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 公開日 :2000年 10月 5日

■道路交通法違反被告事件、昭和 61年 2月 14日 最高裁判所第2小法廷判決。昭和59年(あ)第1025号。棄却(確定)。弁護人高山俊吉の上告趣意。


目次

第一、原判決には左のとおり憲法違反があり、その違反は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄されなければならない。
 一、自動速度取締機により速度違反の取締りを行なうことは肖像権、プライバシーの権利を侵害し、憲法第一二条に違反する。
 
二、自動速度取締機による速度違反取締りは集会および結社の自由を侵害し、憲法第二一条に違反する。
 
三、自動速度取締機による速度違反取締りは憲法第一四条に定める法の下の平等に違反する。
 
四、自動速度取締機による速度違反取締りは、憲法で保障された被疑者、被告人の防御権を侵害し、憲法第三一条、同第三五条、同第三七条に違反する。
 
五、自動速度取締機による速度取締りは、囮捜査とその精神を同じくし、適正手続の保障を定めた憲法第三一条、同第一三条に違反する。
 
六、自動速度取締機には、機械の正確性の法的な保障がない。
 
七、自動速度取締機による写直撮影は、他の著名な刑事訴訟法学者の判例解釈、学説によつても、違憲・違法である。
 
八、諸外国においても、自動速度取締機の人権侵害性が問題とされている。

第二、原判決は、最高裁判所昭和四四年一二月二四日大法廷判決(昭和四〇年(あ)第一一八七号)に抵触する判断でなるので破棄されなければならない。
 
一、右最高裁判決は、肖像権・プライバシーの権利を保護した判決である。
 
二、自動速度取締機による速度取締りは、右判決のあげる三つの要件にいずれもあてはまらない。

第三、道路交通法違反の成否の判断基準に照らし、自動速度取締機による取締りには道路交通法第一条、刑事訴訟法第一条、同第二一八条、同第二一九条、同第二二〇条に違反し、同第三一七条に違反する違法があるから、刑訴法第四一一条第一号によつて原判決は破棄されるべきである。
 
一、道路交通法の法目的と犯罪成立の要件
 
二、道路交通法違反の捜査過程と裁判における基本原則
 
三、自動速度取締機を用いた速度違反捕捉の違法性

第四、原判決の刑の量定は、被告人の行為の実情および被告人をめぐる状況との関係に徴すると、甚だしく不当であるから、刑訴法第四一一条第二号によつて破棄されるべきである。
 
一、量刑事情に関する原判決の判断
 
二、本件各「犯行」の実情
 
三、前科について
 
四、動機について
 
五 併合罪関係について
 
六 被告人の現状



弁護人高山俊吉の上告趣意

第一、原判決には左のとおり憲法違反があり、その違反は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄されなければならない。

本件各事案に関し原判決は、いずれも自動速度取締機によつて被告人の運転する車両が道路交通法第二二条一項に違反する速度で進行したことが証明されたとして被告人の刑責を認定した。

しかしながら、自動速度取締機によつて個人の容貌を撮影し速度違反の取締りを行なうことは、以下に述べるとおり憲法第一三条、同第一四条、同第二一条、同第三一条、同第三五条、同第三七条に違反するものである。


一、自動速度取締機により速度違反の取締りを行なうことは肖像権、プライバシーの権利を侵害し、憲法第一二条に違反する。

(一)肖像権・プライバシーの権利は、歴史的な沿革を経て発展し、日本国憲法上も確立した基本的人権である。プライバシーの権利は古くから英法上において生まれ、西ドイツでは人格権の一部として同じく古くから表現され、その後特にアメリカにおいて肖像権・プライバシーの権利は発展確立した。

この権利は、我が国においても最高裁昭和四四年一二月二四日大法廷判決(刑集二三巻一二号一六二五頁)において、憲法第一三条に基づく基本的人権として、判例上も確立した。

(二)現代社会において、肖像権・プライバシーの権利は、ますます侵害されやすくなつており、それだけに保護の必要性の大きい人権である。現代社会においては、科学技術の進歩により、写真機、映写機、録音機等の機械が多分野にわたつて利用され、新聞、雑誌、テレビ等のマスコミが発展し、公権力および私人が個人の私生活に介入してそれを広く社会全体に伝把させる可能性が具体的に存在している。

しかも現代社会はいわゆる情報化社会といわれ、全国的な社会基盤が共通化し、個人の行動やその評価等がただちに極めて広範囲の地域に流布され、そのことが具体的に個人の生活に打撃を与える可能性があるという社会状況にある。

このような社会状況の下では、肖像権・プライバシーの権利はますます侵害されやすく、それだけに国家には一層慎重にその保護につとめなければならぬ義務があり、国民にはこれを要求する基本的な権利があるといわねばならない。

(三)自動速度取締機を用いた速度違反取締りによる肖像権・プライバシーの権利の侵害は多岐に及ぶ。自動速度取締機による速度違反取締りは、速度違反者の顔写真と車両ナンバーを撮影し、それによつて違反者を特定する捜査を行ない、違反者を呼び出し、犯罪事実を確定するという方法によつている。

その捜査過程においては、捜査官によつて撮影された写真を被疑者および第三者に示す可能性があることが当然予定されている。個人の容貌を権力に撮影されて、それを保存されるということは、それだけで私人にとつて多大なる精神的打撃と苦痛を意味するものであるが、自動速度取締機の場合は、具体的にその被害が報告または予測される点に現実の危険がうかがわれる。雑誌「カーグラフイツク」昭和五四年二月号一九頁には、以下の事実が掲載されている。

「日本の警察が採用したこの「新兵器」は、昨年フランスの一部で使用されたことがある。ところが、それで捕まつたドライバーが、たまたま勤務時間中に走るはずのない地区を私用で走つていて違反をしたため、会社をクビになつた。彼は、このスピード取締りシステムが個人のプライバシーに対する侵害であるとして当局を告訴し、そして勝訴した結果、警察はこのシステムを止めたのである。……」

(四)第八七国会衆議院交通安全対策特別委員会において、寺島巌委員は、自動速度取締機に関する質問の中で右と同様の事実をあげて杉原政府委員を追及している。右委員会議録一二頁二段目には、次の記載がある。

寺島委員「……国都交通というタクシー会社に勤めておられる宮脇さんという人が、昭和五三年六月二日午前一時五五分ごろスピード違反で、これに写つて、このコピーが会社に持つていかれた。そこの上には、だれだれ警部とか巡査とか名前が五人出てきます。そうすると、これを見たら会社の側は、何だおまえこんなしてやられておつたのか、こんなして会社の名誉にかかわることをやつておるじやないか、逆にこれが理由でスピードの問題、指導の問題とは関係なしに今度はこれが実際に雇用関係の問題に発展していくというふうに結果として使われていつているという問題があつて、本人は会社におれなくなつて、いたたまれなくなつてやめてしまつたという事件も起こつている。こういうものを持つている性格がこの機械の特徴なんです。使い方によつてはそうなるのだ。……」

