聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第一話、結末の終焉」







 グラード財団の霊安室は、財団の名に恥じぬ物である。
 それが有益な使い方であるかどうかはともかくとして、遺体の組織を一切損傷させぬ状態での冷凍保存くらいは十分に可能であった。
 財団が世界に誇る麻森工学博士が、鋼鉄聖衣製作の過程で生み出した技術の一つである。
 あまり使われることは多くない部屋だ。
 前に使われたのは、城戸光政翁が亡くなった時なので、六年ぶりに使われていることになる。

 そう。

 今ここには一人の少年の遺体が安置されている。
 ペガサスの青銅聖闘士、星矢である。
 十四歳にすら届かぬ生涯であった。

 彼の生涯、とりわけこの一年の間を詳細に記述しようとすれば、長大な伝説が出来上がるだろう。
 七歳の時より修行していたギリシア聖域において、女神アテナを守る聖闘士の一人となった彼は、帰国後、グラード財団の城戸沙織嬢を助け、四人の仲間と共に幾多の邪悪と戦ってきた。
 次第に女神アテナとして目覚めていく沙織と共にうち倒した敵の多くは、まさしく神話の存在と言うべき強大な者たちであった。

 不和の女神エリスと神話の時代の亡霊聖闘士、
 聖域を支配せし教皇と黄道十二宮を冠した黄金聖闘士、
 歴史より抹消されし太陽神アベルと選ばれしコロナの聖闘士、
 北の神オーディーンの地上代行者であるヒルダと伝説の神闘士、
 それを背後より操っていた海皇ポセイドンと七つの海を守護する海闘士七将軍、
 聖書に謳われし堕天使ルシファーと聖魔天使、
 そして最大の敵、死の国の王冥王ハーデスと、百八人の冥闘士。

 星矢は、文字通り神そのものであった彼らとの戦いで全ての決め手となったのである。
 だがその代償が安かろうはずがない。
 最後の決戦の地となったエリシオン、世に言う極楽浄土でのハーデスとの戦いにおいて、沙織をかばって冥王の刃の前に立った彼は、神をも傷つけた壮絶な一撃と引き替えに心臓にその刃を受けることになったのである。

 今霊安室に眠る彼の肉体に刻まれた無数の傷跡に比べれば、さほど大きい傷ではない。
 薄く、縫合してしまえば分からないほどの傷は、だが深く、そしてそれ以上に、さすがは死の国の王の一撃であったと言うことなのかも知れない。
 その彼の肉体の傍をほとんど片時も離れようとしない二人の女性がいる。

 孤児院時代からの幼なじみ美穂と、生き別れになっていた彼の姉星華である。

「星矢ちゃん……」

 アクリルケースの向こうの顔に、美穂は何度こうやって呼びかけたことだろう。
 聖域における正式な死に装束であるギリシア風の長衣を着せられた彼は、さながら殉教者のようにも見えた。

 殉教。

 まさにその通りかも知れない。
 星矢は、あの沙織お嬢さんを女神と信じて、それに付き従って……逝ってしまった。
 神様だというのなら、どうして人一人を生き返らせることもできないのだろう。
 それが、許せなかった。

 かつてギリシアへ向かう寸前の星矢に諭されたときにも、決して納得できていたわけではない。
 ただ、理性的な意志だけではない。
 小さい頃から星矢を見てきた美穂にとっては、かつては星矢たちを奴隷のように扱った上に自分から引き離していった女を許せないと言うことも、間違いなく心の中にある思いなのだ。

 星矢の顔にだぶってアクリルケースに微かに映っている自分の顔がひどく醜く見えたので、美穂は自己嫌悪を振り払うようにして星矢に呼びかける。

「星矢ちゃん……お姉さんが……お姉さんがここにいるのよ。
 星矢ちゃんがずっとずっと探し続けていたお姉さんが……」

 星華。
 星矢より二つ年上の姉である。

 星矢と共に孤児院で暮らしていたのだが、やがて星矢が城戸邸に引き取られ、ギリシアへ送られた頃に行方不明となっていた。
 その後、聖闘士となって帰ってきた星矢との約束で、グラード財団が世界中を探しても見つからないままだった。
 見つかったのはついこの前。
 星矢を探して一人聖域の近くまで来たものの、記憶喪失となり、聖域すぐ近くの村で暮らしていたのを、星矢の師魔鈴が見つけてきたのだ。
 七年も失っていた記憶が戻ったのはまさしく奇跡だろう。
 そして、生き残れたことも。

