衣ゴッドローブを作り上げた神話の技術が若干残されているのは事実である。

 これらの事情がいささか似通ったブルーグラードとは若干の交流がある。
 交流といっても、数年に一度人が行くかどうかという程度のものだ。
 何か起こったとしてもそれがすぐに伝わるわけではない。
 それでも超自然的な力を持つ国同士、それに関する異常があれば感じるところはある。

 そして、先日よりその異常が感じられていた。
 そのためアスガルドの兵たちは巡回を厳しくしていた。
 基本的にこの極寒の大地では銃器はまともに作動しないため、武器は剣か斧がほとんどだが、ことアスガルドの大地を守るということに関して、彼らがその役目を果たせなかったことは過去一度しかない屈強の者たちである。

 本来ならば彼らの上に、黄金聖闘士ゴールドセイントにも匹敵すると言わしめた七人の神闘士が君臨しているはずであった。
 アルファ星ドウベのジークフリート。
 ベータ星メラクのハーゲン。
 ガンマ星フェクダのトール。
 デルタ星メグレスのアルベリッヒ。
 イプシロン星アリオトのフェンリル。
 ゼータ星ミザールのシド。
 エータ星ベネトナーシュのミーメ。
 だがその彼らは、ヒルダがポセイドンの野望によって填められたニーベルンゲンリングの魔力に操られるまま聖闘士との戦いに突入し、後に神聖闘士ゴッドセイントとなる五人の青銅聖闘士ブロンズセイントによって全て倒された。

 現在兵として活動しているのは、神闘士に選ばれることの無かった者たちである。
 確かに神闘士に比べれば大きく見劣りするものの、彼ら亡き後の責任感も手伝って生半可な部隊ではない。
 数こそ少ないものの、一人一人の戦闘能力ではギリシア聖域サンクチュアリの兵を凌ぐかもしれない。
 まして侵入しようとする者がアスガルドの気候に慣れているはずもないので地の利もある。
 その彼らが取り押さえることが出来ない侵入者などそうそういるものではないが、

 この男はさすがに話が別だった。

「頼むからヒルダかフレアに話を通してくれないか……」

 アスガルドの入口で十数人の戦士たちと数頭の狼に囲まれながら、臆するのではなく困惑の表情を浮かべるこの男によって、戦士たちの剣と斧のほとんどが砕かれていた。
 それも、凍結して。
 今のところ怪我人は一人もいない。

「黙れい!今は非常時故に何人といえどアスガルドに入れてはならぬとのご命令が下っておるのだ。
 しかもヒルダ様とフレア様を呼び捨てにするとは、なおさら許してはおけぬ!」
「非常時だと?
 二人に何かあったのか?」

 顔色を変えたその男に向かって激昂した部隊長の拳が飛ぶが、これまたフードを飛ばしただけであっさりとかわされてしまう。
 マッハには届かないものの、本来常人にかわせる拳ではないのだが。
 フードが外れて男にしては豊かな金髪がこぼれるが、それ以上に左目を覆った包帯が印象的だった。
 片目がふさがっていてはまともに距離感を掴むことも出来ないはずなのにこの有様だ。
 部隊長は極めて不本意だが自分達でこの男を取り押さえるのは不可能だと判断した。

 部隊に同行していた狼の傍にかがみ込んで、軽く首の横を叩く。

「頼むぞ、あのお方を呼んでくれ」

 そう言われた狼は理解した表情で遠く吼えた。
 その声に応えるようにして遠くから狼の声が聞こえ、さらに遠くから聞こえた。

「なんだ……?」
「いかにお前が手練れでも、あのお方にはかなうまい」

 男は諦めたのか自信があるのかわからないが、とりあえずそこでしばらくにらみ合うこととなった。
 待つことしばし。

「……珍客だな」

 突如として現れた白い影は、嘆息したようにつぶやいた。

「お前はシド……いや、神闘衣が違う?」
「そういえば貴様と顔を合わせるのは初めてだな、キグナス。
 シドの兄、ゼータ星アルコルのバドだ」

 全身が雪に溶け込んで見えるほど純白の中で、左肩当てから先だけが限りなく黒に近い緑をした神闘衣の男は状況を見渡してもう一度ため息をつきつつ言った。
 部隊長は状況がさっぱり飲み込めなかったが、とりあえず後で盛大に叱責を食らうという確信だけは得ることが出来た。