一般に、捜査官に顔写真をとられそうになつて捜査されるということは、重大犯罪であればともかく道路交通法違反の事件ではかつてなかつたことである。

仮に、たとえいわゆる凶悪犯人の場合であつても、捜査官側自らが被疑者の肖像権を保護するための配慮を行なつている事実もある。

たとえば、犯人が逮捕、連行される場合、本人の希望により頭に背広等をかけてやることなどは、すでに慣行にさえなつている。これは、本人の意に反して肖像を撮影することがいかに苦痛であり、肖像権・プライバシーの配慮が社会的常識になつているかを示すものである。

ところが自動速度取締機の場合には、この社会常識すら踏みはずすものであることが、その人権侵害性を端的に物語るものである。

(五)同乗者の肖像権・プライバシーの権利の侵害は、いわれのない侵害である。

同乗車
(ママ)は、そもそも速度違反の犯罪事実とは関係のない場合が多い。同乗者であるからということで肖像権・プライバシーの権利を侵害されてもよいとする結論は何ら根拠のないものであり、従来の捜査の常識からもはずれるものである。

定置式速度取締りの場合に同乗者も質問を受ける場合があるということは、同乗者の写真撮影を正当化する根拠に決してならない。単に捜査官に質問を受けるということと、写真を撮影され保存されるということとはまつたく異なる問題である。まさに従来の定置式取締りにおいては写真を撮影されなかつた同乗者が、自動速度取締機の場合には写真撮影をされてしまうこと自体が問題なのである。

自動速度取締機によつて、写真撮影されるということは、権力に対しある人が個人として特定されることを意味する。

被疑者でもない単なる参考人に対し捜査官が質問によつて、住所、氏名を聞きただし、個人を特定することができるのは、警察官職務執行法第二条一項所定の場合であるが、同条二項は、質問に対し答弁を拒むことができる旨の規定、すなわち個人としての特定を拒む権利が明記されており、第一条二項には職権の濫用をいましめる規定もある。

しかし、自動速度取締機によつて同乗者が撮影される場合にはそれが不可能になるところに、警職法の精神、要件をも逸脱した自動速度取締機の人権侵害性があるのである。


二、自動速度取締機による速度違反取締りは集会および結社の自由を侵害し、憲法第二一条に違反する。

(一)集会および結社の自由は、民主主義社会の根幹をなす基本的な人権である。

講学上、集会の自由とは多数人が特定の目的のために一時的に会合する自由であり、結社の自由とは、多数人が特定の目的のために継続的な団体を構成する自由であると定義される。その際、多数人とは人数の多寡を問わないものとされ、二〜三人でも集会および結社になるとするのが通説であり、車の同乗者の場合もこれに該当する。

集会および結社の自由は、表現の自由に関係し、思想良心の自由、言論出版の自由と相まつて、民主主義社会を支える基礎となつている。これをいいかえれば、これらの自由に対し、国家権力がほしいままに介入するときは、もはや民主主義社会は成立しないということを意味する。

このことから、これらの自由を制限するためには、明白かつ現在の危険の法理(最高裁判例)など厳格な制限基準が設けられているのである。

(二)自動速度取締機と集会および結社の自由

集会および結社の自由の問題は、自動速度取締機との関係で重大な意味をもつている。自動速度取締機によつて写真撮影がなされ、その車両の同乗者が運転手と一緒に撮影されるときには、国家権力に対し、ある特定の国民が特定の国民と、いつ、どこで、どのような態様で、ともにおり、どこへ向かおうとしていたかということが、写真撮影という手段によつて証拠に残されその詳細が判明する。このことは、速度違反の取締りを媒介項として、国家が国民の特定の人間関係についての情報を入手することを意味する。

歴史的、沿革的に見ても、集会、結社の自由の権利に対する抑圧は、まず国家権力の情報収集から始まることは周知のことであり、自動速度取締機が治安維持のために濫用される危険を考えることは杞憂ではない。事実、庭山英雄香川大学教授によると、アメリカにおいても、自動速度取締機の導入の検討の際、「ライト・オブ・アソシエイシヨン」という言葉でこのことが問題とされたという。ことほどさように自動速度取締機の集会および結社の自由に対する侵害性が重大な疑義を残すものであることは、国際的に広範な社会的確信に支えられた見解であるといわねばならない。


三、自動速度取締機による速度違反取締りは憲法第一四条に定める法の下の平等に違反する。

(一)自動速度取締機は、特定の車種のみをその捕捉の対象としている。

自動速度取締機による速度取締りの方法によつては、自動二輪車は後ろにナンバーがあるため捕捉できず、同じく多くの大型車は自動速度取締機の画角に入らないため捕捉できない。

(二)自動速度取締機による取締りの実態は、憲法第一四条が禁止する「不合理な差別」である。

憲法第一四条によつて禁じられるのは、いわゆる「不合理な差別」であることは通説判例であるが、自動速度取締機による取締りの実態は、庭山教授も指摘するように、憲法第一四条に例示する「社会的身分」による差別として、不合理な差別になる。社会的に問題化している自動二輪車いわゆる暴走族や速度違反が重大な事故に結びつく大型車の多くを捕捉の対象から事実上にもせよ除外することにはいかなる意味でも合理性がない。

自動速度取締機によつて捕捉されるのが特定の車両に限られることについて、そもそもすべての速度違反は捕捉できないものであるとする見解があるが、これは以下に述べるように差別を許す理由とはならない。

すなわち、自動速度取締機は、捜査官の人的物的な能力の限界をこえるために捕捉されない者がたまたま生ずるというのとは異なり、始めから特定の車種の捕捉の可能性を全面的に遮断するものだからである。

デビツトグレイター著「オービス3によつて提起される法的諸問題」の中では、法の下の平等の問題がとりあげられ、自動速度取締機オービス3は法の下の平等に違反しないと結論づけられている。しかしデビツトグレイターによつて検討された例は、車線による不平等や撮影後四秒の間次の車が写らないというものであり、これらはランダム・セレクシヨンルール(無作為抽出原則)にあてはまるから法の下の平等に反しないとされているのであつて特定車種が写らないという問題はそこではまつたく検討されていない。

デビツトグレイターが検討した例は、誰もが捕捉されまたは捕捉されない可能性を持つ例であるから、ランダム・セレクシヨンルールに該当するケースといいうるが、特定車種が捕捉の対象からはずされるという問題は、まさにこのランダム・セレクシヨンルールからはずれる問題であり、デビツトグレイターの論理によつても不合理な差別になるものである。

自動速度取締機による捕捉が補充的であるとし、常時白バイやパトカーによつて全車種を対象とする速度取締りを行なつているから法の下の平等に反しないとする見解がある。しかし、自動速度取締機の設置路線もしくはその地点において、自動速度取締機による不平等な捕捉が白バイやパトカーによる捕捉によつて是正されているかどうかについての統計資料がない以上、論理をすりかえるものといわなければならない。