 エリシオンにおいて星矢に傷をつけられた死の神タナトスが、腹いせに彼女を狙ったのである。
 魔鈴たち、聖域を守っていた聖闘士たちは、総力を結集して星華を守った。
 エリシオンから呼びかけた星矢の声が、彼女の記憶を取り戻させ、
 記憶の蘇った彼女の叫びが星矢を立ち上がらせ、伝説の神聖衣を蘇らせた。
 それほどの姉弟なのである。

 だが結局、星矢に生きて会うことはかなわなかった。
 星の子学園時代から信心深かった彼女は今、ずっと祈り続けていた。
 何に祈っているのだろう。
 何を祈っているのだろう。
 美穂には、それを聞く勇気はなかった。
 ただ、自分と同じだろうとは思っている。
 時折星華の口から漏れる言葉はいつも、

「星矢……」

 なのだから。



 打ちひしがれている女性は、城戸邸の中にもう一人いる。
 ただし、その人物は霊安室に一度行ったきり近づいていない。
 ほとんど自室から出ることもなく、食事すら満足にとっていない。
 彼女の部屋の前に、常時一角獣座ユニコーンの青銅聖闘士邪武が警護についているからには、その人物とは自ずから明かであろう。
 グラード財団総帥にして女神アテナの化身である、城戸沙織その人である。

 彼女と星矢の関係を一口に説明することは難しい。
 幼少期においては、城戸邸に引き取られた百人の孤児の中で唯一、沙織に対して露骨に反抗したのが星矢だった。
 姉の星華と無理矢理に引き裂かれて連れてこられた星矢は、その怒りの全てを沙織に向けて牙をむいた。
 当時わがままだった沙織はその態度に何度となく怒り、星矢に鞭打っていたのだが、それはグラード財団総帥の孫娘として多くの者にかしずかれながらも、一人の友人もいない日々を過ごしていた彼女の、寂しさの吐露でもあった。

 不思議なことに、お互いが最も自分の感情をぶつけ合っていた間柄だったのである。
 星矢がギリシアへ送られ、本当にひとりぼっちになってしまってからやっと沙織は、星矢と自分が似ていたことに気づいた。

 六年が待ち遠しかった。

 星矢が帰ってくることには、沙織は何の疑いも抱いていなかった。
 光政が倒れ、八歳にしてグラード財団の後継者となってからの怒濤のような日々を、沙織はそれだけを支えに生きてきた。
 使命などよりも、ずっと。
 聖域で魔鈴にしごかれながらも、沙織の眼前に聖衣を投げつけてやり、姉さんに会わせろと言うことを目標にしていた星矢もまた、感情の方向こそ違え再会の時を待っていたと言える。

 六年後、銀河戦争直前に星矢は帰国。
 だが城戸邸に到着したのは、沙織にとっては最悪のタイミングだった。
 丁度銀河戦争の宣伝のために記者会見を行っていた最中だったのである。
 その日に帰ってくることは事前に知っていたのだが、アテネからの飛行機が遅れていたため沙織はやむなく星矢を迎えに行くことを諦めて、グラード財団総帥として看板の仕事をしなければならなかった。

 出迎えたらまず、真っ先に謝ろうと思っていたのに。
 二人きりになって、心から謝ろうと。
 土下座させられてもいい。
 星矢の気が済むならば、喜んで殴られもしようと思っていたのに。
 公式の場であるが故に沙織に出来たことは、悠然とした態度でねぎらいの言葉をかけることだけだった。
 当然のように星矢は七年前と同じように、いや聖闘士としての気迫に満ちた態度で七年前以上の敵意をあらわにして沙織に刃向かった。

 それで、運命は決してしまった。
 もう自分は、星矢に許してはもらえない。
 泣き崩れたくなるのを押さえるために、必死で昔と同じお嬢様の冷淡さを装った。
 誰一人友のいない生活の中で、これだけは得意だったから。
 だが、既に星華が行方不明になっていることを知った星矢が飛び出していこうとしたときは、さすがにそのままではいられなかった。

