「行くぞ!ハイドラウイップ!」
「新必殺、シーサーペントポイズンざんす!」
展開される鎌首をかいくぐるように、うねる海ヘビのような市の小宇宙がフェロンに迫る。
しかし、フェロンもひるまなかった。
「甘いわぁっ!!」
展開していた鎌首を絞り上げて、市の拳圧と小宇宙を巻き取るとそのまま一気に締め飛ばしてしまった。
「フン、シーサーペントだと。
やはり貴様はヒドラを冠する誇りすら無いようだな」
「なんかムカつく言い方ざんすね」
新必殺技を止められたが、特に市は気落ちしているわけではない。
フェロンの技もそれで相殺しているからだ。
それよりはフェロンの言動の方が嫌味である。
「腹立たしいのはこちらの方だ。
オレの守護星座たるハイドラは、かのヘラクレスでも一人では倒せなかったギリシア神話に冠たる魔獣なのだぞ。
その誇りもなくして海ヘビなどと言われるとは、我慢がならんわ」
「ペガサスやメデューサに比べれば大した知名度じゃないと思うざんす」
自分の守護星座に向かって市がしれっと言ってのけるので、フェロンの眉間の皺はますます深くなっていく。
「貴様!それでも聖闘士か!」
「でなかったら聖衣を纏ってなんかいないざんす」
蛇というかなんというのか、のらりくらりと上手くかわす市に、檄は後ろで苦笑していた。
高地に慣れていない人間が怒って呼吸を乱せば、その分限界は早くやってくる。
平然とした顔で、市は相当毒のあることをやっているのだった。
しかし確かに聖闘士の吐く台詞ではないと思う。
「おのれ……ただではすまさんぞ……!」
歯ぎしりする音まではっきり聞こえてきそうな形相で、フェロンは両手を大きく突きだした。
純白の小宇宙に異様な雰囲気が満ちる。
とっさに市は背後の檄を後方へ突き飛ばしていた。
「檄!離れるざんす!!」
「もらった!!」
星衣の上半身にある五本の鎌首が、一斉に大口を開いた。
「ロッティング・スフィアブレス!!!」
開いた口から、緑とも青とも赤ともつかぬ、文字通り毒々しい色の気体が吐き出されて瞬時に市を包み込んでその姿を覆い尽くしてしまった。
「市ーーーーーーーっっ!!」
「叫んでも無駄だ。フェロン様のブレスに青銅聖闘士の小宇宙で耐えきれるわけがない」
フェロン優勢と見た赤輝星闘士ヒポグリフ座のバロッドが勝利宣言のように声をかけてくる。
「くそおっっ!」
もうじき来るはずだが、聖衣の到着を待ってなどいられない。
とびこんで市を救出……
「止めておけ、ベアー檄とか言ったな。
我が毒の大気に包まれれば、皮膚も内蔵も全て腐れ落ちる。
せっかくヒドラが最期に自らの保身ではなく友の身を案じたのだ。
その最期の誇りに免じてお前はせめて肉体を残したまま葬ってやる」
「うるさい!
あいつは俺の友であり、兄弟なんだ!
この身がどうあろうと救い出してやる!」
「聖闘士ども、実力はともかくその魂だけは誉めてやるぞ!」
フェロンの制止も聞かず檄が立ち上がって走り始めたその時、
「安心するざんす、檄」
「!!」
「何ィッ!?」
驚愕する檄とフェロンの眼前で、毒の大気が収束していく。
そこからマッハ2以上の速度で飛び出した人影は疑うまでもなく、
「メロウポイズン!!」
「お、おのれええっっっ!!」
ヒドラの毒牙を繰り出して飛び込んできた市の攻撃を、フェロンはギリギリのところで受け止めた。
しかしその勢いを堪えきれずに、踏ん張る両足がガリガリと地を擦って後退させられる。
さらに、
ビシ……
「なっ……!?」
毒牙を受け止めていた鎌首のパーツに、ヒビが走った。
「砕け散るざんす!」
バキィッッ!!
豪快な音と共に、牙の突き刺さっていたところからハイドラの首がへし折れ、砕けてしまった。
ニヤリと不敵な笑みを浮かべつつ、市はフェロンの背後に着地する。
「勝ったと思ったざんすか?油断大敵ざんすよ」
「何故だ……!