「そうですか、星矢が……」

 氷河からハーデスとの戦いの顛末を聞き終えたヒルダは肩を落としつつ、目を閉じてつぶやいた。
 かつて自分をニーベルンゲンリングから解き放ってくれた少年の姿を思い出しているのかも知れない。
 ヒルダの隣に座っていた妹のフレアは、口元に手を当てつつ肩を振るわせて言葉も出ない。

 鹿や熊の剥製が飾られ、毛皮を多く使うなど勇壮な雰囲気を漂わせるここは、アスガルドの都ワルハラ宮殿内の応接室である。
 宮殿はアスガルドの民が長年磨き上げてきた断熱技術の粋を集めて築かれており、暖炉の炎が外の寒さとは無縁の空間を作りだしている。
 逆に宮内で強力な凍気の使い手が全力を出せば、密室にも等しいために極地を凌ぐ極寒地獄になるほどだ。
 かつて氷河は神闘士ゼータ星ミザールのシドにそれを食らい、倒されている。

 氷河はちらと斜め後ろに目をやって、部屋の入口近くで影のように控えているバドを視界に入れた。
 バドは、そのシドの双子の兄である。

 かすかに顔をあげたバドと目が合った。
 バドはヒルダに一礼してから部屋の中ほどにある向かいの席まで来た。
 歩いて来ているはずなのだが、動くにしてもほとんど気配を感じさせない。
 その姿とは正反対に、まさしく影のような男だった。

 この男が牡牛座のアルデバランにすら気付かれることなく金牛宮に侵入し、前面のシドとの時間差で背後からの不意打ちながらそのアルデバランを倒すほどの刺客だったことを、氷河はようやく記憶の片隅から引っ張り上げることが出来た。

「こちらの話も聞きたそうだな、キグナス」
「……ああ」

 氷河はアスガルドに何日か滞在していたが、このバドと顔を合わせたことはない。
 その時はバドがあくまで影に徹していたからだ。
 当時氷河の尋問に当たったのはガンマ星フェクダのトールである。
 そして戦いの時にはバドは氷河を素通しさせて罠にはめているため、顔を合わせてはいない。
 バドと直接顔を合わせたのは瞬、一輝、シャイナのみである。

「オレもフェニックスにやられた傷がひびいて死にかかったが、倒れていたところを家の者に発見されてな。
 かろうじて生き長らえたというところだ」
「家……?確か話では」

 双子を忌み嫌うアスガルドの掟により、バドはその家から捨てられたと聞いているが……

「アンドロメダから聞いていたか?
 シドは家長としてよくやっていてな。
 自分に何かあったときは、オレが家長を引き継ぐように取りはからってくれていたのさ」

 そこでバドはわずかに目を浮かせた。
 氷河には解らなかったが、宮殿の壁をいくつも突き抜けたその視線の遙か先には、神闘士の守護星たる北斗七星がある。
 そのゼータ星、ミザールを見たのだ。
 己の歪んだ心故に憎み恨みもした、今は亡き最愛の弟を。

「皮肉な話だが、影の存在だったとはいえ生き残った神闘士はオレ一人だ」
「……バド」

 バドの声に不穏なものを感じて、思わずフレアは声をあげた。
 忌むべきはポセイドンとそれを操った双子座のカノンである……このことはポセイドンとの戦いの後に一度報告が行っている……とはいえ、神闘士と直接拳を交えたのは氷河たち聖闘士なのだ。
 手加減が出来る戦いではなかったとはいえ、氷河たちにも多少の引け目が無いわけでもない。