 星矢が、どこかへ行ってしまう。
 今度はもう、二度と自分の所になんか帰ってきてくれはしない。
 それは、永遠の孤独を思わせる恐れだった。
 思わず呼び止めてから、必死で星矢をつなぎ止める策を考えた。
 自分を守るために傍にいて欲しい、などとは言えない。
 結局は星華の名を出して取り引きせざるを得なかった。
 惨めだった。

 だけどそれでも、星矢に近くにいてもらうことだけは成功した。
 決して傍ではないけれども。
 でもきっと、星矢は銀河戦争を勝ち抜いてくる。
 そして、勝者には栄光が与えられて然るべきなのだ。
 星矢が十人の聖闘士の頂点に立ったとき、もしかしたらもう一度、星矢と対等に話せるときが来るかも知れない。
 自分の髪をかすめて壁をぶち抜いた星矢の拳の跡を見て驚く報道陣らを背に、あの拳に殴られて素直に謝ることが出来たらどんなに楽だろうかと思っていた。

 だが、暗黒聖闘士との戦いの後、嵐のように突入した聖域、教皇の放つ刺客たちとの戦い。
 女神アテナとしての自覚と小宇宙が目覚めるにつれて、いつしか星矢たちとのわだかまりも消えていった。
 信頼しあう仲間として、そして星矢たちにとっては、守るべきアテナとして。
 言い換えればそれは、呼びかけられる声が城戸沙織に向けられたものではないことも意味していた。
 女神アテナとしてであれば、星矢は確かに自分を守ってくれる。
 だからこそ、毅然とした地上の守護神アテナとしての姿を演じ続けなければならなかった。
 十三歳の少女の思いとは裏腹に。

 紙一重のところで星矢に命を救われた十二宮の戦い以後、沙織が常に自分を犠牲にする行動をとり続けたのもそれ故であった。
 自分の想いを、アテナとしての行動にすり替えることで戦ってこれた。
 戦い続けてきた。
 アベル、ヒルダ、ポセイドン、ルシファー。
 そのとき、沙織は気づいていなかった。
 わかってはいたが、理解していたかと尋ねられれば自信はない。
 それは、星矢を常に死地に引きずり込んできたと言うことを。

 ハーデスとの戦いを前にして、やっとそれに気づいたのだ。
 だから星矢たち五人に、聖域に近づくことを禁じたのだ。
 星矢から離れて戦うことの決断。
 悲しいかな、一年足らずの間に少女は大人になっていた。
 だが根底にあった思いは何一つ変わらない。
 星矢に、死んで欲しくなかったのだ。
 幸いと言うべきか、ペガサスの聖衣はそれまでの戦いで死に絶えていた。
 もう戦わなくていい。
 自分一人がアテナとして戦っていればいい。
 そう思い、シャカの薦めに従って冥界へと向かった。

 だが、星矢は自分を追ってきてくれた。
 追ってきてしまった。
 それも、自分の血によって蘇ってしまった聖衣を纏って。
 阿頼耶識に目覚めて生きたまま冥界に至り、ついには人間には通ることが不可能なはずの嘆きの壁を越えてまで!

 そして、とうとう、彼を死なせてしまった。
 最大の敵ハーデスを前にして、最大の隙を星矢が作ってくれたというのに、泣きじゃくることしかできなかった。
 彼が生きていてくれるから、彼が共にいてくれるから、
 だから、
 だから、戦ってきたというのに。
 絶望に、そのまま死んでしまいそうになった沙織に今一度戦う力を与えたのは、皮肉にもハーデスの一言だった。

「そのペガサス、結局は犬死にだな。
 せっかく助かったものをむざむざと飛び込んでくるとは、馬鹿な奴よ」

 負けられない。

 星矢が私を助けてくれたというのに、ここで死ぬわけには行かない。
 地上の為にではなく、自分の溢れ出る想いを支えにして沙織は立ち上がった。
 星矢と共に戦ってきた仲間たちと、渾身の一撃がハーデスをうち倒す。
 勝った。
 確かに、勝ったのだろう。