オレのスフィアブレスは呼吸を止めたところで皮膚からも浸透する。
あれだけの時間食らっていれば、青輝星闘士ですら無事では済まぬのだぞ……。
それが何故……!」
「このヒドラ市を見くびってもらっては困るざんす。
聖闘士になるまでの七年間、あたしは戦闘訓練だけでなく、この地上のほとんどの毒に対抗する訓練も受けたざんす」
「何だと……」
フェロンは絶句しているが、檄には思い当たる節があった。
今でこそこんな容貌の市であるが、八年前にフィンランドに送られる前は、少し顔が変な程度の少年だったように思う。
毒に対する耐性を身につけるには、致命傷にならぬ程度の毒に慣れ続けなければならないはずだ。
つまり、七年間様々な毒を飲み、浴び続けていたことになる。
「八十八の聖衣の中でたった一つだけ、武器以上にアテナが忌み嫌うであろう毒を持ったのがこのヒドラの聖衣。
ヒドラの聖闘士は代々、黄金聖闘士でさえ戦えば危険を伴う毒を持つ敵に立ち向かう使命を持っているんざんす」
天秤座の聖闘士以上に過酷なその使命を、市はいつもの調子で言った。
しかし檄にはわかる。
いつもの調子なのは語尾だけだ。
アテナの聖闘士の一人として、偽らざる誇りを確かに滲ませていた。
「この新生ヒドラの聖衣は、本来備わっていた毒の浄化能力がさらにパワーアップしているざんす。
あんたが今の一撃を檄に向かって撃ったとしても、それを即座に無効化できることを教えておいてやるざんすよ」
先ほど毒の大気が拡散しなかったのはそういうことだったのか……と思ったとき、フェロンの頭に閃くものがあった。
新生……、だと?
そういえばもう一人の檄とやらは聖衣を身につけていない。
戦いになるとわかっているはずなのに何故身につけていないのか不思議だったのだ。
それから、アクシアスがユニコーンに敗れたときも相手は聖衣無しだったと聞いた。
その時はアクシアスの無様さを笑っただけだったが。
「なるほど、読めたぞ。
このジャミールを攻めたのは我らにとって一石二鳥だったということだな」
檄は顔色を変えた。
ここで聖衣の修復をしていることを知られてしまった。
「口が滑ったな市よ。ここを落とせば封印を解くだけではなく、事実上聖闘士の戦力を封じることになるとは、有り難いことだ」
「口を滑らせたのはアンタの方ざんす」
檄に向かって心配無用と笑ってから、市はさらりと言ってのけた。
「あんたたち星闘士の目的が、聖闘士全滅だけではないことも、そのうちの一つがこのジャミールの秘密そのものにあることも教えてくれたんざんすからね」
「貴様……」
フェロンは今さらながらにこの市という男を見くびっていたことを認めざるを得なかった。
道化のような奴だと思っていたが、道化はその表情の裏で人を騙すトリックを考えるものだった。
「我が失言は認めよう。それから貴様を見くびりすぎていたこともな。
だが……!」
フェロンは小宇宙をたぎらせ、折れた星衣のハイドラの首を再生させる。
「この場でお前たち二人とも倒せば、それで済むこと……!」
「なるほど、あたしの牙に再生能力があるのと同じなんざんすね。
だけどその言葉も、人数だけ増やしてそのまま返してやるざんす」
市が両手両足の牙を解放し、フェロンも九つの首を全て解放する。
フェロンの燃える瞳と、市の細く研ぎ澄まされたような瞳が、一瞬、交錯した。
「受けてみろ、ヒドラ市!!
このハイドラ座フェロンの最大の拳!
ハイドロ・サーヴィジリー!!」
暴虐!
