SS「血肉の契約」
お嬢様は運命を変える能力を持っていらっしゃる。
でもそれは、運命の軌道を修正する能力。
どの軌道を選んでも死んでしまう定命の者の、運命を変えたところで同じだった。
「いつも済まないわね、美鈴」
未だに違和感がある。
この凛とした声で、こんな言葉を言われることが。
こんな風に、病床から声を掛けられることが。
「いえ、いいんです。私にはこんなことしか出来ないですし」
咲夜さんは、もう永くない。
人間が私たちよりも遙かに短い時間しか生きられないことはわかっていた。
わかっていたけど、あんまりにも早すぎる。
お嬢様のために自分の時間を使い続けてきた咲夜さんの寿命は、魔理沙や霊夢よりもさらに早く尽きようとしていた。
完全で瀟洒。
最初にそう呼んだのが誰だったのか。
もしかしたら私だったかもしれない。
私の十分の一も生きていない咲夜さんに、ありとあらゆることで及ばないと悟ったとき、その称号はこれ以上ないくらい適切に思えた。
それは、料理がどうとか掃除がどうとかいう程度の話じゃない。
正直、中華料理だけなら私は咲夜さんと互角に渡り合える。
でも咲夜さんが完全であるのはそういうレベルじゃなかった。
お嬢様の従者として、お嬢様が求めるものの全てを満たし、お嬢様が求めるものの全てとなった。
誰が、その咲夜さんの代わりになどなれるだろう。
告げた永琳自身が愕然としたほどの余命を聞いてからつい先日まで、私やパチュリー様や、お嬢様までが止めるのも聞かずに、一日12時間は働いていて、病床についてなお、掃除や料理の細かな指示を出し続けてきた。
それなのに私に今出来ることは、せめて咲夜さんが生きていられる時間を伸ばすために、咲夜さんご自身のためにするべきことの助けをすることしかなかった。
半狂乱に陥ってから、慣れない看病を必死で続けて、とうとうご自身が倒れてしまわれたお嬢様をお慰めすることさえ、咲夜さんにはできるのに、私には出来ないのだった。
それが、あまりにも情けない。
今咲夜さんの顔が晴れないのは、近づきつつある死の気配におびえているのではなく、お嬢様を置いていくことへの恐怖ゆえに他ならないのに、私ときたら、「大丈夫です、お任せ下さい」の一言さえ言えないのだ。
「はい、終わりました」
「ありがとう。やっぱりこの服じゃないと落ち着かないわ」
私は、泣きそうなのをこらえながら、咲夜さんに服をお着せしていたのだった。
それも病床にある人間のための寝間着を脱がせて、咲夜さんの制服たるメイド服を。
それだけで、二十年は若返ったように見える。
ベッドの上で起こした上半身はなおしゃんと背筋が綺麗に伸びて、今にも……な人には見えない。
見えない……。
見えてなんかいない……。
そんなこと、認めたくない。
咲夜さんは咲夜さんだった。
完全で、瀟洒で、年をとってなお輝くほどに美しい。
メイド長だからとか、弾幕が強いとかそういうことを超えて、私は咲夜さんを尊敬していた。
初対面のとき、美味しそうな人間などと思っていた讃美の念は、間違っていなかったとも言える。
そんな私の心を見抜いたはずもないのだけど、
「ねえ、美鈴。今でも私のこと、食べたいって思う?」
往年のナイフを思わせるような、そんな言葉を告げられた。
「や……いやですね、そんなことは」
「そう、老いた私にはもう食料としての意味も無いのね」
「違います!そんなことありません!今でも私は咲夜さんを……」
咲夜さんを、どうしたいの……??