 滅び去る冥界から、最後の力を振り絞って脱出した。
 息絶えた星矢の遺体を抱きつつ。

 帰ってきたのは彼を待つ星華のいる聖域ではなく、懐かしの地日本だった。
 いくつもの思い出が詰まった城戸邸の森。

 城戸邸の留守を預かっていた沙織の側近辰巳徳丸は、グラード財団最強のエージェントである鋼鉄聖闘士たちの能力によって沙織たちの帰還を知った。
 連絡も無い急な帰還に驚いたものの、伊達に光政翁から沙織を託されたわけではない。
 すぐに気を取り直すと通信担当の旗魚座マリンクロスの潮に対し、財団医院で看護婦見習いをしていた瞬の想い人ジュネと、星矢の古巣である星の子学園の美穂と絵梨衣にこのことを伝えるよう命じて、
 小狐座ランドクロスの大地、巨嘴鳥座スカイクロスの翔と共に現場に急行した。

 おそらく帰還した全員が動ける状態ではないだろうとの判断で、そして実際に生き残った五人はその通りの状況だったので、この処置は的確だったと言うべきだろう。
 ただし、たった一つ例外があった。
 星矢が死んでいると言うことを、沙織たち帰還の知らせを受け取った瞬間の辰巳に察するのは不可能であった。
 鋼鉄聖闘士たちの能力は小宇宙によるものではない。
 それゆえ、五つの生命反応が出現したという形で事実は報告された。
 聖域に詰めていた邪武から星矢たちが冥界に突入したという報告は受けていたので、この尋常ではない出現の仕方から星矢や沙織たちであると察することが出来た。
 この推理は賞賛されて然るべきであろう。

 しかし、六人ではなく五人。
 辰巳は一瞬だけ悩んだが、どうせ一輝は群れるのを嫌って別行動を取っているだろうと自分で納得し、前述したような指示を出した。
 そして、美穂と星矢の遺体を対面させることになってしまったのである。

 まず、現実を受け入れるのに数分を要し、
 我に返った美穂がまず最初にとった行動は、沙織に抱かれたままだった星矢の遺体を力ずくで奪い返すというものだった。
 茫然とする沙織と、驚愕する一同を前にして、美穂は泣きながら沙織に言葉を叩きつけた。

「人殺し!」

 無論、星矢の傷が心臓の刺し傷であることは一目瞭然である。
 沙織が手を下したわけでないことくらいは美穂にも当然解っている。
 しかし、そういう意味ではない。
 その一言で動けなくなった沙織に、更に美穂は畳みかけた。

「星矢ちゃんを奴隷みたいに扱っただけじゃなくて、何度も死にそうな戦いに連れていって……、
 あなたが星矢ちゃんを殺したのよ!」

 何とかなだめようとする氷河や絵梨衣たちの忠告も聞かず、
 生まれて初めて星矢の身体を抱きしめながら、さらにこう言った。

「もう、あなたには絶対、星矢ちゃんを渡さないから!」

 沙織はそれらの言葉を否定することが出来なかった。
 美穂と星矢のつきあいは、沙織と星矢のつき合いより更に数年長い。
 そして、小さい頃から一直線で不思議と人望があった星矢を、美穂は幼心にずっと思ってきたのである。
 彼女にとって見れば、沙織は強盗と大差がないのだろう。
 星矢が沙織と仲直りしたので、表面上は沙織とも仲良くしていたし、星の子学園を援助してくれることには心から感謝していた。
 しかし、何故か近づきつつある星矢と沙織の仲に関しては、到底納得など出来るものではなかったのである。
 沙織が叩きつけられた言葉には、一時の狂乱だけではあり得ない、それらの重なった想いが込められていた。

 星矢を失ったこと。
 それが自分のせいだと思ったこと。
 聖域から星華が駆けつけても、沙織はもう星矢に近づくことが出来なくなっていた。
 自責の念という名の鎖が、彼女をどこにも動けなくさせていた。
 かくして邪武はほとんど常時、沙織の部屋の前に詰めることになったのである。

「どうだ邪武。お嬢様のご様子は」

 二人分の夕食を盆に載せて持ってきた辰巳は、よい答えを願いつつもしかし期待はしていなかった。

「……相変わらずだ。あれ以上悪くはなっていない」

 何とか言い方を前向きにしようと努力してみたが、かえって不吉に聞こえる言葉になってしまったので、邪武は軽く舌打ちした。
 あれ以上悪くなる……それはすなわち、
 そこで、邪武は考えを無理矢理停止させた。