爆発的に膨れ上がったフェロンの小宇宙と共に、九頭のハイドラが我先にと争うように市に殺到する。
水煙と土煙と瘴気を上げつつ周囲の岩石が次々と泥と化していき、さながらハイドラの巣くう沼のような光景が、このジャミールの高地に出現した。
「……市……」
嵐が収まった後に、市の姿はなかった。
「同じ守護星座を持った者への、最後の……情けだ。ふさわしき……、場所で……、ねむれ……」
それは、市が泥沼の中に没したことを意味する。
「態度は……どう……あれ……、我が宿てき……に、ふさわ……し・・」
「フェロン様!?」
打ち勝ったはずのフェロンが体勢を崩して膝をつき、大きく肩で呼吸して頭を押さえているので、赤輝星闘士たちはさすがにあせった。
「なん……だ、これ……は」
「あたしにはもう一本の毒牙があったんざんす」
ぎょっとなる星闘士たちの目の前で、沼地の中からヒドラそのもののように声がした。
パシャリという水音とともに、沼の水面に市が顔を出す。
沼の中から出てきたというのに、聖衣も顔も綺麗なものだった。
「貴様……、ハイドロサーヴィジリー・・を、まともに……食らって無傷とは……」
「いや、さすがに最大の拳と言うだけのことはあるざんす。
直してもらったばかりの聖衣に、もう傷が入ってしまったざんすからね。
おそらく旧聖衣のままなら今の一撃であたしは倒れていたざんしょう。
だけどそもそも、今の一撃を撃てた時点で大したものざんす」
沼から全身を現した市は聖衣の表面で水泡を発生させたかと思うと、ほとんど泥を洗い落とした姿で地に足をつけた。
しかしなるほど、聖衣の細部にいくつものヒビが入っている。
「この高地でフルに動いて、長時間持つわけがないんざんす。
ここに慣れたあたしよりも早く限界が来て当たり前。
ましてあれだけ怒っていればなおさらざんす」
「ぐ……っ」
「毒が牙だけだと思ったのがあんたの失敗ざんす。
ヒドラを、みくびったざんすね」
膝立ちのままから起きあがれずに、激しい頭痛に苦悶の表情を浮かべるフェロンに向かって、市は一歩一歩近づいていく。
まだ油断するわけにはいかない。
あれほどまでに動けたのだ。
元々高山病になりにくい体質だったのかも知れない。
まだ余力を残している可能性もあった。
「くそっ……!フェロン様!!」
赤輝星闘士の一人ヒポグリフ座のバロッドが、見ていることに耐えかねてその場に飛び込んできた。
「よ、よし、オレたちも!」
「させるかっ!」
我も我もと来る星闘士たちに対して、檄も放ってはおけぬとその場に飛び込んで、市と彼らの間に割り込んだ。
「この俺がいる限り、おめえらは市に指一本触れさせねえ」
「聖衣も纏わずに我ら四人を足止めできるつもりか。
舐めるな!」
「おめえらはあのフェロンほど高山に強いわけじゃねえだろ。
だからこそ、少しでもおめえらを慣らすためにフェロンはここまで一対一の戦いをやっていた。
……違うか?」
「くっ……!」
檄の指摘は当たっている。
そもそもいきなりこのジャミールにやってきて、さらには市に散々怒らされて呼吸を乱したというのにここまで戦えたフェロンが凄すぎるのだ。
「だがそれでも、星闘士四人を相手に、たやすく止められると思うな!」
「待て……バロッド……」
かけられた声に、バロッドの振り上げた拳が止まる。
未だ苦しげな表情ではあるが、フェロンはかろうじて立ち上がっていた。
「助かる……。少しは楽になった……。
しかし、これは私と市との勝負だ……。
お前たちは、手を出すな……」
楽になったとは言っても、到底そうは見えない。
「何を仰いますか!
そもそもがこの高地においてハンディキャップマッチも同じ。
多対一だとしても恥じるような状況ではありませんぞ!」
檄と睨み合っているバロッドに代わって、彫刻具座カエラムのゼムクントが声を張り上げる。
「そうではないのだ、ゼムクント……。
これは、守護星座を争う私の、星闘士としての、意地なのだ……!」
呼吸を大きく、しかし静かにとりつつ、フェロンはなおも市に向かって構える。
「なるほど、同じ毒使いとしてあんたは呼吸法をマスターしていたんざんすね」
限られた大気の中で戦う技術は毒ガスを用いたり、立ち向かったりする際に必須技術となる。
どうりでここまで存分に動けたわけだ。
「それでも、一度そこまで進行してしまえばそう簡単に楽にはならないざんしょう?」
その通りだった。
一刻も早く下山して濃い酸素を摂らねば、ことによったら命にも関わることくらいフェロンは自覚していた。
「アクシアス様やクライシュ様との決着もつけずに、ここで倒れるつもりですか!」
「同じ星闘士同士よりも……、何よりも……、奴との決着はつけねばならぬ……!」
