散策日記、その他私がなんとなく思ったことを載せる予定です・・・
とりあえずいくつか・・・
1998.7.20(月) 明石海峡大橋へ
1998.7.21(火) 「絶対音感」
1998.7.27(月) 映画「タイタニック」を観に行く
1995.1.17(火) 阪神・淡路大震災(Under Construction)
1999年の日記(Under Construction)

1998.7.20(月) 明石海峡大橋へ カメラ持っていくのを忘れたので
                 画像を用意出来ませんでした(^^;

今日は海の日。天気は残念ながら薄曇りだが海が見たいと思い、明石海峡大橋まで出かけることにする。家から明石海峡大橋までは約50km、車で阪神高速道路を走ると渋滞に遭わなければ40〜50分ほどの時間で行くことが出来る。今日は年に1度開催される「神戸まつり」の日でもあり、その様子は地元のTV局「サンテレビ」で中継されていた。今日は神戸のメインストリートは混んでいるだろうと予測し、そのあたりは高速道路で通り過ぎることにする。
午後5時に家を出る。若宮ICで阪神高速道路から降り、国道2号線に入る。ここからしばらく走ると道路は1車線となるが海岸沿いでありその光景は素晴らしい。天気の良い日だと波間の光のきらめきがとても美しいところである。
明石海峡大橋が架けられているのは正確には明石市ではなく、神戸市垂水区の舞子という所である。ここには国道2号線沿いの海手側に私のお気に入りレストランのひとつである「ウェザーリポート」がある。遙か10年以上前に村松健というフュージョンのアーティストのライヴコンサートがここで開催され、当時まだ10代で彼のファンであった私は心ときめかせてこの店に来たものであった。村松健奏するピアノのアドリブが素晴らしかったことは今でも記憶に残っている。当時は「ウェザーリポート」は神戸・六甲や芦屋・奥池にもありそちらのほうにも行ったことがあるが現在はこの舞子だけのようである。昨年の12月にもここを訪れカクテルを片手に南向きの窓から見える冬の海の夕暮れを眺めていた。
明石海峡大橋の近くに「アジュール舞子」という施設がオープンしていた。掲示してあるポスターをによると財団法人神戸市公園緑化協会によって大橋開通後に造られたもののようだ。「アジュール舞子」の駐車場に車を置き、海へと向かう。明石海峡大橋が海に向かって右手に間近に見える。釣り堀があり、多くの人が釣りをしていた。「明石やし鯛つれへんやろか。つれたら今日のおかずになるのになぁ」そんな冗談に笑いながらも釣りに夢中になる人たちを見ていた。
釣り堀を通り過ぎると1階がレストラン、2、3階はホテルとなっている建物があった。この建物から東の方に向かって砂浜の人工海岸までもが造られていた。砂は少しオレンジがかったサンドベージュ、流木などのない人工的ではあるが美しい海岸であった。ここでは泳ぐこともできるようだが今のところは泳いでいる人はいないようである。レストランでコーヒーを頼み、海辺の屋外のテラスへとコーヒーを持ち運び海を眺めていた。ウミネコの声が響いている。間近に見える明石海峡大橋と淡路島、海を行き交う船が穏やかなコントラストを成していた。
夏は日が暮れるのも遅い。7時を過ぎてもまだ明るかった。浜辺を歩いているうちにようやく空が藍色に染まる。海はその存在を消したかのように暗くなり、明石海峡大橋に明かりが灯る。初めはブルー、オレンジそしてレインボーへと…そのイルミネーションを名残惜しく見つめながらも帰途につくことにする。
家に帰るとなんだか熱っぽくけだるい。体温計で測ってみると39.2度もあった。明日までに熱が下がることを願い今日はもう寝ることにする。

なんか長くなってしまって・・・こんなのを次々と載せて、このコーナー大丈夫なのかしら(^^;

1998.7.21(火) 「絶対音感」

今日も朝から熱があった。38度から39度程である。こんなにも熱が出るということはここ数年なかったのだが。熱が出るというのはそれによって体内の有害なウイルスを退治するという免疫機能が働いているということだがやはりつらい。今日は諦めて俗世間から離れてTVを観ながらのんびりと過ごすことにする。
午前中からNHK教育の番組「しりごみしている先生のための実践インターネット講座」「松岡修造とLet's Enjoy Tennis」「英語であそぼ」などを観ていた。
「英語であそぼ」で日本語と英語のmistoで明るく会話するのはクリステル・チアリ、プロフィールでは1976年兵庫県西宮市生まれとのこと。私と10歳違いだが同じ出身である。何か心当たりはないかとその先を見ると父親は有名なギタリストであったクロード・チアリ氏とある。その時、私が大学生の頃に自宅の最寄り駅であった阪急電鉄神戸線夙川駅の側にある関西系の某大手スーパーの衣料品売場で母親と一緒に歩いているのを見かけた、その女の子ではないかと思った。クロード・チアリの奥さんはその華のある容姿で界隈では有名な人であり私も何度か見かけたことがある。この時はスーパーの衣料品売場で女の子と男の子の子供2人を連れて歩いていた。女の子が売り場にある服を買ってほしいと母親にねだったが買ってもらえなかったようであった。胸にロゴが入ったデザインで手頃な価格の服であるのに買ってもらえなかったのか、そうであるから買ってもらえなかったのかは謎であった。しかしもうその頃には身長165cmである私と背の高さは同じくらいであり当時21歳である私よりも10歳も年下であったとは思えなかった。