四、自動速度取締機による速度違反取締りは、憲法で保障された被疑者、被告人の防御権を侵害し、憲法第三一条、同第三五条、同第三七条に違反する。

(一)我が国憲法は、被疑者被告人の防御権を重視している。我が国の憲法は、戦前の捜査機関による暴虐な人権侵害の教訓に鑑み、英米法の影響を強く受け、刑事手続上の人権保障を強化した。

我国憲法ほどに、刑事手続上の人権保障を、刑事訴訟法のみに委ねず憲法典中に規定した例は、諸外国にはみられないといわれている。

自動速度取締機は、令状主義を定めた憲法第三五条、刑事被告人の諸権利を定めた憲法第三七条、適正手続の保障を定めた憲法第三一条、それをうけた刑事訴訟法第二二〇条に違反し、捜査および公判における重大な違法をもたらすものである。

(二)右権利の保障は、具体的で実効性のあるものでなければならない。

自動速度取締機による捕捉が、この権利との関係で極めて重大な問題を生ずることは、青柳文雄上智大学教授もこれを認めるところであり、同氏も、被疑者、被告人の防御権がまつとうされないことがあることを認めている。


五、自動速度取締機による速度取締りは、囮捜査とその精神を同じくし、適正手続の保障を定めた憲法第三一条、同第一三条に違反する。

(一)道路交通法が、指導・予防を旨とする法律であることは、後に詳述するとおりである。

(二)右の解釈により、速度違反をあえて制止しない不作為は、積極的な作為と同視される。

刑法の不作為犯の理論においては、一定の作為義務を有する者の不作為は、作為と同視されることが認められている。

囮捜査とは捜査官が積極的に犯罪を誘発して検挙することをいい、大陸法においてはこの捜査官の行為が犯罪になるか否かというアジヤンプロヴオカトウールの問題として論ぜられ、英米法においては、さらにこれによつて検挙された者を処罰できるかどうかというエントラツプメント(罠)の理論として展開された。

この理論を、速度違反の捕捉、ことに自動速度取締機による捕捉の場合にあてはめて考えるならば、自動速度取締機の場合は、交通取締りの警察官に課せられた指導・予防という法令による作為義務を始めから放棄しているのであるから、不作為犯の理論によると、自動速度取締機を設置するだけで警察官を配置しないで行なつた速度違反取締り行為は、違法性を帯び、作為と同視されるのである。

仮に万一この作為義務の根拠が厳密な意味で法令によるものでないとしても、不作為犯による作為義務は、条理によるものでもよいとされているのであるから、不作為犯の論理が該当するわけである。

青柳文雄教授も、同種事案の事件(
東京簡易裁判所昭和五二年(ろ)第三一九号)の公判において「指導・予防がなされることは望ましい。」「行政刑法であるから他手段によつて目的が達せられればそれで良い。」旨証言しているが、これは条理上作為義務が生ずることを認めたものと理解しうる。以上の観点から、自動速度取締機の設置個所の直前に設置されている警告板が明瞭かつ具体的に予告の役割を果たしていることが極めて重要となる。

(三)しかして、本件各自動速度取締機の設置路線に設置されている警告板は、実際には警告としての実効性がない。

本件各自動速度取締機の設置路線に設置されている警告板は、その看板の大きさ、文字の大きさ、設置位置の不適切さのために、多くのドライバーにとつて気づきにくいものであり、アメリカ・ロサンゼルス州に設置されている「スピードチエツクド・バイ・レーダー」などの警告板に比しても極めて不完全なものである。

ことに、同警告板に照明がないため、速度違反が発生しやすい夜間においてはその存在すら判明しにくいものとなつている。

しかも、本件各無人カメラの設置を予告する警告板は、いずれも自動速度取締機の設置個所を具体的に特定したものではなく、この路線には自動速度取締機が設置されているということを告知するにとどまるものであるから、前述した囮捜査の弊を回避するものとはなつていない。


六、自動速度取締機には、機械の正確性の法的な保障がない。

自動速度取締機は、測定装置としての正確性が科学的に保障されていないことに加えて、その正確性に関し国民の支持を得ていないために法的な意味での信頼性がない。

およそ犯罪を確定することに用いられる機械が正確であることについては、あらかじめ国民的なレベルでの検証および合意を経ていなければならないことは、諸外国では確立したルールである。

科学的装いを帯びているからといつて一律にその正確性に関し一方的に信頼せよと迫ることは許されない。そのことは、最近における鑑定の誤りによる再審事例の続出や、以前から論議のあるポリグラフ検査についての問題を想起すれば容易に想像できるであろう。

ところが、自動速度取締機については、その設置にあたり、そのメカニズム、機能、そこから推定される誤差の問題等について、一切国民に公開することなく一方的にこれを導入して運用しているのである。

機械の正確性について、専ら捜査官側の手によつて検査がなされているから国民に知らせる必要がないとする考え方は、人権を顧慮しない権力的な発想というほかない。


七、自動速度取締機による写直撮影は、他の著名な刑事訴訟法学者の判例解釈、学説によつても、違憲・違法である。

松尾浩也東京大学教授は、捜査のための写真撮影が許容される要件について、その著書「刑事訴訟法上巻」(昭和五四年)七五頁において、「被疑事実の重大性と蓋然性」をあげ、「重大性」という要件をつけ加えている。また、渥美東洋中央大学教授は、その著書「刑事訴訟法要論」の中で、捜査のためプライバシーを侵害しても許される限界としてワイヤタツピングの場合をあげ、「生命、身体に関する重大犯罪に限る」とされている。渥美教授の見解は、青柳教授の刑事訴訟法通論(上)三四三頁の註の写真撮影の限界を論ずる部分で引用されていることからしても、写真撮影についても同様にその罪質によつて厳格な区分を設けるべきものであることが導かれよう。

ところで、道路交通法は、前述したとおり、広汎な国民がこれをおかす可能性を持つ特殊な刑事法であり、一般に刑法犯罪に比べていわゆる軽微な犯罪類型に属するとされることはあつても、特に重大な犯罪類型に属するとは到底いえない。

自動速度取締機による写真撮影が違憲・違法であるとの見解は、庭山教授に限らず、他の著名な刑事訴訟法学者の学説によつても同様の結論が導かれるのである。


八、諸外国においても、自動速度取締機の人権侵害性が問題とされている。

(一)我国以外に自動速度取締機と同様の方式によつて顔写真を撮影して速度取締りを行なつている国はない。庭山教授によると、諸外国の実情は、以下のとおりである。

1 アメリカにおいては、一九七三年から、テキサス州とニユージヤージー州で、自動速度取締機を試験的に運用したが、実際には導入されず、現在全米のどの州でも設置されていない。