「そうか……では頼む」

 盆を手渡して執事室に戻る辰巳の背中は、前よりもずっと小さく見えた。
 ともかく、手渡された盆を邪武は確認する。
 盆には、はっきりと違うメニューが二つ並べられていたので、どちらがどちらの分と悩むまでもない。
 一つは、常時詰めている邪武のために、体力維持を念頭に置いたメニュー。
 鋼鉄聖闘士たち育成の段階で研究された健康科学は、こんな所にも生きていた。
 もう一つは、とにかくどうにか口に入れやすいものを揃えている。
 如何に女神アテナであろうとも、この地上にあるときは人間の身体だ。
 食べなければ死んでしまう。
 しかし今の沙織はいっそ、それを望んでいるようにも思えた。

 やりきれない想いを抱きつつ、邪武は自分の分を机の上に置き、沙織の分だけを盆に載せて、そっと扉を叩いた。
 これも必要最低限の音にとどめている。
 これで何らかの反応があるかどうか室内を伺うが……残念ながら反応はない。
 繊細になっている沙織を刺激しないために、邪武は一切の気配と音を消して室内に入り込んだ。
 自分がいることで沙織の気を煩わせてはならない。
 子供の頃より沙織に付き従ってきた邪武だからこそ出来る芸当であり、彼が給仕係も兼任している理由の一つでもあった。

 中の沙織は椅子に座っている、……というよりは倒れていると言った方が適切だろう。
 テーブルの上に両手を投げ出すように置いて、うつむいている。
 邪武は沙織に声をかけることはしない。
 ひたすらに静かに動く。
 おそらく、今の沙織になら存在すら察知されることはないだろう。
 沙織の気分を害さずにいる方法を身につけたのは……一体いくつの時だったろうか。

 テーブルの上に置かれた昼食の盆を取り上げ代わりに夕食の盆を置く、という作業の中で、物音はおろか、微風すら起こさない。
 ある意味で聖闘士の限界も超えたような超人的技能である。
 昼食の盆はやはりほとんど手がつけられていない。
 それでも今回はましな方だろう。
 野菜ジュースが三分の一くらい減っている。
 だがそれすらも、涙が涸れないために水分を補給しているだけのようにも思えてしまう。
 日が落ちても明かりすらつけられていない薄暗い部屋の中で、白くか細い沙織の肩が不思議に鮮やかに邪武の瞳には映ったが、その肩は確かに震えていた。

 どうしてもやりきれない想いを無理矢理飲み込んで邪武は、沙織が自分を見ていないことをわかりつつも恭しく一礼してその場を辞そうとする。
 明かりも、あえてつけることはあるまい。
 沙織にすっと背を向けようとした瞬間、静寂が叩き壊された。

ガシャアアアアアァァンッッ!!

 テラスへと続いている大きなガラス窓が外側から破られたのだ。
 騒音と共に悪意に満ちた小宇宙が沙織に迫る。

「死ねっ!アテナ!!」

 侵入者の叫びにも、沙織は何の反応も示さずにその白い首を差し出さんばかりだった。
 だが黒い手刀が振り下ろされる寸前に、侵入者の右腕は身体ごと蹴り飛ばされていた。

「ぐおおおっ!?」

 その直後、邪武が放り出した昼食の盆が床に落下して騒音を立てる。
 侵入者の第一撃を見事食い止めた邪武だが、その騒音に顔をしかめた。

「き、貴様っ、一体どこにいた!?」

 中に気配なしと見て一気に踏み込んできたらしい。
 それにしても、陸上だけでなく衛星からも厳重な警備がされているこの城戸邸に、沙織の部屋まで入り込んでくるとはただの侵入者ではない。

「この邪武、常にお嬢様の傍にいるとも」

 暗がりで姿のはっきりしない敵に向けて、しかし胸を張って名乗り上げて、刺客と沙織の間に割って入る。
 まずはこの侵入者が何者なのか見極めなくては。
 少なくともグラード財団と経済戦争真っ盛りの欧米の軍産複合体風情が雇える刺客ではない。
 敵からは確かに小宇宙を感じる。

 直後、城戸邸全域にけたたましい警報が鳴り響いた。
 鳴るのが遅すぎる上に、発信元がここではない。
 ここの警報を切った上で、更に陽動部隊が侵入して来ているのだろう。
 考えていると非常灯がついて敵の姿が明らかになった。

「……何ィッ……!?」

 侵入者が身につけていたのは黒い鎧だった。
 しかし、それだけなら邪武はこれほどまでに驚かなかっただろう。
 その鎧の形状が、彼があまりにもよく知っている物だったので、さしもの邪武も沙織の目の前で驚愕の叫びを上げるという失態を犯さずにいられなかった。