 バドはフレアには解らぬように嘆息した。
 本来フレアこそが氷河を最も憎んでいいはずなのだ。
 幼なじみともそれ以上であったとも言うベータ星メラクのハーゲンを、この男に倒されている。
 もっともバドはハーゲンと氷河の戦いを断片的にしか知らない。
 ハーゲンの修行地であった溶岩洞窟に誘い込んだ時点でハーゲンの勝ちは揺るがないと判断して、エータ星ベネトナーシュのミーメの監視に移ったからだ。

 何があったものか……と考え込みそうになったところで、無礼な詮索になると思い、やめた。

「お許しを、フレア様。
 少なくとも今この男と戦うつもりはありません」

 言外にはっきりと、色々思うところはあるが、と解る正直な言い方だったので、フレアは返す言葉と表情に困りつつも逆に安心することにした。

「それで今はオレがワルハラ宮とアスガルドの親衛隊長。
 ジークフリートの役目を代行しているというわけだ」
「周りは皆認めているのですけど、本人だけがこうやって代行と言い張っているのですよ」

 固くなった空気を和らげるようにヒルダが微笑みつつ言葉を挟んだので、バドは困ったように表情を崩した。
 単に小宇宙やカリスマだけでアスガルドを治めているのでは無いということを、氷河は納得する。
 しかし、もう一つ暗い話題で聞いておかねばならないことがあった。

「それと……悪いが一つ、ヒルダに聞きたいことがあって来たんだ」
「なんでしょう?」
「今オレたち聖闘士は星闘士スタインと名乗る軍団と争っているんだが、どうもその軍団にブルーグラードの氷戦士ブルーウォーリアーが倒されたらしいんだ」
「何!?」

 声を上げたのはバドだけだが、さすがにヒルダもフレアも顔色を変えた。
 ブルーグラードに異変が起こったことはある程度察していたが、当たって欲しくなかった推察だった。

「ブルーグラードが守っていた封印が狙われたらしいんだが、ブルーグラードの民が何かを守っているという話をヒルダは聞いたことがないか?」

 牡羊座のシオンと天秤座の童虎という聖闘士の生き字引が死んでしまった今、伝承に詳しい聖闘士がほとんど残っていないのである。
 かろうじて年の功でオリオン座のエルドースが少々知っている程度だ。
 その彼も白銀聖闘士シルバーセイントということで、重要機密は知らされていなかった。

 おそらくヒルダは現在、神話の伝承に最も詳しい人間の一人である。
 氷河からブルーグラードの状態を聞いたマリンクロスの潮は、そのために氷河をアスガルドへ派遣することにしたのだ。
 なお、このことは聖域のアステリオンにも承諾済みである。

「しばらくアスガルドに来ていたアレクサーという者から聞いた話では、永遠に消えない炎を守っているということでしたが……」
「アレクサーがこのアスガルドに?」

 そういえばアレクサーは父に追放されて色々彷徨っていたと聞いていたが、このアスガルドに来ていたとは。

「はい。
 シドの家にしばらく客として逗留していて、何度か話したことがあります。
 それと……アルベリッヒと珍しく意気投合していましたね」

 野望に燃えていた当時のアレクサーと、あのデルタ星メグレスのアルベリッヒの組み合わせはなるほど解らないこともない。

「ただ、彼もその正体までは知らなかったようです。
 私が伝え聞く伝承では、アテナが太古の聖戦において倒した邪悪の一つを四つに分けたものだと言っていました。
 一度ポセイドンに施した封印が解かれた後のブルーグラードは、代わりにその封印を守り続けてきたのだそうです」
「同様のものがあと三つか……」
「そちらも気になるが、お前たちが今戦っているスタインというのは何だ。
 アスガルドにそいつらが来る可能性があるのか」