アメリカでは、連邦交通省が、自動速度取締機の設置によつて法的な問題が生ずることを予想し、関係者にその検討を行なわせたが、結局、右のような結論となつた。それは、各種団体等が自動速度取締機の設置に反対し、試用段階においても多くの自動車運転者の抵抗があつたことにその一因があると推定されている。そしてまた、このことは、アメリカにおいて、肖像権・プライバシーの権利に対する根強い国民的な意識があることの反映でもある。

2 イギリスにおいては、自動速度取締機の導入を検討するための全国委員会が設けられ、慎重に検討されたが、ついに導入が決定されなかつた。

3 フランスにおいては、現在、自動速度取締機類似の機械を使用しているが、車の後方から後部のナンバープレートだけを撮影するという運用により肖像権の問題が生じないようにしているとされる。

4 大陸法系の国であり、英米法系の諸国ほどには捜査段階における被疑者の防御権を保障しないとされる西ドイツにおいてすら、自動速度取締機による速度違反取締りは行われていない。

(二)以上の事実は、自動速度取締機による人権侵害性が、いずれも捜査官側の意識に反映された結果を示すものと弁護人は考える。

世論に問うことなく設置を決め現状を固定した後に、人権侵害にならないという論理を強いて構築する捜査官側の態度は、そもそも民主主義の何たるかを理解しない、反国民的権力的発想に他ならない。

国民の立場と憲法の正しい解釈の上に立ち、捜査官による人権侵害をチエツクすることこそが、裁判所に課せられた本来の使命である。

弁護人は、我が国が基本的人権の保障において今だに甚だしい後進国であるとの批判を後世に残すことのなきよう、裁判所におかれてその至高の任務を果たされることが求められていると確信する次第である。


第二、原判決は、最高裁判所昭和四四年一二月二四日大法廷判決(昭和四〇年(あ)第一一八七号)に抵触する判断でなるので破棄されなければならない。

一、右最高裁判決は、肖像権・プライバシーの権利を保護した判決である。

(一)右判決の論理と評価

右判決は、従前の肖像権・プライバシーの権利に関する下級審判例の集積を踏まえて、最高裁が初めて肖像権・プライバシーの権利が憲法で保障された基本的人権であることを宣言したものである。

右判決は、その理由の中で次のように述べている。

「憲法一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」と規定しているのであつて、これは国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして何人もその承諾なしにみだりにその容貌姿態(以下、容貌等という)を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が正当な理由もないのに個人の容貌等を撮影することは、憲法第一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。」

右判決が肖像権・プライバシーの権利を憲法上の権利として認めたリーデイングケースであることは、その後の下級審判決の推移および学説による判例解釈の中で定説となつている。

右判決は、以上の基本的観点を宣言したうえで、それらの人権が公共の福祉のためにやむを得ず制限される場合のあることを認め、「犯罪捜査のために必要上写真撮影をする場合には、これが許容される場合がありうる。」とし、その許容される限度を画する基準として以下の三つの要件がいずれも満たされることを挙げている。

(第一の要件)現に犯罪が行なわれもしくは行なわれて後、間がないと認められる場合であること。
(第二の要件)証拠保全の必要性および緊急性があること。
(第三の要件)その撮影が、一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれること。

以上の三要件がいずれも満たされることが、捜査のための写真撮影が許される条件であり、このような場合には、撮影の対象の中に犯人の容貌等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容貌等を含むことになつても、憲法第一三条、同第三五条に違反しないものと判示している。

(二)右判決の正しい解釈

右判決は、肖像権・プライバシーの権利という憲法上の人権を認めた上で、それをやむを得ず制約するための基準として具体的に機能する原理を示したものであるから、その判示する例外としての三要件は、人権制約の基準という立場から、できる限り限定的に、かつ具体的に解釈されなければならない。

この判決の示す三要件をことさらに広げ、抽象的に解釈する態度は厳しくいましめられなければならず、いわんや、捜査の便宜をはかつたり合理化する立場から右判例を解釈するごときに及んでは、右判例の基本的精神をまつたく理解しないものといわなければならない。

二、自動速度取締機による速度取締りは、右判決のあげる三つの要件にいずれもあてはまらない。

(一)右判決のいう第一の要件は、刑訴法第二一二条の現行犯逮捕をさすのに、自動速度取締機による写真撮影は、人が現認していないから、第一の要件にあてはまらない。右判決のいう「現に犯罪が行なわれもしくは行なわれて間もないと認められる場合」とは、そもそも刑訴法第二一二条の現行犯逮捕とはなれて解釈できないものである。
1 最高裁判所判例解説の評釈の批判

この判決について、最高裁判例解説昭和四四年度版四七九頁は、判示の「現に犯罪が行なわれ、もしくは行なわれて間もない」という文言を「現行犯の要件(刑訴法第二一二条)あるいはこれに伴う捜索差押の場合をさしているように一見みえるが、そうではない。」と評釈している。

しかし、この評価は、以下の理由で誤りである。

第一に、右判例が、刑訴法第二一二条一項の「現に犯罪を行ない」という文言と、同条二項の「罪を行ない終わつてから間がない」という文言をほぼ条文どおりに引用しているにもかかわらず、それをことさらに拡大解釈している点で、極めて不自然な解釈だからである。右評釈は、「刑訴法第二一二条の場合をさしているように一見みえるが」としているが、これは、「一見みえる」のではなくこの解釈が素直で正しい読み方なのである。

第二に、右評釈が、ことさら文言の素直な解釈を離れて評釈している理由を検討すると、同評釈が明言しているように、解釈の基本的な立場が、「令状主義の保護を奪われる被撮影者の個々の立場に立つて判断するというよりは、むしろ肖像を侵害するような捜査官の側に立つて」いることにある。

その論理も、「撮影して証拠を保全することにより、逮捕をすることが不必要になる場合があり」とし、まず写真撮影をすることを前提とし撮影ができれば逮捕がいらなくなるとする論旨の展開になつている。

写真撮影がいかなる場合に許されるかの要件を論ずべきときに、写真撮影をしてしまうとどうなるかという形で論をすすめるのは論理の逆転という他はない。

次に同解説は、「写真撮影の場合は、その対象を厳格に被疑者に限ることが困難であるから」と、ここでも写真撮影を前提に、第三者の肖像の侵害を不可避のものとして容認している。

さらに重ねて同解説は、「ことに本件のような公安条例違反では、処罰されるのは主催者、指導者、煽動者だけであるが、許可条件に違反して隊列を乱したという状況を証拠保安するためには、刑事責任はない一般参加者も含めて撮影することがどうしても必要である。」として、捜査ないし処罰の必要から説きおこして写真撮影を認めるという論理の逆転の誤りを犯している。この判例解釈の立場は、前述したように、人権を擁護する立場からこの判決を分析するのではなくて、捜査のための写真撮影の必要を承認した上で、その必要性を根拠として人権侵害を容認するという、本末転倒の発想に立つものであり、そのために論理的な説明として破綻しているのである。