「ユニコーンの……暗黒聖衣」
「ほう、暗黒聖衣のことを知っているか」

 そう、色と細部こそ違え、その形状は本来邪武が纏うべきユニコーンの聖衣と同じ物だった。
 正当聖衣と同じ姿の、だが、黒い聖衣。
 銀河戦争において一輝に叩きのめされながらも、薄れ行く意識の中ではっきりと見たあの暗黒フェニックスの聖衣と同じ、禍々しい金属光沢を放っていた。

 暗黒聖衣。
 一輝の修行地でもあるデスクイーン島に眠っていた、正当な物ではない聖衣である。
 その起源ははっきりしていないが、88の星座に属さない聖衣などもあり、謎めいた存在である。
 正当聖衣が本来持つ善性を備えていない物がほとんどだったために、聖域からは放棄された存在であったが、やがて聖闘士の称号を得られなかった者や称号を剥奪された者らがかの地に集い、これらの聖衣を纏った。
 彼らを称して暗黒聖闘士という。
 だがその首領ジャンゴはフェニックス一輝によって倒され、暗黒聖闘士最強と言われた暗黒四天王も、富士における星矢たちとの戦いで全滅。
 一輝がアテナの聖闘士になったこともあり、暗黒聖闘士一党は散々になったはずであった。

「雑魚どもが、今更お嬢様の命だけでも取りに来たか」

 たかが残党を相手に、いかに聖衣が無いとは言え負ける気はしない。

「雑魚だと?笑止な。
 ジャンゴ如きに従っていた暗黒四天王などと俺たちを、一緒にするなよ!」

 沙織の前に、まず邪武を片づけることに決めたらしい。
 刺客の小宇宙がオーラとなって燃え立つ。
 それは、ユニコーンではなかった。
 禍々しく捻れた二本の角を持つ馬。
 淫欲などの象徴とされるバイコーンだった。
 なるほどよく見れば敵の聖衣には角が二つある。
 星矢たちと同じ形状の聖衣だったという暗黒四天王などとは確かに別のようだ。

 だが、ならばこそ負けるわけには行かない。
 邪武の守護星座は、純潔の乙女に忠誠を誓うユニコーン。
 幼き日より沙織に絶対の忠誠を使った邪武に、まことふさわしい守護星座であろう。
 その誇りに賭けて、必ずや沙織は守り抜いて見せよう!
 邪武の小宇宙もオーラとなって浮かび上がる。

「ほう、邪武とやら。貴様はユニコーンの聖闘士か!
 アテナを巡ってユニコーンと戦えるとは、これは面白い!」

 バイコーンはそれに臆することなく、かえって闘志をかき立てられたらしい。
 邪武としても望むところだった。
 先手を取ったのはバイコーン。

「くらえぇっ!ダブルホーンドスパイク!」

 突進と共に両腕から放たれる拳圧が、鋭い円錐となって繰り出される。
 背後には沙織がいる。
 避けるわけには行かない!

「ニーフロント!」

 命中寸前にドリルのような拳圧を下から両肘で跳ね上げる。
 右肘はうまく行ったが、利き腕でない左腕ではおそらくバイコーンの利き腕である右腕の一撃を弾ききれなかった。

「うおおおおっっ!」

 即座に反応して、跳ね上げたバイコーンの左腕を押し返し、突進の勢いを削りにかかる。

「こしゃくなあっ!」

 それでも執念でバイコーンは右腕を繰り出しきって、邪武の左胸を突き刺した。
 強化服を着ていると言っても、聖衣の防御力とは比べるべくもない。
 鮮血が吹き上がり、自分の頬についた返り血をバイコーンは楽しげに舐め取った。

「フン……、他愛のない。
 身の程をわきまえず人を雑魚呼ばわりするからこのような目に遭うのだ」
「言ってくれるじゃねえか」

グッ!

 そのまま倒れるかと思った邪武はしかし、自分の胸に突き刺さったバイコーンの腕をしっかりと掴んだ。

「き、貴様!?」
「こんなものじゃなかったぜ。
 星矢がぶちのめしたタナトスの攻撃はよぉ……!」

 星矢がぶちのめした、と言うところが重要だ。
 それにも及ばないような敵を相手に、このオレが負けてなるものか!