 そういえばジャミールにも封印があるという話をしていたなと考え込んだ氷河は、仕事熱心なバドの言葉に思考を中断させられることになった。

「星闘士は聖闘士に代わって八十八の星座の守護を奪うと言っている組織らしい。
 あいにくとまだオレは戦ったことがないが、連中が今まで現れたのは城戸邸と聖域とジャミールと……ブルーグラード以外ではこちらの拠点にしか来たことはないはずだ」
「ポセイドンやハーデスのように、地上を支配しようと何かしでかす可能性は?」
「……済まん。
 連中の最終目的がどこにあるのかはまだわかっていないんだ。
 今のところオレたち聖闘士と戦うことだけが目的のようにも思うんだが」
「現時点での厳戒態勢は取り越し苦労だったか……」

 バドは厳戒態勢を命じておいたのが馬鹿らしくなった。





 部隊長は先ほどの失敗に頭を痛めながら、アスガルドの入口である谷の周辺を念入りに巡回していた。
 他にもアスガルドに入るルートが無いわけではないが、少なくとも空からの侵入は不可能であり、海から来ようとするならば凍てついた海を数百キロに渡って航行してこなければならなくなる。
 よほどアスガルドに慣れた熟練の猟師らが知る獣道を除けば、あとはこの谷くらいしか入る道はない。
 かつて聖闘士たちもここから入ってきた。

 かつてガンマ星フェクダのトールが倒れたのはこの近くなのだが、そこまでは部隊長も知らなかった。

 今直接同行しているのは部下が二人と狼が一頭。
 この狼たちはかつて神闘士イプシロン星アリオトのフェンリルの仲間としてヒルダに忠誠を誓い、フェンリルと群れの長ギング亡き後もヒルダへの忠誠を続けているのだった。
 ある程度の言葉を理解し、お互いの結束力、協調性の強い彼らは心強い味方である。

「む……!」

 平時はやはり猟師となる部隊長は、遙か遠くに動くものを見つけた。
 二十キロほど離れているが、獣にしては動きがおかしい。
 数も複数だ。

「……また来客でしょうか?」
「それにしては妙だな」

 深く積もった雪を慣れた足取りで踏みしめつつ、狩人の動きで速やかに接近していくと、一行の全身が黒ずくめであることが見て取れた。
 隠密行動だとするとあまりに間が抜けている。
 雪の上に置いて黒は原色の次に目立つのだ。
 しかもよく見ると単なる黒ではなく輝くような光沢がある。
 どうもこっそり侵入しに来たという風体ではない。

「怪しいことは怪しいが、来客という可能性もありえるな」

 それにさっきからほとんど動く気配がない。
 こちらが来るのを待っているのだろうか。

「会いに行くか。
 話を聞いてみなければ解らんしな」

 問題はないだろう。
 先ほどの来客のような手練れが例外なのであって、本来ならアスガルドの兵がそんじょそこらの侵入者に後れをとることなど無いのだから。

「おおーい、お前ら、何しに来たー」

 声をかけたところで、連中のうち一番ごてごてしたものを身につけている奴の手から何かが飛んだ。
 マッハを遙かに凌ぐ、準光速で。

 自分達が吹っ飛ばされることを部隊長が思考で認識することはなかった。





「……!」

 唐突にヒルダが立ち上がった。

「お姉さま?」
「オーディーンローブが警告をしています」
「何だって?」

 オーディーンローブは現在このワルハラ宮にあって、アスガルド全土を守っているはずだった。
 ということは、このアスガルドに何者かが侵入、あるいは侵攻しようとしているということになる。

「見てみましょう。こちらへ」

 見てみましょうと言われてもどうするのか疑問に思いながらも、氷河は言われたとおりヒルダについていくことにした。
 バドとフレアには何のことか解っているらしい。

 案内されたのは、謁見の間といった趣の漂う、何段も高くなった上に玉座が設置された部屋だった。
 氷河は知らなかったが、かつてニーベルンゲンリングに支配されていたときのヒルダは、ここに座って戦いの推移を眺めていたのだ。
 その玉座から少し離れたところに、祭壇のようなものがあった。
 ヒルダが手を一振りすると、そこに青い炎が燃えさかる。
 その炎の揺らめきの中に、アスガルドのどこかと思われる雪原の光景が浮かび上がった。