青柳教授の解釈も、判例解説の立場をとつていないことは明らかであるが、多少なりとも論理的に考察する立場に立つならば、右判例解説のごとき判例解釈は到底できないのは当然であろう。

青柳教授の解釈によると、右判例の第一の要件の、「現に犯罪が行なわれもしくは行なわれて後間がない」という文言は、現行刑訴法第二一二条の「現行犯」(実は後に述べるように「現行犯」という概念は説明の道具概念にすぎず「現行犯人」と「逮捕」があるのみなのであるが)をさすことを正しく肯定している。

しかし、同教授は、逆に「現行犯」の概念の方を緩め、日本の現行刑訴法上の「現行犯」は逮捕を前提としていないから、同判例の「現に犯罪が行なわれもしくは行なわれて後間もない」という文言は、単に「現に犯罪が行なわれている状態」をさし、自動速度取締機の前には現に犯罪が行なわれている状態があるから、写真撮影は、右の最高裁判例に反しない、とするのである。次にこれを検討しよう。

2 青柳解釈の論理矛盾

青柳教授は、日本の現行刑訴法の「現行犯」は逮捕を必ずしも前提としていないとするが、その法的根拠としては刑訴法第二二〇条の捜索差押の例をあげるにとどまる。

ところで、同条一項の文言は、「検察官、検察事務官、又は司法警察員は、第一九九条の規定により被疑者を逮捕する場合、又は現行犯人を逮捕する場合において必要があるときは、左の処分をすることができる。」というものである。

右の令状によらぬ捜査差押は、右の条文の当然の解釈から出てくるように、あくまで逮捕を前提としているのであり、学説・判例の論議も、「逮捕をする場合」という概念の場所的、時間的限界を論じているのみであつて、刑訴法第二二〇条が逮捕を前提にしていない例であると説明している教科書、概説書は存在しない。現に青柳教授自身が、自著「五訂、刑事訴訟法通論」(立花書房)の中で、「逮捕の付随処分」の項の中で、右の捜索、差押を説明し、その上巻三七二頁、註(3)において、「このように逮捕の現場が強調されるのは憲法第三五条、同第三三条の場合に限つて、差押・捜索検証に令状を要しないとしているからであり、この趣旨は既に個人の権利の侵害が最も大きい逮捕がなされた場合においては、自由権よりも小さい所有権、秘密権の侵害も令状なしに認めようとするものであるから、憲法第三三条の逮捕される場合というのは、逮捕に成功しなかつた場合も含むというように余りに広く解釈することは許されないものと考える。」と述べているのである。

青柳教授は、前掲事件公判における同事件弁護人の質問に答えて、右の捜査差押が結局逮捕に関係を有するものであることを認め、逮捕を前提としない「現行犯」の例として、刑訴法第二二〇条を挙げた証言を事実上撤回した。しかし、それでは「現に犯罪が行なわれている状態」があれば捜査のための写真撮影ができる根拠は何かと問われ、次にその根拠を憲法第三三条、同第三五条に求める証言をした。ところが、同教授は同事件の別の公判において「憲法第三三条、同第三五条が英米法の影響を受けており、同法条の趣旨が逮捕を前提としていることには間違いない。」と証言したことと自説の根拠を憲法第三三条、同第三五条に求めることとの矛盾について質問されて、「日本の憲法なのだから沿革を離れて解釈してよい。」と答えるのみで、それ以上の説明ができなかつた。

しかし、憲法第三三条、同第三五条が、現行犯として逮捕される場合をいうとするのが異説をさしはさむ余地のない定説であることは、最高裁判所判例解説昭和四四年度版四九三頁に記述のあるとおりである。

結局、青柳教授の論理は、自動速度取締機による写真撮影が最高裁の判例の第一の要件に合致することを説明しようとして果てしない論理矛盾に陥つているといわねばならない。

3 庭山教授の解釈

庭山教授は、右判例解説の第一の要件について、それは、刑訴法第二一二条の現行犯逮捕をさす、と判例の文言に最も素直な解釈を行なつている。

同教授は、およそ対応する法律効果のない法律概念は意味がないという立場から、現行刑訴法には「現行犯人は逮捕できる」という意味を離れた抽象概念としての「現行犯」というものはありえないとし、最高裁判例の解釈でいえば、人が現認しており、現行犯逮捕ができる態勢および要件があるにもかかわらず、逮捕が不可能な何らかの状況がある場合に限つて写真の撮影が許されることをさすと証言しているのである。

「現行犯人」が逮捕を離れては考えられないということは、あまりにも当然であつたことと、これまで自動速度取締機による肖像写真のような問題が現実の刑事事件の証拠資料として登場しなかつたことのために、たまたま教科書などにおいて論及されなかつたにすぎない。しかし、その正しさは、例えば代表的な刑訴法概説書において、逮捕に関連しない客観的、抽象的な「現行犯」なるものの説明および実例がまつたく存在しないことによつても論証されよう。庭山教授の解釈は、人権をやむを得ず制約する原理として極めて明快であり、「現行犯」概念の正しい把握の方法として法解釈上確実な基準たりうるものである。この解釈に立つて考えるならば、自動速度取締機の場合には、人が現認しておらず、したがつて逮捕しようにもその可能性が始めから断たれているのであるから、最高裁判例の第一の要件はまつたくあてはまらないことになるのである。


(二)自動速度取締機による写真撮影は、右判例の言う、第二の要件に合致しない。

検察官は、自動速度取締機の場合は、ただちに走り去つてしまうから、証拠保全の必要性と緊急性があると主張する。

しかし、判例が述べた証拠保全の必要性、緊急性とは、あくまで写真撮影が許される場合の限界として論じているのであり、どのような場合に写真の撮影ができるかということ、いいかえれば写真撮影という方法で証拠保全をする必要性と緊急性を論じているものである。

最高裁判例は、その事件の具体的状況の下で証拠保全の必要性、緊急性を判断するにあたり、「多数の者が参加し、刻々と状況が変化する集団行動の性質」という犯罪態様自体の性質から、警察官がその場にいても写真撮影という方法で証拠を保全する必要性と緊急性があつたとしているのである。ところが、本件事案のような速度違反の事案の場合には、当該事件の発生場所に白バイやパトカー等が現存すれば、写真撮影の必要性も緊急性もなくなるのである。その点で、本件事案は最高裁判例の事案とはケースが異なることに注意しなければならない。