「人の恋路を邪魔する奴はぁ……」

 バイコーンの腕を胸から引き抜きつつ、しかししっかりと掴んだまま離さずにいて、ふわりと床を蹴った。

「オレに蹴られて死んでしまえぇっっ!ユニコーンギャロップ!!」

グアッシャアアアンッッ!!

「ぐおおおおっっ!」

 バイコーンの顔面にマッハ5の蹴りを叩き込む寸前に、邪武は更にバイコーンの腕を引き寄せて威力を倍増させていた。
 これに堪えきれず、バイコーンのマスクの部分が大きく砕けた。
 さらに、普段なら蹴りつけた反動で大きく離れるところを、バイコーンの腕を掴んでいるので二撃目を叩き込む!

グシャアッッ!

 さすがに胸部の防御力は高く、素足ではぶち抜くまでには至らなかったが、それでも衝撃は十分。
 離れようとするところ、さらに引き寄せてもう一回……

「青銅聖闘士如きが……、調子に乗るなあっ!」
「知らなかったのか?」

 反撃に来たバイコーンの右腕をかわすためにやむなくその左腕を離したが、しっかりと着地して沙織とバイコーンの間に立つ。

「青銅聖闘士にはな、八十八の聖闘士の中でも最強の面子が揃ってんだよ」
「くっ……」

 話には聞いている。
 海界のメインブレドウィナを破壊したのも、エリシオンにまで乗り込み冥王ハーデスをうち倒したのも、たった五人の青銅聖闘士だと。
 そんなはずはない。
 こいつはそいつらとは違って、本当にただの青銅聖闘士のはずだ!

 既に陽動部隊は引き上げを開始しているかも知れない時間だ。
 これ以上時間はかけていられない。
 こうなったら、直接城戸沙織を狙うまで!

 そう判断するとバイコーンは大きく斜め後ろに跳躍した。
 邪武は一瞬、相手が逃げようとしているのかと思い、一歩前に踏み込んでしまった。
 だが、違う、と直後に気づいた。
 バイコーンの小宇宙が一気に膨れ上がる。
 目標は……この部屋全てだ!

「お嬢様、失礼を!」
「フォレスト・タイラントォォォッッ!!」

 邪武は考えるより先に沙織の身体を抱きかかえてかばった。
 直後にバイコーンの邪悪な小宇宙が部屋中を荒らし回る。
 それは破壊と言うよりも破砕の嵐だった。

砕く!飛ばす!

 幾千発もの衝撃が邪武の背を撃ったが、彼はひるまない。
 この程度で……この程度で沙織お嬢様を手放してたまるものか!!

「……どうだぁっ!」

 荒い息のバイコーンの叫びと共に、嵐が吹き止んだ。
 室内には原形をとどめている物は何一つ無い。
 部屋の形を残しているだけだ。
 そのガレキの中に、傷だらけの邪武が倒れ込んでいた。

「フ……、人間の形を保っていられただけでも誉めてやろう……」

 アテナの姿が見あたらないことを確認してバイコーンは任務完了と見なし、引き上げることにした。

「ユニコーンの邪武とか言ったな。
 その名前だけは覚えておいてやろう」

 砕かれたマスクの部分を確かめつつ、背を向けようとしたとき

「このまま、帰すと思うかよ……」

 ドスの利いた邪武の声がバイコーンの目を驚愕に見開かせた。

「邪武……!貴様、聖衣も身につけていないその身体でオレの最大の一撃をくらいながら……まだ!」

 バイコーンの驚愕はそれだけでは済まなかった。
 起きあがった邪武の身体の影に、アテナの姿を確認したからだ。
 血が付いているが、それは邪武の血を浴びただけのようであり、アテナ本人には傷一つついていない!

「お嬢様、申し訳ございません……!」

 それでも沙織の美しい顔を自分如きの血で汚してしまったことが許せずに、邪武は拳を血がにじむほど握りしめた。
 だがこれだけの破壊の中でも、沙織は虚ろな表情でうつむいたまま、何の反応も見せない。

「く……そぉ……っ!」

 邪武の拳に、別の怒りがこもる。

「星矢!貴様という男は、どこまでもとことん嫌な野郎だぜ!」

 バイコーンに向けた怒りではない。
 死んでもこうやって沙織の魂を閉じこめる……自分の手の届かないところに閉じこめている男への、ぶつけようのない怒りだった。

「な……、何を言っている!?貴様は!」
「やかましい!このオレに、お嬢様を押し倒すなんて真似をさせた罪をその身で償え!」

 何が起こっているのか理解を超えてしまったバイコーンに、八つ当たり気味の叫びをぶつける。
 満身創痍のはずのその身体から、今までの比ではない小宇宙が燃え上がった!!