ところで今日の本題である「絶対音感」の話である。夜8:00からのTV番組「たけしの万物創世記」でこの話題が採り上げられていた。「絶対音感」とは、3歳から音楽を始めると身に付く能力であるといわれている。この能力を持つ人は正確な音程が身に付いており、わずか1ヘルツの音の違いを聞き分けることができる。また街のざわめき、そよ風のささやき、グラスの転がる音などこの世の中の音全てが音符をもった音楽として聞こえるそうである。しかし、ダニエル・キイス作「アルジャーノンに花束を」というSF小説にもあるように能力を得ることが全面的な幸福に繋がるとも限らないという話はこの場合に関してもいえるようだ。絶対音感を持つ人はあらゆる音が音楽に聞こえるため耳にした音が全て頭の中に楽譜として凝縮されうるさく感じて悩んだり眠れなくなることもあるという。また音楽が聞こえると他のことに集中出来なかったりするそうである。私がピアノを習い始めたのは4歳の時であり、その1歳の違いはこの年代での発達段階においては大きな違いが生じてくるのであろうか幸か不幸か私には絶対音感はないようである。現在音楽を聴きながらもさくさくとこの日記を書いている。風の音のイメージを音楽にすることは出来ても残念ながら風の音そのものを音符にして表現することは出来ない。眠るときに適当に浮かんできたメロディーが頭の中をよぎることがあっても周りから聞こえてくる音とは何ら関係がない。絶対音感を持つ人はラの音=440ヘルツと定められている日本のオーケストラと442ヘルツと定められている欧米のオーケストラの音程の違いを聞き分けまるで違った演奏として捉えることが出来るそうだがうらやましい話である。欧米のオーケストラの方が華やかに聞こえるそうだが…。絶対音感の話の他にもマライア・キャリーの高音域発声時の声帯の状況などがあって面白い番組であった。

昨日よりもさらに長い文章になってしまって・・・この先どうなるのだろう(^^;

1998.7.27(月) 映画「タイタニック」を観に行く

今日は大阪・日本橋まで行く。パソコンショップを回った後に難波まで向かう。日本橋から難波まではそれほど遠くはない。通りすがりの東宝敷島という映画館をふと見ると、何とここでは現在「タイタニック」が上映されているようだ。不沈船といわれた豪華客船が初めての航海で氷山と接触して沈んでしまい、しかも救命ボートが乗船者数に相応する隻数分を積まれていなかったため多くの犠牲者が出たというそのストーリーは小学生の頃に何かの本で知っていたが、この映画ではその事実を背景にして展開されたラヴストーリーがあるらしい。また、この映画はとても人気があり、何度も観に訪れるというリピーターもいるそうで、昨年12月から公開されているにも関わらず現在もなお上映されている。家庭用ビデオとして販売されるのを待っていたがこれでは家で観るにはまだまだ待たなければならない。時刻は午後3時半頃、上映開始後1時間程経っていたが映画館に入ることにする。途中からであるがジャックがコンテで描いた様々な絵画が登場するシーンから観ることになる。再現された客船の内装は現在からみると豪華なアンティーク調であり、ささやかながら自宅のリビングルームにアンティーク調のシャンデリアを置いたりする私の好みととても合っていて素晴らしいものであった。また、ローズの泊まる広々とした一等船室にモネという画家の美しい風景画が置いてあったのも印象的であった。その部屋にはモネ以外にも数点有名な絵画が掲げてあったがそれらは実際には船と共に沈んではいなく現存するものであるそうだが…。ローズが婚約者であるキャルからプレゼントされた、ルイ16世の遺品であるという設定のハート型のブルーダイヤモンドトップのネックレスもとても美しいものであった。それを受け取った後にこの船でローズはジャックと出会い、恋に落ちてしまうわけだが…。その他にも印象的なシーンはいろいろとあった。特に最後のシーンは涙なしでは観ることが出来なかった。上映が再開される。まだ観ていなかった初めの1時間分を観たいと思う。観ているうちに話の展開が解り、もう一度最後まで観たいと思う。そうして映画館を出るともう9時半であった。難波の飲食店街はもうシャッターが降ろされていた。家の近くまで戻りファミリーレストランで遅くなってしまった夕食を摂り、家へと帰る。

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