「晴のうた」「褻のうた」という呼称がある。近現代歌人を思いうかべる時、おおらかで、けれんのない晴のうたを一生通してうたいつづけた歌人は稀であろう。過日、佐佐木信綱の全作品を読みなおす機会があり、信綱こそ八十二年におよぶ歌歴を晴のうたで全うした歌人であることをあらためて知った。 鳥の聲水のひびきに夜はあけて神代に似たり山中の 村 願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや 第一歌集『思草』より二首。一首目は巻頭に置かれた作で、甲府の湯村温泉を舞台にしている。不透明な今日の時代、読むとなにか元気づけられる。二首目は、悩める人の元に、自身は少なくとも明るい表情をして赴いてみるという人間信綱の骨頂を示したもの。 もう少しあげてみたい。 まかがやく豊旗雲の國さして紅の帆は大海を行く 『新月』 ゆく秋の大和の國の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 『同』 人の世はめでたし朝の日をうけてすきとほる葉の青 きかがやき 『常盤木』 山の上にたてりて久し吾もまた一本の木の心地する かも 『豊旗雲』 白雲は空に浮かべり谷川の石みな石のおのづからな る 『鶯』 春ここに生るる朝の日をうけて山河草木みな光あり 『山と水と』 歌人なら、晴のうたを作ることがけっこう難しいのを知っているはずである。宮中歌会始めの題詠をみても明らかであろう。 しかし、国文学者としての大きな業績の賛同の割には、信綱短歌の評価は明確でない。作品を佐佐木幸綱氏や石川不二子氏がよく読みこんでいるのは当然としても、「心の花」系歌人でも多くは信綱の特色を呑みこんでいないのではあるまいか。 * 偉大なる国文学者、晴の歌人信綱の晩年の住居が、今失われようとしている。 終戦の前年、昭和十九年十二月に信綱は東京文京区の西片から熱海の西山に居を移した。来宮駅ちかくの高台で、後に「凌寒荘」と称した。文字通り、寒さを凌ぐ海と山にかこまれたあたたかい静かな場所である。昭和三十八年十二月、満九十一歳の寿をもって逝かれるまで、『萬葉集事典』『評釈萬葉集全巻』『新訓萬葉集上・下』の大著や『作歌八十二年』などのエッセイをまとめたのもこの地においてである。学問の大成を遂げ、作歌を持続し、悠々自適といった趣で年々を過ごしたのであろう。 信綱亡き後、凌寒荘は宮本三郎画伯の持家となり、画伯亡き後は空家ながらも凌寒荘として保存された。信綱の書斎はそのままの形で現存するのである。だが昨年、土地を購入する人が現われたとの情報がはいった。空家であれば購入者の出るのも当然にしろ、信綱直系のお弟子さんの残っている「心の花」の熱海歌会の同志たちが動揺したのも無理はない。ニュースを耳にし、保存できないものか、人手にわたるにしろ、別の形で信綱の居を残したいと、市に働きかけるべく周囲が署名運動をはじめたのもお分かりいただけると思う。 わたしも「心の花」熱海支部の会員として、すでに十七年を経ている。歌壇にはいくらか顔のきくこともあって、多方面の方々の署名を頂戴することができた。それらをまとめて、いずれは川口市雄市長にお届けするつもりでいる。 * 熱海では毎年、信綱の誕生日の六月三日に「佐佐木信綱祭」を催している。熱海市と熱海歌人協会、「心の花」熱海支部の共催である。今年で二十八回目をむかえた。地元の方々に作品を投稿していただき、選者や講師の方が抄出し、小さな賞をさしあげるという趣向である。この頃は毎年、熱海中学の生徒たちが信綱作詞の「すずめ雀」や「夏は来ぬ」を合唱してくれて、とても楽しい。 今年は起雲閣で催され、はるばる信綱の出生地鈴鹿市の石薬師から十四名にのぼる方々も出席された。凌寒荘を今のうちに見届けておこうという気持ちもはたらいたのだろう。 熱海歌会では、川口市長に三つの提案をした。一つは、信綱をシンボルとして鈴鹿市と熱海市を点と線でむすび姉妹都市にしたいということ、二つめは、信綱作詞の「夏は来ぬ」に出てくる卯の花を熱海の通称、頼朝街道などに植えていっぱい花を咲かせること、三つめは、凌寒荘のなんらかの形の保存である。 世の中全体が不景気、かつては新婚旅行のメッカともいわれた熱海の昨今の現状も決してよいものではない。そんな状況を知った上で、あえて市長は三つの提案をじっくり受けとめていきたいと断言された。わたしは喜んで、今回の講師役として信綱の名歌を語りはじめた。