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大栗裕と仏教合唱
- 《歎異抄》と《「御文章」より》を中心に

白石知雄

(日本音楽学会第63回全国大会シンポジウム「宗教音楽の価値を考える基準とは? - 近現代日本仏教界の事例を中心に」(2012年11月25日、西本願寺聞法会館))

配付資料(PDF)

はじめに

大栗裕は1964年(昭和39年)、45歳の4月に、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗門関係校である京都女子大学の音楽教育の教授に就任して、亡くなるまで18年間勤めました。その間、仏教讃歌を書き、龍谷混声合唱団をはじめとする仏教系合唱団のための作品を残しています。仏教関係の大栗裕の仕事ぶりは、同じ時期に相愛女子大学の作曲教授で本願寺の音楽法要を作曲した大橋博とともに、本願寺のカントールと呼ぶことができるのではないか、とすら思われます。大栗裕がどういう経緯で仏教とつきあうことになり、どのような音楽を書いたのか。概略をご報告させていただきます。

大栗裕と仏教

大栗裕は大阪船場生まれで、オーケストラのホルン奏者をしながら1955年(昭和30年)に歌劇「赤い陣羽織」で作曲家としてデビューして、盟友と言ってよい指揮者・朝比奈隆のための管弦楽曲と関西歌劇団のオペラ、そして現在では吹奏楽作品で知られていますが、作曲家としてデビューしてまもなく、まだ京都女子大学へ就職する前から、仏教への関心を示していました。

レジュメの最初の年表をご覧下さい。

仏教と関わりのある最初の作品は1958年の創作舞踊「円」です。男声合唱が読経をまねた節回しで白隠禅師坐禅和讃を唱えます。読経の声で踊るというのは、曲を委嘱した花柳有洸のアイデアらしいのですが、ちょうどこの年に初演された黛敏郎の「涅槃交響曲」を、大栗裕が所属していた関西交響楽団(現在の大阪フィルハーモニー交響楽団)が初演の5ヵ月後、9月18日に早くも演奏したという記録が残っています。何らかの影響を受けたのではないかと私は思っています。

翌年1959年、龍谷混声合唱団のために法華経のエピソードにもとづく「火宅」を作曲して京都と縁ができます。1962年の「悪太郎」も京都女子大学の委嘱作ですが、実は他にも、その2年前に、京都女子学園創立50年の記念公演で民話風の新作オペラを委嘱されて、歌劇「おに」を作曲しています。こうした一連の仕事が認められて、1964年の京都女子大学の教授就任が決まった、ということのようです。

1961年の「雲水讃」は毎日放送の芸術祭参加作品で、京都の六斎念仏に取材しています。大阪フィルの定期演奏会でこの曲がとりあげられたときのコメントをレジュメに掲載しています。「子供の頃、高野山へ行き、禅宗の坊さんの憧れた」と書いています。どうやら、ジョン・ケージや多くの知識人のように、思想としての仏教への知的関心がきっかけだったわけではないようです。また、これはフォークロアや伝統芸能を題材として作曲する場合もそうなのですが、大栗裕は、バルトークや柴田南雄のように学者的なスタンスで客観的・分析的に素材を扱うというのとも少々違っていたようです。そうではなくて、子供の頃から我が身に染みついたものをアウトプットする、対象から受けた印象・感慨・感想で素材を塗り込めて、対象に同化・共感しようとする人でした。仏教への思いを少年時代の記憶に託して語るのも、観察・分析ではなく、同化・共感から出発する姿勢を示していると言えそうです。

仏典の「劇化」と「読み」

音楽を聴きましょう。

大栗裕が京都女子大学へ就職した当時の仏教合唱曲のスタンダードは清水脩でした。清水脩が浄土真宗の日々のお勤めで耳になじんでいる正信偈の冒頭の2行に作曲した礼讃「無量寿」をお聞き下さい。

[清水脩 礼讃「無量寿」]

メロディーラインもハーモニーもなめらかで美しい端正な四声体です。

これに比べると、大栗裕の合唱曲は相当にダイナミックです。彼が京都女子大学へ就職して最初に手がけた合唱曲「歎異抄」の第2章をお聞きください。たとえ法然に欺かれて地獄へ落ちることになったとしても本望だ、と専修念仏への決意を語る箇所です。

[大栗裕 歎異抄 第2章「親鸞におきては唯念仏して」]

堂々たるバリトン独唱に、ギリシャ劇のコロスのように合唱がからみ、合唱の畳みかけるようなリズムが、どこどなく黛敏郎を連想させます。晩年の親鸞が弟子に訥々と語るというより、煉獄の炎に包まれた受難劇のようです。「歎異抄」は、初演後、繰り返し演奏され、出版もされました。仏教系合唱団ではそこそこ人気があったようです。

せっかくですので、「歎異抄」の第3章、有名な「悪人正機」の一節もお聞き下さい。

[大栗裕 歎異抄 第3章「善人なおもって往生をとぐ」]

一度聴くと忘れられない骨太な筆致と言えるでしょうか。

ただし、6年後の「御文章」で、スタイルはガラリと変わります。こちらは独唱は入りません。全曲一貫して、ホモフォニックなスタイルの合唱が続きます。「白骨の御文章」の一節をお聞き下さい。