すなわち、ただちに走り去つてしまつて証拠保全ができなくなるのは、そこに取締り警察官がいないためであり、速度違反という犯罪態様の性質上、写真撮影をしなければ証拠保全ができないということではないのである。他に手段がある場合には必要性、緊急性がなくなること自体は、青柳教授も認めているところであるが、自動速度取締機の場合に、「ただちに走り去つてしまうから証拠保全の必要性と緊急性がある」という論理は、速度違反という犯罪形態自体に着目するのではなく、取締るべき場所に警察官がいない、という事実を前提においた上で、その場合には、証拠保全は写真による他ないのだという、これまた逆転した非論理的な説明をするものに他ならない。

警察官を交通取締りのために深夜にわたつて配置することが、人員上、予算上不可能であるとし、そのことを自動速度取締機導入の理由のひとつにあげる考え方は、民主国家における至高の基本的人権という価値を予算、人員という国家権力の便宜と都合の下におく論理であるばかりか、実際上の問題としても、高価な自動速度取締機を購入配置することが果たして現実にどれほど予算上の節約になるのかどうかという疑問も生ずるところである。

また、速度取締りは、白バイ・パトカーによつて常時行なわれており、自動速度取締機による捕捉は補充的であるとする主張に従えば、自動速度取締機による取締り個所には、白バイ・パトカーの取締り要員をも配置して取締りを行なわなければならないことになつて、かえつて予算、人員上の増加が必要になるはずであり、このような主張は、それ自体自己矛盾を犯すものといわなければならない。

以上の理由により、結局、速度違反という犯罪の証拠保全のために写真撮影をする必要性、緊急性は存在しないことが明らかである。

(三)自動速度取締機は、最高裁判例のいう第三の要件にも合致しない。

最高裁は、第三の要件について、「一般的に許容される限度をこえない相当な方法」という文言を用いているが、この「相当性」の内容は一般概念であるからその趣旨はまさに解釈によつて分析されるべきである。そして、その解釈のよりどころが、社会通念に従いおかしいと思われるものであるかどうかという点に求められるべきことについては、異論のないところであろう。

自動速度取締機による写真撮影は、前述したように、法の下の平等に反し、集会結社の自由を侵害するなど憲法上、法律上のいくつもの点にわたつて違法な状態を現出するわけであるが、このように多く違法状態の発生を必然的に伴う手段が「相当な手段」でありうべくもないことは、庭山教授の指摘するとおりであり、「相当」とは単に「ドライバーの目をくらませないこと。」というような瑣末な問題にとどまるものではない。

仮に百歩譲つて、前記の憲法上、法律上の問題点の一つひとつが厳密な意味で憲法違反、法律違反にならないとする見解をいれるとしても、その疑惑が、国民、特に自動車運転者一般を納得させることができず、これを批判し、抵抗する世論が形成されている場合には、到底相当な手段とはいえない。

青柳教授も、右のような点が相当性判断の要素となりうることを認めている。すなわち、前記事件の弁護人の「庭山教授は、法の下の平等などの法律上の問題が起こつて、ひいては国民が納得しないという社会常識の問題になつた場合には、相当性判断の要素になつてくるという解釈をとつているが、どうか」との質問に対して、「それでよろしいと思います。」と答え、また「最高裁の判例の解釈としては、憲法上、法律上の問題は、最高裁判例の第三の要件である相当性の問題の中に入つてくるという解釈を、青柳教授もとつていると理解してよろしいか。」との質問に「結構です。」と答えたのである。

ところで、本件自動速度取締機についていえば、その設置以外、多くのドライバーの不満を呼び起こし、多くの有力新聞や雑誌が、批判的な観点から自動速度取締機の問題をとり上げたり、タクシー労働者の労働組合として全国組織をもつ団体が自動速度取締機撤去の方針を決め警察庁、警視庁にその旨の申し入れをした事実は、国民世論として自動速度取締機の設置の必要についてすでに社会的に広範に疑惑がもたれている事実を示すものである。

以上、個々の法律的問題点が違憲、違法であるとすればもちろん、仮にその点を譲つて検討しても、右の事情により自動速度取締機による速度違反の取締りが手段として相当でないことは明らかであるといわねばならない。


第三、道路交通法違反の成否の判断基準に照らし、自動速度取締機による取締りには道路交通法第一条、刑事訴訟法第一条、同第二一八条、同第二一九条、同第二二〇条に違反し、同第三一七条に違反する違法があるから、刑訴法第四一一条第一号によつて原判決は破棄されるべきである。

一、道路交通法の法目的と犯罪成立の要件

道路交通法違反も、ひとつの刑事犯罪であることに変わりはない。その意味で、道路交通法違反が成立するためには、当該行為が構成要件に該当し、違法かつ有責なものでなければならないことについては異論のないところである。

ところで、道路交通法違反罪の構成要件該当性、違法性、有責性の有無の判断にあたつては、通常の犯罪の成否に関するそれ以上に、道路交通法の目的、性格から考えて、当該行為の実情、すなわち道路状況、車の流れ、当該車両の走行の具体的な危険性等を踏まえた具体的考察が必要になる。

その理由は、次に述べるとおりである。

(一)道路交通の実情からの検討

まず道路交通の実情からの検討である。すなわち、車両を運転している極めて多くの人々が日常的に速度違反を犯しており、取締り当局自身一定程度までの速度違反についてはこれを黙認しているということの意味の検討である。

道路交通状況は刻一刻変化し、車の流れも常時変動し、一定ではない。多くの運転者は、この状況の変化に応じて、たくみに車の流れに乗ることにより、当該道路の具体的な状況に即応した安全運転をしている。取締り当局がすべての速度違反を処罰の対象とはしていないということは、速度違反のうちには処罰の必要のないもの、すなわち可罰的違法性あるいは有責性のないものの存在を暗黙のうちに承認しているからにほかならない。

(二)道路交通法の法目的からの検討

次に、道路交通法の法目的からの考察である。

1 道路交通法はその第一条にその法目的を定めている。これを要約すると(イ)交通の安全、(ロ)交通の円滑、(ハ)交通に起因する障害の防止の三つに整理できる。ところで、これらの目的は、単純に並列的に考えるべきではなく、道路交通法の根源的な目的は、交通の安全の確保にあるものと把えるべきである。そのことは、「交通の安全」が条文記述上冒頭に掲げられていること、道路交通法はその前身の道路交通取締法)がまず「交通の安全」を法目的に掲げ、順次「交通の円滑」や「交通に起因する障害の防止」という目的を付加してきていることなどからみて明白である。

ところで「交通の安全」であるが、それは、結局人命の保護、交通事故の防止ということに帰着し(木宮高彦、岩井重一著「詳解道路交通法」一頁、以下「詳解」という)、とりわけ速度制限は、「交通事故の発生確率を低め、事故発生時の被害の重大化を防ぐため」設けられたもので(「詳解」六一頁)その基本目的が交通事故の防止にあることは多言を要しない。

道路交通法の目的につき前述の三つの目的を単純に羅列することは不正確な理解であり、速度制限の目的が交通事故と被害の防止軽減にあるということを曖昧にしてはならない。

2 道路交通法は、こうした法目的を実現するために制定された行政法規であつて、各種の制限規定はあくまで道路交通における行政目的実現のために設けられたものである(「詳解」一頁、六二頁)。