市を睨み付けるその目はまだ死んでいない。
いや、その眼光の鋭さは増すばかりだった。
「何と仰ろうと、この場であなたを死なすわけにはいきません!」
ゼムクントがフェロンに向かって動く。
さすれば意図は明白だ。
力ずくでもフェロンをこの場から連れ出すつもりなのだろう。
「それもさせねえっ!!」
檄は巨体に似合わぬ俊敏さでゼムクントの行く手に回り込んだ。
銀河戦争では表面上のパワーのみで星矢に負けた彼が、聖闘士として鍛え上げた速さだった。
ゼムクントとがっちりと組み合った。
受け止められたゼムクントは歯ぎしりしつつ腕に力を込める。
体格に差はあるが、負ける気はしない。
「いかに酸素不足であろうとも、完全装備の星闘士を相手にする愚かさを思い知れ!」
「いや、こちらもようやく時間だ」
「何?」
ゼムクントが尋ね返した丁度その時、空を切り裂く音と共に飛来してきた物が、ゼムクントと檄の間に割り込んできた。
ゼムクントは慌てて体勢を崩すが、檄には何ということはない。
なぜならそれは、
「まだ荒削りだが、これが大熊座ベアーの新聖衣だ!!」
未完成な部分が本来の姿よりも荒々しさをかもし出している大熊が分解し、檄の身体に装着されていく。
肉厚になった部品が多いというのに、幾分以前より軽く感じられる。
なるほど、市がフェロンとの戦いを優位に進められた理由にはこれもあったのだろう。
星矢たちの新聖衣の修復を手伝った貴鬼の技術は、期待以上の素晴らしさだった。
「この聖衣、無駄にはせん!」
元々身長190センチを超えてまだ伸びている青銅聖闘士一の巨漢だ。
完全装備となって大地を踏みしめると、それだけで迫力がある。
「さあ、存分に相手になってやるぞ!
ここのことを知られては困るんでな!!」
「ほざけ!口を利けなくしてやるのはこちらの方だ!
未完成なその聖衣ごと、削り倒してくれる……。
シェイディング・カッター!!」
削り倒すという言葉がまさしくふさわしい、無数のノミやタガネの削撃のような技をゼムクントは繰り出してくる。
それで檄は、このゼムクントが彫刻具座の星闘士であることがわかった。
しかし、青銅聖衣離れした防御面積を持ちショルダーシールドまである大熊座の聖衣は、未完成部分を削られつつも本体は無傷に近かった。
「何だと……!」
「いけえ新必殺!ベアーズスラッシュダウン!!」
大木を薙ぎ払うかのような一撃が狙い違わずにゼムクントに命中する。
締め技だけでは聖闘士として戦い続けることは出来ないと、大熊本来の強大さを目指して修得した技だった。
元来の肉体的パワーもある檄がさらに命中の瞬間に小宇宙を炸裂させた一撃である。
星衣を砕かれて、たまらずゼムクントは吹っ飛んだ。
「おのれ聖闘士め!」
ヒポグリフ座のバロッドが即座に飛びついて、岩盤に打ち付けられる寸前のゼムクントを受け止める。
残りの……一人はどうも蜥蜴座らしいがもう一人は檄の知らない形状だった……二人はいきりたって檄に向かってくる。
「檄、そっちはまかせたざんすよ!」
「おう、まかしとけ!」
フェロンの解説を鵜呑みにしてよいのならば、小宇宙の色が赤から橙のこの四人は赤輝星闘士ということになる。
それにフェロンほどには高山に適応できていないのはこちらの予想通りらしい。
おそらくフェロンと対峙する市の方に余裕はあるまい。
ならばこの四人は、俺が倒す!
「ぬおりゃああああああっっっっっっ!!」
酸素が足りないせいだろう、さほど俊敏とは言えぬ動きで向かってくる二人の顔面をカウンター気味に捕まえた。
「ハンギングベアー・プレッシャー!!」
両手に二人を捕まえたまま、一足で跳んで二人の身体を岩盤に叩きつけてめり込ませる。
このまま一気に押し切れるかと思ったが、しかしさすがにそれは無理だった。
「ヒポグリフ・フライングアタック!!」
体勢を立て直したバロッドが背後の空高くから蹴り込んできたのだ。
「ぬうっっ!!」
やむなく手を離して、聖衣のショルダーシールドでその攻撃を受け止める。
もう一人のゼムクントとかは……、性懲りもなくまだフェロンを救うつもりらしい。
「させねえって言ってんだろが!!」
そうやって檄が奮戦している間に、市とフェロンは小宇宙を燃え上がらせて対峙することが出来た。
感覚は衰えているはずだが、フェロンの小宇宙そのものは衰えるどころかなおも燃えさかっている。
そして市も、それに負けていなかった。
「これが最後だ……。
もうオレにはあと一撃しか力は残っていない……。
どうする……、ヒドラ市。
この一撃を受けてみるか……、それとも、逃げ回ってオレが力尽きるのを待つか……?」
「アテナの聖闘士を卑怯者にしたいざんすか?