[大栗裕 「御文章」より 第2曲]

何が起きているのか、楽譜で確認してみます。

レジュメの2枚目です。左の下。2段ある譜面の上の段が合唱のソプラノ声部です。譜面の「*」は、大栗裕の声楽作曲の特徴と言えるかも知れない「二字目起こし」の箇所です。大栗裕は、テクストを文節単位で捉えることが多く、その場合、各文節の2つめの文字・2つ目の音節で音をグイっと上げます。

さてしも <ある>べき、<こと>ならねば、とて
<やが>いに <おくっ>て
よわの <けむ>りとなし <はて>ぬれば
ただ <はっ>こつ <のみ>ぞ、<のこ>れり

ということになるでしょうか。

「二字目起こし」は、演出家・演劇評論家の武智鉄二と一緒に歌劇を創っていた昭和30年頃からずっと変わらない大栗裕の声楽曲の特徴です。

2段ある譜面の下の段は、和声・音階・旋法の概略を示しています。

語りだしの3小節、「さてしもあるべき ことならねばとて やがいにおくって」、ここは1文字8分音符で淡々と語り、リズムがシンプルである分、音程・和声がくっきりと浮かび上がるように思います。純然たるイ短調です。ピアノが低音で実際にイ短調の和音を鳴らしますし、「ことならねば」のgisの導音が効いています。

4小節目で、導音がgisではなくgまで下がって、メロディーの動きが旋法風になり、語りのテンポもゆるみます。さらに続けて、5小節目の「なし はてぬ」の小節では、ピアノ・パートに都節音階を縦に積み重ねた和音が鳴ります。そして、「ただ白骨のみ」と世のむなしさ、無常感を告げる箇所は、何らかの音階や旋法というよりも、半音が散乱する状態、「ただ半音のみぞ残れり」とでも云うべき状態になります。しかし最後は、日本の語り物風に、長二度の上昇で歌い納めます。

西洋流の和音から日本の旋法へ、そして20世紀風の厳しい音遣いを経て、伝統的な日本の音感へ収まるという流れです。さきほどの清水脩が、音楽学校で身につけた流麗な和声進行で全体をひとつの流れにまとめているのに対して、大栗裕の場合は、あくまでも、「二字目起こし」でぐっと腰の据わった「言葉」が骨格であり、東西・新旧の音感・音楽語法は、言葉を染め上げる絵の具のようなもの。この多彩な音のパレットを融通無碍に使うことで、作曲者はテクストへの共感・感慨を込めようとした、と言えそうです。これが、音楽学校でアカデミックな教育を受けることのなかった大栗裕の編み出した声楽作曲法です。

音楽における非僧非俗?

最後に、大栗裕が、こうした仏典による合唱曲に取り組んでいたちょうど同じ頃、学校の課外活動の音楽について書いた彼が文章をご紹介します。

大栗裕は京都女子大学では女声合唱団の顧問、マンドリン部の技術顧問という立場でした。仏教作品を作るだけでなく、こうした日々の職務を含めてのカントールということなのだと思います。また他に、関西学院大学マンドリンクラブの技術顧問でもありました。ここでご紹介する「音楽と学生と私」という文章で、大栗裕はクラブ活動の顧問と、技術顧問とでは、まったく立場が違うのだ、と言います。顧問は、ときどき書類にハンコを付いたり、行事で挨拶をしたりするだけの気楽な役職だが、技術顧問は大変忙しい。そして、レジュメに掲載しましたように、大栗裕は、技術顧問を長年をやってきた経験から、音楽に取り組む姿勢には、プロもアマチュアもないのだ、ということを力説します。

話の内容は、お説ごもっともな指導者の先生のお説教のようですが、大栗裕自身が、天王寺商業学校の音楽部の吹奏楽でアルトホルンを手にしたことから音楽生活へ入り、音楽学校で学ばなかった経歴の持ち主であることを思い起こすべきでしょう。大栗裕は、専門家を養成する制度の外側で、いわば、厳密な意味でのプロでもなければ、ただのアマチュアでもない立場で作曲を続けた人です。ですから、この文章は、自分自身のことを語っているとも解釈できそうです。

しかも、考えてみますと、龍谷混声合唱団という団体は、顧問に代表される学校組織と、技術顧問に代表されるプロフェッショナルな音楽家の中間にある、というだけでなく、当時はほとんどの部員が僧侶になることを前提で進学していたそうですから、一般学生の立場と、宗教教団の構成員という立場の中間であったことになります。仏教讃歌や仏典による合唱を歌うことは、音楽に関してだけでなく、仏教に関しても、ただのアマチュアの娯楽・レクリエーションではあり得なかったはずなのです。

このように、大学・学校という現実世界の制度と、音楽や信仰という特定の価値へ帰依する態度を両立させて、その中間に立つ覚悟というのは、もしかすると、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が言う「非僧非俗」の精神に通じるかもしれない、などとわたくしは話を広げたくなってしまうのですが、これは、さすがに牽強付会でしょうか?

ともあれ、大栗裕は、アマチュアの音楽「にも」真剣に取り組んだというのではなく、アマチュアの音楽だからこそ大切なのだ、という立場にいたのではないか。彼の仏典による合唱曲は、そういう思いを背景にして、見直されるべきではないかと、私は考えています。

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