従つて、仮に制限速度を超過する運転行為があつたとしても、それに対しては、交通事故防止という法目的達成のために、まず指導、警告などの刑罰以外の手段で対処しうるかどうかを十分に吟味し、そのような手段では対処し切れない具体的に危険な運転に対してのみ刑罰を科するのが、道路交通法の正しい解釈運用なのである。

道路交通法は、形式的に制限速度に違反したからといつてただちに刑罰権の行使を予想しているものではなく、違反のうち悪質で、具体的な道路状況下で交通事故を惹起する危険を生じさせるおそれがあるものの可罰的違法性に着目して刑罰の対象とするものである。

(三)交通警察当局などの方針からの検討

第三に、前述の法理は、すでに取締り当局が自らその趣旨を対外的に明らかにしていると解せられる。

すなわち、警察庁は、昭和四二年、道路交通法の一部改正に伴う衆参両院の付帯決議を受けて、「道路交通法の一部改正とこれに伴う交通指導取締り等の適正化と合理化の推進について」と題する次長通達(同年八月一日、警察庁乙交発第七号)を発し、その中で「危険性の少ない軽微な違反に対しては警告による指導を積極的に行うこと」、「定置式速度取締りに当たつては、速度違反に起因する交通事故の多発道路、多発時間を選定するなど、交通事故防止上効果的な取締りを実施するよう留意すること」を強調している。

また昭和五三年六月には、警察庁交通局が「今後の交通対策について」と題する試案を発表し、その中で右通達の趣旨をさらに発展させ、交通指導取締りについてはその重点を交通事故に直結する悪質かつ危険な違反行為にしぼつてゆくべきこと、取締りは危険な場所と時間を選択して行なうべきこと等をあらためて宣言している。

右の趣旨は、取締り当局の責任的な立場にある人々も、その著書、論文等でしばしば述べている。その一例を引用すれば、「交通法規は行政法規の一つであるから、その行政目的に合致する取締りをしなければならない。ということは、客観点にみて交通の安全と円滑にかかわり合いのあるような違反の事態に対して取締りが行なわれるべきであるということである」(元警察庁交通局長・竹岡勝美著「最近における交通警察の動向三五七頁」立花書房刊)というようにである。

以上のように、前述の法理は、従前から取締り当局が承認してきたいわば公権的な解釈であるといつて過言でない。

(四)諸外国の立法例からの検討

第四は、諸外国の立法例からの考察である。アメリカおよびニユージーランドでは、「一応の制限速度」といつて、反証によつて覆されるまでは正しいもの(危険性のある運転)と推定され、この速度を超過すればとりあえず違反として摘発するという取締り方式を採用している。この場合には、運転者が自分の速度が具体的な状況からみて安全なものであつたことを立証できれば処罰されないことになる(伊吹山四郎編著「道路交通工学」一二九頁)。

またイギリスでは、交通ルールの一般的な法典であるハイウエイ・コードのルールに違反すると直ちに罰せられるのではなく、そのルール違反が危険な運転である場合に、このコードの根拠である道路交通法にかえり、その法によつて罰せられるという体系をとつている(前掲「最近における交通警察の動向」三五九頁)。

以上のように、諸外国では、制限速度を超過している事実に加えて、交通の危険の有無を処罰の際判断基準にしているものであり、これらの立法例の存在は、我が国の道路交通法の解釈にあたつても、十分参照されてしかるべきものである。

(五)速度違反罪の成立判断

以上のとおり、速度違反罪の成否を判断するにあたつては、道路状況、車の流れ、並進、先行、後続車両との距離、速度を出すに至つた事情など、当該事案の具体的内容を十分に分析し、当該運転行為が交通の危険を生じさせる程度のものであるか否かを十分吟味することが不可欠の前提になるといわねばならない。


二、道路交通法違反の捜査過程と裁判における基本原則

速度違反罪の成否の判断のためには、捜査段階では、イ現場に警察官がいて、実情をつぶさに現認すること、ロ取締りにあたつては、当該車両の走行速度が具体的な道路状況、車の流れなどからみて交通の危険を生じさせる程度のものであるかどうかを見極め、もし当該走行速度が道路交通の危険を惹起するものでない場合には、指導、警告程度にとどめること、ハ当該運転者がその速度を出さざるを得なかつた合理的な事情の有無につき十分な検討をすること、などが不可欠になる。そしてこれらの事項を判断するには、現場で当該運転者の弁解を十分に聞くことが極めて重要になる。

裁判の段階においても、単に当該車両の走行速度が制限速度を超過したかどうかの判断をするだけでなく、その速度に可罰的違法性があるかどうか、また、当該運転者がその速度を出さざるを得なかつた合理的な理由の有無などについて、当時の道路状況、車の流れなどを踏まえあらためて慎重に検討しなければならない。

この意味で、量刑について論じたものではあるが、次の論文は傾聴に値する。「速度違反罪の量刑に際しては…それによつて生ずる危険度を中心に考慮されるべきは当然である。…違反場所における道路の状況(交通量、幅員、見通し、路面の乾湿、明るさなど)が重要であり、いくつかの悪条件が重なり合つた場合(例えば日暮時の交通頻繁な狭い商店街などでの違反)とそうでない場合とでは危険性(違法性)に著しい差異があるから、これらの点を考慮しなければ量刑上具体的な妥当性は得られない(清野寛甫東京地裁判事補、判例タイムズ二八四号「特集刑事交通事件の諸問題」一五七頁)。

違法性(危険性)は程度の問題であるから、その程度が小さくなるとともに可罰的違法性がなくなつてしまう場合のあることはこの論文の論理から十分引き出しうるというべきである。


三、自動速度取締機を用いた速度違反捕捉の違法性

以上の前提に立つとき、自動速度取締機を用いて速度違反を判定することは、次の点で極めて問題であり、違法の評価を免れない。

(一)走行速度の把握以上の能力をもたないこと

自動速度取締機は当該車両の速度しか把握できない。すなわち違法性、有責性の判断材料の収集は、機械の構造上始めからこれを断念している。

(二)証拠裁判原則の違背

自動速度取締機による捕捉は、当該車両の速度が制限速度を超えているかどうかというただ一点の判断で、当該運転者を有罪にする可能性を本来的に有し、構成要件該当性、違法性、有責性のすべてについて厳格な証明を経なければならないとする証拠裁判主義に反する危険を内包するものである。

(三)補強証拠の不存在

強いて違法性、有責性を基礎づける証拠をあげるとすれば、それは被告人(もしくは同乗者)の当時の記憶に基づく供述であるが、後日での供述では、記憶も定かでないのが通常である。その結果、検察側は、結局被告人車の走行速度として表示されたデータを唯一の証拠として違法性、有責性を「証明」することになる。しかし、これのみで被告人の罪責を判断することは先に述べたとおり憲法第三一条に違反し、また少なくとも刑事訴訟法第三一七条に違反するものというべきである。