そう言われて引くヒドラ市じゃないざんす。
あたしの最高必殺技で勝負してやるざんすよ」
「フッ……、有り難い……」
フェロンは一瞬静かに目を閉じ、
クワアッッ!!
一息のうちに目を開き、全小宇宙をハイドラに乗せて放つ。
同時に市も小宇宙を収束した両手を真っ正面から突き出した。
「ハイドロ・サーヴィジリィィィッッ!!!」
「大蛇清水破アァァッッ!!!!」
土砂と瘴気を撒き散らして暴れ回る九本首のハイドラと、澄んだ清水のような姿の八岐大蛇が激突した。
「ぐううううううっっっっっ!!オ・・・・オロチ・・・・だと……!?」
「そ、そうざんす……。この市の生まれた日本には八つ首八つ尾の蛇神ヤマタノオロチの伝説があるざんす……。
ギリシア神話のヒドラ同様……、水への敬いと畏れから生まれた伝説が……!」
九対八の対決だが威力に優劣はなく、丁度二人の真ん中で十七匹の大蛇が拮抗し合っていて、二人とも全く力が抜けない。
踏みとどまろうとする二人の両足の後ろの大地に亀裂が入る。
「またか……!
海ヘビに続いてまた……!
貴様を一度はアテナの聖闘士として見直したものを……!
ヒドラを冠する者としての誇りは偽りだったか!!」
「嘘いつわりなぞ、欠片も言っていないざんす……!」
「世迷い言を!」
怒りを小宇宙に乗せて押し切ろうとするフェロンだが、しかし市は動じない。
「フェニックスの一輝は鳳凰、ドラゴンの紫龍は東洋の龍神。
すでに本来の聖衣の神話とはかけ離れた力で戦っている聖闘士も多いんざんす。
だが、それを恥じる必要がどこにあるんざんすか……」
「何だと……」
「司るものの本質は大して変わっていないざんす。
そもそも聖闘士の使命は守護星座を守ることではなく、地上とアテナを守ること!
そのための手段として使えれば、世界中どこの神話であってもあたしは構わないざんす!」
驚愕したフェロンの足がぐらりとゆらぐ。
押されていた。
小宇宙ではなく、市の魂に。
「アテナの聖闘士として、使えるものならあらゆる水蛇の力を使って戦う!
神話の時代から数千年……、それが現代の聖闘士、ヒドラ市の答ざんす!!」
ビシ……ピキ……
「!?」
高らかな叫びと共にさらに強さを増した水流に押され、ハイドラの九頭のうちの四つに亀裂が入った。
ただし、せめぎ合っている正面からではなく、首筋から。
いずれの亀裂の起点にも、六つ並んだ牙の痕がある。
まさか……既にさきほどの交錯のときに……!?
亀裂が拡大した四頭が次々と砕け散っていく。
八対五。
形勢は決した。
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっっっっっ!!!」
五頭のハイドラとともに、フェロンは星衣を砕かれつつ激流に飲み込まれた。
「フェロン様!!?」
「人の心配している場合じゃないぜ!」
ゼムクントを二発目のベアーズスラッシュダウンで倒した檄は、フェロンに注意を向けたバロッドに渾身のタックルを叩き込んだ。
「グハァッ!!」
元々身体が慣れていなかったバロッドは、この一撃で力尽きた。
これで、残るは二人。
「オレも負けてられねえからな!」
ゼムクントに続いてバロッドまでも倒されたのがわかったが、フェロンにはもはや力が残されてはいなかった。
負けるはずはなかった。
高地に慣れていなかったといっても、市が新生聖衣を纏っていようとも、毒に耐性を持たれていようとも、
しかし現実は、今自分が感じつつある通りだった。
「フェロン……あんたは強かったざんす。
星衣も、技も、小宇宙も、全て……
でもたった一つだけ、あんたはあたしに勝てないものがあったんざんす」
「それ……は……」
黄泉平良坂へ落ちていくような失墜感の中、フェロンはかろうじて声を絞り出す。
しかし、薄れゆく聴覚に届いたのは、その失墜感ごと何もかも吹き飛ばすような市の言葉だった。
「男の戦い、最後は全て……顔で決まるんざんすよ」
「…………」
笑いたかったのか、泣きたかったのか、怒りたかったのか。
「ヒドラ…………市ィィィィィィィッッッッッッッ!!!!!」
最期の叫びを放ったフェロンの身体が、水中で黒い光に包まれたかと思うと、
バシュッ!