「!!」
「なんということを……」

 何か強力なエネルギーの直撃を受けたらしく積もった雪が解けて地肌が覗いているまっただ中に、巡回の兵たちが倒れていた。
 おそらくもう生きてはいない。
 その近くには、夜空のように黒く光る鎧を纏った男たちが六人。

「あれは……」

 直接会ったことはないが、氷河は一応の情報を聞いていた。
 彼らは冥衣サープリス暗黒聖衣ブラッククロスのように黒い鎧を纏っていると。

「……星闘士!!」





「こいつらのテレキネシスじゃなかったか」

 地面に突き刺さった矢を引き抜きつつ、青輝星闘士シアンスタイン天秤座ライブラのアーケインは舌打ちした。
 このアスガルドを攻めるに当たって連れてきた部下五人のうち、三人までもがある一線から先へ進めなくなってしまったのだ。
 何者かのテレキネシスによるものかと思い、とっさに誰何の声が聞こえた方に矢を放ってしまったが、どうやら単なる巡回の兵でしかなかったらしい。

 この力はただごとではない。

 進めなくなったのは赤輝星闘士クリムゾンスタインだけだが、青輝星闘士である彼ですらも先ほどから圧力を感じている。
 戦いにはどうやら支障が無い程度で済みそうだが、どちらにせよ人間レベルの業ではない。

「まさか……、こいつがオーディーンローブの力か」

 小宇宙が吹き付けてくるようなその方角を見据える。
 敵意でもなく、憎悪でもなく、

「……素晴らしい」

 名剣の予感に満足して、アーケインは微笑んだ。

「素晴らしいのはいいんですが、どうするんですか」

 やれやれ、という表情を隠すことなく、白輝星闘士スノースタイン御者座アウリガのザカンはせっついた。
 アーケインのこの性癖に振り回されるのはもう慣れている。
 が、だからといって歓迎できるものであるはずがない。

「仕方がない。
 リーガンらはさっきの村まで戻って待機。
 アスガルドへは三人で突入する」
「本気ですか」
「アスガルドの兵はこのレベルのようだし、神闘士は先の聖闘士の戦いで全滅しているから、厄介なのはヒルダ本人くらいだろう。
 いささか手が足りなくなる可能性があるが、まあ、何とかならんこともない……はず」
「あー不安だ不安だ」

 ザカンはあえて聞こえるようにぼやいた。




「何故星闘士が……オレをつけてきたのか?」
「それはありえんな」

 バドは一言で氷河の疑問を切って捨てた。
 先ほど氷河を迎えに行った際、周囲に何者もいなかったことは確認している。
 それに氷河一人を狙うのならば、わざわざ侵入の難しいアスガルドに入ろうとするはずがない。
 アスガルドの入口までは、迷い込んで来れる道でもないのだ。

 連中はアスガルドに用があって来たと見て間違いない。
 目標は、オーディーンローブか、ヒルダの身命か、海界への侵入か、それとも別の何かか。
 バドとしてはヒルダとオーディーンローブのあるこのワルハラ宮を護ることを最優先させなければならなかった。
 奴らはどうやら三人がアスガルドへの侵入を果たしたようだ。
 手を分けられると厄介なことにもなりかねない。

「キグナス、貴様の聖衣は?」
「……ハーデスにやられた後、グラード財団で修復研究中だ。
 くそっ……こんな事になると解っていれば……」

 氷河は紫龍や瞬のように聖衣無しでも十二分に戦えるというわけにはいかない。
 唯一カミュとの戦いだけは例外だが、あれは最初から命を省みない全身全霊を賭けた戦いだったからだ。
 特に防御的な戦いとなると聖衣が欲しかった。
 フリージングコフィンを盾として使って、どこまで戦えるか……