制限速度を超過すれば抽象的に危険性があるからこれを有罪にすることに問題がないとする見解は、違法性、有責性に関する基本的な理解を欠く不当な判断である。

(四)被告人の防御権の侵害

右に述べたことは、被疑者被告人の防御権の侵害の問題でもある。

このことは、従来から行なわれてきた定置式の速度違反取締り方式と対比するときに明白に理解される。すなわち、定置式の場合には、現場に警察官がいて走行車両の実情を具体的に把握することができ、捕捉された場合には、運転者はその警察官に対し実情を訴え正当性を弁明してそれなりに防御することが制度的には可能である。そのプロセスで、真実違法性、有責性のあるものと、そうでないものとのふるい分けも可能となり、取締りも必然的に合理的になつて国民の理解を得る可能性をもつてくる。

これに反し、自動速度取締機による捕捉の場合は、被告人の走行時の状況を目撃しているものは通常おらず、運転者はその場で弁解することもできない。後日の取調べでは、現場の状況を知らない警察官の前で、そして多くの場合走行時の実情を証明する手段が失われてしまつている状況の下で弁解することを余儀なくされる。しかし捕捉現場でならば理解してもらえたであろうことでも、実情を知らない警察官に対し走行当時の事情を正確に再現し、その理解を求めることは不可能に近い。


(五)総括

以上に述べたとおり、自動速度取締機による捕捉結果に基づき当該被告人を有罪にすることは、道路交通法違反の成否の判断基準に照らし違法であつて、そのことは同時に被告人の防御権を侵害し、また証拠裁判主義に反するものである。


第四、原判決の刑の量定は、被告人の行為の実情および被告人をめぐる状況との関係に徴すると、甚だしく不当であるから、刑訴法第四一一条第二号によつて破棄されるべきである。

一、量刑事情に関する原判決の判断

原判決は、被告人が前後三回にわたり制限時速を大幅に超過し一歩間違えば大事故を起こしかねない走行をしていたものであり、その動機には酌量の余地がないとし、また、被告人には道路交通法違反、業務上過失傷害、風俗営業取締法違反などにより罰金刑に処せられた経歴が多く、第三の事案は執行猶予中の再犯であることなどから、本件に関する被告人の刑事責任は極めて重いと判断している。

二、本件各「犯行」の実情

しかし本件各「犯行」は、いずれも直線状の平滑に舗装された自動車専用道路における高速走行であり、前後に車両の走行がほとんどないという交通状況の下で発生したものである。天候はいずれも降雨中でなく、本件道路はいわゆる事故の多発する道路ではない。

また、被告人はなるほど制限速度を大幅に超過した速度で走行したとはいえ、被告人が「それほどの危険を感じなかつた」(原審供述)ということは、それほどの速度で走行してもその際の具体的な状況の下では甚だしく危険な走行とまではいえなかつたとも解し得、走行速度だけをとりあげて責任を論じることは判断を誤るおそれがあることに注意する必要がある。

三、前科について

被告人には同種、異種の前科も少なからずあるが、しかしその内容をみると道路交通法違反の前歴二〇件の内訳は、駐車違反が最も多く一四件であり、速度超過は四件にとどまる。

速度超過四件という前歴は、自動車を業務上利用する機会の多い自動車運転者として異常な高速走行傾向を示すものとは必ずしもいえない。一般の自動車運転中の違反走行の実情と比較考慮し被告人について率直に評すれば、「取締りの目をのがれることが下手なため検挙される機会が多かつた者」ということはできても一般の水準を大きく超える高速走行傾向者とまではいえない。

また駐車違反のほとんどは昭和五三年頃に集中しており、それらは当時の被告人の業務上の必要から違法駐車を余儀なくされたことで短期間に違反が累積したものであり、風俗営業取締法違反や常習賭博罪も被告人がその当時勤めていた勤務先がいわゆるゲーム喫茶店であつた関係ではからずもその種の犯罪に巻きこまれたというのがその実情である。

被告人のおかれていた業務環境を前提に考察すると、その前科の存在をあげて被告人の順法精神の欠如に起因するものと判断するのは、被告人に酷に過ぎる。

四、動機について

被告人の本件高速走行は、いずれも帰宅を急ぎ、もしくは同乗者を送り届けるのに急いでいたなどという単純な動機に基づくものであつて、あえて暴走行為を試みるとか自動速度取締機への挑戦を企図するというような反抗的、謀略的な動機によるものではなかつた。

また、被告人自身の積極的な動機の問題ではないが、前述したように自動速度取締機が国民の広汎な理解と支持を得ていないという実情の下では、これにより捕捉されたドライバーがその経験を教訓として自己の違法を改悛し、道路交通法の遵守を自重する契機としてこの経験を生かすということはしかく容易ではないということをはしなくも示しているとも思われ、このような取締り方法を用いて道路交通法に違反したドライバーに厳罰を科することが現実の道路交通の安全にもたらす功罪についてはあらためて慎重に検討することが必要であると弁護人は思料する。

五、併合罪関係について

原判決第一及び第二の各罪は、被告人が東京地方裁判所----支部で確定判決(昭和五七年一一月一八日宣告、同年一二月三日確定、懲役八月執行猶予三年)を受けた常習賭博罪と刑法第四五条後段の併合罪の関係にあるものであり、当時右三罪が併合して審理されていれば執行猶予の判決を受けていた可能性が強く、そうすれば原判示第三の罪についても執行猶予の判決を受ける可能性があつたと考えられ、訴訟審理と判決の先後から被告人の情状が必要以上にきびしく問われることになるのは酷に過ぎる。

六、被告人の現状

被告人は、現在自動車運転免許が取消され、自己所有車両は既に他に売却して処分し、実兄の経営する会社に勤務してその監督の下で謹慎の毎日を送るに至つている。被告人は右により今後自動車運転に伴う犯罪を犯すことはありえないことになつた。

被告人の家庭は病弱の妻といまだ幼い病身の女児一名の三名からなるところ、現在被告人の収入を唯一の収入源としてつましく生活しており、また、被告人の老父母も病を得て被告人からの扶助を生活費の一部としてからくも日々の生活を送つている状況にある。

被告人が本件に関して仮に刑事責任を負うべきものであるとの立場に立つても、その刑責を被告人の一家一族が共同して負うのと同様の結果を招来することになる原判決は、結局被告人に対し甚だしく過酷な刑罰を科するものといわざるを得ない。

 


該判例全文・典拠は、『判例体系CD-ROM』(ID-27803409)によります。ただし、入力は長尾亜紀が手作業により行っております。そのため、正確を期しているとはいえ、誤字脱字等があるかもしれません。発見されましたら、是非ご一報下さい。

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