「なっっ!?」
館の方から飛んできた閃光を受けて残された星衣ごと消滅した。
「フェロン様……!!」
驚いたのはフェロンの部下たちだけではない。
市と檄の二人にとっても予想外のことだった。
「まさか……、これが死霊の力……か?」
* * * * *
「……!」
大地に大きくあぐらをかいて瞑想していた牡牛座タウラスのグランドがカッと目を見開いた。
傍に付き従っていたカシオペヤ座のアンティオネも、その事態の意味を察して顔色を変えた。
「グランド様、フェロン様が……」
「まさか、あやつが敗れるとはな」
部下に手柄を立てさせるつもりであったのだが、結果として招いてしまった最悪の事態にグランドは掌の星衣が砕けんばかりに拳を握りしめる。
「このままでは終わらせぬ。
フェロンの弔い合戦となるこの戦い、我ら星闘士の誇りを見せてくれよう」
聖闘士と自分に対する怒りを押し殺しつつ、グランドは立ち上がった。
「行くぞ。
今日をジャミール最期の日としてくれん!」
* * * *
フェロンの消滅を見せつけられて意気消沈した星闘士の残り二人は、もはや檄の敵ではなかった。
檄としても、市がああ言ってしまっては絶対に負けることは出来ない。
もし……、もしもだ。
銀河戦争の組み合わせが違っていて、一回戦でこの市と戦っていたら……。
そして、もし敗北していたら、あの言葉を言われていたかもしれないのだ。
……恐ろしい。
「カナディアン・タックル!」
どこか恐怖に突き動かされたような気もする檄の一撃で吹っ飛んだ二人は、そのまま空中で、
バシュッ!バシュッ!!
フェロンと同様、閃光に囚われて消滅した。
「一体……、こいつはなんなんだ?」
勝ったというのに、どうも気分が良くない。
高地というアドバンテージを活用しての勝利ではあったが、それでも悪霊とかいうものの力を借りるのはまた訳が違う。
貴鬼の説明から考えられることは、フェロンもこいつらも、聖衣の墓場の一員にされたということなのだろうか。
「悪霊、ざんすか」
市も浮かない顔で近づいてきた。
「このジャミール圏内で死んでしまったら悪霊の一部にされてしまうんざんすかね」
「どうやら……そのようだな……」
苦しげな声が聞こえてきたのでそちらに注意を向けると、カナディアン・タックルを食らって岩盤にめり込んでいたバロッドが息も絶え絶えという状態で歩いてきていた。
「やめるざんす。下手に動けばあんたも同じことになるみたいざんすよ」
「元より、虜囚の恥を甘んじて受けるつもりなどないさ……。
オレはもう持たん……。だが、その前に貴様に尋ねておかねば……ならん……」
二三度血を吐きつつ、市に詰め寄ってその肩を掴んでその眼を睨み付ける。
市は、避けようとも、はね除けようともしなかった。
「ヒドラよ、最後にフェロン様に告げた言葉は、貴様の真意か……?」
「…………」
市は細い眼をそらすことなく、まっすぐにバロッドの視線を受け止める。
「……」
「…………」
「そうか……。ならば……よい……」
がくりとバロッドの全身から力が抜けると、次の瞬間バロッドは立ったまま閃光と化して消滅した。
そして、地面に倒れていたゼムクントもかろうじて顔を起こし、
「これで勝ったと思うなよ……。聖闘士ども……。
次に貴様らの相手をするのは、青輝星闘士の一人……牡牛座のグランド様だ……!」
最後の力を振り絞って告げると共にバロッドの後を追った。
「青輝……」
「星闘士……」
言われてようやく気がついた。
黄金聖闘士にも匹敵する猛々しい小宇宙が、こちらへ近づいてきている。
「やばい……ざんすね……」
「ああ……」
彼らより慣れているとはいえ、酸素が足りないことに変わりはない。
疲れ切ったこの身体で、星闘士最強の一人と戦わなければならないのだ。