思わず言いかけて辛うじて飲み込んだ自分の言葉に愕然となった。
それは確かに、人間は総じて若い方が美味しい。
だけど、力があり、美しい人はそんな総論を超越していることがある。
年老いているとはいえ、紅魔館のメイド長として君臨した咲夜さんが、美味しくないはずはない。
いや、絶品とすら言えるはずなのだ。
それなのに、食べたいなどと言われそうになったはずの咲夜さんは、うっすらと微笑んだ。
「ありがとう、誉めてくれて嬉しいわ」
わかっていたのだ、この人は。
妖怪たちが蠢き、吸血鬼の姫が住まうこの館を統括していたのだ。
知らないはずがない。
「ええ、でも、こんな病床にいる人を取って食べたりはしませんからね」
これは本心だった。
そもそも、今の咲夜さんの身体に傷一つでも付けようものなら、お嬢様の逆鱗に触れて塵さえ残らなくなるだろう。
それなのに、
「じゃあ、美鈴。私を食べて」
咲夜さんは、まっすぐに私の瞳を射抜くような目で、そう言った。
「で……」
思わず声が詰まる。
「できるわけ無いじゃないですか!」
咲夜さんの身体には、お嬢様でさえ牙を突き立てたことがない。
咲夜さんは、たった一つ吸血鬼になることだけは拒み続けていたから。
それなのに、どうして。
「貴方なら、食べるだけでしょう?」
「ええ……確かにそうです」
お嬢様に血を吸われたら吸血鬼になるけど、私が食べる分には咲夜さんは人間のままだ。
「でも、嫌です。絶対嫌です。
咲夜さんの命を奪うなんて、絶対に……なのに、どうしてそんな」
「貴方にしか、頼めないから。お嬢様と、妹様のこと」
それが、どれほど重い言葉だったか。
お嬢様と妹様、特にお嬢様のために、全てを投げ打ってきた咲夜さんにとって、その言葉がどれほど重いものか。
私はその余りの重さに目が眩んで倒れそうになり、必死で踏ん張った。
この言葉で倒れたりしたら、それこそ咲夜さんを裏切ることになる。
「私の血肉がある限り、私はお嬢様のためにありたいの。
私は死ぬ。
でも、人として死ぬ代わりに、誰かの血肉としてお嬢様のお役に立ちたいの」
それは、咲夜さんには珍しい虚言に聞こえた。
そうじゃないと思う。
それは、約束をしたいと言っているのだ。
お嬢様のことが心配で、心配で。
自分が消えたあとのことが不安で不安で。
その思いを私に託す代償として、自分の全てを差し出しているようにしか見えなかった。
「それなら、一口だけ下さい。
私は咲夜さんを殺して食べることなんて出来ません。
でも、でも、その……」
お気持ちと、血肉を、受け取らずにいることなんて、出来るわけが無かった。
咲夜さんの血肉が私の血肉となる。
私の血肉は、咲夜さんの血肉となる。
そうして、咲夜さんは、私に自分の想いを託すというのだ。
「ただ……咲夜さんを傷つけたりすると、私はその場でお嬢様に殺されてしまうんですけど……」
「そうね……お嬢様なら……」
咲夜さんはしばし考え込んで、良い案を思い付いたのか、また微笑んで、そっと唇に指を当てた。
「ここならば、自分が噛んでもおかしくないから」
ぞくり、と。
背徳にも似た期待が私の背筋を駆け上がった。
お嬢様さえ犯したことがない、咲夜さんの身体を犯すのだ。
それも、咲夜さんの唇を。
憧れの人の、唇。
焦がれて、届きたくて、見上げた、完全で瀟洒な、咲夜さんの唇。
吸い寄せられるように、私はベッドの上に身体を乗り上げさせた。
折れそうなくらい細くなった咲夜さんの肩を掴み、その唇に口づけした。
咲夜さんの年など関係ない。
全盛期の咲夜さんを思わせるその味は甘美で、途方もなく華やいでいた。
そして……
私は、咲夜さんの唇に歯を立てて、不可侵の身体をわずかに一囓りした。
お嬢様さえ飲んだことのない血の味が、舌の先から甘みと、次いで苦みとを伴って押し寄せてくる。
だがそれ以上に、私の舌先にある咲夜さんの肉の、小さな、小さな、ひとかけら。
いただきます。
私は、咲夜さんに唇を重ねながら、そのとききっと、泣いていた。
溶けるように。
受け継ぐように。
咲夜さんの血肉が、私の身体に染み渡った。
ふぅと、息さえ飲み込むように、一瞬の永劫が終わり、唇が離れる。
「ありがとう、紅美鈴。貴方がいてくれて、よかった」
その笑顔は、何一つ悔いの無いような、優しい笑顔を前にして、私はただ、ただただ、
声を殺して、泣いた。
これは約束。
私の身体は、咲夜さんの身体になった。
私は、咲夜さんの身体を引き継いだ。
ならば、私は、咲夜さんに代わって、お嬢様と妹様のために、この身の全てを捧げよう。
咲夜さんが誓ったことを、この私もまた、誓おう。
了
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