ドゴオンッッ!

「ガアッ!!?」

 振り抜かれた拳が避ける間もなくバイコーンを直撃する。
 聖衣の砕ける音と共に、バイコーンは壁際まで吹き飛ばされた。
 かろうじて壁に激突する前に身体を回転させて着地はしたが、今の一撃で足が思うように動かない。

「これが、アテナの聖闘士のセブンセンシズとやらか……っ!?」
「大間違いだぜ!これはオレの……」

 高く跳躍した空中から、空を裂いて蹴りが振り下ろされる。

「怒りだああっ!!」
「クッ……!」

 バイコーンは迎え撃とうとするが、さっきの一撃が足に来ていて思うように動けない。
 死を覚悟した。

グワシャアッ!!

「何ィッ!?」

 邪武の蹴りはバイコーンではなく、その前に立ちはだかった巨漢の暗黒聖闘士の左肩のパーツを砕いていた。
 ……どことなく、檄の大熊座の聖衣を思わせる形状だった。

「テメエッ!」

 邪武は逆上しかけたが、二人目が来たと言うことはさらなる手勢が存在することも考えて、いったん沙織の傍まで引き下がった。

「何故止めた、クライシュ……」

 悔しさを隠しきれずバイコーンは止めた男……クライシュに文句めいたことを言った。

「この一撃、今のおまえが食らっておれば死んでいたな」

 自分の左肩のパーツの砕かれた痕に感嘆しつつ、クライシュは独り言のように言い返す。
 バイコーンは黙らざるを得なかった。

「リグニスが倒された。これ以上の失態は許されん。
 引くぞ、アクシアス」

 もう一人、テラスの外から大きな小宇宙と共に告げた声がある。
 いや、よく探ると二人だ。
 どうやら陽動部隊も撤退と言うことらしい。
 バイコーンは苦渋に満ちた声で

「……わかった」

 と答えた。

「覚えておけ、ユニコーンの邪武よ!
 俺の名はバイコーンのアクシアス!
 今回は貴様を侮ったオレの負けだ。
 だが次はこうは行かんぞ!必ずこの屈辱は晴らしてくれる!」

 その言葉が言い終わる頃に、邪武の方にも援軍が来た。
 狼星座ウルフ那智と、子獅子星座ライオネット蛮、子狐座ランドクロスの大地、
 そして、アンドロメダ星座の瞬だ。
 全員、さっきまでこの陽動部隊とやり合っていたのだろう。
 唯一聖衣を身につけている大地も含めて、瞬すらも無傷ではない。

 だがともかくこの場は終息ということになりそうだ。
 この人数でやり合えば、どちらにも相当の被害が出ることは避けられないからである。
 特に多人数での激突は、未知の要素が強い。。
 それと、特に小宇宙の違いを見せる瞬が来たことで危険と察したか、暗黒聖闘士たちは速やかに撤退していった。

 鎖がないため追撃できない瞬は、彼らのことは諦めて邪武を助け起こしに行った。
 沙織には那智と蛮が向かい、そのあとから事実上沙織の看護婦も務めているカメレオン座のジュネも来て、汚れた沙織の顔を濡れたタオルで拭っている。

「邪武、大丈夫?」
「ああ、お嬢様は無事だ」

 尋ねられたこととは少々違う答えを返しておいた。
 銀河戦争で大敗してから、瞬に対しては複雑な感情のある邪武である。

「で、そっちはどうなった。一人倒したのか」
「うん……、でも尋問する前に自害してしまったけど」
「ちっ」

 さすがは瞬である。
 だが尋問してやろうと思っていた目算が外れて、邪武は身体の痛みとは別の理由で顔をしかめた。

「奴ら、暗黒四天王とは別だと言っていた」
「うん、暗黒アンドロメダよりもずっと強かったよ」
「……何が、起ころうとしているんだ」




第二話へ続く


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