「氷河、戦ってくれるのでしたら、神闘衣ではいけませんか?」

 やるしかないと思ったところで、ヒルダが意外なことを言った。

「ヒルダ様、まさかオーディーンローブを?」

 バドが驚きで不快感を隠しつつ、それでも声が大きくなった。
 神闘士にとってオーディーンローブは至高の衣であり、本来はオーディーン自身が纏うべき物なのだ。
 ペガサスに続いてアスガルドの出身ではない氷河に纏われては、神闘士の立つ瀬がない。

「いえ、オーディーンローブを纏うのはそう簡単にはいかないでしょう。
 ですがもう一つあるのです。
 アスガルドの者には纏えない、神闘衣が」
「それはどういうことなのです?」

 僅かに安堵しつつ、バドはさらに尋ねずにはいられなかった。
 影の神闘士となってからヒルダの下で機密のことにいくつか関わりもしたが、そのことについては初めて聞いた。
 本来北斗七星を守護星とする神闘士で規格外なのは、自分の纏うアルコルだけのはずだった。

「ミッドガルドの名を冠せられ、外界から来た勇者に与えられるために造られた神闘衣なのです」
「ミッドガルドの神闘衣……」

 アスガルドを神の国とすると、ミッドガルドとは人の世界、人の国を表す言葉である。
 なるほど、アスガルドの民には纏えないわけだ。

「それはどこに?」
「フォルケル……ミーメの養父の館です。場所は……」

 そこでヒルダは言いよどんだ。
 このアスガルドに不慣れな者には、そもそも方角を掴むことすら難しいのだ。
 このワルハラ宮のようにはっきりとした存在感のある建物でもない限り、まずかなりの確率で方角を見失って迷ってしまう。

「お姉さま、私が氷河を案内しますわ。
 フォルケルの館ならばよく覚えております」

 ミーメの養父フォルケルはアスガルド中に名を馳せた戦士であり、ワルハラ宮との関係も深かったため、姉妹は小さい頃に何度か館を訪れたことがあった。

「しかしフレア様、今この宮殿から出られるのは……」
「バドはここにいてお姉さまを守って下さい。
 さあ、急ぎましょう」




「アーケイン様、宮殿はおそらくあちらの方かと思われますが」

 明後日の方向を見据えるアーケインに進言しつつ、ザカンは非常に嫌な予感がした。
 そして、あいにくとこの予感は外れたためしがない。

「名剣の気配がするな」

 ほらやっぱり。
 ザカンは天を仰いだ。
 この人のこの趣味はどうにかならないものか。

「バルムングの剣でしたら宮殿に保管されているのでは?」

 ほとんど無駄と思いつつ、一縷の望みをかけてザカンはもう一度進言する。
 しかしその願いはあっさりと裏切られた。

「別の名剣の気配だ。
 オレは漁ってくるからお前らは先に行っていろ。
 手柄は独占して構わんぞ」

 アーケインはそれだけ言うと、返事も聞かずにザクザクと歩いていってしまった。
 ザカンはその方向からは何も感じない。
 だがアーケインのこの感覚が間違っていたことは過去一度もないのだ。
 天才と何とかは紙一重だと改めて実感する。

「ザカン様、私も帰ってよろしいでしょうか」

 胃のあたりを押さえつつ、ただ一人ついてきた赤輝星闘士髪の毛座コーマのティアムが冗談とも本気ともつかぬ声を上げた。
 いや、多分に本気のような気がする。

「頼むから帰らないでくれ。
 美人の同行者がいるからと言う理由で何とか我慢しているんだ」
「はあ……、わかりました」

 ため息全開の声でなければ口説きの文句になったかも知れないが、あいにく二人とも精神的に疲れていた。

「ええい、くそ!こうなったら手柄を立ててイルピトア様から特別報酬をふんだくってやる!
 ティアム、おまえもこれを使え!」

 ザカンは御者座の星衣クエーサーに付属のソーサーを腰から取り外して、足の裏に装着した。
 かんじきの代わりである。
 御者座の白銀聖衣と違って、星衣にはソーサーが四枚ついているので二人分になった。
 スキーを持ってくるのだったと思いつつ、どこかやけくそ気分で二人は宮殿のあると思われる方向へと歩き出した。
 妙なことに、それ以後巡回の兵士に会わなかった。
 まさかあれだけしかいないということもないだろうが、全てアーケインの方に向かったのだろうか。
 だとしたら……せいぜい苦労してくれ、などと思ってしまった。

 何にも会わないでえんえん雪原を歩くのも疲れてきたころ、ようやく宮殿の姿が近くに確認出来るようになった。
 だがそれと同時に、白と黒がほとんどを占めるザカンの視界の中に鮮やかなオレンジ色が目に入った。

「ザカン様……あれは」
「おいおい、聞いてないぜ。
 神闘士が生き残っているなんて」

 オレンジ色をしているのは、人影が纏っている鎧だ。
 聖衣とも星衣とも違う雰囲気のそれが意味するところは、つまるところ神闘士の纏う鎧である神闘衣に他ならない。
 その神闘士は金髪の女を連れて宮殿に向かっていたが、女の方からは小宇宙をほとんど感じないので、オーディーンの地上代行者であるヒルダとは別人だろう。
 幸い二人ともこちらには気付いていないと判断したザカンは、足からソーサーを取り外した。

「当たるまで気付くなよぉ……」

 この距離でザカンが投げればほぼ間違いなく当たるはずだ。
 神闘士へ向かって狙いを定め、ソーサーをぶん投げる。

「!!」
「かわした!?」

 完全な不意打ちとなったはずのマッハ7を超えるソーサーを、その神闘士は寸前で気付いてかわしてしまった。

「くそ……手強いのが残っていやがるな」

 その神闘士が容易ではない相手だとそれだけでわかる。
 誰だ、神闘士が全滅したなんて情報を持ってきた奴は。
 海界崩壊の折りに救助した海闘士からの情報だとか言われているが、毒づきたくなった。

「こうなったらやり合うしか無いな」
「気をつけましょう、手強そうです」

 戻ってきたソーサーをキャッチして、向こうにそれとわかるように接近していく。
 どうやら人が行き来している場所らしく、靴だけでも歩くのに支障がないくらいになっていた。

「星闘士か!」
「……何で知られているんだ?」

 神闘士からいきなり星闘士の名前が出てきたので、ザカンはますます不機嫌になった。
 彼は女を背後にかばいつつこちらに向かって身構える。
 人質に取るのは難しそうだと、目でティアムに合図して一歩進み出る。

「どこで星闘士のことを知ったのかしらんが、白輝星闘士御者座アウリガのザカンだ」
「オレは……、白鳥座キグナスの聖闘士、氷河だ!」
「…………………………………………はぁ?」

 ザカンは戦闘寸前だというのに、全身から緊迫感が抜けるのを感じていた。





 感覚の呼ぶままに歩いていたアーケインは、紫水晶の柱が乱立する奇妙極まりない森に入り込んでいた。
 紫水晶の中には骸骨が埋め込まれているものもあって、常人ならば気味が悪いと感じるところだが、収集家として奇怪なものは見慣れているのでどうということはない。
 その紫水晶たちを従えるように、それよりもさらに濃い紫の物体があった。

「神闘衣か」

 出来るなら丸ごと持って帰りたいくらいの珍品だったが、持ち帰るにはかさばりすぎる。
 さてどうしたものかと考え込んだとき、神闘衣とも紫水晶とも趣の異なる物体が付属していることに気がついた。

「これは……」

 持ち上げてみると、荒削りな印象を受ける剣だった。
 見た目よりもずいぶんと軽い。
 手近の木に向かって軽く斬りつけてみる。

ゴオゥッ!

 切るより先に、触れたところから木が一瞬で燃え上がった。

「炎の剣か……、素晴らしい」

 ひとまずこれ一振りで満足することにして、仕事に戻ることにした。






第十五話へ続く


夢の二十九巻目次に戻る。
ギリシア聖域、聖闘士星矢の扉に戻る。
夢織時代の扉に戻る。